9-13.誰よりも何よりも
翌日の午後にカルミノがブリランテから戻ってきた。ロウランドを発ったときから少しも変わらない姿で、荷物が減った様子も増えた様子もない。涼しい顔で何やらロサと話していたが、さすがに疲れたらしく、早々に休んでしまった。
日が完全に落ちる直前、ちょうどアミュウたちがこの小屋へやってきたのと同じくらいの時刻には、ジークフリートも帰ってきた。弾かれたように表へ飛び出したアモローソの声は、カルミノが目を覚ましてしまうほど響いた。
久しぶりにアモローソの笑顔を見ることができたのだから、水を差してはいけない。アミュウは鳩尾を這いまわる違和感に蓋をすることにした。アモローソはいつも、ジークフリートのことをシグルドと呼ぶ……
深夜というよりも未明という方がしっくりくる刻限、誰からともなくのそのそと起き出した。声をかけあって、言葉が通じることを確かめる。ロサが火の精霊魔術で燭台に灯りをともした。
「もう魔術が使えるのか」
「小さな炎ならね。実戦にはほど遠いわ」
驚いた様子のカルミノに、ロサが首を振って答える。アルフォンスが苦笑いを浮かべた。
「大したものだと思うよ。ぼくなんか、まだそよ風も起こせない」
アモローソが湯を沸かそうと鍋の支度をしていると、ロサはかまどにも火を入れた。ジークフリートが申し訳なさそうに言った。
「なにか土産でも買ってこれたらよかったんだけどさ、市場も閉まっちまってよ」
「連合軍の食料を確保するだけで手一杯なのでしょうね」
アモローソの相槌に、アミュウも頷いた。クーデンに駐留している連合軍の食事を賄うのは大変だろう。言葉に不自由があっては、ほかの町から食料を買い付けるのも一苦労に違いない。
ポレンタを煮込むあいだ、カルミノはぼそぼそと語りはじめた。
「やはりブリランテでも、ほかの町の言葉が通じなくなっていた。もともと移民の少ない街だが、よそから来た連中は苦労しているようだな。幸い、俺のロウランド訛りは通じたが……」
カルミノがちらりと目線を送ると、ジークフリートは力強く頷いた。
「俺も大丈夫だったぜ。ヴェレヌタイラ出身だけど、クーデンでもやりとりできた。けど、町にわらわらいるソンブルイユの兵隊連中は、地元のやつらと話せない。連合軍は混乱でガタガタだ」
「まあ、そうだろうな。意思疎通ができないのなら、軍事作戦は到底無理だ」
カルミノが納得したように腕を組む。鍋をかき混ぜていたアモローソがこちらを振り返って言った。
「では、事実上の停戦ということなのですね」
「ああ」
相槌を打つカルミノを、ジークフリートがじっと見つめている。なんとなく気になってアミュウが彼を見ていると、ロサがフンと鼻を鳴らした。
「やっぱり、戦争どころじゃなくなったってわけね」
「当然といえば当然だな」
「移動リスクがかなり減ったわね」
「月が出ていない時間帯なら、そこそこ安全だろう」
ロサとカルミノが話していると、ジークフリートは眉を寄せ、アモローソはスッと鍋に視線を戻した。
とうもろこしの甘いにおいが小屋を満たしている。そろりと近付いたアミュウが覗き込むと、鍋の肌にポレンタの黄色い皮膜ができはじめていた。
「そろそろ頃合いじゃない?」
「ええ……」
生返事ではあったが、アモローソは器用にポレンタを取り分ける。ほとんど無意識のように見えるその手つきは、王女の姿でありながら、カーター邸のキッチンストーブに向かっていた頃のナタリアの動きそのままで、アミュウは不意打ちをくらった。アモローソとナタリアが奇妙に混じり合っている彼女のありようを見ていると、胸が苦しくなるのだ。
聖輝が食前の祈りの文句をとなえ、食事がはじまった。食べ始めたかと思えばすぐに終わってしまう、質素な食事だった。
盥の水で食器をすすいでいたアミュウには、アモローソが「王都へ向かいましょう」と言ったのがよく聞こえなかった。
「え?」
聞き返すそばから、カルミノとロサがどんどん話を進めていく。
「よし、さっそく明日発とう」
「善は急げ、ね」
慌てたアミュウは、すすぎ終わった椀をまだ汚れている椀に重ねてしまった。
「ちょっと待って、なんの話をしているの」
異論を唱えようとしているアミュウに、カルミノとロサの冷たい視線が突き刺さる。その冷ややかさが、みぞれのようにざらついて咽をつたい落ちていく。アミュウは認識を改めざるを得なかった。ブリランテ道中をともにしたことで仲間のように感じていたが、このふたりはもともとアミュウたちとは別の目的のもと、たまたま条件が合致して同行していただけなのだ。
