9-4.青い実と青い鳥
ぼろぼろのカーテンの向こうはすっかり明るくなっていた。床に転がっていたアミュウが身体を起こすと、同じ毛布にくるまっていたアモローソを起こしてしまった。「ごめん」と謝ったアミュウの言葉がよく分かっていない様子のアモローソを見て、アミュウはもしやと青くなった。再び言葉が通じなくなっているのだ。
長椅子ではジークフリートが寝息を立て、聖輝も床に伸びたままだった。ロサとカルミノの姿は見当たらない。もう起きているのだろう。
(アル先生もいないわ)
言葉が通じなくなってから、アルフォンスの口数が極端に少なくなったように思われる。なんとなく心配になって扉を見ていると、ヤマガラのさえずりが聞こえてきて、アモローソがびくりと身体を震わせた。
「えっと……アル先生を、探してくるわね」
身振り手振りをまじえて外へ出る意を告げる。うまく伝わったかどうか分からないが、アモローソはこくりと頷いて、抱えた膝に顔をうずめた。動きたくないらしい。気持ちの整理ができないのも当然だと、アミュウは納得する。怪我をしているとはいえ、部屋にはジークフリートがいる。聖輝もいる。アミュウはひとりで小屋の外へ出た。
清々しい山の朝の空気を吸ってから改めて小屋を見ると、明るい日差しのもとで露わになった屋根も壁もみすぼらしく、まるで廃屋のようだった。こんな場所で一夜を明かしたというのが信じられないほどのボロ小屋だ。雑魚寝で痛む背中を叩きながら、アミュウはどの方向へ行ったらよいものか考えた。昨日、アルフォンスはロサと一緒に水汲みに行った。もしかしたら、水場で顔でも洗っているのかもしれない。
あのときは、二人が帰ってくるまでにそれほど時間はかからなかった。ロウランドの町の中に井戸があるのだろうかと考え、集落のほうへ一歩踏み出してから、アミュウは足を止めた。ロウランドの言葉の分からないアルフォンスが、わざわざ町へ行くことはないだろう。仮にもソンブルイユ軍に籍を置いていた彼の正体が知れたら、ちょっとした騒ぎになるかもしれない。
アミュウは昨晩歩いた古城への道を歩きはじめた。暗い夜には気づかなかったが、下草の生えていない、獣道のような脇道がある。木の根に躓きながら分け入ると、次第にシダ類が姿を現し、かすかな水音が聞こえてきた。
がさりと音がして、見ればリュウノヒゲの細い葉先が小刻みに揺れている。葉陰の奥に小鳥の気配を感じて、アミュウはじっと様子をうかがった。葉擦れの音がいっそう大きくなったかと思うと小さな影が飛び出し、木々の奥へ飛んでいった。水音はそちらから聞こえてくる。糸を吐いて垂れ下がってくる芋虫をよけて歩いていくと、猫の額ほどの空間がぽっかりと開き、沢の水が小さな池になって溜まっていた。
水辺に突き出した小枝に、まだ青に染まりきっていない若いルリビタキが留まっていて、リュウノヒゲの青い実を咥えていた。
(青い実を食べたら青くなるのかしら)
アミュウはじっとその場にとどまって小鳥を眺めていた。なぜか目が離せない。心臓を鷲掴みにされているような苦しさがせりあがってくる。小鳥は右に左に小首を傾げ、木の実を丸のみすると、ぶるりと身体を震わせて、またどこかへ飛び去ってしまった。
「アミュウ」
思いがけず低い位置から声をかけられ、驚いて振り向く。いつからそこにいたのか、アルフォンスが木の根に腰を下ろしていた。昨日と同じ、聖輝から借りたダボダボのシャツと裾折りのトラウザー姿だ。木の根は苔で覆われていたが、汚れを気にする様子はまったくない。
「……どうしたの?」
まるで先ほど見かけたルリビタキそっくりの仕草で、アルフォンスが首を傾げた。訝しげに眉を寄せているが、ソンブルイユの工房にいたときから全く変わらない、優しい表情だ。
アミュウははじめて自分が泣いていることに気付いた。何があったわけでもないのに、勝手に涙が出ていたのだ。慌てて手の甲で目をこすっていると、アルフォンスは少しだけ移動して場所を作り、隣をポンポンと叩いた。ここに座れということらしい。木の根は湿った苔に覆われ、アルフォンスの尻で潰れていた。
「いえ、汚れますから。っていうか、聖輝さんのでしょう」
「あとでちゃんと洗うから大丈夫。ほら、座って座って」
アミュウは立ったまま肩を落とし、深くため息をついた。
「言葉が通じてても、先生のことは理解できそうにありません」
「いや、アミュウは僕のことを充分に理解してくれていると思うよ」
アルフォンスは自らの膝に肘をのせて頬杖をついた。目を細めてこちらを見ているが、その目尻には皺が寄り、皮膚はかさついていた。アミュウがソンブルイユで過ごした日々は、ほんの数年前だ。短いともいえないが、まだ三十代の彼が老け込むには早すぎる。
「ちっとも分かりませんよ。どうして先生が……」
ソンブルイユ軍に入隊しているのか。その先を問うことは、アミュウにはできなかった。何しろ、あれだけおしゃべり好きだったアルフォンスが、昨日からほとんど口を開いていないのだ。初対面の相手だらけの集団にいるからだけではない、口が重くなってしまうような何かを、彼はきっと抱えている。
尻切れトンボとなったアミュウの言葉は、アルフォンスには、浮世離れした師匠をもつ弟子のぼやきや愚痴のたぐいに聞こえたのかもしれない。苦笑いを浮かべて、うんと一つ大きく伸びた。
