9-8.かけら1
ためらわず飛びんで抱きしめようとしたら、しがみつくような格好になった。聖輝の胸に埋もれるアミュウは、どこから見ても慰めてもらう側にしか見えないが、ふたりを見るものは誰もいない。存外早くに聖輝の腕がアミュウの肩に回った。
木々の葉はそこだけ途切れていて、春の日差しが降り注ぎ、つややかなグミの実がルビーのように照り返している。葉の擦れ合う音は静かに満ち、遠くで鳥がさえずったかと思えば、すぐ近くからまた鳴き返す。木のにおい、土のにおいが立ちこめ、不快でない程度の湿度でふたりを包んでいる。これほど平和な森にあって、必死に抱き合うふたりは、まるで無音の嵐の中、強風に倒れまいと互いにしがみついているかのようだった。
その静かな嵐には、時間の概念がなかった。いつから始まったのか分からないし、いつ終わるのかも分からない。しかし、過ぎ去るまで待つ猶予がないということだけははっきりと分かっていた。立ち止まることはできない。しかし、踏ん張るだけで精一杯だ。ふたりは互いの体を支え合い、どうにか倒れ込まずにいた。
ソンブルイユ教会の施療院から聖輝が退院した日、聖輝は襖の向こうで泣いていた。隔てるもののない今、アミュウは聖輝の体の震えをすこしも余さずに受け止めていた。髪に地肌にぽたりぽたりと落ちてくる雫を感じながら、聖輝のシャツの胸の奥にぽっかりと口を開けている、深い絶望の淵を覗いていた。それは底なしの深淵だった。例えばアミュウが石を投げても、音もしなければ揺らぎもしないだろう。しかしアミュウの胸に湧き上がってきたのは、恐怖よりもむしろ深い哀憐の情だった。愛憐ともいえるのかもしれない。あのとき遠かった聖輝の涙が、今はアミュウの頭に雨のように落ちている。聖輝に近付いたぶんだけ、姉が遠のく。はるか後方で、そっちへ行っちゃダメと叫ぶナタリアの声が聞こえた気がした。
(でも、いま聖輝さんを放っておくことはできない)
アミュウがいっそう強く聖輝を抱くと、聖輝の腕の力もまた強まった。
「言えないことが、あるんですね」
シャツの胸に向かってささやくと、こくりと頷く頭の動きをつむじに感じた。
「誰にも言えないんですね」
今度はやや時間をおいてから、やはり頷く動きがあった。
「はなしてください」
話して、と促したつもりだったが、聖輝はゆっくりと体を離した。赤くなった鼻を鳴らしてから「すみません」と言う。アミュウは首を横に振ってから、周囲を見回した。どれだけ抱き合っていたのか分からないが、さっきすぐ近くで鳴いていた鳥の気配はなくなっていた。
グミの木は見ている分には美しいが、そばにいると鳥の糞が落ちてくる恐れがある。近くに根曲がりのブナがあったので、アミュウは根元に腰掛けた。
「ほら、聖輝さんも」
聖輝はしばらくためらっていた。じっと見ていては圧力になってしまうかもしれないと、アミュウは聖輝から視線を外し、自分の手元をぼんやりと眺める。
聖輝がアモローソにピッチの正体を突きつけたときのことを思い出す。あの局面で、確かに聖輝は冷静ではなかったし、アモローソを深く傷付けもした。しかし、そのこと自体が聖輝をここまで追い詰めるかといえば疑問が残る。そもそも、聖輝はいつからピッチが幼少期のナタリアの魂の生まれ変わりであることを知ったのだろうか。カーター・タウンの森でピッチと出会ったときのことを思い返しても、はじめからではなかったような気がする。ソンブルイユの御神楽邸に滞在していたあいだは、聖輝よりも寧ろ深輝のほうがピッチに興味を持っていたように見えた。聖輝が施療院から退院するときなど、アミュウが出かけるときには深輝がピッチの面倒を見てくれていた。深輝がピッチの年齢を訊ねてきたのも、そのころだ。
(そういえば、深輝さんがはじめてピッチと会ったのは、もっと前……真夜中にナターシャが御神楽邸に姿を現したときだわ)
確か、深輝はピッチとナタリアのオーラが似ていると言っていたのではなかったか。俯いて考え込んでいると、聖輝が近づいてきた。
「そっちは危ないですよ、根元に寄って」
木の幹は山の斜面から浮き上がるように、途中から真上を向いている。アミュウはその曲がり角におさまるように座っていて、足が半ば浮いていた。
「聖輝さんがこっちに座ったら、てこの原理で根っこが浮きあがっちゃいますよ」
大真面目な顔でアミュウが主張したら、聖輝はくつくつと肩を震わせて笑った。
「それもそうか……よいしょ」
根元側に腰を下ろしてからも笑っている聖輝につられて、アミュウも可笑しくなって笑った。ひとしきり笑ってから、聖輝に訊ねる。
「深輝さんから何を言われたんですか」
