白川涙舟
刹那の過去編です。
女性蔑視の描写がありますが、資料に基づいたものであり、書き手の思想ではありませんのでご了承下さい。
羽州野代は樽回船の寄港地で、上方とも交易する北国有数の港町である。かの太閤秀吉が伏見城を築城する際に、野代の杉を求めたというのが町の年寄りたちの自慢話だった。
大河白川が町の北を雄大に流れ、河口には材木屋や商家などがひしめいている。
八十年以上も前、その野代に長尾幽哲という名医がいた。
「節郎、お前のご先祖さまは、それは立派なかただったんだよ」
五つになったばかりの節郎の記憶は、父や親戚筋から崇めよとばかりに聞かされた、会ったこともない先祖のことが大半を占めていた。
風の強い町のために松を植えただの、貧乏人からは薬代をもらわなかっただの、聖人君子のような先祖だったらしい。そして春彼岸の頃、病人が待つからと薄氷の白川を渡っていたところ、氷が割れて川に没して死んだ。
節郎は自分が、その幽哲なる男が遺した診療所、大願堂の後継ぎなのだと理解していた。理解はしていたが、先祖の偉業を自慢ばかりし、近所の子供とも遊ばせてもらえず、母や町の人に居丈高にふるまう父と長尾家の者たちを、内心では嫌っていた。
(立派なのはご先祖さまだ。父さまたちじゃない)
鬱屈したとき、節郎は家から程近い白川の土手に出る。土手に登ると、港に停まる大きな船が見えるのだ。海から吹き上げてくる強い風に吹かれるのも好きだった。
土手の下には、丸太の山が延々と築かれている。上流から運ばれてくる杉である。
白川を幾つものいかだ舟がゆっくりと流れ下り、川鳶と呼ばれる人足がそれを鳶口で引っ掛け、木溜まりに寄せる。何日も水に浸けておくと木の皮が腐り落ちるので、皮を剥ぐ労力がかからない。
腐った木の皮が沈む岸辺はけっこうな臭いがするのだが、それを強い海風が散らしてくれるのだ。
厳冬の身が切れる寒さは去ったものの、弥生の海風は依然、冷たい。江戸では梅がほころぶ頃だが、羽州の梅はまだ遠かった。羽州は梅と桃と桜がほぼ同時に咲く。
家人に着膨れするほど着込まされた節郎は、河口の材木町のあたりでようやくぶるりと身を震わせて、日吉町の大願堂へ引き返そうとした。
突然、暴ッと、船が帆を張るような音がして、突風が吹いた。
大きな綿入れの袖に強風を受け、節郎は土手坂をごろごろ転げ落ちた。
「危ねえ!」
男の声がして、土手の下に着く前に節郎の体が止まった。草と泥まみれになった節郎を抱き止めたのは、下帯一丁の川鳶の若衆だった。
「馬鹿野郎、下に落ちたら丸太に潰されて死んじまうぞ! あーあ、可愛い顔が泥だらけだ」
くるくると表情がよく変わる男で、節郎の顔や着物の汚れを拭ってくれた。が、自分の手も泥だらけなのに気付き「俺のほうが汚れてらぁ」と笑った。
「怪我はねえな? 女の子が顔に傷こさえなくて良かったなあ」
「わたしは男ですっ」
「え?」
少しむくれた顔と内容に、川鳶の男が首をひねる。まじまじと節郎を眺めて「あー、着てるものがそういやあ、女の子の柄じゃあねえか……」と呟く。思ったことが全部口に出る男のようだった。
「あの、助けてくれて、ありがとうございます。わたしは日吉町の大願堂の」
「ああ、俺は野代のもんじゃねえんだ。迷い子ならどっかで……」
「いえ、送ってほしいわけではなくて。ひとりで帰れます。お世話になったかたには、家の名前を告げるようにと、父から言われております」
「家の名前? 自分の名前じゃなくてか?」
「……家の名前、です。なんでだろう」
川鳶の男は何かを察し、力強い手で小さな頭をくしゃくしゃと撫でた。
「坊主、俺はお前の家を助けたわけじゃねえ。お前を助けたんだ。だったら名乗るのは、お前の名前だ。そうだろ?」
「はいっ」
泥だらけの満面の笑顔で、節郎は応えた。父に教わるどんなことよりも、この川鳶の男の言葉が心地よかった。
「わたしの名前は、長尾節郎です。よかったら、あなたのお名前も教えてください」
「おう、俺は義助ってえんだ。義理と人助けの義助だ。あとお前、女の子に間違えられないように、自分のことは『わたし』じゃなくて『俺』って言っとけ」
「はい。母さまにお願いしてみます」
