9-10.後ろ姿を見送って
まどろんでいるような、覚醒しているような、曖昧な時間をやり過ごすうちに、聖輝とアルフォンスの会話が遠のいていく。眠りに落ちたからなのか、気分が塞ぐあまり注意が向かなくなっただけなのか、よく分からなかった。
しかし、突如全身を襲った違和感で、アミュウはぱちりと目を開けた。
「きゃあ!?」
悲鳴を上げたのはアモローソだった。飛び起きてみれば、小屋全体が揺れている。一度大きく揺れたかと思うと、振動はすぐに弱まっていった。
「外へ出てください、早く!」
聖輝が大声を上げたかと思えば、アミュウの手をひっつかんで立たせた。ふっと部屋が暗くなる。ロサが燭台の灯りを消したのだ。暗闇の中で蹴躓きそうになりながら慌てて表へ出てみれば、いつも通りの静かな山の夜だった。
「地震……かしら?」
アモローソが不安そうにつぶやく。彼女の言葉が聞き分けられるということは、夜半を過ぎているらしい。まだ月は山に隠れていたが、東の空にほんのりとした月明りが広がっている。
「収まったかな」
ジークフリートが足をもぞもぞと動かして地面の感触を確かめていたが、アミュウは、まだ揺れているような心地だった。地面が揺れているのか、それとも自分が起き抜けの眩暈で揺れているのかよく分からない。ロサは揺れが止まったと判断したらしく、「小屋がつぶれたら終わりね」とぼやきながら、開け放したままの扉から屋内へ入っていった。ほかの面々も小屋の中へ戻っていくが、聖輝だけは浮かない顔で山頂の方を眺めている。
「もしかして、今のって……」
近寄って小声で訊ねると、聖輝は頷いた。
「ええ、噴火の予兆でしょう」
アミュウもデウス山の頂を見上げる。夜空にすっと伸びていく峰は、カーター・タウンから眺めていた山のちょうど後ろ姿だった。暗くて判然としないが、噴煙などは見当たらないようだ。
「ドムスルミニスは火山噴火から始まった土地です。噴火で終わるのは、ひょっとしたら自然なことかもしれませんね」
「それって、深輝さんの予言なんですか?」
聖輝が他人事のようにあっさりと話すので、アミュウはほんの少しだけ苛立った。その心のざらつきが、声ににじみ出ていたのだろう。聖輝が山から目をそらして後ろを向いたときに、悲しそうに半ば目を伏せたのがちらりと見えた。
「単に、そう思ったまでです。いっそ、姉がそう言ってくれたらよかったとは、思います」
それだけ言って聖輝も小屋へ入っていった。
聖輝の発言の温度から、アミュウは気付いてしまった。もしも国産みに進めなければ、聖輝はアモローソを殺して月へ上るしかない。どちらも過酷な道だが、もしも守るべき大地自体が滅んでしまえば、聖輝は残酷な選択をしなくて済むのだ。聖輝がそちらを願ってしまうのは、寧ろ自然なのではないか。
静かな山の内部に、日常が内側から崩れていく音を聞いたような心地がした。耳に聞こえる音ではない。それは鳩尾を震わせる振動だ。具体的には、聖輝が消えていく予感だ。
この感覚は初めてではなかった。ソンブルイユ璧外街区の宿からナタリアが姿を消したときに同じような恐怖を感じた。年の瀬から季節はめぐり、すっかり春となったが、アミュウの二の腕を冷たい風が走り抜けていった。その冷ややかな空気は肺へと入り込み、アミュウの体温を内側から下げていった。
聖輝は、聖霊の申し子であることを諦めたがっている。アモローソも、国産みに応じる気配はない。双方の心の動きはあまりに当然で、アミュウの胸を雑巾のように絞りあげていく。アミュウは、聖輝に諦めてもいいのだと伝えたかった。姉に、逃げてしまえと言いたかった。しかし、言ってはいけないと十二分に理解していた。
(だって、私は部外者だもの)
風は一度吹き抜けたきり、もうやってこなかった。冷たさの余韻が身体の芯へ沁みていく。
(私は、主人公でないのだから)
アミュウはほんの数秒、二の腕を抱いて身体を温めてから、小屋に戻っていった。
その二日後、ジークフリートが山を降りていった。
まだ胸のただれは治りきっていなかったが、彼を止めることはアミュウにはかなわなかった。
「心配すんなよ。ちょっと様子を見てくるだけだからさ」
軟膏を塗った上に交換したガーゼを当て、彼自身が包帯を巻いていた。自分で手当てができるようにと練習したのだ。
木々の隙間から、ちかちかと朝日が見え隠れして、ジークフリートの赤毛を煌めかせていた。「シグルド」と名を呼んだきり、何も言えずにいるアモローソの前で、ジークフリートは膝を折った。
「必ず戻るぜ」
夢で見たシグルドの所作よりは随分と荒っぽかったが、ジークフリートは今も王女の騎士なのだと、アミュウは改めて思い知る。アモローソがジークフリートをシグルドと呼び、ジークフリートがアモローソを姫殿下と呼ぶたびに、得体のしれない不安と痛みがアミュウを縛り付けていた。ふたりが過去に囚われているとも感じたし、アミュウの知る現在のふたりを自分たちで蔑ろにしているとも感じた。
しかし、ふたりがどのような自分を選ぶかは、自分で決めることなのだ。それこそ、アミュウが口出しできる問題ではない。
もしもジークフリートと、誰にも邪魔されずにゆっくり話す時間が持てていたなら、アミュウは彼に、王女を連れて逃げるようにと言っていたかもしれない。実際は、アモローソから片時も離れずにいた彼と二人きりになる時間はなかったのだが――
(言わずにすんで、よかった)
アミュウがじっと視線を注いでいるのを、ジークフリートは何やら違う意味に捉えたらしい。
「水ぶくれもしぼんだし、大丈夫だって! 治るまでずーっと寝てるわけにはいかねえよ」
すっくと立ち上がり、歯を見せて笑うジークフリートを見ていると、アミュウも笑顔を作ろうという気持ちが湧いてきた。
「無理しないで、すぐに帰ってきてね」
「ああ」
彼はアミュウに向かって親指を立てると、ロサのほうをちらりと見た。
「カルミノのおっさんはいつ帰ってくるんだ」
「さあ? 細かい日程は聞いていないわ」
本当に知らないのか、誤魔化しているだけなのか、アミュウには判断がつかなかったが、ジークフリートはロサをぎろりと睨みつけて言った。
「こいつらにちょっかい出したら、ただじゃおかねえぞ」
ジークフリートはアミュウたちを遠巻きに見守っているアルフォンスに向かって声を張り上げた。
「センセイ、頼むぜ! みんなを見ててくれよな」
「もちろん、ぼくにできる限りで気をつけるよ。君も気をつけてね」
にっこりと手を振るアルフォンスは、しかしその場から一歩も動こうとしなかった。ジークフリートは聖輝に向き直る。
「……ふたりをよろしく」
「ええ」
交わした言葉が少ないのは、それまでに多くの言葉を交わしているからなのかもしれない。
そうしてジークフリートは最低限の荷物しか入っていない革袋を背負って、デウスの山を降りていった。片手を上げてひらひらと振ったきり、一度も振り返らなかった。朝の木漏れ日が、赤毛に、マントに、ちろちろと踊っていた。






