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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第5章 生きられる世界

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4:絵を残す

4:絵を残す


 午後の終わりが近づくにつれて、島の光は少しずつ薄くなっていった。

 完全に夕方へ傾く前の、まだ昼の名残が残っている時間だった。白い壁は昼ほど鋭く光らず、海から返る明るさも落ち着きはじめている。凪と並んで歩きながら、蒼はその変化を静かに見ていた。第五章の最初から今日一日、自分の見え方がまた少し変わったことは自覚していた。崩れかけた流れや、危うさの配置に気づくこと。声を完全には消せなくても、一拍の距離を持つこと。止める声と進める声の両方を、ただの敵や味方ではなく、「そこにあるもの」として観察すること。

 それらはどれも、昨日までの自分にはなかった種類の理解だった。

 けれど理解は、ただ持っているだけでは足りない気もしていた。

 何かを残さなければならない。

 その感覚は、広場の青い絵を最初に見つけた頃から、どこかでずっと蒼の中にあった。見ること、感じること、気づいてしまうこと。それらは放っておくと、頭の中で輪郭を変えながら増殖していく。だから蒼は絵を描いた。最初は無意識に。次第に、自分の意志でも。だが今、求められているのは単に記録のための絵ではない気がした。

 見えたことを、誰かのためにではなく、まず自分がこの数日間を生き抜いた証として、どこかへ置いておくこと。

 それが必要なのだと、蒼はぼんやり感じていた。

「少し、広場へ行ってもいいですか」

 気づけば、蒼はそう言っていた。

 凪はすぐには返事をせず、蒼の顔を見た。そこに無理な緊張や、何かに引っ張られる危うい熱がないか確かめているのだと分かった。

「大丈夫そうですか」

「……たぶん」

 また曖昧な返事になる。だが今の蒼には、それ以上の確信を装う必要もなかった。

「何か探しに行く感じではないです」

「じゃあ、どういう感じですか」

 蒼は少し考え、それから言った。

「置いていく感じ、かもしれません」

 凪はその言葉を聞いて、少しだけ眉を動かした。だが止めはしなかった。

「一緒に行きます」

 二人は広場へ向かった。坂道を上る途中、蒼はいつもよりゆっくり歩いた。以前なら、この道を上るときは既視感や緊張が先に立った。白い壁、曲がる角度、空の細さ、その全部が何かの前兆に思えた。だが今日は少し違う。もちろん怖さはまだある。それでも、その怖さを抱えたまま歩ける。足元の石段を、石段として踏める。そういう変化があった。

 広場に着くと、青い絵は静かにそこにあった。

 観光客はもう少なく、広場全体が午後の最後の明るさに包まれている。白い壁はやわらかく、絵の青は昼間より少し深く見える。海の切れ端も、今日は前ほど強くは光っていない。その落ち着いた光景を前にして、蒼はふと、最初にここを見つけたときの自分を思い出した。洗面台の前で、意味も分からず描いてしまった白い壁と青い絵。あれはたぶん、ここへ呼ばれる最初の図だった。

 そして今、自分はここに自分の意思で立っている。

 それは大きな違いだった。

 蒼はスケッチブックを取り出した。凪は少し離れたところに立ち、蒼の視界を邪魔しない位置で広場全体を見ている。見張るでもなく、放っておくでもなく、その中間の位置だ。

 蒼は新しいページを開いた。

 今日は何を描くのか、最初から決まっていたわけではない。広場そのものかもしれない。青い絵かもしれない。石段かもしれない。けれど鉛筆を持った瞬間、蒼の手は迷いながらも、これまでとは少し違う線を引き始めた。

 最初に現れたのは、青い絵の矩形だった。

 だがそれは、今までのように「不吉な入口」としてではなかった。白い壁の中に置かれた、静かな面としての青。次に、広場の余白。石段。海の切れ端。そして最後に、人影を一つだけ置く。

 蒼はそこで手を止めた。

 一人。

 これまでの絵には、見つけた場所や崩れかけた人影や、危うさの線があった。今回も広場を描いているのに、紙の上に現れたのは一人の人影だけだった。その人物は、青い絵の前に立っている。だが倒れかけてもいないし、何かに追われてもいない。ただ立っているだけだ。背中が少し見える角度。輪郭は簡素だが、姿勢には奇妙な落ち着きがある。

 蒼は息を止めた。

 これは誰だろう、と一瞬思う。凪ではない。昔の画家でもない。たぶん、自分だった。

 あの広場に初めて立ったときの自分ではなく、今の自分。崩れかけた何かを見つけ、そこへ怯え、少しずつ理解し、それでもまだ完全には安心できないまま、それでも立っている自分。

 「どうですか」

 凪が静かに訊いた。

 蒼はページを見たまま答える。

「……今回は、何かが起きる絵じゃないかもしれません」

 凪が少し近づいてきた。ページを覗き込み、「ほんとうですね」と言う。

「今までの絵より、静かです」

「はい」

 蒼はその静けさに、自分でも少し驚いていた。何かを予知する線ではなく、何かが起きる前のずれでもなく、ただここに立っているという状態そのものが絵になっている。広場と青い絵は相変わらずそこにあるのに、今回はそれらが自分を飲み込む入口ではなく、自分がそこに立っていられる空間として描かれている。


