2:逃避としての旅
2:逃避としての旅
午後の光は、午前中よりも少しだけ冷たく見えた。
実際の気温が下がったわけではないはずなのに、蒼には窓の外の景色が薄いガラス一枚を隔てて遠のいたように感じられた。事務所へ戻ってから一時間ほど、彼は自席に座ったままほとんど仕事になっていなかった。カーソルは同じ場所で点滅し続け、開いたままのデザインデータの上には修正前の写真が表示されたままだ。人物の輪郭はもう歪んでは見えない。空も裂けてはいない。さっきの異常が、まるで最初から存在しなかったかのように、画面は平然としていた。
だからこそ余計に、蒼は自分の内側だけが壊れているような気がした。
――ほらな。何も起きてない。お前が変なだけだ。
声は先ほどまでほど強くはなかった。だが、弱いからといって無害になるわけではない。むしろ、真実を告げるみたいな調子で囁かれる分だけ、骨の隙間に入り込んでくる。
蒼は視線を落とした。胸ポケットの内側に、メモ帳の角が当たっている。そこに書かれた「海の見える場所へ」という一文が、布越しにも体温を持っているようだった。ときどき錯覚ではなく、本当に紙の中で文字が微かに脈打っているのではないかと思えてくる。
「蒼くん」
低い声に顔を上げると、志村が自分の机の脇に立っていた。いつもの柔らかい表情を保ってはいるが、目の奥には控えめな心配が滲んでいる。
「少しいい?」
「……はい」
蒼は椅子を引いて立ち上がった。打ち合わせ用の小さなスペースへ移る。壁際に置かれた丸テーブルと、簡素な椅子が二脚だけの場所だ。そこで向かい合うと、蒼はなぜか就職面接のときの気分を思い出した。評価される側、説明を求められる側の息苦しさが、胸の内側にうっすら蘇る。
「無理して訊くつもりはないんだけど」と志村は言った。「ここ最近、ちょっとしんどそうに見えるから。もし体調のことで何かあるなら、業務量を調整することもできるし、所長にも僕から話せる」
穏やかな言い方だった。責める響きはどこにもない。だが蒼は、そうした気遣いに触れるたび、自分の周囲に透明な仕切りが立ち上がっていくのを感じた。健康な側と、不調を抱える側。仕事を普通に進められる側と、配慮される側。その境界線が、相手の善意のぶんだけ鮮明になる。
「すみません」と蒼は言った。「少し寝不足で……」
自分でも驚くほど、ありふれた嘘だった。だが志村は、それを見逃してくれる種類の人間だった。
「そうか。季節の変わり目だしね。寝不足って地味にきついからなあ」
「はい……」
「今日は、もう早めに上がる?」
その言葉に、蒼は一瞬だけ返答を失った。早く帰る。たしかに、それが妥当だろう。だが「帰る」という言葉の行き先が、今の蒼には曖昧だった。自宅に戻ることはできる。ベッドに横になり、カーテンを閉め、薬を飲んで眠ることもできるだろう。けれど、その先にまた明日の朝がある。電車があり、会社があり、キーボードの音と、ディスプレイの光と、耳の奥から湧く声が待っている。その繰り返しに戻るだけなのだと思うと、喉の奥が冷えた。
「……少し考えさせてください」
志村は静かに頷いた。
「わかった。無理だけはしないで」
それ以上の言葉はなかった。その控えめな親切さが、蒼にはかえって苦しかった。
席へ戻ってから、彼はパソコンの画面を見つめるふりをしたまま、実際には何も見ていなかった。視界の端で同僚たちが作業を続けている。電話の声、椅子が床を擦る音、プリンターの駆動音。事務所はいつも通りに仕事をしていた。その「いつも通り」の中に自分だけが入れなくなっていることが、ひどくはっきり感じられた。
