8-30.月かたぶきぬ
木立の根もとに、なにか灰色の塊がぶすぶすとくすぶっている。その正体を確かめるのが怖くて、直視できない。
もっと奥の方の木立からうめき声が聞こえて、アミュウは逃げるようにそちらに目を向けた。若木の幹をへし折って、アモローソが倒れていた。駆け寄ろうとすると、後ろのほうで倒れていたはずのジークフリートが叫んだ。
「やれ! 聖輝!!」
はっとして振り返ると、ジークフリートが仰向けになって、フェルナンを羽交い絞めにしていた。フェルナンを自らの腹の上に乗せ、背中側から両脚を巻き付けるようにして下肢の動きを封じながら、肘で首を絞めにかかっている。ワイン瓶は地面に転がっていて、フェルナンが手足をばたつかせてもなかなか届かない。
穴だらけの草原を走ってきた聖輝が、ナイフを振りかぶっていた。あっと思う間もなく、聖輝は体重を乗せてフェルナンの鳩尾に刃を突き立てる。
なぜか、夢で覗き見たアモローソのアカシアの記録がアミュウの脳裏によみがえってきた。あのとき小柄を突き立てていたのはアモローソで、御神楽卿は腹を突かれていた側だった。啓は刃の向きがどうのこうのとアモローソに指南していたが、聖輝はまったく慣れていない様子で、馬乗りになって何度も何度もナイフに体重をかけていた。その表情はアミュウのいる場所から見えなかったが、ナイフが聖輝が普段林檎を剥くのに使っているものらしいというのは分かった。
フェルナンの動きが鈍ってきたところで、ジークフリートが何か聖輝に言ったようだ。聖輝はナイフから手をはなし、代わりにフェルナンの腕を抑えこんだ。ぐったりとしたフェルナンの身体の下からジークフリートが半身だけ抜け出して、傍らに転がっていた自らの剣で首を掻き切る。血が噴き出すのを、アミュウは呆然として見ていた。
聖輝が立ち上がり、振り向きざまにアミュウに訊ねる。
「アモローソ王女は!?」
はっとしたアミュウが林の奥を振り返ると、アモローソが頭を押さえて身体を起こすところだった。駆け寄って助け起こし、そっと訊ねる。
「無事……なの……?」
アモローソはぼんやりとした顔でアミュウを見てから、左右に首を振り、うわ言のように呟く。
「シグルドは」
「聖輝さんがついてる。ねぇ、大丈夫なの?」
再びアミュウが問いかけると、アモローソは自らの肩や背中にぺたぺたと手を当ててから答えた。
「大丈夫よ……さっき、何か、影が過ぎって」
そのとき、耳をつんざくような悲鳴がすぐそばから聞こえてきた。後からやってきたロサが、先ほどの木立の根もとに手と膝をついている。アミュウはアモローソを支えたまま声をかけた。
「どうしたの!?」
ロサは返事をせず、声にならない声を漏らしていた。下を向いていてその表情を窺い知ることはできないが、とめどなくわき出す嗚咽、そして肩の震え、どれをとっても、今まで見たことのない取り乱しようだった。
アミュウは困惑して聖輝たちの方を見た。聖輝はジークフリートの火傷に聖水をかけながら、こちらの様子を窺っている。すこし離れたところでは、アルフォンスが所在なさげに立っていた。ロサについてくれたらいいのに、とアミュウは苛立った。師は混乱した状況が呑み込めず、身の振り方が分からないらしい。
アミュウの手がふっと軽くなった。アモローソが背中を離し、自力で座位をとったのだった。彼女がしっかりと座っているのを確認したアミュウは、ロサに近付いた。
近付いてみて気付いた。ロサは、アミュウが先刻目をそらしたものに覆いかぶさるようにして、地面に手をついているのだ。ロサの背中に隠れて、その全貌は見えなかったが、鱗におおわれた灰色の趾が見えた。前向きに二本、後ろ向きに二本。そして脚には、銀の環飾り。
その足を、アミュウはよく知っていた。名前を呼べば肩や腕へとやってきて、どこか微妙に間の抜けたおしゃべりを披露してくれた。その足は驚くほど上手にものを掴む。椅子やベッドのヘッドボードから下りるとき、羽ばたけば飛べるものを、こわごわと慎重に足や嘴を使って棒をつたい下りてきた。聖輝のことは苦手らしかったが、聖輝の持っている林檎は大好きで、よくおねだりしていた。
