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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第1章:島へ向かう理由

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3:海と沈黙

3:海と沈黙


 出発の朝は、思っていたよりも静かに始まった。

 蒼が目を覚ましたのは、アラームが鳴る少し前だった。まだ外は薄暗く、カーテンの隙間から入り込む光は灰色に近い。都会の朝特有の、すでに誰かがどこかへ向かい始めている気配はあるのに、そのざわめきが壁を一枚隔てた向こうに抑え込まれている。蒼はしばらく天井を見上げたまま、自分が本当に今日出かけるのかどうかを確かめるみたいに、呼吸を整えていた。

 昨日の夜のうちにまとめた鞄は、ベッドのそばに置いてある。小さな旅行鞄ひとつ。中には二日分の着替えと洗面道具、処方薬、財布、充電器、それにスケッチブックと筆記具。足りないものがあるかもしれないが、今はそれを考える気力はなかった。むしろ、持っていく物が少ないほど、この移動が本格的な生活の変更ではなく、あくまで数日間の抜け出しに過ぎないのだと思える気がした。

 蒼は起き上がり、顔を洗い、インスタントコーヒーを淹れた。熱い湯を注ぐと、粉がゆっくり溶けていく。黒い液面が揺れ、その揺れの向こうに自分のぼやけた顔が映った。昨夜は久しぶりに深く眠れた気がする。夢は見た。白い壁と青い絵の夢だ。だが目覚めたとき、その夢は恐怖というより、遠い呼び声のような感触だけを残していた。


 ――本当に行くんだな。


 頭のどこかで、声が言った。

 それはいつものように嘲る調子ではなかった。疑うようでもあり、試すようでもある。蒼はコーヒーを一口飲み、返事をしなかった。言葉にしてしまうと、途端に何かが壊れる気がした。

 窓を少しだけ開けると、朝の冷たい空気が入ってきた。遠くでトラックの走る音がする。鳥の声も混じっていた。耳を澄ませば、聞こえる音はいくらでもある。だが、あの頭の奥に直接触れてくる声とはまるで質が違う。空気の振動として届く音。誰かが生きている証拠のような音。そういうものに囲まれているときだけ、蒼はまだ世界のこちら側にいられる気がした。

 七時過ぎには部屋を出た。マンションの階段を下りると、踊り場の窓から見える空が少しだけ白み始めている。アスファルトは昨夜の湿り気をわずかに残し、通りの端にはコンビニ袋が風に煽られて引っかかっていた。見慣れた景色だった。けれど今日は、そのすべてが、いったん自分の生活から切り離されるものに見えた。ほんの数日留守にするだけなのに、戻ってきたとき同じ輪郭を保っている保証は何もないような気がした。

 駅までの道を歩く間、蒼は何度も後ろを振り返りたくなった。追ってくる人がいるわけでもない。だが、今まで自分を押しつぶしていた日常が、形を持って背後から追いついてくるような感覚があった。電車。会社。画面の光。キーボードの硬い音。作業室の白い蛍光灯。そうしたものの総体が、名もない巨大な生き物みたいに思えた。

 駅に着くと、平日朝の人波は相変わらず多かった。スーツ姿の男、イヤホンをつけた学生、子どもの手を引く母親。蒼はその中に混じりながら、昨日までと何も変わらない動きで改札を抜けた。ただ違うのは、今日は会社の方面へ向かうのではなく、新幹線の発着する大きな駅まで行くということだけだった。

 ホームに立ち、列車を待つ。線路の向こうのフェンス越しに、低い朝日が建物の窓を鈍く光らせていた。風が少し吹き、鞄の肩紐が上着に擦れる。蒼はその感触を確かめるように鞄を引き寄せた。


 ――逃げたところで同じだ。


 不意に声がした。

 蒼の肩が微かに強張る。


 ――海へ行っても、島へ行っても、お前はお前のままだ。


 その通りかもしれない、と蒼は思った。環境が変わればすべてが解決するなどと信じているわけではない。病気も、声も、頭の中のざわめきも、持ち歩く身体の中にある。自分自身から完全に逃れる方法はない。それでも、同じ場所に居続けて削られていくよりは、別の風景の中で傷の形を見直すほうがましな気がした。