大学を中途で辞めてから、蒼は何度も「立て直そう」と思ってきた。今度こそ、今度だけは、と。しかし立て直しという言葉は、何かまっすぐで固い骨組みが元から存在している人間のための表現なのではないか、と最近は思うようになっていた。蒼の中で崩れているものは、骨組みというより、もっと曖昧な薄膜に近かった。日々にどうにか貼りついている感覚。人と同じ速度で歩いていられるという錯覚。そういうものが、ちょっとした摩擦で破れてしまう。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンがまた震えた。母ではなく、通院先のクリニックからだった。次回診察日の確認を知らせる事務的なメッセージで、淡々とした文面に変わりはない。けれど、その通知ひとつで、蒼の中に診察室の白さが蘇った。丸い時計の針、観葉植物、医師の穏やかすぎる声。「今、一番困っているのはどんなことですか」と問われても、いつも答えは曖昧になる。一番困っていることは、たぶん一つではないからだ。そして、本当に困っていることほど、言葉にした瞬間に嘘くさくなる気がしていた。
蒼は通知を閉じ、しばらくためらってからブラウザを開いた。検索窓に手が止まる。何を調べるつもりなのか、自分でも確信がなかった。けれど指は勝手に文字を打っていた。
海 見える場所 静かな島
いくつかの観光サイトが並んだ。写真付きの特集記事、移住者向けブログ、旅行会社の紹介ページ。その中に、「瀬戸内のアートの島を巡る二泊三日」というタイトルが見えた。蒼はほとんど無意識にクリックした。
白い建築。青い海。コンクリートの壁に映える影。草むらの向こうに現れる奇妙なオブジェ。地名は知っていた。直島。豊島。ニュースや雑誌で見かけたことがある。現代アートで有名な島々。けれど蒼は実際に訪れたことはなかった。観光地に特別な興味があるわけでもなかったし、何より近年は、自分の部屋と会社と病院以外の場所へ出かける気力そのものが細っていた。
なのに、画面に映る写真の一枚を見た途端、心臓がひどく強く打った。
白い壁だった。
しかも、その壁面には大きな青の作品が掛かっている。写真の構図はメモ帳に描かれたものと完全に同じではない。だが、質感が似ていた。白の冷たさと青の静けさ。その取り合わせに、蒼の背筋がぞくりとした。
「……なんで」
思わず声が漏れた。
――行けよ。
すぐ耳元で囁かれた気がした。
――見に行け。どうせここにはいられない。
蒼は弾かれたようにブラウザを閉じた。周囲を見回す。もちろん誰もこちらを見ていない。だが、その一言はさっきまでの嘲りとは少し違っていた。罵倒でも否定でもなく、誘導だった。声に導かれる、という感覚に気づいた瞬間、蒼はぞっとした。同時に、逃げ道の輪郭のようなものも感じてしまった。
ここから離れる。
その発想は、前から何度も頭をよぎっていた。会社を辞める。実家へ戻る。もっと負担の少ない仕事に変える。あるいは何もしない時間を取る。しかしどの選択肢にも、現実的な問題がすぐに浮かんだ。金。親の心配。経歴の空白。社会から一歩退くことへの恐怖。蒼はそうやって、いつも今のまま何とか持ちこたえる方向へ戻ってきた。
だが今日は、その均衡がはっきり崩れている。
机の引き出しの中にある有給申請書の存在を思い出した。入社してからまだ全部は使っていない。数日休んだところで大ごとにはならないだろう。もちろん、その休みの先に何があるかは分からない。だが少なくとも、明日の電車には乗らずに済むかもしれない。そう考えた瞬間、胸の奥で何かがわずかに緩んだ。
蒼は立ち上がり、プリンターの横に置かれた申請用紙の束から一枚を抜き取った。名前。日付。理由欄には「私用のため」とだけ書いた。ペン先が紙を滑る感触が、ひどく現実的だった。これを所長に出せば、たぶん数日は止まれる。休んだ先で何をするかは、まだ決めていない。ただここではない場所が必要だった。
