9-11.鬼が出るか
カルミノとジークフリートを欠いた山小屋暮らしはたいそう静かで、時間の経つのが遅く感じられた。しかし、言語認識に綻びが出てからまだほんの一週間だ。あのときはまだ満月を過ぎたばかりの丸々とした月の頃で、月の入り時刻は早朝だったが、今では月の入りは昼近くとなり、半月よりも欠けてきていた。
聖輝は、散歩と称して長く外出するようになった。朝早くに小屋を出て、夕方まで帰ってこない。ロサは良く思っていないようだが、聖輝ばかりを見張っているわけにもいかず、結果的に放任状態となっていた。アミュウも気にかけていたが、アモローソのそばを長く離れるのはよくない気がして、聖輝に同行することはできずにいた。
午前中はロウランド旧城下町の人々の言葉が分かるようになったため、ロサが小屋にいるあいだ、アミュウは恐る恐る町へ出かけてみた。
はじめてロウランドに足を踏み入れたときは日没直前だったが、明るい陽のもとで見る町の風景は、前回見た景色とはまったく違っていた。山地酪農でのびのびと育つ牛たちは平地とは異なる色をしていたし、斜面に石を積んで耕した段々畑の景観は、圧巻だ。木造の家はカーター・タウンやスタインウッドでよく見られる造りに近く、アミュウは懐かしくてたまらなくなった。
(選挙どころじゃなくなっちゃったんだろうなぁ)
街道の果てにあるカーター・タウンは移民が少ないが、まったくいないわけではない。スナック・カトレヤのエミリや開業医のモーリス・ベルモンはラ・ブリーズ・ドランジェからやって来たし、アラ・ターヴォラ・フェリーチェのポンペオやクリスティアナはブリランテ出身だ。アラ・ターヴォラ・フェリーチェに入り浸っていた聖輝が、カーター・タウンに港が整備されてすぐのころ、船でやってきたという話を聞いたことがあるらしい。
(ベルモン先生は、診察に苦労しているんじゃないかしら……)
言葉がろくに通じないまま患者を診るのは難しいだろうと、アミュウは想いを馳せる。
故郷はいま、どうなっているのか。デウスの峰を越えていけば、カーター・タウンはすぐそこだ。ほんの一瞬、姉の手を引いて、カーター・タウンへ帰りたいという強烈な郷愁がアミュウの胸を焦がした。しかし、その手はもはやナタリアの手ではなく、アモローソの手なのだ。そして、彼女の手を取るべきなのは、きっとアミュウではない。
ロウランド旧城下町は、昼間だというのに道を歩く人は少ない。特に、子どもを見かけない。学校へ行っているのかもしれないが、果たしてこの寂れた山里に学校があるものだろうか。あたりを見まわしても、視界に入る人間は、棚畑を耕す農民ばかりだ。
町の中心部にさしかかると、古びて崩れそうな石造りの家が増えてくる。革命戦争の爪痕なのか、壁が削れていたり、色が変わっていたりして、どうにも寂しい印象だ。店でもあれば覗いてみようかと思っていたが、一巡りしてから、アミュウは探索を諦めた。どう見てもここが町の中心なのに、入りやすそうな店が見つからない。間口が狭かったり、看板が小さかったり、そもそも掲げていなかったりで、一見の客であるアミュウが足を踏み入れてもよいものか、判断がつかないのだ。ここは、よそ者を歓迎するような町ではない。町のあちこちから、そんな雰囲気がひしひしと感じられる。
(あの二人が、私たちを外へ出したがらないわけね)
カルミノは地元だというし、ロサはすぐ近くのブリランテ出身だ。二人にとっては勝手知ったる場所でも、アミュウたちにとっては異邦だった。
井戸のまわりで、婦人たちが世間話に興じていた。彼女たちのそばを通りすぎるとき、なんとはなしに会話が耳に入った。
「そういえば、牧師様が来てるんでしょ。今朝、お山のほうで見かけたわ」
「昨日からじゃないの? 大荷物を背負ってたから」
「しばらくこっちにいるのかねぇ」
「どうだか。言葉が通じないんでしょ、王都のひとだから」
肝が冷えた心地がして、アミュウは足早に小屋へと引き返す。聖輝がこの辺りをうろついていたに違いない。
(ブリランテが目と鼻の先だっていうのに、どうして)