 列車が滑り込んできて、ドアが開く。蒼は人の流れと一緒に乗り込んだ。

 最初の数時間は、まだ現実感が薄かった。車窓に流れる街並み、切り替わっていく駅名、広告の色、向かいの席で眠る会社員。蒼は時折スマートフォンで乗り換えを確認しながら、窓の外を眺めていた。景色は少しずつ変わっていく。高いビルの密度が減り、住宅地がひらけ、やがて畑や川が見え始めた。どの風景も、自分の知らない誰かの日常だ。そう思うと、自分の抱えている息苦しさも、この広い地面の上ではほんの局所的なものに過ぎないように見えてくる。

 途中で新幹線に乗り換えた。指定席の窓際に座ると、車内は思いのほか静かだった。人々はそれぞれの目的地を持ち、誰も他人に関心を払わない。その無関心さが今はありがたい。蒼は背もたれに体を預け、ようやく深く息を吐いた。

 速度が上がるにつれ、車窓の景色は連続した色の帯になる。田んぼの緑、屋根瓦の灰色、道路脇の看板の赤や青。ときどきトンネルに入り、窓に自分の顔だけが映る。蒼はそのたび、反射の中の自分を見た。ひどく疲れている顔だ。だが昨夜までのような切迫した青ざめ方ではない。緊張はある。先へ進むことへの不安もある。それでも、会社のディスプレイを前にしていたときのような、視界そのものが裂けそうな感じは少し遠のいていた。

 不思議だった。何か特別なことをしたわけではない。ただ乗り物に乗って場所を移しているだけなのに、頭の内側の空気圧のようなものが変わっていくのを感じる。

 昼近く、蒼は駅弁を買って食べた。窓の外に見える山並みがゆるやかになり、空の広さが増していく。米粒を咀嚼する音、自分の飲み込む喉の動き、ペットボトルの水の冷たさ。そういう些細な身体感覚を確かめていると、ようやく「自分はいま旅の途中にいるのだ」という実感が生まれてきた。

 岡山で在来線に乗り換えた頃には、日差しはかなり強くなっていた。ホームに降りた瞬間、空気の質が少し変わったと蒼は思った。海に近づく地方都市の空気には、土とも街とも違う、やわらかな広がりがある。もちろんそれが気のせいである可能性は高い。けれど、気のせいだとしても、蒼の身体はそれを歓迎していた。

 列車は南へ進む。窓の向こうに、工場の煙突や港湾の設備が見え始める。やがて、遠くに銀色の水面がきらめいた。

 海だ。

 その認識が胸に落ちた瞬間、蒼はわずかに前のめりになっていた。ほんのわずかな隙間から見えただけの海だった。だが、それは頭の中の想像よりもずっと平たく、広く、無言だった。海というものはこんなにも何も言わないのか、と蒼は思った。山や街には、それぞれに固有の音がある。けれど海は、遠くから見ると沈黙そのものみたいに見える。


 ――静かだな。


 頭の中の声が、初めて蒼の感想をそのままなぞるように言った。

 蒼は身構えた。だが、続きはなかった。罵倒も命令もない。ただ、その短い一言だけが落ちて、消えた。それがかえって不気味だった。いつものように責め立てられるほうが、まだ対処の仕方がある。声まで沈黙に触れて様子を変えることがあるのだとしたら、自分の内側の法則はますます読めなくなる。

 港の最寄り駅で降りると、潮の匂いがはっきりした。強い匂いではない。風の中にかすかに塩が混じっている程度だ。それでも、普段の街で嗅ぐことのない気配だった。蒼は人の流れについて歩き、案内表示を見ながらフェリー乗り場へ向かった。

