9-5.再びアルフォンス=レヴィ・コンスタン1
果たして、その夜に月がのぼると言葉が通じるようになった。
不思議な感覚だった。それまでまったく耳になじまず理解できなかった言語が、虫眼鏡のピントを合わせるように意味を理解できるようになっていったのだった。
「ここからではまだ見えんが、だいたい月の出の時刻と考えていいだろうな」
ロウランドの町中にある時計の時刻を確かめてきたカルミノが言うと、聖輝が頷いた。
「アミュウさんの見立てどおりですね」
「よく気付いたな」
感心したようにジークフリートが言うが、アミュウは浮かない気持ちで視線をそらした。確かに、話せるようになるタイミングが分かるのは助かる。しかし、聖輝の言によるところの「共通化された言語概念の崩壊」という根本的な問題が解決されたわけではない。この状態がいつまで続くのか、改善するのか悪化するのかもまったく予想がつかないのだ。
「ほかの町の様子も見ておく必要があるな」
そう言ってからカルミノは、ちらりとジークフリートの方を見た。
「ジークはまだ傷が安定していないわ。出先で化膿したら大変よ」
すかさずアミュウが釘を刺すが、当のジークフリートが何やら真面目な顔で頷いている。
「俺は平気だぜ。それよりもクーデンの様子が気になる。ソンブルイユの連中は、きっとクーデンにいるんだろ?」
「ソンブルイユをほっつき歩いて傷が開いて入院したの、忘れたの?」
アミュウが早口で言い返すと、ジークフリートは気まずそうに口ごもった。あのときの傷は、御神楽邸が急襲されたときのものだ。加害者のカルミノは素知らぬ顔で黙っている。カルミノを御神楽邸に連れてきた張本人であるアモローソも沈黙を守っていた。
重い空気がたれこめ、おんぼろの部屋を満たす。カルミノが夜食にと作ってくれたトウモロコシ粥のにおいを追い出すほどに、その沈黙は濃密だった。
もとは敵同士だった者たちが、成り行きで居合わせているのだ。アミュウと聖輝はいくらかの時間をカルミノたちと過ごしているし、アモローソもカルミノと行動を共にしたことがあるが、ジークフリートはそうではない。この面々が狭い小屋の中で額を突き合わせることの難しさを思い知る。
重苦しい静けさを破ったのは、ロサだった。
「多分、戦争どころじゃないんじゃないの?」
どういうことだと言いたげに、カルミノがロサを睨みつけるが、意にも介さず彼女は自論を展開する。
「言葉が通じなくなったら、戦争よりも先に破綻するものがたくさんあるでしょ。優先すべきことが山ほどあると思うのよね。戦闘は中断するしかないんじゃないの?」
カルミノは頷きもせずに足を組み、中空を睨みつけていたが、やがて椅子の背もたれから身体を起こした。
「この目で確かめるしかないな。明日、ブリランテを偵察してくる」
「あのね」
ロサは苛立ちを隠さない、棘のある声でカルミノを制止する。
「あたしが言いたいのは、戦闘状態が落ち着いているうちに、主公様のところへ戻るべきだってことよ。きのうの繰り返しになるけど、お嬢様へピノのことをお知らせしないと」
「くだらん……しかし、お屋敷にいったん戻るのは下策ではないかもしれんな」
渋面のカルミノに、ロサが喰ってかかる。
「くだらなくはないわよ!」
「おい、そこのヒラヒラのお姫様」
ロサを無視して、カルミノはアモローソへと視線を流した。アモローソは沈鬱な表情を取り繕い、ピンと背筋を伸ばして正面からカルミノのまなざしを受ける。
「姿は変わったが、お前はまだ運命の女としての力を持っているのだろう? ドゥ・ディムーザンの屋敷に来て俺たちの主人と会ってもらおうか。あるいは、謝罪を求めていると受け取ってもらっても構わん。マリー=ルイーズ様の愛鳥を死なせたことに責任を感じているなら、な」
アモローソの目が曇る。間髪入れずに反論したのはジークフリートだった。
「ピッチのことで、姫殿下が責められなきゃなんねえ理由なんて、ひとつもない! 落ち込んでる姫殿下の優しさにつけこむんじゃねえ!」
長椅子から飛び起きたジークフリートは、アモローソの前に立ちはだかる。椅子に座ったまま彼らを見上げていたカルミノは、あきれ顔でふっとため息を漏らした。
「そうだな、謝罪を求めるというのが気に食わないなら、言い直してやろう。そのお姫様には、ピノが死んだ経緯について説明する責任がある。これならどうだ」
「ハッ、言葉遊びかよ!」
ジークフリートが吐き捨てると重苦しい沈黙が蘇ってきたが、口を開いたのはやはりロサだった。
「あんた、大やけどのわりにピンピンしてるのね。それだけ元気なら、クーデンに行けるんじゃないの?」
「ちょっと! さっき言ったでしょ、まだ出歩くのは無理だって」
アミュウは慌てて口を挟んだが、ジークフリートは「いや」とかぶりを振った。
「やっぱり俺が行くよ。塗り薬をわけてくれたら大丈夫。ガーゼだって自分で交換できるからさ」
「大丈夫とかそういう問題じゃなくて、また細菌感染でも起こしたら……」
「情報がないと、身動きもとれねえだろ。クーデンの言葉が分かるのは、この中じゃ俺だけだ。俺しかいねえんだ、クーデンを探れるのは」
困ったアミュウは、加勢してくれないかと期待して、アモローソへ視線を送った。しかし彼女の意図するところはアミュウの期待とは正反対だった。
「わたくしからもお願いよ、アミュウ。ジークなら、きっと大丈夫。わたくしも一緒に行くわ」
「えぇっ!? 流石にそれは」
「姫将軍がクーデンに乗り込むのか? 寝言は寝て言え」
アミュウが泡を食い、カルミノが一蹴する。ロサも呆れ顔だ。
「あのねお姫様、あんたが動いたらロクなことにならないの。そんなにじっとしてられないなら、あたしと一緒にラ・ブリーズドランジェへ来ることね」
途端にアモローソの表情が硬くなる。アミュウが口を開きかける前に、ロサは続けた。
「『自分が代わりに行く』なんて言わないでよ。あの赤毛の坊やが山を下りるなら、傷心のお姫様の世話役はあんたしかいないでしょ」
アミュウはぐっと言葉に詰まった。ジークフリートが不在となるなら、アモローソをひとりにはしておけないのはロサの言うとおりだが、アミュウの考えは微妙に異なっていた。アモローソが、隙を見てまた聖輝を害しないとも限らないのだ。
「もちろん、ミカグラの坊やだって、顔を見られたらおしまいよ」
「承知してますとも」
壁に寄りかかったまま会話の流れを静観していた聖輝が頷く。ロサはそのまま、部屋の隅でおとなしく座りこんでいるアルフォンスへと顔を向ける。
「ついでにセンセイ、あんたもここを出ちゃダメよ」
突然に呼ばれたアルフォンスは目を丸くして顔をあげた。
「え? 僕?」
するとカルミノが立ち上がり、足音を立ててアルフォンスの前へと詰め寄っていく。狼狽するアルフォンスを傾いだ姿勢で見上げ、ひときわ低い声で凄んだ。
「お前以外にあるか。ソンブルイユ軍のお前が、どうしてのこのこ俺たちについてくる? 理由があるんだろうが? あァ?」