「それで、義助さんが送ると言ってくださったので、一緒に帰ってまいりました」
「まあ、優しい川鳶さんね。楽しかった?」
「はいっ」
泥だらけで裏口から帰ってきた節郎を、母の寿々(すず)はひしと抱きしめた。
迷子になったかと案じていた母の胸の内も知らずに、帰宅した息子は、興奮気味に今日の出会いを話しだした。
「義助さんは、木の目きき、のしゅぎょう中で、野代は初めてだけど、いいお酒といい木があって楽しいそうです」
「まあ、嬉しいこと」
「でも、母さまにも会っていただきたかったのに、『ふんどしいっちょじゃあ、かっこうつかねえよ』って言って、帰ってしまいました」
「恥ずかしかったのね」
「ずっとふんどしだったのに」
裏口から節郎を帰してよこしたことといい、義助という川鳶はきっと、この大願堂が人目や体裁を気にする家だと察したのだと、寿々は思った。
節郎が表から帰ってきていたら、患者たちの目に止まる。由緒ある大願堂の跡取り息子が泥遊びをしている、などと広まったなら、長尾家の者が面白いはずがない。
節郎にふりかかるであろう父からの仕置きを、義助は防いでくれたのだ。寿々は胸の内で手を合わせた。
「あと、女の子にまちがえられないように、自分のことは俺と言えと教わりました。わたしも使ってもよろしいですか?」
「お父様の前では駄目ですよ。うーん、私の前でだけ、だったら」
「母さまには使いたくないです……なんだか、わるい子みたいで」
「あら、ではいつ使いましょうか?」
「かんがえ中です」
父が、些細なことで母を怒鳴りつけているのを何度も見ている節郎は、自分だけは母に優しくありたいと思っていた。
寿々は野代の奥、比山の出だった。美しいと評判の娘を大願堂が嫁に求めたのだが、欲したのは評判だけであり、寿々という人間ではなかった。
大店の主という体裁にこだわる父は、母を下女のように扱った。母は黙って耐えていた。きっと、自分が幼いからなのだ。
自分がもっと大人だったら、母を連れて逃げられるのに。節郎の小さな胸は怒りと無力感でいっぱいだった。
「義助さんは、水無月には江戸に戻るそうです。母さまにも会っていただきたいし、わたしも、もっとお話がしたいです」
「私も、節郎を助けてくれたお礼を言わなくてはね。今度一緒にお出かけするとき、材木町に寄ってみましょうね」
寛政十年の水無月は、いつの年にもまして雨が多かった。日の光は何日も分厚い黒雲に遮られ、土が乾くことがなかった。
増え続ける水の量に、ついに白川の土手が決壊した。
低地が多い南岸は三十を超える家屋が流され、清助町、川反町、柳町の花街などが水没。そして荷上場の何百という材木が、沖に離れていた船に襲いかかった。沈んだ船は十八、百人近くが亡くなった。
大願堂も腰上まで水に浸かった。河口から少し離れているため家人の避難はできたが、薬種や帳面、先祖の位牌や書き付けなどは持ち出せず、一切を流された。長尾家の鼻っ柱を支えていたものが、全てなくなった。
だんだんと町が復興する中、大願堂の再興を待っている者は、誰もいなかった。
「節郎、江戸に行きましょう」
白い頬に涙の痕を残して、ぽつりと寿々が呟いた。
大願堂であった建物は、水害から五年が過ぎても医者に戻ることはなかった。しかし羽振りの良かった頃を忘れられない父は、金遣いを改めることもせず、変わらず母にも冷たかった。
節郎は十歳になっていた。色白の肌と整った顔立ち、黒目勝ちの大きな瞳が、母によく似てきた。女児に間違えられることはなくなったが、その分、美童を求める柳町の茶屋などが声をかけてくるようになった。
節郎は、はっきりと父を憎むようになっていた。母を泣かせた父の言葉が節郎の耳に残る。
「俺に文句があるなら出ていけ。行くあてがあるんならな」
ないことを承知の上での物言いなのだ。比山の実家は、既に伯父が継いでいる。
五年前、義助のことを思い、節郎は毎日泣いていた。泥に埋もれた材木町に行くと言っては、父にぶたれた。
「義助さんは、水無月に江戸に戻ると言っていたのでしょう? もう戻っていたかもしれません、きっと戻って、江戸で元気にしています」
寿々は声を震わせて、布団を被って嗚咽する小さな体を撫でさすった。
「江戸に、行きたいです。義助さんに、会いたいです」
