吉原門外の変・4
吉原近郊の浅草や谷中、今戸あたりには、女を売り買いする女衒屋が十五ほどもある。
身を売る娘を女郎屋に斡旋し、仲介料を取るのだ。
お上の定めでは、女郎屋に拐ってきた娘を売ることは罪とされているが、さほど守られてはいない。
田舎で器量のよい娘を騙して連れてきて、江戸で売り飛ばすことは公然と行なわれている。お夏がその例だ。
女衒屋は組織であり、江戸の女衒全員など把握できるものではない。
その中のたったひとりを見つけようというのだ。茂吉の望みは夜陰を進むに等しかった。
「お夏、すまねえ、すまねえなぁ、お夏よぅ……」
娘を亡くした父親のうわ言が、寝所の夜に静かに積もっていった。
「本調子に戻るまで静養していくといい」という刹那の心遣いに甘えて、茂吉は三養堂に滞在していた。
二階の部屋も診療に使うから退けと、とても医者には見えない弥九郎に言われて、床を一階奥の刹那の部屋に移された。
刹那以外のふたりも医者だったのか、いったいどんな診療をするのか。
茂吉の興味の答えは即日知れた。
「ぎゃあああああ!!!!」
二階から、羽をむしられた鶏のような男の金切り声がした。
なにごとかと驚いて、茂吉が床を抜け出し障子を開けると、「もう嫌だ、死んじゃうぅ」と褌姿の大工が泣きながら階段を降りてきた。外へと一目散に駆け出す。
が、その二階から一足飛びに、弥九郎が土間に降ってきた。にたぁりと笑う悪鬼の形相で。
「逃げんなよ……優しくしてやってんだろお……?」
「嫌だ、勘弁して、壊れちゃうぅ!!」
「十日ぶりなんだよ……布団に戻ろうぜ、優しく揉んでやっからよおぉ……」
「助けて母ちゃあああぁん!!!!」
真っ昼間から修羅場だろうか……男色の。
茂吉には目もくれず、弥九郎は「待てコラ、十日ぶりの患者ぁぁ!」と叫びながら半裸の大工を追いかけていった。
一階の板の間で、近所のご隠居の腰に灸を当てている刹那は、この間、まるで他人事である。
土間に置いた床几で順番を待っている老婦人がたも「今日は弥九郎ちゃん、いたのねぇ」と笑っている。「ええ」刹那が呆れまじりで返す。
どうやら日常風景らしい。
二階のひと部屋では弥九郎があんまを営んでいるのだが、怪力にものをいわせて体をねじ曲げているだけなので、あんまと呼んではあんま師に失礼すぎる出来なのだ。
「あたしが前に来た時は、漁師だったかね、こんなとこ二度と来ねえって泣いて逃げてったねえ」
「弥九郎ちゃんにかかれば、肩揉みが火盗の拷問みたいだもの」
「火盗の方がまだ恨みようがあるわよ。弥九郎ちゃんは治療のつもりだから、たちが悪いのよねえ」
老婆ふたりが物騒なことでころころ笑っていると、二階から、今度はどっと笑い声がする。
弥九郎が「また」患者を殺しかけたことを、梅之助が茶化して面白おかしく自分の患者に漫談しているのだ。
笑いは健康の素という。治療らしい治療はしないが、梅之助のお喋りを聴くと元気が出るからと、通ってくる人は多い。
「今日は梅ちゃんもいるのねぇ。久しぶりじゃない刹那先生、三人揃うなんて」
「三人いても、医者をしているのは私だけですが」
「そんなことはないよ、先生。あんたは三養堂の肝だが、梅之助はここの看板だよ。よくやってる。あちち」
つきはなすような刹那の物言いに、畳に寝そべるご隠居が、もうもうと煙を上げる灸の下でのんびりと諭した。
本来なら灸は専門の医者がいるが、町医者は本道(内科)も外科も小児科もあらゆる治療を要求される。
それらひととおりを、そつなくこなせる刹那は、他のふたりを見下す言葉使いになることがある。
ただ、本当に見下しているわけではない。
幼なじみへの負けず嫌いがそうさせることを知っている常連の年寄りは、自分の孫の喧嘩のように、のんびりとなだめるのだ。
「そうそう、先生ができない太鼓持ちは、梅ちゃんに任せればいいのよ」
「梅之助ができない用心棒や掛け取りは、弥九郎がやるだろう?それで」
「弥九郎ちゃんには絶対できない、ちゃんとした医者を、先生がやってくれてるのよねぇ。こういうの、何て言ったっけ」
「三人寄れば文殊の……じゃあないわね」
「さんすくみ、かね。蛙と蛇となめくじの」
「あらやだ。なめくじ誰よ」
「弥九郎だろう」
「弥九郎ちゃんかしらねぇ」
常連同士の井戸端会議で、自分たちはそんなふうに見られていたのかと知った刹那だが、話に交ざることはできない。
実は人見知りで、お喋りは大の苦手なのだ。
こんな時、梅之助や弥九郎ならすんなり話の中に入れるのだろう。「誰がなめくじやねーん」とか、弥九郎なら言っている。
あのふたりの自分にはない才能に何度も助けられていることを、刹那は十分に理解している。
幼なじみゆえに、素直に認めたくないだけで。
小さくぽつりと「なめくじは、俺だと思う」と呟いたのを、背後の茂吉だけが聞いていた。
昼過ぎ、刹那が往診に出かけると、茂吉のもとに機嫌の悪い弥九郎と、日が陰ったように顔を曇らせた梅之助が訪れた。
なにか、このふたりを怒らせるようなことをしてしまっただろうか。
ただならぬ顔つきに、茂吉は慌てて布団を出、額を板の間に擦りつけた。
「あ、あの、もうすぐ出て行きます、出て行きますんで…」
「ああ、助けなきゃよかったよ」
どかりと派手な音を立てて床にあぐらをかき、弥九郎が怒鳴る。
ぼさぼさの頭髪に、日に焼けた顔。赤い蛸がのたうつ小袖が無頼のやくざ者を思わせて、茂吉はますます縮こまった。
「よりによってあいつの前で、女衒を見つけて殺してぇ、なんて……」
「この人を責めても仕方ないだろう。これも巡り合わせだよ」
隣で弥九郎のぼやきを制したのは、背筋を伸ばし、膝を揃えて座る男。
「昨日はバタバタして名乗ってなかったと思ってね。私は雲居梅之助、こちらのガサツなのは弥九郎。ここ三養堂で、家主の長尾刹那と一緒に医者をしている居候だ。まぁ、私たちは気が向いたときにね」
医者というには頼りなさげだが、梅之助の言葉づかいや、しゃんとした佇まいに、ひょっとしたらお武家様だろうか、と茂吉は思った。
お武家様が医者の家に居候というのが奇妙な関係ではあるが。しかも、やくざ者と肩を並べて。
梅之助はガキ大将の父親のような苦笑を浮かべて、軽く頭を下げた。
「先ほどは弥九郎がすまない。粗野な男でね。でも貴方を助けたのは、本当に助けたいからなんだ。見えないけど心根は優しい男だから、口の悪さはどうか勘弁してほしい」
「見えないは余計だボケ」
庶民に頭を下げるお武家様なんて聞いたことがない。仰天する茂吉をよそに、梅之助は続ける。
「刹那はね」ここにいない人物を思う目は、淋しげな色をしていた。
「貴方と同じ望みを持っている。ある女衒を見つけて殺すことが、あの子の生きるよすがなんだ」




