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吉原門外の変

 初夏の爽やかな陽光が、隅田川の川面を金色の鱗のようにきらめかせている。

 その眩しさに、長尾刹那(ながおせつな)は目を細めた。千住大橋の中ほどで足を止めて、川風に吹かれる。


 日差しに儚く溶けて消える雪女のような、美しい青年である。

 長い睫毛が色白の頬に影を落とす。手には大きな薬箱。扉に朱墨で描かれるのは、病除けのミミズクの絵だ。


 刹那は深川の医者である。

 歳は二十二。歳だけみれば男盛りだが、これほど男盛りなる言葉の似合わぬ男もない。

 立てば芍薬、歩けば牡丹……女につかう褒め言葉のほうが、彼にはよほど似合っていた。


 川面に秋波をおくる彼のそばを、天秤を担いだ行商の女たちは足を緩め、頬を染めてすれ違う。いい男の匂いを存分に嗅いで。

 鼻の穴の拡がった女を背に、刹那の結い髪が風に揺れる。


(ああ、もうそんな季節か……)


 川を上ってきた小舟が走りの西瓜(すいか)を山と積んでいる。千住の青物市場(やっちゃば)に卸すものだろう。


 水気たっぷりの西瓜は、瓜とともに江戸の夏の水菓子(果物)の代表である。

 そして毎年、西瓜の食べすぎで腹をこわした患者がしこたま刹那の診療所の戸を叩く。


(大量に食うのをやめろと、いったい何度言えばわかるんだ。(たま)なくすぞ、まったく)


 西瓜に注がれる彼の秋波は、江戸っ子の食い意地意味わからんという秋波であった。

 餅の大食い合戦だの、西瓜の大食い合戦だのの江戸名物が、刹那を悩ませている。それで薬をくれと言うのだから、食養生もなにもあったものではない。

 近ごろはいい金ヅルだと思うことにして、腹の虫を収めている。


 千住大橋からこのまま隅田川を下れば、やがて大川と呼び名が変わり、左手に本所、深川、貯木場のある木場にたどりつく。

 小気味よい小槌の音、大工のうたう木遣り唄が、江戸深川の風情であった。


 木の香りに郷愁を呼び起こされて、少しだけ刹那は秀眉を曇らせる。


(……まだ忘れられないのか、俺は)


 咎められたわけでもないのに、郷愁に罪悪感を覚えた青年は、薬箱を持つ手をぎりりと握りしめ、足早に橋を渡り江戸市中へ入った。


 深川の居宅を兼ねた診療所へは、刹那は田んぼの中を突っ切る土手道、日本堤を通る。

 遠回りになるが、小塚原の刑場の前など通りたくもないからだ。

 日暮れでもない堤は歩く人も少ない。水をたたえた田んぼが日の光を映して眩しかった。

 草むしりの農夫がのんびりと煙管をふかし、松の木陰でひと休みしていた。


「おら、さっさと帰れっ」

「うるっさいねえ」


 五十間道から土手道に、身包み剥がされた若い男が、番所の役人に突き飛ばされてきた。

 刹那はあからさまに、形のよい眉をひくりとさせた。

 五十間道の先は言わずとしれた吉原遊廓。男は、女郎屋で素寒貧(すかんぴん)になったどこぞの若旦那だろう。

 洒落た髷に、持った着物は品が良い。が、今にも解けそうな褌一丁に、酒の臭いをぷんぷんさせていて、周りの茶屋も迷惑顔。

 若旦那は誰に当たるでもなく、わめく。 


「いいじゃないか、もう一回くらいっ」


 何をもう一回だろうか。

 大門から追い出されてなお、あきらめの悪い若旦那は、ぶちぶちと土手道でくだを巻く。

 着るものを着ながらふと見れば、松の下に、目の覚めるような美形な若者が足を止めているではないか。


(あら、綺麗な顔の子だこと)


 屁こき虫でも見るようなツンと冷たい目が、たまらない。この子に叱られたい。

 若旦那、たちまち元気になって、うきうきと美人に歩み寄る。


「そこのお前さん、相手をお探しかい? よかったら私と」


 刹那は懐から、紙の袋を取り出した。頭お花畑な若旦那の目の前に、袋のおもてを突きつける。


「そ、それはっ!」


 『臥竜昇天丸』。

 ひと粒飲めば、臥せったアレも竜が天に昇る勢いで……という謳い文句の精力剤である。蘿麻子(らまし)蘿麻葉(らまよう)に蜂の子とイモリの黒焼きをこれでもかと加えた、真っ黒い高額な丸薬だ。