 ――残せ。


 近い声が低く言った。

 蒼は目を閉じた。その言葉は、以前の「描け」や「行け」とは少し違っていた。命令というより、確認に近い。残せ。何を。たぶんこの一枚を。この理解を。この数日の揺れをくぐったあとで、それでも自分が立っていられるという感覚を。

 ざらついた声は珍しく何も言わなかった。

 蒼は鉛筆を置き、鞄から小さな紙片を取り出した。宿の机に置いてあったメモ用紙だ。そこに、短く言葉を書く。

 ここで見えたものを、ここで終わらせないために。

 書いてから、その文がやや大仰すぎるようにも思えた。だがそれ以上の言い換えは見つからなかった。終わらせない、とは、神秘にしないという意味でもあり、忘れないという意味でもある。ここで見たもの、感じたもの、自分の見え方の変化。そのどれもを異常として切り捨てるのでも、運命として祭り上げるのでもなく、これから先の自分が生きるための理解として持ち帰る。そのための一文だった。

「何を書いたんですか」

 凪が訊く。

 蒼は少し迷ったが、その紙を凪に見せた。凪は読み終えると、しばらく黙っていた。それから小さく頷いた。

「いい言葉だと思います」

「ちょっと大げさじゃないですか」

「大げさでも、今の蒼さんには必要なんじゃないですか」

 蒼は紙を見下ろいた。たしかにそうかもしれない。人は理解を得たあと、それを自分の外に一度置かないと、本当に自分のものにならないことがある。絵も、言葉も、そのための器なのだろう。

「置いていくって、これですか」

 凪が訊いた。

「……たぶん」

 蒼はその紙を、広場の壁に貼ったり、置き去りにしたりするつもりはなかった。そんなことをすれば、ただの迷惑な落とし物になる。だがスケッチブックのそのページに挟んでおくことで、この広場と一緒に持ち帰ることはできる。広場に残すのではなく、広場の意味を自分の中に残すための紙だ。

 それでも蒼は、何かをこの場所に「返したい」という気持ちをまだ持っていた。

 少し考えてから、蒼は立ち上がり、石段の近くへ行った。昨日、危険な金具が見つかった場所だ。そこには三宅がした補修の跡がまだ残っている。蒼はしゃがみ込み、その脇の小さな草を一つ見た。踏まれてもまた生えてくるような、目立たない草だった。

 そこへ、ページの端から切り取ったごく小さな紙片を、そっと石の隙間に挟んだ。何も書いていない白紙の切れ端だ。

 凪が後ろから言う。

「それは?」

「何でもないです」

 蒼は少し笑った。

「たぶん、自分にとっての目印です」

 誰にも見つからないほど小さな白紙。それはメッセージではない。作品でもない。ただ、この場所に確かに自分がいて、何かを見て、何かを理解しようとしたという印のようなものだった。後で雨に濡れてなくなるかもしれない。三宅に掃除されるかもしれない。そんな程度の痕跡でいいのだと思った。大きく残さないこともまた、大事なのだろう。

 広場を見渡すと、午後の終わりがさらに進んでいた。青い絵の色は少しずつ深くなり、白い壁は空の明るさを返しながら静かにくすんでいく。蒼は自分の描いたページをもう一度見た。一人の人影が立っている。崩れかけてもいないし、倒れそうでもない。ただ、そこにいる。そのことが、これまでのどの絵よりも強く胸に残った。

「……残すって、こういうことなのかもしれません」

 蒼は小さく言った。

 凪が横で聞いている。

「何が起きたかを大きく書くんじゃなくて、自分がどう立ってたかを残す」

 凪はゆっくり頷いた。

「それなら、今後も使えそうですね」

「使える、というより……忘れないでいられそうです」

 蒼はそう言ってから、少しだけ驚いた。忘れないでいられそう。たぶん、それがいちばん近い感覚だった。この数日間、島で起きたことは、神秘でも怪談でもなく、自分の生き方の一部に変わり始めている。だからこそ、それを過剰な物語にしない形で残す必要があった。

 ここで蒼がしたことは、派手な行動ではなかった。

 誰かに作品として見せる絵を描いたわけでもない。大きな宣言をしたわけでもない。ただ、青い絵の前に立つ自分を描き、小さな紙片を石の隙間へ挟んだだけだ。

 だがそのささやかな行為は、蒼にとって確かな意味を持っていた。

 見えたものに振り回されるだけではなく、自分の方からそれに形を与え、置き場を決めること。つまり、崩れや予兆に対して受け身でいるだけではなく、自分なりの仕方で世界へ返すこと。それが「絵を残す」ということなのだと、蒼はようやく理解し始めていた。

 そしてその理解は、これから先の自分が生きられる世界を、ほんの少しだけ現実のものに変えていくのだった。

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