3:声との共存
3:声との共存
午後の光は、昼を過ぎると少しずつ角を失っていった。
港から少し離れたベンチで、蒼はしばらく風に当たっていた。凪は隣に座っているが、必要以上に話しかけてはこない。人の気配を完全に消さず、それでいて相手の思考が一人で進めるだけの余白は残す。その距離感に、蒼は何度も救われてきた。
目の前を観光客が数人通り過ぎる。大きな声ではないが、笑いながら何か話している。島の人らしい高齢の女性がゆっくり自転車を押していく。遠くでフェリーの低いエンジン音が響く。今日の港では、さっきの小さな動線の修正以外、何も大きなことは起きていない。むしろ、その「何も起きていない」ことに蒼は少しずつ慣れ始めてもいた。
見えたものがすべて事件になるわけではない。
感じた危うさが、そのまま目に見える崩れへつながるとは限らない。
その当たり前のことを、自分はようやく身体の方でも覚え始めているのかもしれない。
――でも、消えない。
近い声が言った。
蒼は目を伏せた。
たしかに消えない。声はまだある。以前のように絶え間なく責め立てるわけではないし、今この瞬間も、凪や周囲の音を完全に押しのけているわけではない。けれど、消えてはいない。静かに、しつこく、考えのすぐ脇にいる。
蒼は小さく息を吐いた。
「どうしました」
凪が低く訊く。
「……声が」
「近い方ですか」
「たぶん」
そう答えたあとで、蒼は自分がもう、「近い声」と「ざらついた声」を区別して言葉にできることに気づいた。それは単に症状が二種類あるという話ではない。少なくとも今の自分は、それらを一つの塊として受け取らず、質感の違いとして把握できている。そのこと自体が、少し前の自分にはなかった変化だった。
「何て言ってますか」
凪の問いに、蒼は少し考えた。近い声は、以前のようにはっきりした命令ではなかった。ただ、いまの自分の考えに寄り添うように、しかし別の方向へ押そうとする。
「消えない、って」
「声が?」
「たぶん。見え方も、こういう感じも。これからも」
言ってしまうと、それはほとんど自分自身の不安そのものだった。声が言っているのか、自分が言っているのか、境界は相変わらず曖昧だ。だが、以前よりはその曖昧さに自覚的でいられる。
凪はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「それって、少し前なら怖いだけだった言葉ですよね」
「……はい」
「今は?」
蒼は答えに迷った。怖いことに変わりはない。だがそれだけではない。消えないのなら、どうするのかを考えなければならない。自分から切り離して追い払うことだけでは、済まないかもしれない。そういう現実的な感覚が、今日の蒼には少しずつ育っている。
「怖いです。でも」と蒼は言った。「前みたいに、全部なくならないと生きられない、とは思わなくなってきたかもしれません」
凪は静かに蒼を見た。
「それは大きいですね」
蒼は遠くの海の方を見た。風が少し変わったのか、さっきより塩の匂いが強くなった気がする。
「たぶん」と蒼は続けた。「島に来る前の自分は、声とか見え方とか、自分と一緒にあったら全部駄目になると思ってたんです。普通の人みたいに消せないなら、壊れるしかないって」
「でも今は違う」
「……少しだけ」
蒼は頷いた。
その少しだけ、が重要なのだと思う。完全に受け入れたわけではない。声と仲良くなろうとしているわけでもない。そんな簡単な話ではない。ただ、自分の中にあるものを全部敵としてしか見られない状態から、ほんの少しずれ始めている。
これまでの蒼にとって、「共存」という言葉はあまりにもきれいすぎて、現実味のないものだった。病気や幻聴や違和感と共に生きる、などと言われても、それは当事者ではない誰かが外側から言う慰め文句のように聞こえた。だが今、自分の中の近い声とざらついた声、そしてそれを観察しようとする自分、その三つが同時にここにあることを認めざるをえない以上、「なくすか、壊れるか」の二択では立ち行かない。
凪が缶コーヒーの残りを飲み干し、空き缶を指で軽く鳴らした。
「共存って、仲良くすることじゃないと思うんです」
蒼は顔を上げる。
「仲良く?」
「はい。相手を好きになるとか、全部肯定するとか、そういうことじゃなくて。そこにあるものを、そこにあるまま把握しながら、自分の領域も残しておくこと」
蒼はその言葉を黙って聞いた。
そこにあるものを、そこにあるまま把握しながら、自分の領域も残しておく。
それはとても地味な言い方だった。だが、蒼が今まさに必要としているのはそういうことかもしれない。声を完全に消せるなら、それが一番楽だろう。けれど消えないのなら、次に必要なのは、声を自分の全部にしないことだ。
「自分の領域……」
「はい。たとえば、さっき港で蒼さんは詰まる感じがするって言った。でも、そのあとすぐに一人で走ったりしなかったですよね」
「凪さんがいたからです」
「それもあります。でも、蒼さん自身が言葉にして、一回分けるって選んだからでもあると思います」
蒼はその言葉に、少しだけ目を細めた。
たしかにそうだった。近い声が「詰まる」と言った。ざらついた声はそれを曖昧にしようとした。だが自分は、そのどちらにも完全には飲まれず、「港の辺り全部が少し強い」と凪へ伝えた。その一拍の間があったからこそ、行動は衝動ではなく選択になったのかもしれない。
