Master×King×Vampire06
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緊張してきた。ハイネグリフの意図しない後押しもあって決意できたけれど、初めてのことだからドキドキして落ち着かない。心臓が煩くて、胸が苦しいのに気持ちは昂っていて、足が浮いているような感覚がする。
こういうものだろうか。どうしようもなく不安なのに、どこか期待していて、謎の高揚感があるものなのだろうか。
胸に手を当てて深呼吸する。
まだちょっと勇気が足りない気がする。けど、きっとこの不安に勝る勇気は一生湧いてこないのだろう。
頑張れアタシ。もう、時間がないのだから。アタシのお願いを聞いてここまで連れてきてくれたハイネグリフが言っていた。もうすぐ日が昇ると。そしたら彼はどこかに姿を消してしまう。アタシにはその前にしなくてはならないことがある。
さぁ、頑張れ。
自分を鼓舞してビルの屋上から飛び上がる。ひと際大きな隣のビルに移り、屋上の端に立った。
反対側にいた彼が、顔を上げてアタシを見た。白くて長いまつげに縁取られた二つの空色の瞳がアタシを見つめた瞬間、胸がきゅうっとなった。これ以上心臓に何かが起こったら死んでしまうかもしれない。そんなことを思いながら、ゆっくり彼に近付いた。
白い髪に空色の瞳の吸血鬼、アイゼンバーグ。相変わらず綺麗で、カッコイイ。中性的な顔立ちだけど、男の子っていうのが分かる。意外と身体がしっかりしているからそう思うのかもしれない。身長差はアタシの頭の天辺が彼の顎にぶつかるくらい。たぶん日本の男の子の平均身長より少し大きい。
性格は上から目線で、好戦的。こうしてまとめると良いとこないな、なんて思うのだけれど、彼はアタシのことを守ってくれた人だ。最後まで見捨てなかった。それから、唯一、アタシの願いを聞いてくれた人だった。
彼が青の王と呼ばれていることは吸血鬼もどきになって知った。ずっと一人で仲間もおらず、生まれた時から複数人に追いかけられていることも。アタシはそれを知った時、可哀想だと思った。彼の生活のほとんどが戦いで、戦いの中でしか楽しみを見つけられないことが憐れだと思った。でも、それと同時にすごいとも思った。アタシだったらどこかで諦めて屈服しているだろう。でも彼は何も譲らず自分の意思を曲げず、戦い続けている。何十年、何百年と折れずに自分を貫き続けているのだ。しかも誰にも負けていない。純粋に、心の底から尊敬する。
アイゼンバーグが自分のご主人様だと確信したのはついさっきだ。心の底から歓喜し、細胞一つ一つが彼を求めて沸いたあの感覚が、今もアタシを襲っている。こんなにも激しい感情が自分の中にあったのかと驚いている。この感情がアイゼンバーグだけでなく、黒いアイツ、ローザンヌにまであることには混乱したけど、アタシは決めた。というより、最初から決まっていたのだ。アイゼンバーグに初めて会ったあの日に。
「アイゼンバーグ」
名前を呼ぶと彼の身体がピク、と動いた。吸血鬼にしか分からないくらいの微々たる変化だった。
「アタシのこと、覚えてる? 一週間ちょっと前に……追いかけっこして、君の血を飲んだ、人間だったものなんだけど」
何だか変な自己紹介になってしまったけれど今更訂正は出来ない。失敗したと思ったら頭に血が昇って恥ずかしくなってきた。
やっぱりやめようかな。いや、ダメだ。ここまで来たらもう完遂するしかない。
アタシは再び心の中で自分を励ましてから口を開いた。
「今は、どうやら人間じゃなくて野良って言われている吸血鬼……もどきになったみたい。何か、人間だった時と変わっているかな? 鏡とかに映らないから自分では分からなくて」
アイゼンバーグは答えない。ただじっと、目を大きくしてアタシを見ているだけだ。
あぁ、不安だ。聞こえているのかさえ、伝わっているのかさえ分からなくて不安になる。
「えぇと、あの。ねぇアイゼンバーグ、聞いてる? アタシの声、聞こえてる?」
思わず聞いてしまった。でもアイゼンバーグは答えない。なんで、どうして固まったままなの? ビックリしているのは分かるけれど、もうちょっと反応してくれても良いではないか。
不安が大きくなってくる。アタシが彼に対して持っている感情は一方的なものなのかもしれない。
それでも良い。この感情を少しでも受け入れてくれれば良い。そういう覚悟はした。願わくは彼も似たような気持ちを抱いていてほしいのだけれど、さすがにそこまでの自信はない。でも、全部じゃなくても吸血鬼特有の感情だったら彼にもあるはずなのだ。少なくともアイゼンバーグは吸血鬼として、アタシのご主人様として、アタシとの強いつながりを感じているはずだ。それだけでも確認できればいいのに。
「ねぇ、アイゼンバーグ。アタシ、青の吸血鬼みたいなの。アタシ、君の眷族、になるみたいだよ? ねぇ、分かる?」
一歩踏み出す。
心臓の音がもう一つ大きくなる。耳の中で鳴っているのではないかと思うくらい、音が大きい。興奮で身体が震える。
震える足で、もう一歩、踏み出した。
「近寄るな」
地を這うような低い声が聞こえて驚いて足が止まった。鼓動が嫌な波を打ち始める。腹の中がよじれて気持ちが悪い。
アイゼンバーグは眉間にしわを寄せ、鋭い目つきでアタシを睨んでいた。見たくないものを見てしまったという顔だった。
頭の後ろを殴られたような気分になった。
「どう、して……」
震える唇から言葉が漏れる。
「なん、で? 君は感じないの? この人だけだって感覚……。この人が自分の求める全てだって感覚は、君にはないの?」
思わず吸血鬼としてのつながりを確認してしまう。何でも良いから肯定して欲しかったからだ。吸血鬼特有のこの感覚なら、肯定してもらえると思って。でもアイゼンバーグはすぐに答えてくれなかった。
この感情はアタシだけのものなのだろうか。会った瞬間に自分の大切な人だと分かり、全身が求めてやまないこの気持ちは眷族にしかないの? ご主人様であるアイゼンバーグはこれっぽっちもアタシとのつながりを感じていないの?
「アイゼ……」
「分からない」
アイゼンバーグがようやく口を開いた。アタシは彼の言葉がすぐに理解できなくて口を薄く開いた状態で固まってしまった。
「死んだ奴のことは覚えていない。お前のような吸血鬼なんて知らない」
アイゼンバーグは全身から嫌悪感を溢れさせながら低い声で吐き捨てた。
再び頭を殴られたような衝撃が走った。身体が、震える。
アイゼンバーグは少しもアタシが感じたような気持ちを抱いていないのだ。彼に会った瞬間に沸いた、魂の震えるような歓喜を。身体の奥底から彼を求めてやまない感情も。叫びたくなるような高揚感も。吸血鬼特有の感情でさえ、アタシだけのものだった。
それだけなら、まだ良かった。アタシが彼に対して抱く感情が一方通行なだけならまだ良かった。でも違う。
アタシは拒否された。アイゼンバーグは見たことのない顔でアタシのことを威嚇している。少しでも動いたら殺す、そんな顔をしているのだ。
こんな、ことって。こんなことってあるんだ。こんなにも彼のことを想っているのに、伝わるどころか拒否されるなんてことが。
こんなに悲しいことはない。こんなに、泣きたくなることはない。