憤慨しながら中央通りを引き返していると、途中でふっと看板の文字が読めなくなった。アルファベットそのものは認識できるのに、単語の連なりの意味が頭に入ってこなくなったのだ。アミュウは月の入りの時刻がやってきたのだと知った。
来た道を戻っていくと、小屋の近くに白い衣がちらりと覗いている。脇から突き出した梢に隠れてよく見えないが、牧師の祭服に違いなかった。
アミュウは声を張り上げた。
「聖輝さん! そんな格好で外をうろつくなんて、どういうつもりですか!?」
マントを翻らせてアミュウの方を振り向いたのは、しかし聖輝ではなかった。まだ顔は梢に隠れていたが、さほど上背がないと、動きで分かった。
「What a coincidence! Never expected to run into you here.」
耳慣れない声、意味の伴わない言葉に、足が止まる。誰かと問おうとして、アミュウは口を噤んだ。アミュウが相手の言葉を理解できないのに、アミュウの言葉が相手に伝わるはずがない。
彼は小径に突き出した梢を避けて、にやついた顔を見せた。冷たそうな金縁の丸眼鏡、ダークブロンドの縮れ毛。三白眼を細めて、さらに目が小さく見える。スタインウッドのグレゴリー司祭の息子、ジャレッド・エヴァンズだった。
心臓が縮みあがる音が全身を駆けめぐる。その蛇のような目を向けられて、アミュウは一歩も動けなくなった。ソンブルイユにいるはずの彼が、なぜここにいるのか。
「アミュウ、帰ってきたの?」
小屋からひょっこりと顔を出したのはアルフォンスだ。言葉の通じる相手が現れたことに内心ではほっとしながら、アミュウは文句を投げつけた。
「先生、変な客を呼び込まないでくださいよ」
「いや、ぼくだってよく分からないんだ。この人、お兄さんを探しているみたいで」
「え?」
アルフォンスは普段から聖輝のことを「お兄さん」と呼んでいるが、今は彼の名を口に出すのを避けているようだ。アミュウははっとして口を押えた。
「You said 聖輝? Is he here?」
知らない言葉の合間に聖輝の名前が挟まっているのを聞きつけて、アミュウの胸は早鐘を打ちはじめる。聖輝を探しに、ここまで来たのか? どうしてここにいると分かったのか?
彼の言っていることが少しも分からないことが、恐怖心をあおる。アミュウが何も言えず、動くこともできず、立ち尽くしているうちに、アルフォンスのうしろからアモローソが進み出て口を開いた。
「No, I must ask you to leave.」
彼女が何を言っているのかは分からないが、どうやらジャレッドには通じたらしい。
(そうか、ナターシャはスタインウッドの言葉が分かるのね)
アミュウとアルフォンスがはらはらと見守る前で、アモローソとジャレッドはしばらく話していた。ジャレッドの抑揚ある声には皮肉や揶揄の響きが満ちていたが、アモローソは冷静に対応しているようだった。
だんだんと落ち着いてきたアミュウはゆっくりとアルフォンスに近付き、小声で訊ねる。
「この人、どうしてここに?」
「分からないよ。いきなり来て、あんな感じで知らない言葉で色々言ってきてさ」
「ロサはどこへいったの?」
アミュウはロサと入れ替わりで町へ出かけたのだが、彼女の姿が見えない。アルフォンスはいっそう声を落として答えた。
「……隠れてるよ、そこに」
「えっ」
アルフォンスがちらりと目くばせした方をそっと見てみると、土間の暗がりにロサが身を隠しているのがわかった。
「扉の外にいるのがあのひとだってわかった途端、ぼくを前面に押し出して隠れちゃったんだよ」
ドゥ・ディムーザン卿お抱えの私設魔術師であるロサなら、ソンブルイユ教会のジャレッドの顔くらいは知っているのだろう。
(よっぽど嫌いなのかしら……ええ、気持ちは分かるけど)
アミュウとアルフォンスがひそひそと話しているうちに、アモローソとジャレッドの話も終わったらしい。ジャレッドは何やら挨拶らしき言葉を口にして、ロウランド旧城下町のほうへと去っていった。
アモローソはといえば、疲れきった表情でため息をついている。アミュウが背中にそっと手を当てると、彼女は薄い笑顔を浮かべ、「やれやれ」とでも言うように首を横に振ってみせた。