「共存って、そういう一拍かもしれませんね」と凪が言った。
「すぐ従わない。でも、全部切り捨てもしない」
蒼は小さく息を吐いた。その一拍。たしかに、自分のルールも結局はそこへ向かっていたのだ。声にすぐ従わない。見えたら記録する。一人で確認しに行かない。どれも、見えたことと動くことのあいだに一拍の距離をつくるためのものだった。
「たぶん」と蒼は言った。「自分は今まで、その一拍が持てなかったんだと思います」
「どういう意味ですか」
「声が聞こえたら、全部そこへ持っていかれるか、逆に全部否定しようとして潰れるか、そのどっちかだったので」
凪は頷いた。
「今は少し、一拍ある」
「はい。まだ、すごく細いですけど」
細い。だが、ないよりずっといい。その細い一拍こそが、第五章の「生きられる世界」に繋がるのかもしれない、と蒼は思った。世界が急に優しくなるわけではない。声も消えない。崩れの気配も、たぶんこれから先も見えてしまう。けれど、そのすべてがある中で、それでも自分の時間を一拍だけ持てるなら、その中に生きられる余地が生まれる。
――そんなもので足りるのか。
ざらついた声が言う。
蒼は心の中で、それにすぐ答えなかった。以前なら、その一言に刺されて終わっていただろう。だが今は少し違う。その問い自体は、たぶん正しい。そんな細い一拍で、この先もやっていけるのか。足りないかもしれない。だが、足りないからといって最初から無意味だとも言えない。
すると近い声が、珍しくざらついた声と反対ではなく、少し似た調子で言った。
――でも、それがないと駄目だ。
蒼はわずかに驚いた。
近い声もまた、その一拍の必要性を認めているように聞こえたからだ。もちろん、それを信用しきるわけにはいかない。だが少なくとも、声と自分の関係は「完全な敵対」だけではなくなっている。そのことを、今の蒼は否定できなかった。
「……なんか、変な感じです」
蒼が思わず漏らすと、凪が「何がですか」と穏やかに訊く。
「声が、全部同じ方向に押してくるわけじゃなくなってるというか。ざらついた方も、近い方も、それぞれ危ないんですけど……たまに、同じことを違う方向から言ってる気もして」
凪は少し考えるような顔をした。
「蒼さんの中で、役割が分かれ始めてるのかもしれませんね」
「役割」
「はい。止める方と、進める方と。それをどっちもただの敵としてまとめないで見られてるなら、それも一種の共存かもしれません」
蒼はその言い方を心の中で反復した。止める方と、進める方。たしかにそうだ。ざらついた声はいつも否定するだけのようでいて、時に危険から引き留めるようにも聞こえる。近い声は導くようでいて、同時に過剰な意味へ引っ張る危うさがある。その二つがあることで、自分は今、ただ飲まれるだけではなく、選ぶ必要に晒されている。
それは楽なことではない。だが「全部が敵」「全部が自分」という二択よりは、まだ扱える複雑さかもしれなかった。
「共存って」と蒼は言った。「たぶん、折り合いをつけることじゃないですね」
「どういうことですか」
「うまくやるとか、バランスよくすることじゃなくて。そこにあるズレたものを、毎回ちゃんと確認しながら、それでも自分の選び方を残すこと、なのかもしれない」
凪は少し笑った。
「それ、かなり蒼さんの言葉っぽいです」
蒼も小さく笑った。凪にそう言われると、少しだけ安心する。ここ数日、自分の中に起きていることを、自分の言葉で言い直せる瞬間が増えてきた。声の言葉でも、島の噂でも、誰かの理論でもなく、自分の理解として。
しばらくして、二人はベンチを立った。午後の島をもう少し歩くことにしたが、広場や港のような引っかかりの強い場所は避ける。今日はもう、何かを探しに行く日ではない。むしろ、普通に歩ける範囲の中で、自分がどれだけ「普通」に留まれるかを確かめる日のように思えた。
道すがら、蒼は前より少し落ち着いて風景を見ていた。もちろん、気になる線や、危うく見える段差や、立ち止まりやすい場所は目に入る。けれど、それら全部がただちに意味へ変わるわけではない。ノートに書いた「朝の海。船一艘。今のところ、ただの船。」という一文が、どこかで効いているのかもしれない。
今のところ、ただの壁。
今のところ、ただの段差。
今のところ、ただの人の流れ。
そういうふうに、一度は言える。
その小さな猶予が、蒼にとってはかなり大きかった。
島の午後はゆっくり進んでいく。雲は少しずつ流れ、白い壁の色も微妙に変わる。凪は時々、展示や島の生活の小さな話をしてくれる。蒼もそれに応じる。すべてが特別な意味を持つわけではない。ただ、誰かと一緒に島を歩く時間として過ぎていく。その普通さが、今日は何よりありがたかった。
ここで蒼が掴み始めたのは、「声が消えること」ではなかった。
むしろ逆だ。
声は消えない。見え方も、完全には元に戻らない。それでも、その中で一拍の距離をつくり、自分の領域を残し、止める声と進める声の両方をあるものとして把握しながら、自分の選び方を保つこと。それが、蒼にとっての「共存」の輪郭になり始めていた。
それは決して美しい和解ではない。
むしろ、毎回少しずつやり直すしかない、面倒で、不安定で、油断のならない共存だ。
けれど、そういう不格好な共存の中にこそ、蒼がこれから先も何とか立っていられる場所があるのかもしれなかった。