所長は五十代の痩せた男で、眼鏡の奥の目がいつも忙しなく動いている。細かいが理不尽ではない。蒼が申請書を差し出すと、所長は一瞬だけ驚いた顔をした。
「珍しいね、蒼くんが休み申請なんて」
「……少し、用事ができて」
「ふうん。まあ、案件の締切には今のところ支障ないか。志村くんと調整してくれれば大丈夫」
「ありがとうございます」
あっけないほど簡単に承認された。大きな説明は求められなかった。そのことに安堵した反面、自分がいなくても事務所は何ひとつ困らないのだと、当たり前の事実を突きつけられた気もした。
退勤時間を待たず、蒼は少し早めに会社を出た。志村は何も聞かずに「気をつけて」とだけ言ってくれた。その一言に曖昧に頷き、蒼は雑居ビルを出る。夕方の街は昼よりも騒がしく、車の列が途切れず流れていた。信号待ちをする人々の背中を見ながら、蒼は自分だけが時間の本流から一歩外れてしまったような気分になった。
駅へ向かう途中、彼はふと足を止めた。線路沿いの金網越しに、遠くの空が見える。建物の隙間から細く切り取られた空は、夕暮れ前の鈍い青灰色をしていた。あのメモ帳に書かれた「海の見える場所へ」という文字を思い出す。海。島。白い壁。青い絵。どれもまだ現実とは思えないのに、今ここにあるビル群や雑踏より、よほど具体的に感じられた。
蒼はその足で自宅へ戻った。
一人暮らしの部屋は、駅から徒歩十分ほどの古いマンションの三階にある。玄関を開けると、しばらく閉め切っていた空気の匂いがした。狭いキッチン、折りたたみ式のテーブル、本棚、ベッド。必要なものだけが置かれた空間だが、最近はそのどれもが自分の生活を支える道具というより、ただそこにある物体の集まりに思えることが増えていた。帰るべき場所、という実感が薄れている。
蒼は鞄を床に置き、まずメモ帳を取り出した。あの文字が本当にそこにあるのか、改めて確かめたかった。ページを開く。白い壁と青い絵のスケッチ。そして、端に走る細い文字。
海の見える場所へ。
やはり消えていない。見間違いではなかった。
蒼はしばらくそのページを眺めた後、パソコンを立ち上げた。今度は躊躇わずに、直島行きのルートを検索する。新幹線、在来線、港、フェリー。思ったより現実的な経路が表示される。二泊三日なら、有給の範囲でも行ける。宿代は安いところを探せばどうにかなる。貯金は心許ないが、破滅するほどではない。
自分が本当に行くつもりなのかどうか、蒼にはまだ分からなかった。だが検索結果を見ているうちに、行程の一つひとつが、荒れた地面に板を渡していく作業のように思えてきた。出発時刻。乗り換え。フェリーの時間。宿の場所。考えるべきことが具体的であればあるほど、頭の中の霧はわずかに薄くなる。
スマートフォンが再び震えた。今度は母からの着信だった。
蒼は数秒迷ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、蒼? ごめんね、急に。メッセージだけだと心配で』
母の声は、昔から変わらず少し高く、慎重だった。怒るときでさえ、声を荒げることが苦手な人だ。その分だけ、蒼は何度も失望させたくないと思ってきた。
「うん。大丈夫」
また嘘をついた。だが電話越しの「大丈夫」は、対面で言うよりも少しだけ軽い。
『仕事、忙しい?』
「まあ、そこそこ」
『ちゃんと眠れてる?』
「……前よりは」
沈黙が落ちる。母は何かを察しているのだろう。だが、はっきりと踏み込んでくることはしない。それが優しさであると同時に、互いに傷つかないための諦めでもあることを、蒼は知っていた。
『あのね』と母が言った。『もしきつかったら、無理しなくていいから。帰ってきてもいいし、少し休んでもいいんだからね』