「そうね。いつかきっと、また会えます」
江戸に行く、それが幼い節郎の、生きるよすがになっていた。そして五年が過ぎた。
「やっと母さまを助けてあげられる。ここから逃がしてあげられるんだ」
「節郎……」
「わたしが母さまを幸せにします」
まっすぐな瞳で、節郎は母を見た。きりりと迷いなく、息子は応えた。
「行きましょう、母さま。江戸に」
節郎は蔵に残る茶道具や反物などを万物屋に売り、金に替えた。見栄を張りたい家人が、医者に全く関わりのないものを道楽で揃えていたのだ。売ることに何の罪悪感もなかった。
名家だった頃を偲ばせるものが次々と蔵から消えて、父は激怒し、節郎に平手を食らわせた。小柄な体が吹っ飛んで襖に叩きつけられたが、大きな瞳の強い眼差しは揺らがない。
「長尾家の面汚しが!」
「父さまほど汚れてるとは思いません! 父さまは面も、腹の中も汚れで真っ黒だ!」
「出ていけ!」
「そのつもりです!」
出ていけ以上の罵倒が浮かばなかった父は、無言でもう一度、節郎を平手打ちした。
父にも大願堂にも、何の未練もなかった。未練を持つほどの愛着もなかった。
義助に会いたい。それもあるが、江戸に行けば母は生き直せる、つらい仕打ちを受け続けた母に幸せな人生を送らせたい。それが節郎の切なる願いだった。
富士講の町衆に同行して、母子は江戸へ向かった。
野代の南端から、羽州街道に入る。松並木の美しい街道である。参勤交代であれば十一日から十四日ほどの道程だが、急ぎの旅でもないため、母子は二十日かけて江戸のひとつ手前の宿場、夕暮れの千住宿についた。
千住宿は日光街道、奥州街道の始まりで、江戸四宿のひとつである。宿屋の数は四十軒を超え、規模は品川に次いで大きい。舟運の中継地点で、青物市場や御用市場などがあり、活気に溢れた町だ。
「節郎、はぐれないでね」
「はいっ」
母の手をぎゅっと握って、節郎は人の波に耐えていた。
野代とは比べ物にならないほどの人混みに、恐怖を覚えた。幼い節郎には壁で周りを囲まれているようで、先が見えない。
一丁目の大通りにさしかかると、軽快な調子で声を張り上げる男がいた。
「もういないか、さあいないか? 酒蔵菊鶴は大屋仲衛門、還暦祝いの酒合戦だよ!」
どっ、と見物人が道端に寄せられて、母子は押し流された。振る舞われた紅白の餅を手に、はしゃぐ子供もいる。
往来を会場に西東に分かれて、酒の飲み比べが催されようとしていた。
造り酒屋の店先では、今日の主役である白髪のご隠居がにこにこと、御本尊のように桟敷に鎮座している。賑やかな三味線にのせて声を張っているのは、飲み比べの見届け人。
「こちらにお顔を揃えたるは、美人絵の瀬川京丸先生、戯作の西塚苦楽先生、そして千住の名医と知らぬものはない、佐治陣内先生にございます!」
絵師と戯作者がふんぞり返って手を振る横で、医師と紹介された白髪交じりの男は大あくびをしていた。半歩下がって控えている弟子が、呆れた顔をしている。
道の左右には酒樽が並べられ、浪人や力士風の大男など、百人を超す酒飲み自慢が名乗りを上げていた。そして、それらを囃し立てる、ほろ酔いの見物人たち。
『酒は天の美禄、しかし酒ほど人を害するものは他になし』……大願堂で読んだ本の中に、そんなことが書いてあったのを節郎は思い出す。
「ねえ母さま、一度にそんなにお酒を飲んだら、体を壊すのではないでしょうか」
そう言って振り向いた。
握っているはずだった手は、いつの間にか、離れていた。
見知らぬ男が、母をかどわかすかのように強引に連れていくのが見えた。
「母さま!」
節郎の全身が総毛立った。爆発的な怒りが、見知らぬ土地という小さな恐怖をかき消した。無我夢中で、人混みを掻き分けて追いすがる。
「お願いいたします、離して下さいませ! お願いいたします……」
寿々は抵抗するが、男はものともしない。ほろ酔い客を邪険に突き飛ばしながら、混雑を抜けようとしていた。
「母さま!」
一丁目を抜けた辻、旅籠の裏路地に入って、男はようやく立ち止まった。節郎の声がやっと耳に届いたのだ。
拳を握り、目を吊り上げて節郎が叫ぶ。
「母さまを離せ、人拐い!」
「なんだよ、餓鬼がいたのか」
