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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第5章 生きられる世界

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2:選択の結果

2:選択の結果


 港を離れたあとも、蒼の胸の奥にはまだ小さな振動が残っていた。

 人の流れが詰まりそうな場所を指し、凪が係員へ伝え、動線が少しだけ変わった。結果として何も起きなかった。少なくとも、外から見える混乱や事故は生まれなかった。それは良いことのはずだった。けれど蒼にとっては、その「何も起きなかった」という結果そのものが、簡単には飲み込めない重さを持っていた。

 もし自分が何も言わなかったら。

 もし凪が動かなかったら。

 少し人が詰まって、誰かが舌打ちしただけで終わったのかもしれない。あるいは、荷物を持った人とぶつかって、小さな転倒や怒鳴り声が起きたかもしれない。だが、起きなかった未来は検証できない。検証できないものは、安心にも後悔にもなりきれず、ただ胸の内に居座る。

 坂を上りながら、蒼はそのことを考えていた。港から本村へ戻る道は、昼へ近づくにつれて少しずつ人が増え始めている。自転車で下っていく観光客、地図を見ながら立ち止まる二人連れ、脇をすり抜ける島の人らしい軽トラック。世界は普通に流れている。その普通さが、今日の出来事をますます曖昧にする。

「まだ考えてますか」

 凪が横から訊いた。

「……はい」

 蒼は正直に答えた。

「何も起きなかったことを、どう受け取ればいいのか分からないです」

 凪は少しのあいだ黙っていたが、すぐには慰めるようなことを言わなかった。

「その分からなさを、今日はちゃんと持ってたほうがいいかもしれませんね」

「持ってたほうがいい?」

「はい。そこで無理に、防げたとか気のせいだったとか、どっちかにしてしまうと、また極端になるので」

 蒼はその言葉を聞きながら、坂道の先に見える白い壁へ目をやった。極端。たしかにそうだった。これまでの自分は、何かが起きるたびに、いつもその両端のどちらかへ倒れかけていた。全部が病気だと切り捨てるか、全部に意味があると信じかけるか。そのどちらかだ。今日の港で起きたことも、そうやってしまえば簡単だ。だが簡単だからこそ危ない。

「結果って、あとから意味を持ちすぎることがありますよね」

 蒼がぽつりと言うと、凪は頷いた。

「あります。何か起きたあとに、あのときこうしていればとか、あれがあったから助かったとか。でも、それって本当のこともあるし、ただ後から整えた物語のこともある」

 物語。蒼はその言葉に引っかかった。

 自分はいま、物語を避けようとしている。未来を見る人間でもなく、ただの勘違いでもなく、もっとずれた場所にある真実を掴もうとしている。けれど、人間は何かが起きるとすぐに物語を作る。起きなかったことにさえ物語を作る。「あのとき動いたから防げた」とか、「何もなかったのだから最初から間違いだった」とか。そのどちらも、結果からしか見えない整理のしかただ。

「じゃあ、どうしたらいいんでしょう」

 蒼が訊くと、凪は少し考えてから答えた。

「たぶん、結果より先に、自分がどう選んだかを残しておくことじゃないですか」

「選んだこと」

「はい。港では、流れが危ないかもしれないと感じて、それを口にして、係員が動いた。その順番は事実です。そこにあとから大きな意味をつけないで、まずはその順番だけを残す」

 その言い方は、蒼の中にすっと入ってきた。

 結果ではなく、選んだことを残す。

 それなら、起きなかった未来を無理に解釈する必要はない。自分が何を感じ、何を言い、誰がどう動いたか。それだけなら事実として置ける。意味は、そのあとでもいいし、永遠につけなくてもいい。

「……それなら、少し分かる気がします」

 蒼はそう言って、ポケットの中のノートを指先で確かめた。まだ書いたばかりの港の記録がある。そこには、詰まりそうな感じと、凪が係員に伝え、動線が変わり、大きな混乱はなかったということだけが記されている。あれでよかったのだろう。防げたとも、外れたとも書いていない。それがいまの自分には必要な距離なのかもしれない。

 本村の入り口に近づく頃には、太陽が少し高くなり、白い壁の反射も強くなってきた。だが今日は、蒼の視線は以前ほどその白さに引きずられない。むしろ、人の足元や、曲がり角の見え方、立ち止まりやすい場所など、動きの方へ意識が向いている。第五章の始まりで、すでに自分の見え方は少し変わり始めているのだと、蒼は思った。

 広場の手前で、二人は自然に足を止めた。青い絵のあるあの場所へ、今日も観光客が上がっていく。三宅が直した石段は、まだ新しい補修跡が少しだけ目立っていた。蒼はそこを見て、昨日の高齢の女性の躓きを思い出す。もし自分たちがいなければ。もし三宅が夜のうちに金具を見つけていなければ。そういうもしは、やはり頭を離れない。


 ――それでも変えた。


 近い声が、静かに言った。

 蒼は心の中で首を振る。変えたかどうかは分からない。そう決めない。それが今の自分の理解だ。

 すると、近い声は珍しくしつこく続けなかった。

 代わりにざらついた声が、小さく笑うように言った。


 ――曖昧にして安心したいだけだ。


 その一言に、蒼の胸が少しだけ刺された。たしかにそうなのかもしれない。曖昧にすることが、単なる逃げになっていないか。そういう疑いは常に残る。だがだからといって、すぐに極端な答えへ飛びつく方がよいとも思えない。曖昧さを持つのは、怠慢ではなく訓練かもしれない。いまの蒼にとっては。

