9-3.言葉の壁
山道を浸食するように草が萌え出ていたが、月明かりがおぼろに広がり、躓く危険はない。景色を眺めながら歩けば、あっという間に古城に着いた。
斜面に忽然と現れたステージのような台地に、崩れかけた城が眠る。城は山肌の木々に埋もれていて、山の一部と化していた。瓦は落ち、尖塔は倒れている。焼けた石壁の煤は長年の風雨に洗われ、かえって白っぽくなって、月明かりのもとに白骨のような肌をさらしていた。
よく見れば自然に生じた台地ではなく、木々を切り開き斜面を削って人工的に造られた土地なのだと分かった。一体、この台地を造成し築城するのにどれだけの手間がかかったのだろうか。そしてその労力の結晶は、朽ち果てた遺骸と成り果てていた。あの革命の混乱の中、どれだけの人が倒れ、炎に飲まれたのかを思えば、骨の城という印象は案外本質を突いているのかもしれない。この荒城に、アモローソの夢に見たかつての栄華の影はかけらも残っていない。
ふと風向きが変わり、女の声が耳に届いた気がした。正面からの風だ。額に張り付く髪を振り分けて進むと、声は旋律を伴ってだんだんとしっかり聞こえるようになった。
かばねの梢を通る風、一陣
花さそい かなたへ行ってしまった
山そわのしじま
夜は深々と ふるえもせず
動かない
届かない 手を伸ばす、ふれたくて
ありし日の夢 今朝のさえずり
進みもしない 夜に浮かぶ
白い虹は 煙と消えて、
てのひらに残ったのは
白い骨
白い燃えさし
聞き覚えのある節回しに、鼓動が早まっていく。思わず足が速まり、静寂に足音が響くと、歌声はやんでしまった。
がさりとしげみを抜けたところで、古城の崩れた石塀に腰掛けるアモローソと目が合った。ロサから借りた服では寒いのか、ショールを羽織っている。いつか、ツァイラー亭で見たときにまとっていた藤色のショールだ。風がショールと、アモローソの深い夜色の髪を巻き上げて吹き抜けた。同じ風がアミュウの金の巻き髪をさらっていく。風は崩れた城の灰塵を含んで、ざらついていた。
星がまたたくようにかすかにアモローソの口が開き、また閉じた。しばらく待ってみても、アモローソは再び話そうとしない。アミュウは遠慮がちに確認した。
「今の、ナターシャが歌ってたの?」
アモローソが息を呑む音がはっきりと聞こえた。驚愕の表情を浮かべるアモローソを眺めるうち、アミュウにもだんだんとその意味が分かってきた。アモローソに、アミュウの質問の意図が伝わったのだ。彼女は見開いていた目をいぶかしげに細めて、アミュウに訊ねた。
「どんな魔法を使ったの?」
今度はアミュウが驚く番だった。アモローソの言葉が一語一語、はっきりとした意味を伴って聞こえてくる。二人は長いこと顔を見合わせていた。古城の塵が流れて、おぼろ月の明かりを浴び、また闇に紛れていった。
アモローソと小屋に戻ってみると、奇妙なことに、全員の言葉が通じるようになっていた。月の上り具合からみるに、時刻は夜半を回り、午前一時は過ぎていただろう。
「いったい、どういうこと? 話せたり、話せなくなったり」
アミュウが首を傾げていると、聖輝がため息交じりに口を開いた。
「今朝も言ったとおり、共通化された言語概念が崩れはじめているんですよ」
「それって、神サマがこの新世界をつくったときに、旧世界の言語を統一したっておとぎ話のことか?」
ジークフリートの質問に聖輝はゆっくりと頷く。
「おとぎ話ではありませんが、まあ、そういうことです。創世記では男神と女神がこの世界を生み出したとされていますが、できあがったのは不完全な大地でした。そのひずみが、大型獣の出現だったり、世情の不安定化だったり、色んなところに現れているわけですが……まさかこういう風になるとは。今までになかった現象だと思います」
聖輝の説明を受け、頬杖をついていたロサがふと顔を上げた。四大元素のバランスが崩れて頭痛がするのか、しきりにこめかみを捏ねている。
「つまり、今はこうしてしゃべっていられるけど、また言葉が分からなくなるかもしれないっていうこと?」
「その可能性は充分にあります。さらに言ってしまえば、世界の崩壊の予兆と考えるべきかもしれませんね」
聖輝は慎重に頷いてみせた。「最悪」と呟いて、ロサはテーブルに突っ伏した。
「世界の崩壊とか、いきなり言われてもねぇ……っていうか、なんであたしはカルミノとしか話せないの? あんたたちはあんたたちで、話せてたみたいだけど」
腕の隙間からじとりと睨めつけてくるロサの視線がアミュウたちを這う。その問いに答えたのはロサの背後にいたカルミノだった。