アモローソはと見てみれば、意外にもしっかりとした表情だった。背筋をピンと伸ばして椅子に座りこちらに顔を向けていたが、アミュウとは目が合わない。彼女は聖輝の方を振り返った。聖輝は部屋の向こう側の壁際に座っていたから、彼女の表情を窺うことはできなくなった。
「そうすれば、お姉さんに事態を知らせることができます。叶うなら、彼女とお腹のお子さんの安全を守るための手はずを整えることも」
そうしてちらりとカルミノの方を向く。髪が揺れたが、まだ彼女の表情は見えない。
「そうだな。お嬢様なら賛同するはずだ。お嬢様からドゥ・ディムーザン猊下に進言してもらえば、あるいは俺たちが直接御神楽邸に出向くこともあるだろう」
カルミノがそう言うと、アモローソは再び聖輝の方を向いた。やはりどんな顔なのかは見えないが、きっと「ほらね」と言いたいのだろう。アモローソにとっては、詰めの一手を打ったつもりなのだろう。しかし――
アミュウが反論するよりも早く、聖輝が静かに言った。
「そんなことよりも、国産みはどうするつもりですか」
つかの間、水を打ったように小屋が静まりかえる。聖輝の声に怒気は感じられないが、運命の女としての責任を追及する厳しさは怜悧な刃のようだ。じっと動かないアモローソ、成り行きを見守るカルミノとジークフリート、そして離れた場所からアミュウたちを観察するアルフォンス。
ぴんと静かに張った水面を揺らしたのは、ロサの怒声だった。
「……そんなこと? ピノの最期をお嬢様に知らせるのがそんなこと? あんたのお姉さんの安全を確保するのが、そんなこと? そんなことって、どんなこと?」
ロサの怒りは一滴また一滴としたたり落ちる雨だれのように続けざまに水面を穿っていく。その冷たさはアミュウの肌をも粟立たせた。
「あんたの言う、国産みとやらは何に優先するわけ?」
「すべてですよ」
聖輝もまた冷たく言い放つ。
「国産みは何よりも誰よりも優先します。命すらも比べられない。それが実の姉だろうが胎児だろうが関係ない。なぜなら、この世界の存亡そのものを左右するからです。そして、事態は一刻を争います」
その言葉どおり、聖輝が何よりも自分に課された使命を優先してきたことを、アミュウは知っている。姉の深輝にしても、弟と同じ覚悟だと知っている。もしも運命の女がソンブルイユへ向かったとしたら、それが深輝とお腹の子どもを救うためだとしても、深輝は失望するだろう。しかし、ロサがその事情を理解するには、ともに行動した時間があまりにも短かった。そして、それ以上に、ロサは小さなもの、か弱いものに優しすぎた。慈しむべき身近な者たちに目を注ぐあまり、もっと大きなものが見えないのだ。
そしてその傾向は程度の差こそあれ、ジークフリートも同じだった。彼は吐き捨てるように言った。
「見損なったぜ。姉ちゃんよりも、使命とやらの方が大事ってわけか」
「当然です。住むべき世界がなくなれば、姉も赤ん坊も、誰も生きていけません。それにカルミノ。あなたなら、王女がいなくともドゥ・ディムーザン卿にかけあってくれるのでしょう?」
聖輝が水を向けるがカルミノは取り合わず、つまらなそうに目を伏せた。
「俺たちを安く買いたたくつもりか」
「滅相もない。国産みで思いどおりの世界を生み出すことこそが、猊下の望みだということですよ」
カルミノがはっとした表情で目を開き、眉を上げた。
「ふむ……主公様が運命の女を呼び寄せようとしていたのは、そういうわけか」
カルミノが考えこんでいると、業を煮やしたのか、ジークフリートがまくし立てる。
「てめえの方こそしらばっくれてるじゃねえか。クーデンじゃ、混乱に乗じてブリランテの軍勢が攻めてくるって、みんなびくびくしてんだ。そりゃそうだよな、ブリランテからしたら、絶好のチャンスだ。そういう話を伏せて『停戦』だって? 戦闘が再開するって姫殿下に知られたくないだけだろ?」
アモローソがぱっとカルミノの方を向く。今度は目を丸くしているのが長い髪の隙間から見えた。
「そうなのですか?」
「領主からそのような声明は出とらんな」
カルミノはしれっと答えたが、ジークフリートは首を横に振る。
