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吉原門外の変・2

 上州で煮売り屋を営んでいた茂吉のひとり娘、お夏は幼い頃から聡明で美しい娘だった。

 母親が胸の病を患い、茂吉がすがる思いで購入した薬は、舶来のものだとかで法外な値のものだった。

 薬の甲斐なく、お夏は十二で母を亡くした。

 浅草の六佐なる男と茂吉が出会ったのがその頃だった。

 六佐は自分も田舎の出で、江戸に出れば働き口が沢山ある、あんたの娘は器量が良いから箕輪(みのわ)の料亭に紹介してやってもいい、そう言って茂吉の肩を叩いた。

 心が揺れた。遺された薬代は払い終わるまで何年かかるか知れない。お夏だって、稼ぎたいと言ってたじゃないか。

 茂吉はその話を承諾し、ひとり娘を江戸に送り出した。

 三年のあいだ、娘からの便りは一度もなかった。忙しくしているのだろう、と信じる父親をあざ笑うかのように、お夏が死んだという風の噂を聞いた。

 郷里を飛び出た茂吉は、箕輪の料亭を片っ端から訪ねた。しかしどの店も、そんな娘は知らないという。

 途方にくれ、疲れた足でたまたま入った縄のれんの店に、呂律の怪しい上機嫌の男客がいた。仲間と宴の最中のそいつは、あの六佐だった。

 その声が、茂吉の心を切り裂いた。

「身を売って親父の助けになりてえなんて、親孝行な娘じゃねえか。岡場所の娘らはみんな、親孝行なのさ。なあ」

 俺はその手助けをしてやってんだ。派手な小袖の女を抱き寄せながら、六佐は猪口をあけている。仲間がどっと笑って、男に酒を注いだ。

 こいつ、今なんと言った。

 お夏は本当に料亭で働けていたのか。茂吉の血の気が引いた。席を立った仲間にそっと近づき、六佐の素性を聞いた。

 浅草の女衒屋、河内屋の男だという。田舎の娘をかどわかして岡場所に売り払う、女衒の中でも悪どいので有名な店の男だと。

 茂吉は店を飛び出した。江戸に岡場所など何百件あるか分からない。

 その何十件めか、千住宿の宿屋でようやく聞けた。お夏という上州から来た娘が、どこの男のかもしれない子を身籠り、おとうとおかあに叱られると、川に身を投げたのだという。腹の子も共に。

(殺してやる)

 もはや涙も流れなかった。

(殺してやる)

 あの男は、女衒だったのだ。お夏を、よくもそんな目に。

 茂吉は怨みに濡れた眼で、浅草界隈を幾日も六佐を探し歩いた。

 殺してやる、とつぶやきながら食うや食わずでさすらう茂吉を、人々は気味悪がって避けて通った。

 浅草寺の門前は、茂吉を拒絶するほどに華やいで、賑やかだった。参拝の家族連れか、小さな女の子が楽しげに父母と手をつなぎ、大道芸の太鼓が皆の笑い声を運んでくる。

 一度でいい、お夏と一緒に、ここを歩いてみたかった。

 すう、とひとすじ涙が流れた。急に魂が抜けたように、茂吉はぐらりと地に倒れ……途中で止まった。体が誰かに支えられたのだ。

「危ねえなあ、親父。ここで倒れたら参拝客に踏みつけられて御陀仏だぞ?仏になっても幸い、寺の前だけど」

 ゴロツキ風の男が片腕一本で茂吉を受け止めている。品はないが、人懐こい声だった。

「打撲には馬糞が効くっていうよね。塗るのかな、飲むのかな」

 こちらは連れの男だろうか。なにやら物騒なことを検討している。柔和だが面白がっている声色。

「お前ら、助ける気があるのかないのかはっきりしろ」

 呆れまじりの、冷ややかな男の声。

 そうだ、放っておいてくれと、茂吉が目を転じると、その男が手にした水筒を突きつけてきた。

 はっとした。意思の強そうな黒曜石の瞳が、問答無用で「飲め」と言っていた。

 女形役者のような、色白の美しい顔立ちをした男だった。冷ややかと思った声は、連れのふたりをたしなめたもので、茂吉を見捨てるものではなかった。おそるおそる水筒を受け取る。