「故郷の言葉が同じだからだろうよ。俺はロウランド、お前はブリランテ。ロウランドの流れを汲む、同じ言葉を話す同じ文化を持つ地域同士だ」
「それなら、アミュウはどうなのよ? 坊やとセンセイは同じソンブルイユ出身だから話が通じるんでしょ、それは分かる。でも、アミュウの出はカーター・タウンじゃない」
ロサの指摘に、思わずアミュウはアモローソと顔を見合わせた。アモローソは、ロウランド地域のロサやカルミノの言葉が分からない様子だった。つまり、アモローソとして過ごしたときの言葉ではなく、ナタリアとして過ごしたカーター・タウンの言葉を身に付けているのだろう。それなら、家族であるアミュウと会話できそうなものだが、ふたりの言葉は通じなかったのだ。
アルフォンスがなにかを言おうとして、口を閉ざした。今晩、アルフォンスはほとんど口をきいていない。アミュウがアルフォンスの様子を伺っていたのを、アモローソはじっと見つめていた。
「つまり、アミュウのふるさとはソンブルイユだっていうこと?」
アモローソが、声を震わせて呟くと、アミュウは無言で頷いた。
薄々と勘付いていた。ブリランテ教会でのアニータとのやりとりから、アミエルという名前を思い出した際、その名の由来が大天使ハニエルであると知った。Hを発音しないのは、ソンブルイユ地方の言葉の特徴だ。
まだ赤ん坊のアミュウを森に置いていった両親がいる。
そう思うと、もっと怒りがわいてきそうなものだが、あのブリランテ教会での不思議な一件以来、親を憎む気持ちは胸のどこを探しても見当たらない。ただ、自分がどこにいたのかが分からない所在なさは常に感じている。アモローソとしての記憶を失っていたあいだのナタリアも、同じ不安を抱えていたのだろうか。
カルミノが苛立たしげにつま先でコツコツと床を鳴らすのを見て、アミュウは言った。
「多分そういうことなんだと思うけど、いま話しあうべきなのは、私がどこで生まれたかについてではないわ」
「その通り。今後の動き方について確認するべきだ」
カルミノが大きく頷き、ロサも「そうね」と相槌を打つ。アモローソはもの言いたげに身じろぎしたが、黙っていた。
「夕方に町の様子をざっと見たが、よそから来た連中は、ロウランド育ちのやつらと会話ができなくなったみたいで、ちょっとした騒ぎになっていた。このクソみたいな状況は、俺たちだけの不幸ではないらしいな」
カルミノが手のひらを天井に向けて首をすくめると、ジークフリートが首を傾げた。
「そういや、ほかの町はどうなってんだ? やっぱり言葉が通じなくなってるのかな」
素朴な疑問の声に、一同は黙り込んでしまった。言葉が通じなければ、町と町のつながりは断絶される。人の行き来も、カネやモノの流通も、ままならなくなるだろう。世界が崩壊するよりも先に、社会が崩壊してしまう。
「世界の崩壊ねぇ……主公さまはご存じだったのかしら」
左右のこめかみを押さえながらロサが訊ねると、カルミノは「さあな」とだけ言った。ロサは気だるそうに頭を振って呟く。
「きっと、ご存じだったから運命の女を――」
「おい」
ギラリと鋭い目でカルミノがロサを睨みつける。アミュウは、居心地悪そうに二の腕を抱くアモローソをそっと見守った。ロサは口を噤み、姿勢を正して言い直した。
「主公さまのお考えはあたしには分からない。けど、ピノのことはお嬢様に伝えないと。もしもまた話せなくなるのなら、その前に、できるだけ早く。あたしたちの言葉が、ラ・ブリーズ・ドランジェ育ちのお嬢様に通じるうちに」
ロサはじっとアモローソに視線を送る。アモローソは、運命の女と言われたときよりもずっと決まり悪そうにしていた。何も言えずにいる彼女をかばうように、アミュウは言った。
「これからどう動くかも大切だけど、もっと大事なのは、休むことだと思うの。身体も心も万全な状態にならないと、良い考えなんて浮かばないわ」
「ああ、アミュウの言うとおりだ」
いま、最も怪我の程度の深いジークフリートが同意すると、ロサもそれ以上はアモローソを追及できないようだった。四大元素のバランスが崩れた影響を強く受けているロサ自身も、疲労の度合いは大きいはずなのだ。
話し合いはそれきりになって、皆ふたたび眠りについた。眠れないだろうと思っていたが、アミュウは気絶するように眠りに落ちていった。
しかし、夜が明けて、日が高くなってから目が覚めると、再びアミュウの耳にロサやカルミノ、アモローソ、そしてジークフリートの言葉の意味は届かなくなっていた。