その言葉は予想していたはずなのに、不意に胸のどこか柔らかい場所に触れた。
「……帰るって、実家に?」
『そう。部屋はそのままだし。お父さんも、別に何も言わないよ』
別に何も言わない。それは父の最大限の許容を意味している。蒼には分かった。だが同時に、そこへ戻ることが、自分の時間を巻き戻すことのようにも思えた。二十代の半ばを越えて、また元の部屋に戻る。治りきらない不調を抱えたまま、息を潜めるように暮らす。その未来が悪いとは言えない。むしろ必要な人もいるだろう。ただ、蒼はまだ、その選択を最後の退避にしたくなかった。
「少し……出かけようと思ってる」
気づけば、そう口にしていた。
『出かける?』
「うん。少しだけ。海のほうに」
自分で言いながら、言葉が妙にしっくりくるのが恐ろしかった。
『海? 急だね』
「休みが取れたから。……ちょっと、今のままだと息が詰まりそうで」
電話の向こうで、母が静かに息を吸う気配がした。説得も制止もしてこなかった。
『そう。いいんじゃない。海、蒼は昔から好きだったし』
「好き、だったかな」
『小さい頃、港でずっと船見てたじゃない』
その記憶は、蒼の中ではすっかり薄れていた。だが母に言われると、夏の光の中で堤防に座っていた幼い自分の姿がぼんやり浮かぶ。潮の匂い。白く反射する水面。遠くをゆっくり横切る船。あの頃の自分は、世界に追い立てられていなかった。
『無理しないでね』と母は最後に言った。『行くなら、また連絡して』
「うん」
通話を切ったあと、蒼はしばらくスマートフォンを握ったまま座っていた。部屋の中は静かで、冷蔵庫の作動音だけが低く続いている。声も今は聞こえない。その静けさが一時的なものだとしても、今はそれにすがりたかった。
蒼は立ち上がり、小さな旅行鞄をクローゼットから引っ張り出した。まだ予約もしていないのに、先に荷物を入れはじめる。着替え、薬、充電器、スケッチブック、筆記具。ひとつずつ鞄へ収めるたびに、旅が少しずつ現実になる。逃避だと分かっていた。問題は何も解決しないかもしれない。島へ行ったところで、声が消える保証はない。むしろ慣れない土地で悪化する可能性だってある。
それでも行こうと思った。
行かなければならない、というほど強い確信ではない。だが、ここに留まるほうが危険だという鈍い予感があった。会社にも部屋にも、自分を傷つける具体的な敵がいるわけではない。それなのに、同じ場所に居続けるだけで、少しずつ内部から削れていく。このまま平然と日常を続けた先で、自分がどこまで薄くなるのか想像できなかった。
パソコン画面に映る予約サイトで、蒼は港近くの安い宿を一つ選び、手続きを進めた。指先はまだ迷っていたが、「予約確定」の文字が表示されたとき、不意に胸の奥で小さな音がした。何かの歯車が、噛み合ったような音だった。
その夜、久しぶりに蒼は夢を見た。
白い壁の前に立っている。足元には海の気配があるのに、水面は見えない。ただ、空気に塩の匂いだけがある。正面の青い絵は、近づくにつれて海ではなく巨大な空のように見えてくる。その青の中に、一本だけ黒い線が浮かんでいた。細く、鋭く、何かを書きつけるための最初の線。
そして、その線の向こう側から、誰かがこちらを見ていた。
目が覚めたとき、まだ夜明け前だった。窓の外は暗い。だが蒼は、布団の中でしばらくじっとしてから、静かに起き上がった。旅に出る朝のような感覚が、もう始まっていた。
逃げるのだ、と彼は思った。
だが同時に、逃げる先に何かが待っている気配もあった。
それが救いなのか、もっと深い崩壊なのかは、まだ分からない。分からないまま、蒼は夜明けを待った。瀬戸内の島々の名を頭の中で辿りながら、まだ見ぬ海の光を、暗い部屋の中で想像していた。