「少し、休みますか」

 凪が言った。

 二人は広場の近くではなく、少し下った位置にある日陰のベンチへ座った。海は見えないが、風は通る。遠くで子どもの声がした。どこかの家から、食器を重ねるような音もする。島の昼が静かに進んでいる。

「港のこと、もう少し言葉にしてみますか」

 凪の提案に、蒼は頷いた。ノートを開き、さっきの記録の下へ書き足す。


 ・防げた/防げなかったではなく、危うさを感じて、行動を選んだという事実を残す

 ・起きなかった結果に、あとから過剰な意味を乗せない

 ・選択の結果は曖昧でも、選択そのものは現実


 その最後の一行を書いたとき、蒼は少しだけ呼吸が深くなった。

 選択そのものは現実。

 それは、いまの自分に必要な言葉だった。結果は曖昧でも、自分が選んだことは確かに現実に存在する。港で立ち止まり、凪に伝え、動線が変わった。広場で「危ない」と声を出し、手を伸ばした。そうした行動は、どれも曖昧な予兆の中で、自分が現実に触れた瞬間だった。

 蒼はペンを置いた。

「少し分かってきた気がします」

 凪が顔を上げる。

「何がですか」

「自分がいま、何にいちばん怯えてるのか」

 蒼はゆっくりと言葉を探した。

「見えてしまうことも怖いです。でもそれ以上に、選んだことの結果が分からないまま残るのが怖いんだと思います」

 凪は黙って聞いている。

「見えたら、何かしなきゃいけない気がする。何かしたら、その結果が気になる。結果が分からないと、自分の見えたものまで疑わしくなる。たぶん、その繰り返しで苦しくなる」

 言葉にしてみると、思っていた以上に正確だった。蒼はただ幻覚や予兆に怯えているのではない。それに対してどう動くかを選ばなければならないこと、そして選んだあとも結果が完全には分からないこと、その二重の不安に押されているのだ。

「それなら」と凪が言った。「今後は、見ることと選ぶことを少し分けて考えた方がいいかもしれないですね」

「分ける」

「はい。見えたことは見えたこと。選ぶかどうかは別の段階。全部を一息で繋げない」

 蒼はその言葉を心の中で反復した。見えたことと選ぶことを分ける。たしかに今までは、それが一続きになりすぎていた。見えた瞬間に意味づけし、意味づけた瞬間に動かされる。その速度が、自分を追い詰めていたのかもしれない。

「……それ、かなり大事かもしれません」

 蒼がそう言うと、凪は小さく頷いた。

「昨日までの蒼さんは、見えたことに引っ張られて、そのまま行動まで一気に行きそうでした。でも今日は、港でちゃんと一回言葉にしたし、私にも共有した。それだけでも少し違います」

 蒼は海の見えない空を仰いだ。見えたこと。選ぶこと。そのあいだに、言葉と共有が入る。そう考えると、自分の六つのルールも少し別の形で見えてくる。


 1. 声にすぐ従わない。

 これは、見えたことと選ぶことのあいだに間を作るためだ。


 2. 見えたら、時間と場所を書く。

 これは、見えたことをまず事実として置くためだ。


 3. 一人で確認しに行かない。

 これは、選択を自分だけの密室にしないためだ。


 ルールは、単に身を守るためだけでなく、自分の感覚を現実へつなぎ直す装置でもあったのだと、蒼は今さら気づいた。

 そのとき、広場の方から小さな笑い声が流れてきた。観光客が写真を撮っているのだろう。青い絵は今日も、変わらず誰かの背景になり、誰かの足を止めている。だが蒼にとっては、あの広場はもうただの作品の場ではない。選択の結果が残る場所になってしまった。だからこそ、そこから少し距離を取って座っていられることが、いまは大事だった。


 ――次はどうする。


 近い声が、遠くで静かに言った。

 蒼は目を閉じた。次。たしかに、この章はまだ終わっていない。今日という日はまだ途中だ。港での小さな選択の結果がどうであれ、自分の見え方はここで止まらないだろう。もっと大きな崩れに触れる日が、この先来るかもしれない。

 だが、そのときも今日と同じだ。

 見えたことと選ぶことを、分ける。

 結果にすぐ物語をつけない。

 その二つを忘れないことが、いまの蒼にとっての唯一の足場だった。

「次も、たぶん同じです」

 蒼は小さく言った。

 凪が「何がですか」と訊く。

「見えたら、まず言葉にする。すぐ動かずに、一回分ける。それしかない気がします」

 凪はしばらく蒼の顔を見て、それから穏やかに頷いた。

「はい。それでいいと思います」

 その一言に、蒼はようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 ここで蒼が手にしたのは、確かな成功でも失敗でもなかった。港で何も起きなかったことは、答えではない。だがそこで自分がどう選び、その結果をどう受け止めようとしているか、その形だけは少しずつ見え始めていた。

 選択の結果は、いつも曖昧だ。

 けれど選択そのものは現実に属する。

 その理解が、蒼を次の段階へ進ませるのだとしたら、それはまだ始まったばかりなのだった。

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