「ドメニコが死んで、ジュリアーニ卿が軍を指揮してるんだろ。クーデン侵攻に打って出るかなんて、マグダのばあさんが決めることじゃねえ。解放軍の勝利は目前なのに、どうして姫殿下を遠ざけようとする? 何かまずいことでもあんのか?」
カルミノは眉間の皺を深めて言う。びりりと刺すような視線だった。
「大いにあるな。それはお前も同じじゃないのか? 再び王女を戦火に放り込むつもりか。このままでは新生ブリランテの神輿に王女がのせられることになるぞ」
「それが姫殿下の意思なら、俺は姫殿下の剣になる。それだけだ」
狭い小屋がしんと静まりかえる。アモローソのすぐそばに立つジークフリートの姿はまっすぐで、まるで彼自身が灯火であるかのようにほんのりと明るく見える。アモローソを照らす灯りなのだと、アミュウは思う。
「ジュリアーニ司教がわたくしの帰還を望んでいるということはあり得ません。わたくしを警戒していたもの」
アモローソがぽつりと口を開く。大きな声ではなかったが、全員の耳に届く、はっきりとした声だった。
ふと部屋の中の暗さが和らいでいることに気付く。雨戸の隙間や穴に、日の出を告げる柔らかい光が広がっていた。燭台の蝋燭は短くなっていて、透明な蝋だまりがすぐ近くの炎を反射している。アモローソの胸を飾るネックレスのアメジストもまた、なにかの光をうつしてチカリと輝いた。その光源がなんだったのか、アミュウには分からない。まもなく消えようとしている蝋燭の灯なのか、夜明けの光なのか、あるいは傍らに立つジークフリートの明るさなのか。
「わたくしは、無念のうちに散っていったロウランドの民が、再び安寧の地を取り戻すことを望んでいました。もしもこのまま彼ら自身の手で独立を勝ち取れるなら、それがいちばん。彼らの上に立つことが目標だったわけではありませんから……それよりも、マリー嬢にピッチのこと、わたくし自身の口から話さなくてはならないと考えます」
そして壁際に座り込んだままの聖輝に目を向け、柔らかい声で言い添えた。
「もちろん、あなたのお姉さんのことも気にかけていますよ」
アミュウの位置から彼女の表情を窺うことは相変わらずできないが、微笑んでいるのだろうとわかる口調だ。彼女は同じ声の柔らかさを保ったまま言葉を続ける。
「かつてのアキラ・ミカグラの仕打ちを許すことはできません。ですが、血を分けたお姉さんよりも使命を優先させなければならないとまで言い切る、あなたの心がけは理解できます。わたくしの守るべきものがロウランドという国で、あなたの守るべきものがこの世界だという規模の違いはあれど、自分にとって大切なもののために、ほかの大切なものを犠牲にしなければならない――その感覚は、わたくしにも分かる気がするのです」
――わかる。
アミュウにも、アモローソの言うところの「その感覚」は分かる気がした。アミュウにとって守るべきものは、きっと二人よりももっと狭く、小さい。しかし、そのために色んなものを失ってきたという感覚は確かにある。
アミュウは両脇におろした手を結び、また開いた。皿洗いの途中だった手は、いつの間にか乾いていた。無意識のうちにスカートで拭いていたのかもしれない。その手が掴んだもの、指の間をすり抜けていったものを思う。
小屋を燃やされ、師を失い、無我夢中でナタリアを追いかけてきたが、結局姉は取り戻せなかった。アミュウのよく知っていたはずの姉よりも、彼女は王女としてのありようを選んだ。仲間として頼りにしていたジークフリートも、彼女のそばにいることを選んだ。彼ら自身が選んだのだから、アミュウが文句をつけることはできない。
では、アミュウの手にまだ残っているものはなんなのか。
考えているあいだにも、アモローソは言葉を続ける。
「その規模の大小がそのまま価値の高低に当てはまるわけではありません。確かに国産みは運命の女にしかできないけれど、ピッチについて説明することも、やはりわたくしにしかできません。そして、それ以前に、自分自身の生きかたを選ぶことだって、わたくしにしかできないのだわ。わたくしは、使命のためにピッチや友人を蔑ろにするような生きかたは、したくありません」
アモローソはやおら立ち上がり、ジークフリートに寄り添った。
「もしもこれ以上あなたがわたくしに国産みを強要するなら……」
ジークフリートはアモローソの前に立ち、聖輝とのあいだに割って入った。
「俺が、今度こそ姫殿下を守る」