(でも、いちばん好きなのは、間違いなくナターシャだった)
ロサの嗚咽の合間から、ピッちゃん、ピッちゃんと漏れ聞こえてくる。
よく「ピッチャン、かわイー!」と言っていた。その言葉を聞けば、元の飼い主からどれだけ愛されていたか、すぐに分かった。だからナタリアは、その子をピッチと名付けたのだった。
たまらずアミュウはアモローソを振り返った。折れた木の根もとに座ったまま、ぽかんとした表情でこちらを見ている。彼女の顔から、彼女をアモローソとして形作っているあらゆるものが抜け落ちていた。王女の気品、憂い、覚悟を決めた者だけがもつ強さ――そういったものが全て抜け落ちたあとに残った顔は、どことなくナタリアに似ていた。桑の実のような紫の目から見てとれるのは、ただただ驚いているということだけ。当惑も悲しみもまだ生まれていない、目の前の出来事を理解する前の、子どものように純粋な表情をしていた。
ジークフリートの手当てを終えた聖輝が、ゆっくりとこちらに近付いてきた。小さな遺骸を抱え込むように地面に丸まっているロサを一瞥し、アミュウを通り過ぎて、座ったままのアモローソの前に立つ。そうしてはじめてアモローソが戸惑う素振りを見せた。
聖輝はアモローソを見下ろし、震える声で言った。
「まだ分からないのですか。ピッチのことが」
「どうしてここにいるのですか……」
アモローソはかすれた声で訊ねた。
「あなたを追って来たに決まっているじゃないですか!」
怒りを抑えきれないといった調子で、聖輝は声を荒らげる。アモローソの表情に、困惑の色が深まった。アミュウも同感だった。なぜここまで聖輝がアモローソを責めるのか、腑に落ちない。ピッチは聖輝になついていなかったし、聖輝のほうもピッチに深い関心を寄せていたようには見えない。確かにアミュウだって、あれほど可愛がっていたピッチを置いてクーデンのツァイラー亭を去ったアモローソに対して、何も思わないわけではない。ただ、その場面に居合わせていなかった聖輝が、どうしてこうもアモローソに怒りをぶつけるのか、違和感があった。
「ピッチは……あの鳥は」
聖輝の背中は、声と同様に震えているように見えた。そういえば、全身を覆っていたマントが見当たらない。ちらりと振り返れば、フェルナンの死体のあたりに黒いかたまりが落ちている。返り血を浴びて脱ぎ捨てたのかもしれない。アルフォンスがジークフリートに肩を貸して、こちらへやってくるのが見えた。
アミュウが聖輝から意識をそらしている間に、聖輝は震えを止めたらしい。低く冷静な、しかし相変わらず怒気を含んだ声で、アモローソを糾弾し続ける。
「あなたがナタリア・カーターとして月から光の家に下りてきたのは、偶然ではありませんよね。街道の最果て、治安の悪い西部とは遠く離れた平和な町、カーター・タウン。ちょうど、私が暮らしていたソンブルイユからもそれなりの距離がありましたね。経済的に余裕のある町長の一人娘。そういう条件があったからこそ、ナタリア・カーターとして今生を生きようと考えたんですよね」
アミュウの位置から聖輝の表情を窺うことはできないが、アモローソがはっと息をのむのは視界に入った。
「必ず御神楽の血筋に生まれる精霊の申し子とは違って、運命の女は毎度生まれ変わる先が変わる。二人の魔術師の確執の中を生き延びるには、無防備な赤ん坊時代をやり過ごし、少しでも安全な環境で過ごさなくてはならない。だから、運命の女の魂は、最初から生まれ直すのではなく、既に生まれた子どもの体に入りこむそうですね。姉がそう言っていました」
「――まさか」
アモローソは口元に手を当て、驚きわなないていたが、アミュウは理解が追いつかず、聖輝の話を聞くだけでいっぱいだった。ジークフリートたちは、ロサのすぐ近くまでやって来ていた。聖輝の声は低く小さかったから、三人にどこまで彼の話が聞こえているか分からない。
