9-7.赤い実と流れ星
あたりがしっかりと光に包まれるころ、やはり言葉が通じなくなった。暗黙の了解で、誰からともなく眠りはじめる。コミュニケーションがとれない時間帯は睡眠時間に当ててしまおうというつもりなのだ。ロウランドの言葉の分かるロサだけが、買い出しに行ったり周囲の様子を探ったりと、忙しく動き回っていた。
カルミノがいなくなった分の毛布が一枚あいたため、アミュウはもうアモローソと同じ毛布で眠る必要はなくなった。考えることはたくさんあったが、毛布にくるまり横になっていると、じきに睡魔がやってきた。とろとろと眠りに誘われながら、アミュウはアモローソの夢を思い出していた。
(ナターシャの近くで眠るたび、ロウランドの革命の夢を見ていたのよね)
今は、そのロウランドの地でアモローソとともに眠っている。ナタリアがアモローソへと変貌する前なら、きっとものすごく「濃い」夢が見られたのではないだろうか。
(そうでなくてよかった)
ジークフリートが、アモローソのことを「姫殿下」と呼び始めたのはいつからだったか。彼がその呼び方をするたびに、アミュウは、姉が亡国の王女であったことを思い知らされるのだ。おとぎ話に出てくる悲劇の王女としてではなく、生身で生きた人間としての彼女を、彼は知っている。
(そろそろ私も、ナターシャがアモローソになったことを受け入れなくちゃならないんだわ……)
眠りの淵を漂いながら、アミュウは考える。夢の沼の水は生ぬるく、粘度がある。淀んだ水に浮かんだアミュウは、ゆっくり目を開けて隣を見る。ナタリアも同じく目を閉じて淵に浮かんでいる。ふたりは手を繋いでいたが、アミュウがその指をほどいた途端、ナタリアのほうの水だけがとろみを失い、さらさらと流れていく。清流に流されていく姉の姿は、アモローソに変わっていた。あいかわらずどろりと淀んだ沼に残ったアミュウは、あっという間に遠くへ離れていくアモローソを眺めていた。水の中なのに、自分が泣いていることが分かっていた。
(大丈夫。だって、泣けるくらい安心できているってことだって、先生が言ってたもの)
まどろみの中でアミュウは自分に言い聞かせていた。大丈夫、だいじょうぶ――
「大丈夫ですか」
「No, è tutto a posto」
耳慣れない響きの言葉にアミュウの意識が浮上していく。買い出しから帰ってきたロサを、聖輝が迎えているらしい。荷物を受け取ろうとしたが、断られているようだ。どさりと重たい音がして、ようやくアミュウは身体を起こした。
ロサは大量の穀類を仕入れていた。トウモロコシの粉、麦の粉……そして瓶詰野菜や燻製肉など。思わず目を丸くしてロサを見るが、今の時間帯、まだ彼女の言葉は分からない。アミュウは仕方なく、聖輝に話しかけた。
「ものすごい量ですね。何日分かしら……」
「しばらくはここを拠点にするしかありませんし、この情勢では、いつ必要なものが手に入らなくなるとも限りませんしね」
なるほど、言われてみれば、店の棚が空っぽになってもおかしくない状況だ。大所帯になったのだし、なるべく多めに食料を確保するべきというのは納得できた。
アミュウは笑顔でロサに礼を言った。言葉は通じなくても、感謝の気持ちは伝わるものらしい。彼女はフンと鼻を鳴らしてしてそっぽを向いてしまった。
買ってきた食料を炊事場に寄せると、ロサは自分の分け前の毛布にくるまって眠る体勢に入った。かわりに今度は、聖輝が立ち上がる。
「散歩してきます」
ロサが怪訝な目を向けているのに気が付き、アミュウは聖輝に訊ねる。
「どこへ行くんですか」
「そのへんを回るだけです。安心してください、町には近付きませんよ」
「私も行きます。食料がないか、探しましょう」
土間の片隅に打ち捨てられていたカゴを引っ張り出すと、ロサにも意図が伝わったらしい。彼女は「Ciao」とだけ言って二人を送り出した。内側から鍵を閉める音が聞こえてきてから、アミュウはしまったと思った。
「……帰ってくるとき、どうしましょう」
小声で訊ねると、聖輝は苦笑いを浮かべてささやき返す。
「鍵のために起こしてしまうのは忍びないですよね。私はゆっくり外の空気が吸いたいのですが、アミュウさんはどうですか?」
その瞬間、カゴを持つ手がこわばったが、アミュウは平気な顔で答えた。
「ええ、部屋の中は息が詰まるもの」
ふたりは、水汲みの池まで行ってから、沢に沿って山を登った。耳に快い水音のお陰で、沈黙は苦痛ではなかった。時おり芹やこごみを摘み取っては、カゴに放り込んでいく。
聖輝と二人でロウランドの山道を歩いているという状況が、アミュウの脳裏にアモローソ王女の夢を浮かびあがらせたが、水面の泡沫のような残像でしかなかった。いま、一緒に歩いているのはミカグラ卿ではなく聖輝だったし、アミュウは悲劇の王女ではなく、どこまでもただのアミュウだった。真っ暗な夜ではなく昼間であったし、靴の下で斜面が飛び去っていくこともなく、春の山の恵みを探しながらのんびりと散策しているだけだった。
ゆるやかな斜面にグミの木を見つけて駆け寄ったが、赤い実をもぎとって口に放り込んでみると、強烈な渋みが舌に広がった。
「まだ早いみたい」
吐き出しながらアミュウがうめくと、聖輝は木に成った実を順繰りに指でつまみ、弾力を確かめていった。
「熟すまでもう少しでしょうか……というよりも、熟した瞬間に先客が食べているのか」
聖輝の視線を追って見上げて見れば、楢の木の枝でヒヨドリがけたたましい声でさえずっている。なるほど、食べごろの実はもう残っていないらしい。
グミの木のそばにはイタドリの群生があった。アミュウが茎を折りとると、ポキッと快い音が鳴る。皮を剥き、ためらいもなくその茎に齧りつくのを見て、聖輝は目を丸くした。
「生で食べられるんですか?」
「酸っぱくて、目が覚めますよ」
アミュウは茎をさらに折って、穂先に近い方を聖輝に手渡した。聖輝は怪訝そうに手の中の野草を見ていたが、やがてほんの端っこを遠慮がちに口にした。
「……野趣あふれる味わいですね」
聖輝が渋い顔でコメントをひねり出すと、アミュウは肩を震わせて笑った。聖輝もくつくつと笑ったが、彼が指先で目尻をぬぐったのをアミュウは見逃さなかった。
どうしてただの泣き笑いでないと思ったのか、自分でも分からないまま、アミュウは聖輝に手を伸ばしていた。
「聖輝さん」
彼の手首は思った以上に高いところにあった。グミの実をもぐように、その手を自分の顔の前に持ってきてよく見ると、思ったとおり、人差し指が濡れていた。アミュウは親指でそのしっとりとした水分を拭いとる。彼の表情を確かめようと見上げると、きらりと輝いて滑っていく一粒だけが目に入った。ブリランテ教会を抜け出したときに見えた、幻の星々のひとつのような流れ方だった。






