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吉原門外の変・3

 吉原近郊の浅草や谷中、今戸あたりには、女を売り買いする女衒屋が十五ほどもある。

 身を売る娘を女郎屋に斡旋し、仲介料を取るのだ。

 お上の定めでは、女郎屋に拐ってきた娘を売ることは罪とされているが、さほど守られてはいない。

 田舎で器量のよい娘を騙して連れてきて、江戸で売り飛ばすことは公然と行なわれている。お夏がその例だ。

 女衒屋は組織であり、江戸の女衒全員など把握できるものではない。

 その中のたったひとりを見つけようというのだ。茂吉の望みは夜陰を進むに等しかった。


「お夏、すまねえ、すまねえなぁ、お夏よぅ……」


 娘を亡くした父親のうわ言が、寝所の夜に静かに積もっていった。




 「本調子に戻るまで静養していくといい」という刹那の心遣いに甘えて、茂吉は三養堂に滞在していた。

 二階の二部屋も診療に使うからと、とても医者には見えない弥九郎に言われて、床を一階奥の刹那の部屋に移された。

 刹那以外のふたりも医者だったのか、いったいどんな診療をするのか。

 茂吉の興味の答えは即日知れた。


「ぎゃあああああ!!!!」


 二階から、羽をむしられた鶏のような男の金切り声がした。

 なにごとかと驚いて、茂吉が床を抜け出し障子を開けると、「もう嫌だ、死んじゃうぅ」と褌姿の大工が泣きながら階段を降りてきた。外へと一目散に駆け出す。

 が、その二階から一足飛びに、弥九郎が土間に降ってきた。にたぁりと笑う悪鬼の形相で。


「逃げんなよ……優しくしてやってんだろお……?」

「嫌だ、勘弁して、壊れちゃうぅ!!」

「十日ぶりなんだよ……布団に戻ろうぜ、優しく揉んでやっからよおぉ……」 

「助けて母ちゃあああぁん!!!!」


 真っ昼間から修羅場だろうか。

 茂吉には目もくれず、弥九郎は「待てコラ、十日ぶりの患者ぁぁ!」と叫びながら半裸の大工を追いかけていった。

 一階の板の間で、近所のご隠居の腰に灸を当てている刹那は、この間、まるで他人事である。

 土間に置いた床几(しょうぎ)で順番を待っている老婦人がたも「今日は弥九郎ちゃん、いたのねぇ」と笑っている。「ええ」刹那が呆れまじりで返す。

 どうやら日常風景らしい。

 二階のひと部屋では弥九郎があんまを営んでいるのだが、怪力にものをいわせて体をねじ曲げているだけなので、あんまと呼んではあんま師に失礼すぎる出来なのだ。


「あたしが前に来た時は、漁師だったかね、こんなとこ二度と来ねえって泣いて逃げてったねえ」

「弥九郎ちゃんにかかれば、肩揉みが火盗(かとう)の拷問みたいだもの」

「火盗の方がまだ恨みようがあるわよ。弥九郎ちゃんは治療のつもりだから、たちが悪いのよねえ」


 老婆ふたりが物騒なことでころころ笑っていると、二階から、今度はどっと笑い声がする。

 弥九郎が「また」患者を殺しかけたことを、梅之助が茶化して面白おかしく自分の患者に漫談しているのだ。

 笑いは健康の素という。治療らしい治療はしないが、梅之助のお喋りを聴くと元気が出るからと、通ってくる人は多い。


「今日は梅ちゃんもいるのねぇ。久しぶりじゃない刹那先生、三人揃うなんて」

「三人いても、医者をしているのは私だけですが」

「そんなことはないよ、先生。あんたは三養堂の肝だが、梅之助はここの看板だよ。よくやってる。あちち」


 つきはなすような刹那の物言いに、畳に寝そべるご隠居が、もうもうと煙を上げる灸の下でのんびりと諭した。

 本来なら灸は専門の医者がいるが、町医者は本道(内科)も外科も小児科もあらゆる治療を要求される。

 それらひととおりを、そつなくこなせる刹那は、他のふたりを見下す言葉使いになることがある。

 ただ本当に見下しているわけではなく、幼なじみへの負けず嫌いがそうさせることを知っている常連の年寄りは、自分の孫の喧嘩のように、のんびりとなだめるのだ。


「そうそう、先生ができない太鼓持ちは、梅ちゃんに任せればいいのよ」

「梅之助ができない用心棒や掛け取りは、弥九郎がやるだろう?それで」

「弥九郎ちゃんには絶対できない、ちゃんとした医者を、先生がやってくれてるのよねぇ。こういうの、何て言ったっけ」

「三人寄れば文殊の……じゃあないわね」

「さんすくみ、かね。蛙と蛇となめくじの」

「あらやだ。なめくじ誰よ」