あからさまに落胆した顔を見せた男は、ずい、と顔を突きだし、節郎の目を捉える。
「女の値打ちはよ、事細かに決められてるんだよ。餓鬼がいる女がどれくらいの値打ちか、わかるか?」
「……?」
頭に血が上っていることに加え、全く答える気にもならない問いかけに、節郎は無言を通した。視線だけは外さなかった。男は淡々と、性薄に続ける。
「若くて見目良い女は三両八分。年増でも見目良い女なら二両六分。それが餓鬼がいるとなっちゃあ……若くて見目良い餓鬼持ちは二両、年増の見目良い餓鬼持ちは、せいぜい一両だ」
それが、この男が母につけた値段だと理解した瞬間、節郎は男に飛びかかっていた。怒りで言葉を失っていた。
何も知らないくせに。母さまがどれだけつらい目にあってきたか、何も知らないくせに。これ以上、母さまを傷つけるな。言葉の代わりに涙が溢れた。
「節郎、やめなさい」と母が叫んだが、聴こえてはいなかった。
男の足や胸、届く箇所を手当たり次第に蹴り、殴った。しかし人を殴ったことなどない幼い節郎は、簡単に手を絡め取られ、板壁に押し付けられた。
男の肘の下に、二重線の刺青が見えた。墨刑である。残忍と好色が入り交じった笑みで、男が迫る。
「母親似の可愛い顔してるじゃねえか。お袋より先に、お前を仕込んでやろうか」
じたばたと暴れる節郎の着物の裾を、男は器用に足で割り開いた。
「母さまを離せ!」
「安心しな、俺は男もいける。具合が良けりゃ芳町に口きいてやるよ。まだちっと歳が足りねえが、二年もすりゃ立派な陰間になるだろ」
節郎の帯がほどけて土に落ち、白い足があらわになった。寿々が叫んだ。
「私を、私だけをお連れ下さいませ! どこへなりと参ります、この子はご容赦を」
毅然とした叫びであった。非力なたおや女と侮っていた男は、意外なその声に気圧され、節郎の着物を剥ぐのを止めた。
幼さゆえに無知な節郎は、自分が何をされるところだったかを知らない。母の叫びに耳を疑い、呆然とした。
母に助けられた、それだけは解った。けれどそれは、母を犠牲にしてのことだ。
母さまを助ける、母さまを幸せにする。それだけのために、ここまで来たのに。
「母さま、いけません! 身を売れということなら、わたしが」
「大馬鹿者! どこの母親が、我が子を食らって生き延びたいと思いますか!」
今まで母に諭されたことはあっても、叱られたことはなかった。その衝撃に節郎は打ちのめされた。
母は、幸せになる道を捨てたのだ。わたしと生きる道を、捨てたのだ。
「話はついたな」
墨刑の男は節郎を解放し、懐から何やらを取り出して足元に放った。一両小判であった。
「餓鬼が持つには過ぎた金だ。せいぜい達者で暮らしな」
男は寿々を伴って、酒合戦の喧騒に紛れて夜に消えた。
寿々は一度だけ振り返った。別れの言葉はなく、ただ、強い意思の黒い瞳に我が子の姿を焼きつけた。
節郎は、突然に引き離された母との距離に、現実か夢かも判断できないでいた。足が棒のように冷たく、動かない。追いかけることも、泣くこともできなかった。
「坊主、お袋さんを恨むんじゃねえぞ」
華やかな喧騒の中から、低い、しわがれた男の声がした。
立ち上がれない節郎の背後に、白髪交じりの総髪、黒い十徳羽織の男が立っていた。酒合戦の見届け役の医師、佐治陣内だった。
佐治は、いかつい、だが優しさの籠る口調で、節郎を諭した。
「お前ら、職を求めて江戸に来た口だろう。あいつは谷中の女衒……まあ、宿屋の仕事を請け負ってる奴さ。お袋さんは、奉公先を見つけたんだ。お前はひとりでも頑張れる、って信じてな」
母を追うなと、言外に言っていた。もっと幼子だったなら佐治の言葉を鵜呑みにしたかもしれない。
しかし節郎は運悪く、野代の医者の子だった。柳町の花街に薬を届ける手伝いもしたことがある。女衒の意味を知っていた。
「母さまは、あいつに買われたんだ。奉公なんかじゃない」
自分を庇って、母は地獄へ堕ちた。
失言に顔を歪めた佐治の目の前に、節郎は一両小判を突きだす。
「あなたは、医者ですか」
「そうだ」
「俺を、」
涙を堪えた大きな瞳には、地獄へ堕ちる決意が炎となって、どす黒く燃えていた。
「この金で、俺を弟子にして下さい。医者なら堂々と、あいつを殺せる」