「空腹と疲労か……寝るのが一番だが、まず水から飲んでおけ。治療を望むならそのあとだ」

「あ! 刹那テメエ、俺の客だぞ、横取りしてんじゃねえよ!」

「客って言っちゃったよ弥九郎」

「テメエは馬糞飲ます気だったじゃねえか、梅!」

「馬糞は万能薬だよ。狐狸がまんじゅうのかわりに旅人に食わせてやるくらいだ。でも私は持ち歩きたくないから弥九郎にお願いするね」

「テメエの知識はどっから来るんだ、この太鼓医者」

 茂吉の周りで賑やかに口喧嘩が始まったが、役者風の刹那という優男はひとり静かに、茂吉を見つめていた。

(お前を助ける)

 その黒く澄んだ瞳は言っていた。

 茂吉の疲れはて荒んだ心の奥底までも癒やすような、優しい、慈愛の眼差しだった。

 ぼろぼろと茂吉の涙が溢れだし、土に染みていく。刹那は、往来の娘たち皆が振り向くような笑みで、荒れた茂吉の心を凪させた。

「悪いのに捕まったな。こいつらは、人を治療したくて仕方のない奴らなんだ」



 茂吉は力自慢らしい弥九郎という大男に背負われ、深川の診療所『三養堂』を訪れた。

 道中の会話を聞くに、役者風の優男が刹那、まゆつばな医療知識を持っているのが梅之助という名らしい。道々、誰が茂吉を診るかで揉めていた。

 小名木川より南、深川は縦横無尽に水路が走る、川だらけの町である。

 永代寺と富岡八幡を抱え、江戸の建築を支える木材の貯蔵場、木場が見渡すかぎり広がる。風光明媚で料亭も多い。常に活気にわき賑やかな場所であった。

 三養堂は、板の間とひと続きの畳の間を合わせても八畳ほどの、簡素な診療所だった。看板も下駄ていどの大きさの板に、ちんまりと『診療所 三養堂』と書かれていた。

 壁に紐で吊るされたセンブリ草が、茂吉の郷里を思い起こさせた。

 急階段を上った二階のひと間に薄い布団が敷かれ、茂吉は寝かされた。

 こんなふうに落ち着いた心地で布団に横になるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。気を失うように、茂吉は眠りに落ちた。