「あなたは、ナタリア・カーターという娘の環境に目をつけた。そして、まだ幼い彼女の体に入り込んだ。そして、ナタリア・カーターとして本来生きるはずだった少女の魂は、月へと還っていった」
「彼女が、ピッチだっていうの!? そんな、あの子が畜生道に堕ちるはずが」
「ええ、通常なら人の魂は人の体に宿ります。そして輪廻転生を果たすには、充分に魂を休めなければなりません。恐らく、少なくとも数十年は休養が必要だ。けれども幼いナタリア・カーターの魂は、その時間を待つよりも、鳥の体に宿ることを選んだのです」
アモローソの顔から、見る間に血の気が引いていく。もともと白い顔をさらに白くさせて、アモローソは震えていた。
「まさか……どうして」
「ある日突然に奪われた自分の体が恋しくなったのかもしれませんね。だから、彼女はピッチとなって自分のもといた身体を探し、そしてカーター・タウンまでやってきた」
ジークフリートがアミュウの脇を過ぎて、よろめきながら聖輝の背後へと近づいていくが、聖輝の糾弾はやまない。
「ピッチがあなたになついたのは、あなたが、もとの自分が成長した身体を持っていたからだ。しかし、あなたはナタリア・カーターの姿を捨ててしまった……ピッチは、アミュウさんがもとのナタリアさんを探しているのが分かっていたのでしょうね。だからアミュウさんを頼ったんです、でも私たちがブリランテ教会から戻れなくなって、それで」
アミュウはぎゅっと目を瞑る。それで、ピッチは噴水亭から逃げ出したのだ。しかし、ピッチは銀の足環を身に着けたままだったから、ロサがその気になれば、追いかけることもできたはずだ。アミュウが訊ねたときは答えてくれなかったが、あれだけピッチを可愛がっていたロサのことだ。ピッチの居場所を把握していたのではないだろうか。
目を開けて振り向くと、ロサはうずくまったまましゃくりあげていたが、もう声は漏れ出ていない。こちらの会話に耳を傾けているのかもしれない。アルフォンスが恐る恐る彼女にガーゼ綿を差し出していた。
「それでピッチは、自分の身体を守るために」
「そこまでにしてくれ、聖輝」
たがの外れた桶の側板のように浴びせかけられる聖輝の批判を止めたのは、ジークフリートだった。聖輝の肩を掴んだジークフリートは、静かに繰り返した。
「やめてくれ……それ以上は」
聖輝のジャケットの布地にジークフリートの指が食いこみ、その谷間に、萌え出た新芽の枝をすり抜けてきたぼんやりとした光が影を作り出していた。あたりはすっかり明るくなっていて、林の入口に、時折ロサが洟をすする音が響く。常ならば小鳥のさえずりが聞こえる時間帯だが、今は静まりかえっていた。鳥たちはどこへ行ったのだろうか。
押し黙った聖輝から手を離し、ジークフリートは色を失って震え続けるアモローソに近付いた。膝を折ってそっと両肩に手を添えると、アモローソはゆっくりと彼の胸に顔をうずめた。ジークフリートの焼け焦げたマントから、王女の頭だけが覗いている。騎士の腕に包まれた彼女は、もう王女には見えなかった。結い上げられたアモローソの髪からほつれた幾筋かが、空中にふわふわと浮き上がって、朝の光を集めていた。
どれだけそうしていたか分からない。日がすっかり上り、戦の跡を色鮮やかに染め上げていく。ロサの傍らにしゃがみ込んでいたアルフォンスが不意に立ち上がって言った。
「誰か来るみたいだ」
顔を上げたのはロサだった。懐から手巾を取り出して自分の顔に押し当てたあと、足元に眠る小さな遺骸にふわりとかぶせかけて立ち上がる。
「あんたたちは、ここから動かないで」
「一緒に行きましょう」
聖輝の申し出に、ロサは頭を振った。
「自分がお尋ね者なのを忘れてるの?」
「なら、私が行くわ」
アミュウが小さく手を挙げる。ロサはしばらくアミュウの顔を見てから頷いた。
「まあ、いいわ。来なさい」
ロサと連れ立って林から抜け出し、街道の方へ戻っていくと、道沿いを小隊がブリランテ方面に歩いていくのが見えた。ブリランテの赤い旗に、十字の紋章が燦然と輝く。ブリランテ教会の連中だ。
