吉原門外の変・3
小名木川より南、深川は、縦横無尽に水路が走る、川だらけの町である。
江戸は大部分が武家屋敷で、庶民が暮らすのは深川か神田だ。なのでとびきり、人が多い。
中でも永代寺の門前は江戸指折りの盛り場で、夜ごと永代橋を渡って江戸市中から旦那衆が遊びに訪れる。
常に活気にわき、賑やかな場所なのであった。
三養堂は、板の間とひと続きの畳の間を合わせて八畳ほどの、簡素な診療所だった。
看板も下駄ていどの大きさの板に、ちんまりと『診療所 三養堂』と書かれていた。
壁に紐で吊るされたセンブリ草が、茂吉の郷里を思い起こさせた。
急階段を上った二階のひと間に薄い布団が敷かれ、茂吉は寝かされた。
こんなふうに落ち着いた心地で布団に横になるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。気を失うように、茂吉は眠りに落ちた。
刹那は畳の部屋の百味箪笥から紙包をいくつか見繕うと、それを入れて梅之助に粥を作ることを任せた。
通り土間で七輪に火をおこしながら、梅之助が首をひねる。
「粥だけでいいの?私はこれじゃ足りないなぁ。もっと腹にたまるものの方がいいんじゃない?芋とか猪とか」
土鍋に米と多めの水を入れながら、刹那が苦笑いを向ける。
「何日も食べてない弱った腹には粥でも重すぎる。その上澄みの重湯だけ貰うんだ」
「そうなの?」
「先生に習ったはずだぞ」
腹が減っていたら食えばいい、というのは梅之助だけではないようで、二階に声が響かないよう気遣いながら小声で弥九郎が味方に加わる。
「なにケチなこと言ってんだよ。粥にしなくても、普通に飯炊いて食わせてやりゃいいじゃねえか、貧乏臭せぇなあ」
「黙ってろ貧乏神。ケチだのの問題じゃない。胃の腑が弱ってるところにそんなものぶちこんだら、胃が悲鳴を上げるぞ」
刹那も小声である。が、同じ医者の師匠について学んだはずの二人に、なぜこんな易しいことを説明しなければならないのか、という苛立ちは隠さない。
三養堂は、医者が三人いるということで師匠に名付けてもらった屋号だが、実際医者と名乗られて納得できるのは刹那だけなのだった。
「米も猪も駄目なら鯨でもいいだろ、とにかく精がつくもん食っときゃ」
「だから駄目だと言ってるだろ。お前と一緒にするな」
「食わなきゃ元気にならねぇだろうが!」
「食わせる順序があると言ってるんだ!」
「まぁ、せっちゃんが言うなら間違いないよね」
ふんわりと梅之助が笑って間に入り、二人の口喧嘩が熱を失って止まる。
不思議なもので、この愛敬のある顔の梅之助が今みたいにふわりと微笑むと、いつでも刹那と弥九郎の喧嘩が収まった。
相手を言い負かそうという勢いが削がれてしまうのだ。
子供の時分から、それは変わらない。
七輪の上で鍋がくつくつ言い始めた。たっぷり水を吸い込んだ米が、柔らかくふやけて甘さを増してゆく。
診療所に、米のやさしい匂いが満ちる。
おたまで白く濁った上澄みを掬う。杉でできた小ぶりの汁椀に注ぎ、匙をさして、刹那は二階へ向かった。
「これは、先生……」
「腹に少し入れよう。起き上がれるか?」
目を覚ましていた茂吉に問うと、茂吉は布団の上に正座し、しおしおと背を丸め頭を下げた。
「申し訳ねえ。こんな行き倒れに親切にしてもらって…、だのに、布団汚しちまって。本当に申し訳ねえ」
埃と乾いた泥にまみれた着物のまま寝かされたのだ。布団はさながら大きな雑巾のように無惨なありさまだったが、刹那は眉ひとつ動かさない。
「問題ない。弥九郎が使うものだからな」
「ここは、あの人の家でしたか」
「俺の家に住み着く野良犬みたいなものだ」
迷惑している、と言いたげな顔で、重湯でぬくもった汁椀を茂吉に差し出す。
荒れた手指に、そのぬくもりがじんわりと沁みた。
しかし、はたと自分の懐の寒さに気付く。
ここは医者だ。かつての薬代を思い、茂吉の背中にぞっと冷たいものが走る。
「あ、あの…、お代は……」
恐る恐る尋ねた。もしや金をむしり取られるのでは、と顔に出ていた。
刹那は自分が連れ込んだ患者の不安を今さら察し、「あっ」と目を見開き慌てて手を振る。
冷徹に見えていた整いすぎた顔が、一気に幼くなった。
「いや、すまん、勘違いしないでくれ。俺が勝手にやったことだ。米の煮汁でカスリなんか取らん」
カスリ。少々耳慣れない言葉が聞こえたが気のせいか。
「冷めるぞ。温かいうちに」
「はい、ありがたく、頂戴します……」
汁椀の中身をそっと掬い、口に運んだ。
ああ、米の味だ。
刻んで干した芹の葉と根が、椀の中でほんのりと香っている。
春の七草の一番目に数えられる青物である。
七草粥には葉を使うが、根っこの部分まで使うのは茂吉は見たことがなかった。
田舎では田んぼの堰など清流に自生していて、生は苦みがあるが、茹でるとすうっと鼻を抜ける香りを放つ。
厳寒の頃に、冷たい泥水をかきわけて収穫したものが特に旨い。
これはきっと、この若者の郷里の味なのだ。
茂吉は、汁椀に鼻を埋めて胸いっぱいに香りを吸い込んだ。
瞼の裏に郷里の上州の景色が浮かぶ。霞む山々、清流の沢々、家族の帰りを待つ家……
いや、家族はもう、いない。
「先生、俺は、殺してえ奴がいるんです」
茶碗を持つ手が力を帯びる。
再び溢れだした大粒の涙が布団を濡らすのも構わず、階段の下で二人が聞いているだろうことも構わず。
刹那はじっと茂吉の言葉を待った。
「俺の娘が、十五で川に身投げした! 俺があんな奴を信じなけりゃ、あんな女衒の野郎の口車に乗りさえしなきゃ、お夏は死なずに済んだんだ! 俺は、お夏に謝っても謝りきれねえ。俺もお夏と同じところに行く。その前にどうしても、浅草の、河内屋の六佐って男を殺してやりてえんです!」
怒り、泣き、叫びながら茂吉は思いの丈を吐き出した。
かたわらの医者は身じろぎもせず聞いていた。そして、
「女衒か」
奇妙な相槌をうった。
「それで浅草にいたのか」
「お止めになりますか」
助けてもらった命で人を殺すというのだ。馬鹿なことをするなと説得するか、番所に届けるのが当たり前のはずだった。
だが茂吉は、この会ったばかりの若い医者の眼に、自分と同じ怒りを孕んだ黒い炎が、ゆらゆらと渦巻いているさまを見た。
「俺は、谷中にいるんだ」
「誰が、ですか」
「殺してやりたい男だよ」
階段の中ほどで弥九郎が、鍋のそばで梅之助が、二階の声を思い思いの顔で聞いている。
粥が鍋の蓋を持ち上げて、ふつふつ、ふつふつと、静かに煮えていた。