 刹那は畳の部屋の百味箪笥から紙包をいくつか見繕うと、それを入れて梅之助に粥を作ることを任せた。

 土間で七輪に火をおこしながら、梅之助が首をひねる。

「粥だけでいいの?私はこれじゃ足りないなぁ。もっと腹にたまるものの方がいいんじゃない?芋とか猪とか」

 土鍋に米と多めの水を入れながら、刹那が苦笑いを向ける。

「何日も食べてない弱った腹には粥でも重すぎる。その上澄みの重湯(おもゆ)だけ貰うんだ」

「そうなの?」

「先生に習ったはずだぞ」

 腹が減っていたら食えばいい、というのは梅之助だけではないようで、二階に声が響かないよう気遣いながら小声で弥九郎が味方に加わる。

「なにケチなこと言ってんだよ。粥にしなくても、普通に飯炊いて食わせてやりゃいいじゃねえか、貧乏臭せぇなあ」

「黙ってろ貧乏神。ケチだのの問題じゃない。胃の腑が弱ってるところにそんなものぶちこんだら、胃が悲鳴を上げるぞ」

 刹那も小声である。が、同じ医者の師匠について学んだはずの二人に、なぜこんな易しいことを説明しなければならないのか、という苛立ちは隠さない。

 三養堂は、医者が三人いるということで師匠に名付けてもらった屋号だが、実際医者と名乗られて納得できるのは刹那だけなのだった。

「米も猪も駄目なら鯨でもいいだろ、とにかく精がつくもん食っときゃ」

「だから駄目だと言ってるだろ。お前と一緒にするな」

「食わなきゃ元気にならねぇだろうが!」

「食わせる順序があると言ってるんだ!」

「まぁ、せっちゃんが言うなら間違いないよね」

 ふんわりと梅之助が笑って間に入り、二人の口喧嘩が熱を失って止まる。

 不思議なもので、この愛敬のある顔の梅之助が今みたいにふわりと微笑むと、いつでも刹那と弥九郎の喧嘩が収まった。

 相手を言い負かそうという勢いが削がれてしまうのだ。子供の時分から、それは変わらない。

 七輪の上で鍋がくつくつ言い始めた。たっぷり水を吸い込んだ米が、柔らかくふやけて甘さを増してゆく。診療所に、米のやさしい匂いが満ちる。

 おたまで白く濁った上澄みを掬う。杉でできた小ぶりの汁椀に注ぎ、匙をさして、刹那は二階へ向かう。

「これは、先生……」

「腹に少し入れよう。起き上がれるか?」

 目を覚ましていた茂吉に問うと、茂吉は布団の上に正座し、しおしおと背を丸め頭を下げた。

「申し訳ねえ。こんな行き倒れに親切にしてもらって…、だのに、布団汚しちまって。本当に申し訳ねえ」

 埃と乾いた泥にまみれた着物のまま寝かされたのだ。布団はさながら大きな雑巾のように無惨なありさまだったが、刹那は眉ひとつ動かさない。

「問題ない。弥九郎が使うものだからな。あいつはそんなこと気にする奴じゃない」

「ここは、あの人の家でしたか」

「俺の家に住み着く野良犬みたいなものだ」

 迷惑している、と言いたげな顔で、重湯でぬくもった汁椀を茂吉に差し出す。

 荒れた手指に、そのぬくもりがじんわりと沁みた。

 しかし、はたと自分の懐の寒さに気付く。ここは医者だ。かつての薬代を思い、茂吉の背中にぞっと冷たいものが走る。

「あ、あの…、お代は……」

 恐る恐る尋ねた。もしや金をむしり取られるのでは、と顔に出ていた。

 刹那は自分が連れ込んだ患者の不安を今さら察し、「あっ」と目を見開き慌てて手を振る。冷徹に見えていた整いすぎた顔が一気に幼くなった。

「いや、すまん、勘違いしないでくれ。俺が勝手にやったことだ。米の煮汁でカスリなんか取らん」

 カスリ。少々耳慣れない言葉が聞こえたが気のせいか。

 浅草寺の前でも思ったが、茂吉は刹那の、取っ付きづらさと心根の優しさが同居する人柄に、ひょっとしたらこの若者も自分のような田舎の出なのではないかと、その色白の面をぼんやり見つめた。

「冷めるぞ。温かいうちに」

「はい、ありがたく、頂戴します……」

 汁椀の中身をそっと掬い、口に運んだ。

 ああ、米の味だ。刻んで干したセリの葉と根が、椀の中でほんのりと香っている。

 七草粥には葉を使うが、根っこの部分まで使うのは茂吉は見たことがなかった。

 田舎では田んぼの堰など清流に自生していて、厳寒の頃に冷水をかきわけて収穫したものが特に旨い。これはきっと、この若者の郷里の味なのだ。

 茂吉は、汁椀に鼻を埋めて胸いっぱいに香りを吸い込んだ。

 瞼の裏に郷里の上州の景色が浮かぶ。霞む山々、清流の沢々、家族の帰りを待つ家……

 いや、家族はもう、いない。

「先生、俺は、殺してえ奴がいるんです」

 茶碗を持つ手が力を帯びる。再び溢れだした大粒の涙が布団を濡らすのも構わず、階段の下で二人が聞いているだろうことも構わず。

 刹那はじっと茂吉の言葉を待った。

「俺の娘が、十五で川に身投げした! 俺があんな奴を信じなけりゃ、あんな女衒の野郎の口車に乗りさえしなきゃ、お夏は死なずに済んだんだ! 俺は、お夏に謝っても謝りきれねえ。俺もお夏と同じところに行く。その前にどうしても、浅草の、河内屋の六佐って男を殺してやりてえんです!」

 怒り、泣き、叫びながら茂吉は思いの丈を吐き出した。かたわらの医者は身じろぎもせず聞いていた。そして、

「女衒か」

奇妙な相槌をうった。

「それで浅草にいたのか」

「お止めになりますか」

 助けてもらった命で人を殺すというのだ。馬鹿なことをするなと説得するか、番所に届けるのが当たり前のはずだった。

 だが茂吉は、この会ったばかりの若い医者の眼に、自分と同じ怒りを孕んだ黒い炎がゆらゆら渦巻いているさまを見た。

「俺は、谷中(やなか)にいるんだ」

「誰が、ですか」

「殺してやりたい男だよ」

 階段の中ほどで弥九郎が、鍋のそばで梅之助が、二階の声を思い思いの顔で聞いている。

 粥が鍋の蓋を持ち上げて、ふつふつ、ふつふつと、静かに煮えていた。


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