「も、もはや手に入らないと言われる、幻のっ!」


 若旦那の目を釘付けにした袋を、刹那は右に左に惑わせる。若旦那の首もヤジロベエのように右往左往。


「ふんっ」

「ああっ!!」


 刹那が袋をぽーんと放る。ぽちゃん、と水路に落ちたのを、若旦那は追っていってしまった。

 ちなみに袋の中身は西瓜の種だ。こういうこともあろうかと、護身用に持たされている。

 何くわぬ顔で日本堤に平和を取り戻した青年を、茶屋の者らは「只者じゃねえ」と理解した。



 土手道の両脇にひしめくように立つ茶屋のひとつに、刹那は顔を出す。茶と水菓子、飯時は濃いめの味付けをしたつまみを出す店だ。

 まだ、ほかの客はいなかった。


「茂吉さん、水を一杯くれないか」


 よしずが作る日陰の中で、五十がらみの親父が顔を上げた。刹那と見ると、やつれた目にわずかに生気が戻る。


「これは先生、千住の帰りですか」

「だんだん暑くなってきたな。これからは甘酒も売れると思う」

「夏に甘酒ですか」

「暑いからと、冷たいものばかり食べるのは俺はすすめない。食欲が落ちる夏には熱い甘酒は良いものだ」

「西瓜を仕入れたのですが」

「塩を振って食うと旨いな」

「はい」


 ほかに客がいたなら、店主と馴染みの客との他愛ない話にきこえただろう。

 しかし二人の話はそこでぷつりと途切れ、沈黙に落ちた。どちらも、にこりともしていない。

 色の白い首筋につたう汗を拭い、差し出された水を一息に干せば、刹那は千住から歩き通した体の熱がふっと冷めたように感じた。




 長尾刹那は、深川の(はまぐり)町で診療所『三養堂 』を始めて四年になる。

 ちなみに正確な住所の呼び名は深川寺町(ふかがわてらまち)裏続蛤町(うらつづきはまぐりちょう)、という。長すぎて逆に覚えやすい。

 寺の参拝客や、大工の家族が大勢暮らす深川なら、医者をやっていくに困らないだろうと、師匠のツテで借りた小さな表店(おもてだな)だ。


 幼かった自分を職につけてくれて、住む場所まで世話してくれた師匠と兄弟子たちに、月に一度は顔を見せに行くのだ。

 一年前、その帰り道で茂吉と出会うことになった。


「先生、俺は、迷っちゃいねえんですよ。迷っちゃあ、いねえんです」


 隣に腰かけた茂吉は、両の拳を握り、苦痛を訴えるような声を絞り出した。


「ただね、ここで客商売をして、旨かった、って言われると、嬉しくて。ほんの少しの間、お夏の、娘のことを忘れちまうのが、俺は怖くて」

「忘れられるなら、それが一番いいんだ」


 静かな、つっけんどんにも聞こえる刹那の言葉に、茂吉は泣きそうな顔を向ける。


「日々の食う寝る働くを積み重ねて、だんだんそれが愛おしくなる。生きるよすがと信じてたものが、二番目、三番目になっていく。不思議なことではないさ」


 刹那は調理場の端に置いてある竹筒に手を伸ばした。塩を入れているものは、水菓子を頼んだ客が好きに使えるようにと出す。

 刹那が手に取った竹筒だけは、火で炙って焼き色をつけてある。

 塩ではないものが入っている目印である。


「進んで罪人になることはない。やらないならその方がいいに決まってる。あんたの中の娘さんも、そう言ってるんじゃないか」

「先生も、そうなんですかい」


 咎めるような響きがあった。俺は違うと、先ほどまでのやつれた親父とは思えないぎらぎらした黒い炎が、その目に宿っていた。


「やりますよ。俺は、あの女衒(ぜげん)の野郎を殺すためだけに江戸に来たんだ」



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ネトコンのページからお邪魔します。受賞おめでとうございます! 余裕がないので他の方の作品は読むまいと思っていたんですがタイトルで惹かれて少し覗いてみたら……羨ましいほどの文才で嫉妬しました。そして面白…
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