聖輝は笑い疲れた様子で細く長く息を吐いてから答えた。
「ご想像のとおりですよ。ピッチのことに最初に気が付いたのは、姉でした」
「それだけじゃないでしょう」
アミュウがすかさず指摘すると、聖輝の表情から笑いの名残がさっと消えた。
「ピッチだけじゃなく、私のことも話してたんでしょう」
聖輝が黙っている数秒のあいだ、アミュウは彼の目に、実に様々な色を見た気がした。困惑とも、逡巡とも、後悔ともつかない暗い色の渦の中に、アミュウが映りこんでいる。その反応自体が、彼の答えだった。
「どうして、見抜いてしまうんですか」
沈黙を破った聖輝の声は震えていた。
「気付かれずに済むならそのままでよかったのに、どうして」
触れている腕からも震えが伝わってくる。アミュウは、その振動がおさまるまでじっと黙って待ってから、小さな声で言った。
「分かるんです、ずっと見てたから」
曲がり木の葉ががさりと動いて、聖輝の顔にかかっていた木漏れ日の斑点がぐらりと大きく揺れる。鳥が飛び立ったのだ。
木漏れ日の揺れが小さくなるころ、聖輝は重たげに口を開いた。
「あのとき、私やアモローソ王女が魂を削っていると言っていましたね。おっしゃるとおり、聖霊の申し子と運命の女は代々魂を削ってきたのだと、私も考えています。生まれ変わるたびに疲弊し、やがて充分な力を失ってしまった……そうして招いたのが、大型獣の出現であり、政情不安の悪化であり、言語認識の綻びです。仮に、今の状態で私とアモローソ王女が国産みを実行しても、完全な王国の顕現は難しいでしょう。姉も、その点は認識していました」
アミュウははっとして呟いた。
「大蛇に噛まれたあと、血が薄まったって言ってたけど、もしかして」
「ええ、ずっと手前のところで、手詰まりを起こしていたんです。しかし、国産み以外に選択肢はない。王女を巻き込んで、やるしかありません」
聖輝は膝の上に肘を置き、両手を組んだ。まるで祈るかのような姿勢だったが、彼に祈る神などいるのだろうかと、アミュウは訝った。聖輝は、自らの使命が負け戦に身を投じることだと、とうに理解していたのだ。
「ですが、魂は不滅の存在です。削られて粉となった我々の魂のかけらは、どこかに残っているはずだった。私があちこちを旅していたのは、運命の女だけでなく、そのかけらを探すためでもあったのですが、方々訪ねても見つかりませんでした。それもそのはず……探し求めていたものは光の家の外へ流れていたのですから」
聖輝は静かに語りを切り、その黒い眼をまっすぐアミュウに向けた。アミュウはようやく、自身がソンブルイユ生まれではないのだと思い至った。
空飛ぶ鉄の塊の名が飛行機であると知っていた。銀河に浮かぶ星の青色が海であると知っていた。白い雲も、緑と茶の大陸も。それらをアミエルに教えた人物がいるはずだが、そんな知識がこの世界にあるわけがない。この海に浮かぶのは唯一の大陸、ドムスルミニスの大地だけなのだから。
その理解は、アミュウの胸を乱すことなく、すとんと落ちていった。ごく自然な答え合わせだ。アミュウは聖輝にささやく。
「ブリランテの教会で、自分の名前を思い出したんです。それからずっと、私を名付けたひとはどこにいるんだろうって考えてました。そのひとが親であったなら、どうして小さかった私をカーター・タウンの森の中に置き去りにしたんだろうって」
聖輝は労わりに満ちた仕草で首を横に振った。
「そのひとはあなたを置き去りにしたんじゃない。きっと、あなたが来たんです。ドムスルミニスに呼び寄せられて」
「世界を超えて」
「ええ」
聖輝の肯定を受けて、アミュウは長いあいだ探し続けていた自分という存在の置きどころにたどり着いた心地を覚えた。自分の根源のありかを知るひとが、聖輝であったことにほっとしたのだ。アミュウは触れている聖輝の二の腕に、ほんの少しだけ寄りかかった。
「私は、あなたのかけらだったんですね」
「ナタリアさんのかけらでもあります。聖霊の申し子と運命の女のかけらが集まって、新しい魂になった」
アミュウはくすりと笑った。
「血じゃなくて、魂を分けた姉妹だったんだわ」
「でも」
アミュウの笑いに聖輝は同調せず、真面目な顔つきのまま言った。
「あなたは、あなたなんですよ。聖霊の申し子でもなければ、運命の女でもない。私たちに肩入れする理由も責任もない、ひとりの自由な人間です」
聖輝がそう言うのを聞いて、アミュウはある確信を得た。もちろん誠心からの言葉なのだろうが、そういう物言いをするからには――
アミュウは聖輝から身体をはなし、背筋をピンと伸ばして念を押した。
「私にも、国産みができるんですね」






