Maria×Ash×Vampire05
「……手加減していたの。アタシ、たぶんアンタより強い」
男の子の顔がみるみるうちに鬼のような顔になっていった。めちゃくちゃ怒っている。
「調子に乗るな!」
「……ホノカって結構好戦的だねー」
レオのどこかぼんやりした声と男の子の声が重なった。
男の子が床を蹴って向かってくる。アタシが右に走ると男の子もぴったりくっついてきた。壁まで来たが、今度は止まらずに飛び上がって壁を蹴り、美女の頭上を越えてソファの後ろに着地した。腰を少しだけ落として構える。
「殺す!」
男の子がソファとローテーブルを飛び越えて飛びかかってくる。アタシは摺り足で位置を調節し、右拳を握った。
男の子が右拳を真っ直ぐ振り下ろしてきた。アタシはそれを避け、男の子の顔面めがけて腕を伸ばした。
「殺すなんて物騒なこと言うな!」
ゴッ
鈍い音がした。拳の感触で鼻の骨を折ったことが分かった。アタシはすぐに腕を引いて下がった。
男の子はアタシがさっきまで立っていたところに下を向いて着地した。ぽたぽた、と男の子の足の先に液体が落ちる。
男の子が腕で顔を拭った。その白いシャツに赤い染みが出来る。
男の子が顔を上げた。
「……お前の死を、アンナ様がお望みだ」
赤い瞳でアタシを睨んでいる。殺意のこもった真っ赤な瞳だ。その瞳がゆら、と揺れてアタシとの距離を縮めてきた。
右拳が飛んでくる。最小限の動きで避け、アタシは男の子の腕を掴んだ。男の子の目が大きく見開かれる。
「愛している人のためだからって何でもしていいわけじゃないんだからな!」
アタシは男の子の腹に思い切り右拳を叩き込んだ。
「ぐほっ」
男の子の身体がくの字に曲がり、吹っ飛んでいった。ガシャンと大きな音を立てて男の子がローテーブルの上に仰向けに転がる。アタシはすぐさま馬乗りになって足で両腕を押さえ、彼を見下ろした。
男の子がゆっくりと首を回し、アタシを見た。口の端からは赤い液体が漏れている。体重をかけて男の子の腹に座ると、男の子の口からごぽりと血が出てきて彼は咳き込んだ。足の下で彼の手がアタシを押しのけようとしているけど、彼の手は抜けない。それくらい、アタシと彼との力の差は歴然としていた。
「ゴホッゴホッ……殺せよ」
ぼそり、最後に男の子は言った。さすがに男の子も察したんだろう。
アタシは右手を持ち上げて拳を作った。男の子が目を瞑る。アタシはその顔めがけて腕を突き出した。
鼻先で拳を止める。すると衝撃がやってこなかったからか、男の子がうっすらと目を開けた。
「三発目」
べちっ
アタシはその眉間に一発でこぴんを食らわせてやった。男の子は目を大きくしている。アタシはそんな男の子の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、アンタ、アタシに負けたって思ったんだよね? 殺せって言ったってことはそうでしょ?」
男の子は目を瞬かせてぽかんとした顔をしている。アタシは構わずに続けた。
「だったらこの戦いはアタシの勝ち。殺さなくったってアタシが強いって証明できたんだから終わり。それでいいでしょ?」
男の子はアタシの足の下から腕を抜き、後ろに突いて上体を起こした。ちらと目を動かし、何かを確認する。たぶん女の人の様子を伺ったんだろうと思う。
「……でも、それじゃあお前の望みは叶わない。僕を殺さないと僕のお腹の中の鍵は出てこないんだから」
「そうなんだよね。さっきお腹殴った時に出てこないかなって思ったんだけど……」
「だから僕の腹を殴ったのか」
男の子は眉を寄せた。
「まぁね。でも出てこなかった。どうしよう……。掃除機で吸ってみる? ハイムリック法とか試してみる?」
「喉に詰まった餅じゃないんだから……」
男の子は呆れたようにため息を吐いた。そんな残念なものを見る目を向けられても、アタシにはそれしか思いつかないのだから仕方ない。
「それじゃ、どうやって出そう」
「そうだね……」
男の子が左肩に耳をつけて体重を預け、右手を出してきた。その右手の人差し指が、つうっとアタシの鳩尾からへそをなぞった。
「ひゃっ!」
布越しでも布が薄いから意味がない! ぞくっとしてビックリした!
「腹を裂くしかないだろうね」
男の子の目が細められ、唇が微笑む。
「なっ」
「そうよ。それしか方法はないの」
ゾッとするほど冷たい声がした。
いつの間にか男の子の後ろに美女がいた。美女の細い指が男の子の腕を這っていき、左肩に添えられる。目を大きく見開く男の子の耳に美女が真っ赤な唇を近づけた。
「残念だわ」
ぐしゅっ、という、何かを潰したような音がした。
バラのような魅惑的な香りにきつい鉄の匂いが混ざっている。ドクン、ドクン、とうるさく叫び始める心臓の音を聞きながら、アタシは視線を下げた。
男の子のシャツが真っ赤に染まっていた。
「ひっ」
アタシは腰を浮かして男の子から離れようとした。しかし、美女に腕を掴まれてしまって逃げられなかった。
「お待ちなさいな。鍵を持っていかないといけないでしょう?」
湿っぽい音が鳴っている。ひき肉を掻き混ぜるような、音だ。
「う、あ、あ……」
その音に、男の子の喉から零れてくる声にならない声が混ざる。目が見開かれ、口が大きく開き、身体がぶるぶると震えている。アタシは見ていられなくなって顔をそらした。
「暴れちゃだめよ。どこかしら……なかなか見つからないわね……」
「あ、ああっ……」
怖い。怖い。怖い。気持ち悪い。嫌な音が鳴り続けている。
「あったわ! どうぞ。持っていって」
くちゅ、という音がして、アタシの腕を掴んでいた美女の手がするりと下がり、掌を上に向かせた。その手の上に、何かが置かれた。
「やぁっ」
アタシは思わず手を払った。すると指先が何か固いものを弾いた。アタシの弾いた固いものはどこかで跳ね返ったような音がして、床に滑ったような音がした。
恐る恐る目を開けてみる。床には鍵が転がっていた。真っ赤な血をまとった鍵だった。男の子の腹の中に入っていたはずの鍵だった。それが、床に、転がっている。
目を動かすと赤い瞳とぶつかった。同じように真っ赤な唇がにいっと笑う。
男の子は白目を向いていて、腕をだらりと下げて美女に抱えられていた。真っ赤な手をした美女に。