「弥九郎だろう」

「弥九郎ちゃんかしらねぇ」


 常連同士の井戸端会議で、自分たちはそんなふうに見られていたのかと知った刹那は、恥ずかしいやら情けないやらで返す言葉がない。

 根が真面目で人見知りなこともあり、刹那は井戸端会議の輪に入るのが下手だった。

 診療所からほぼ出ることがないせいで話題に乏しく、会話が自分で止まってしまうのが申し訳なくて気後れしてしまうのだ。

 確かにこんな時、梅之助や弥九郎ならすんなり話の中に入り、場を和ませられるのだろう。

 あのふたりの自分にはない才能に何度も助けられていることを、刹那は十分に理解している。素直に認めたくないだけなのだった。

 小さくぽつりと「なめくじは、俺だと思う」と呟いたのを、背後の茂吉だけが聞いていた。



 昼過ぎ、刹那が往診に出かけると、茂吉のもとに機嫌の悪い弥九郎と、日が陰ったように顔を曇らせた梅之助が訪れた。

 なにか、このふたりを怒らせるようなことをしてしまっただろうか。ただならぬ顔つきに、茂吉は慌てて布団を出、額を板の間に擦りつけた。


「あ、あの、もうすぐ出て行きます、出て行きますんで…」

「ああ、助けなきゃよかったよ」


 どかりと派手な音を立てて床にあぐらをかき、弥九郎が怒鳴る。

 ぼさぼさの頭髪に、日に焼けた顔。赤い(たこ)がのたうつ小袖が無頼のやくざ者を思わせて、茂吉はますます縮こまった。


「よりによってあいつの前で、女衒を見つけて殺してぇ、なんて……」

「この人を責めても仕方ないだろう。これも巡り合わせだよ」


 隣で弥九郎のぼやきを制したのは、背筋を伸ばし、膝を揃えて座る男。


「昨日はバタバタして名乗ってなかったと思ってね。私は雲居梅之助、こちらのガサツなのは弥九郎。ここ三養堂で、家主の長尾刹那と一緒に医者をしている居候(いそうろう)だ。まぁ、私たちは気が向いたときにね」


 医者というには頼りなさげだが、梅之助の言葉づかいや、しゃんとした佇まいに、ひょっとしたらお武家様だろうか、と茂吉は思った。

 お武家様が医者の家に居候というのが奇妙な関係ではあるが。しかも、やくざ者と肩を並べて。

 梅之助はガキ大将の父親のような苦笑を浮かべて、軽く頭を下げた。


「先ほどは弥九郎がすまない。粗野な男でね。でも貴方を助けたのは、本当に助けたいからなんだ。見えないけど心根は優しい男だから、口の悪さはどうか勘弁してほしい」

「見えないは余計だボケ」


 庶民に頭を下げるお武家様なんて聞いたことがない。仰天する茂吉をよそに、梅之助は続ける。

 「刹那はね」ここにいない人物を思う目は、淋しげな色をしていた。


「貴方と同じ望みを持っている。ある女衒を見つけて殺すことが、あの子の生きるよすがなんだ」


 「女衒を…」茂吉は、はっとした。

 谷中に殺したい男がいると言っていた。それが自分と同じ、女衒だったのか。

 なんという縁だ。奇妙な巡り合わせを、嬉しくさえ思った。「けれどね」それを梅之助の声が遮る。


「私たちは、あの子を止めたくてここにいる。あの子に人殺しなどさせたくないんだ。だから、刹那の殺意を呼び覚ました貴方を、少しだけ恨んでいる」

「お、俺を、お恨みに…?」


 茂吉は、がん、と頭を殴られた気分だった。


「刹那には、仇討ちなどやめて、自分の道を歩いてほしいと思っている。あの子は皆の役に立つ医者としてやっていけるんだ。……正直にいうと、貴方と巡り合ってほしくはなかった」


 一瞬、仇を持つ者同士、刹那とは辛さを分かち合えると思った茂吉だったが。

 このふたりはそれを許さないという。


「娘の、娘の無念を晴らしてえんです」


 茂吉は声を振り絞った。生きるよすがを否定され、失望と怒りで声が震えた。

 殺人は死罪に処せられる。けれどそれが何だ。


「命よりも大事な娘の仇を討ちてえと願って、何が悪いのですか」


 そもそも他人には関係ないじゃないか、指図するな。茂吉の言葉は、親心として当然であろう。

 梅之助の眼差しに、深い悲しみが宿る。


「貴方たち親子を騙した奴を恨む気持ちはわかる。けれど、私には貴方が、自分の怒りと後悔を晴らすために殺生しようとしているように見えるんだ。娘さんの無念ではなくて、ね」

「あ、あんたに何がわかるんだ!」

「娘さんの位牌に、一度でも手を合わせたかい?」


 茂吉は、かっと目を見開き声を潰した。

 仇は探したが、娘の足跡を探そうとしたか?