アミュウとロサは、リゼットが草原に穿った穴のひとつに身を潜める。アミュウは目を凝らして言った。
「ジュリアーニ卿の隊だわ」
「教会の坊やか、しぶといわね」
ラファエロたちは、あちこち周囲を見回しながら通り過ぎていった。生き残った者を探しているらしい。そして恐らく、姫将軍やドメニコを捜索しているのだろう。彼らの後ろ姿が遠く丘の向こうに沈んでから、アミュウたちは林へと引き返した。
「ブリランテへは戻らない方がよさそうね」
ロサの目元は赤く、化粧が流れていたが、態度はつい先刻まで号泣していたとは思えないほど冷静だった。アミュウはこくりと頷いた。あの状態のアモローソに、ふたたび姫将軍としての振る舞いを求めることはできないだろう。ジュリアーニ卿が聖輝をどう処遇するかも不透明なままだ。
先行きが見えないまま林に戻ると、そこに集まっている頭数がひとり増えていた。
「無様だな。焼きが回ったか」
カルミノが憎まれ口をたたいているのだ。
「まあね。誰かさんが手伝ってくれなかったお陰で、すっからからんだわ」
軽口を返したロサが、カルミノの足元から鞄のひとつを持ち上げる。よく見れば、アミュウたちの鞄もあった。そよ風荘の荷物を引き上げてくれたらしい。礼を言おうとしたとき、アミュウの耳に小鳥のさえずりが届いた。逃げた鳥たちが林に戻ってきたのだろうか。
鳥の姿を探し、アミュウは空を見上げる。すると、天の高いところを白いものが動いているのが見えた。しかし鳥のような動きではなく、もっと静かに、均一な速度で空を滑っている。
よく見ようとして、アミュウは林を出た。鳥のさえずりだけでなく、耳の底を低く唸るような轟音も聞こえてきた。
空を滑空しているのは、鳥ではなかった。もっと人工的な、金属のかたまりだ。ロサがアミュウにつられて空を見上げた。
「ねえ、何あれ」
春の朝のぼやけたような空に白いかたまりが浮かんでいる。吹き飛ばされていった層雲から離れていくものを見て、アミュウの脳裏に懐かしい景色が浮かんだ。
アミュウは、確かにあれを見たことがある。まだ歩くこともおぼつかないくらい小さなころ、母に抱かれて、空を見上げたことがあった。教えてもらったその名は、確か――
「Voilà l'avion(飛行機よ)!」
アミュウが記憶の底から掬いあげた名詞は、口から知らない響きとなってこぼれ落ちていった。
「Come?」
すぐそばに立っていたロサがぎょっとした顔でアミュウを見てなにか言ったが、その意味をアミュウは捉えられなかった。
不審に思ったのか、アルフォンスがやってきた。
「どうしたの?」
「先生、あそこを見て。L’avion が飛んでるんです」
「ん? なんだって? アビヨン……? え?」
アミュウの指さす空飛ぶ物体を見たアルフォンスが目を白黒させる。聖輝もやってきて、驚愕の色を浮かべた。
「あれは……! いや、そんなはずが」
ジークフリートとアモローソが、互いに支え合いながらやってきた。
「Was ist los?」
「What’re you talking about?」
口々に言うが、彼らの言葉がアミュウに通じない。アミュウは聖輝を見た。
「みんな、どうしちゃったの……?」
「アミュウさん、私の言っていることが分かりますか?」
「え、ええ」
聖輝の問いかけに戸惑いながらアミュウが頷く。
「どうしよう、アミュウとお兄さんの言葉しか聞き取れないよ」
アルフォンスもしどろもどろに言った。その合間にも、ジークフリートやアモローソが何か言っているが、何が言いたいのかがさっぱりわからない。ロサはカルミノと顔を見合わせて会話をしているが、やはり彼らの言っていることは理解できなかった。
「共通化された言語のつながりが、切れかけている……?」
聖輝がそう言って目を細め、蒼天の向こうへ消えていく飛行機の影を追いかけた。白い飛行機とともに、満月を過ぎたばかりの下弦の月も、西の海へと沈んでいくところだった。
【第八章 了】