「まあ、色々あったから疲れたよね。アミュウは頑張り屋さんだもの……でも、ちょっと安心した」
「え?」
アミュウは驚いて、背中を反らせるアルフォンスを見下ろす。伸ばした背中や肩回りが痛むのか、アルフォンスは無精ひげだらけの顔をくしゃくしゃにして言う。
「だって、泣けるってことでしょ。人って、ほんとにギリギリのときはには泣くこともできなくなっちゃうけどさ。きっと、泣けるくらい安心できているのかな。人に恵まれたんだね」
面食らったアミュウは目をしばたたかせてから頷いた。
「安心してるわけではないけど……そうですね。恵まれてるんだと思います」
アルフォンスは立ち上がって尻の汚れを払うと、身体を左右にねじった。ストレッチのつもりらしい。腕を振り回しながらアミュウに問いかける。
「ねぇ、アミュウは今朝、ぼくら以外の言葉がわかった?」
「いえ、ナターシャとうまく話せなくなってました」
「やっぱりそうか。僕も、お姉さんと、あのおっかないおじさんの話が聞き取れなくなっちゃって」
アルフォンスは木陰に隠れていたバケツを拾い上げて、沢の水を汲んだ。しゃがみこんだ師の背中を見下ろしながら、アミュウは胸にもやもやとした不安が広がっていくのを感じた。話せるようになったかと思えば、すぐに話せなくなってしまった。また話せるときがくるのか、あるいは昨晩が最後の機会だったのか、分からないのが不安で仕方ない。
「昨日の朝からだよね、いきなり言葉が分からなくなっちゃったのは」
アルフォンスはバケツに入り込んだ水草をつまんでは、ぺしぺしと沢へ放り込んでいく。アミュウもしゃがみ込んで、バケツの水に浮かぶ虫の死骸をつまみだしながらつぶやいた。
「確か、六時半とか七時とか、そのくらいだったような」
「あれ? 時計なんて持ってるの?」
アルフォンスが意外そうな声をあげる。アミュウは小さく首を横に振った。
「なんとなく、日の上り具合でそう思っただけですよ」
アルフォンスははたと手を止めて、じっと水面を見つめて黙り込んだ。急に動きを止めた師を横目に、アミュウはバケツの底に沈んだ小石を捨てていく。なにかを思いついたとき、アルフォンスはこうしてぷっつりと糸が切れたように動かなくなる。バケツの水からゴミをすっかり取り除いてしまうと、アミュウは立ちあがり、アルフォンスを真似て体操を始めた。
「今は八時すぎってところでしょうかねぇ」
林冠を透かして届く日の光の角度から、アミュウは現在時刻を予想した。アルフォンスはなおもだまっていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「お姉さんたちの会話が聞き取れなくなったのは、一時間くらい前だった。それまで二人の話が聞こえてたのに、いきなり分からなくなったんだ。昨日みたいに。盗み聞きしたわけじゃないよ」
「あら。先生、いつのまにか早起きができるようになったんですね」
「いや、まぁ……うん。そうだね」
アルフォンスは苦笑いを浮かべ「かなわないなぁ」と言ってから、黙り込んでしまった。また思索にふけっているようだ。
もしかして、朝に言葉が通じなくなり、夜にはまた話せるようになるのだろうか。きっと、アルフォンスも同じことを思いついているのだろう。師と一緒になって考え込んでいたアミュウの思考は、だんだんと本筋からそれていった。
ピッチが死んだとき、ロサは泣いていたが、アモローソはどうだっただろうか。彼女はあのあと、涙のひとつも見せていなかったように思う。彼女こそ、泣くに泣けない状態なのではないだろうか。
おぼろな月明りの下でアモローソが歌っていたのは――
思い出そうとするアミュウの頭の隅で、何かがぱちんと音を立ててはじけた。
歌うアモローソを見つけたのは、夜中の二時頃だったと思う。なぜ時刻が分かるかと言えば、おぼろ月が南の空に見えていたからだ。今ごろの南中時刻は夜半をしばらく過ぎた頃だと、魔女としての経験が無意識のうちに判断材料になっていた。
では、昨日の朝、みんなの言葉が突然分からなくなったときはどうだっただろうか。アミュウは飛行機を見つけ、指さした。同時に、西の海に沈んでいく月を見ていた。日の上り具合だけでなく、月の沈むのを見て、時刻を判断していたのだ。
「……月の入りのころに、話せなくなった?」
「うん?」
思わずこぼれ落ちたアミュウの独り言にアルフォンスが反応し、顔を上げる。
「昨日の月の入りは七時前、今朝の月の入りは七時半頃でした」
アルフォンスの目がみるみるうちに丸くなっていく。まるで猫のようだ。
「――それだ! 月が沈むと話せなくなって、月がのぼるとまた話せるようになる!」
彼は早口でまくし立てると、踵をかえして獣道を引き返そうとして、またくるりと振り向いた。
「ああ、でもまだそうと決まったわけじゃない」
そうして行ったり来たりしているうちにバケツを蹴り倒し、せっかくゴミを取り除いてきれいになった水があたりに飛び散る。聖輝から借りたトラウザーの裾が濡れて、アルフォンスは「うひゃあ」と飛び上がった。
慌てるアルフォンスを後目に、アミュウは震える手で沢に浮かぶバケツを手繰り寄せる。バランスを崩して、水底に手をついてしまった。しぶきで袖を濡らしながら、その冷たさをアミュウは噛み締める。外界が現実味を失っていく中で、沢の水の冷たさだけは、奇妙にアミュウの肌を刺してくるのだった。