 お夏がいた店なり町奉行なりに聞けば、お夏がどこの寺に葬られたかは知れるはずなのだ。

 仇を探すことにかまけて、可哀想な娘の弔いすら、していなかった。


「ああ、ああ……」


 わなわなと、体から生気が抜けていった。

 なんて手前勝手なことだ。

 俺は娘のためと言いながら、俺の腹を治めようとしていただけだった。


「仇を討つことと、貴方が罪を犯すことは違うと思う。貴方にも刹那にも、生きてほしいと、私は思っている」


 がくりと肩を落とした男に、梅之助は微笑んだ。ここにいない幼なじみに伝えたい言葉でもあった。

 うなだれる茂吉に、ぱっと梅之助が笑ってみせる。


「そうだ、あの子たまにおかしな言葉を使うことがあるけど、気にしないでね。あのー、ほら、あの子お茶目だから」


 お茶目には見えないが、確かに耳慣れない言葉がたまに出る。まるで、やくざ者のような。

 きっと弥九郎の悪影響だ。そう茂吉は思うことにした。


「だいたい、どうやって殺す気だったんだよ。田舎から包丁でも持って出てきたのか?」


 芋や大根じゃねえんだぞ、と弥九郎が割って入る。そして、芋や大根を相手にするかのような気軽さで「あとは任せろ」と笑った。





「俺は、あの女衒の野郎を殺すためだけに江戸に来たんだ」

「おいおい、茶屋の親父が昼間っから物騒なこったなァ」


 店の裏手から男の声がして、刹那と茂吉が驚いて顔を上げると。

 西瓜の小山の陰からよしずをくぐり、弥九郎と梅之助がのそりと姿を見せた。

 その手にはちゃっかり食べかけの西瓜。弥九郎は西瓜の種をガリガリ噛み砕き、梅之助は「いやあ、暑くてねえ」と悪びれもせずに笑った。


「せっちゃんもお帰り。今日は早いんだね。いつもは何日か泊まりなのに」

「……夕方、柳水亭の隠居を診なきゃならないからな」


 いつから話を聞かれていたのか。茂吉を死なせたくなくて、このふたりに(ほだ)されかけていると白状したも同然の刹那は、ばつが悪そうに不貞腐れる。

 粉々にした種を西瓜の汁と一緒に飲み込んで、弥九郎がにやりと口の端を上げた。


(やっこ)さん、今日はここを通るぜ」


 弥九郎は、深川を縄張りとする郎党『無法組』の頭である。

 博打うちや大工崩れなど、ならず者たちの集団だけに、町の裏事情にも通じている。

 茂吉から仇の名と特徴などを聞くと、弥九郎は郎党を使って河内屋および江戸の橋という橋に見張りをつけた。

 橋は不審な人物を見張るのにうってつけで、『浅草河内屋の六佐』が、いつ、どの橋を渡ったかの情報が逐一、弥九郎のもとに運ばれてくるのだ。


「千住の橋を行き来するのが月に二、三度。両国なんかは渡らねえから、奴さんが向かうのは日光、水戸の方面で決まりだ。あんたの上州も、奴さんの縄張りってこった」


 お夏が売られたのも日光街道の始まり、千住宿だった。


「河内屋の女衒は、近くのボロ長屋で拐ってきた娘を仕込む。まぁ、何をかは聞くな。それで出来のいいのを吉原、それ以外を宿場に売る。千住か内藤新宿あたりだ。売りに連れて出るのが験を担いで大安吉日、つまり今日!」

「ここを通らないこともあるんじゃないのか」 


 身を乗り出した茂吉がぎらぎらと目を輝かせ出して、刹那は「けしかけるな」と言外に願いをこめて話を遮った。

 内藤新宿に行くなら日本堤は通らない。しかし刹那の願いはむなしく、梅之助が太鼓判を押す。


「奴さんが最近方々で自慢してるんだってさ。吉原でいい値がつきそうなのが三人もいるって」


 静かな怒りで、その目は笑ってはいない。

 「大願成就の日だよ」そう言って、ぱん、と柏手をひとつ打つ。


「さあて、では西瓜を店の前にありったけ並べようか。床几も向かい合わせに置いて」


 茂吉が西瓜を仕入れたのは梅之助の指図だったのかと、刹那は悟った。


「何をする気だ?」


 聞けば、返答のかわりに梅之助は悪巧みの笑顔で扇子を取り出し、ぱらりと拡げる。

 すうっと息を吸い、道行く人に声を張り上げた。




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