 港は平日の昼下がりらしい落ち着きを保っていた。観光客らしい人々もいるが、数は多すぎない。帽子をかぶった高齢の夫婦、リュックを背負った若い女性の二人組、自転車を押す外国人旅行者。切符売り場のガラス窓口で目的地を告げると、係員の女性は手慣れた様子で案内してくれた。その事務的で穏やかなやり取りに、蒼は少しだけ安堵した。ここではまだ、何も起きていない。

 出航まで二十分ほどあったので、蒼は待合のベンチに座った。目の前には海がある。正面から見ると、思っていた以上に色が淡い。もっと鮮やかな青を想像していたが、実際の海面は空の色を薄く吸い込みながら、鉛色とも薄緑ともつかない表情で揺れていた。太陽の光が当たるところだけが細かく砕けて光り、その光の破片が目にちらつく。

 蒼はしばらくそれを見ていた。見ているうちに、頭の中にいつも溜まっている微細なノイズが、水面に引き取られていくような気がした。もちろん完全に消えるわけではない。けれど、都会の中では行き場をなくしていたざわめきが、ここでは少し拡散する。海の広さが、内部の狭さをそのまま増幅せずに受け止めてくれるのかもしれないと思った。

 ポケットの中のメモ帳を取り出し、蒼はあのスケッチのページを開いた。白い壁。青い絵。人影。線は昨日見たままだ。だが港のベンチで開くと、その絵全体の意味合いが少し変わる気がした。昨日までは不吉な予兆のように思えていたものが、今は単に「まだ見ぬ場所の記憶」に見える。記憶であるはずがないのに、すでに知っている場所みたいな顔をしている。

 「その絵、描いたんですか」

 不意に声をかけられて、蒼は顔を上げた。

 十歳くらいの男の子が、少し離れたところに立っていた。母親らしい女性が慌てて後ろから近づいてくる。

「すみません、勝手に……」

「いえ」

 蒼はメモ帳を半分閉じながら答えた。男の子は興味津々といった目でページを見ている。

「海?」

「……たぶん」

「たぶん?」

 無邪気な問い返しに、蒼は少しだけ困った。母親が「やめなさい」と小声で窘める。だが男の子はそれに構わず、「ぼくも船の絵描く」と言った。

「島に行くの?」

「うん」

「ぼくも。アート見るんだって」

 そのアートという言い方が妙に大人びていて、蒼はかすかに笑いそうになった。母親がようやく男の子の肩を抱き寄せ、「すみません、本当に」ともう一度頭を下げる。

「大丈夫です」

 それだけ言うと、親子は少し離れたベンチへ移っていった。

 短い会話だった。けれど、蒼はそのあともしばらく、微かな温度が胸に残っているのを感じた。誰かに話しかけられること自体は苦手だ。まして見知らぬ相手ならなおさらだ。それでも今のやりとりには、嫌な棘がなかった。男の子は蒼の様子を気にせず、ただ目の前の絵に興味を示した。それだけのことが、妙に新鮮だった。

 フェリーが入港する。低いエンジン音とともに船体が岸へ寄り、係員がロープを扱う。乗船の案内が始まると、人々がゆっくり列を作った。蒼もその後ろについた。

 船内は想像より簡素で、必要なものだけが整えられていた。蒼は窓際の席に座り、鞄を足元に置く。出航の合図が鳴り、船が岸を離れると、港の建物が少しずつ後ろへ下がっていった。白い波が船尾で砕け、風が窓越しに見えるくらい強くなる。

 海の上では、陸にいたときより音が少ない。エンジンの響き、船体が水を切る音、どこかで子どもが笑う声。それだけだ。街にあった無数の電子音や走行音や誰かの会話が消えると、世界の密度が急に薄くなる。その薄さの中で、蒼はようやく自分の呼吸の深さに気づいた。


 ――聞こえないだろ。


 声がした。

 蒼は窓の外を見たまま、少しだけ眉を寄せる。


 ――ここだと、余計なものが少ない。


 それは意地悪くも皮肉でもない、単なる観察のような声だった。蒼は返答しなかったが、心のどこかで認めていた。たしかに、海の上では声が遠い。消えたわけではない。しかし、いつものように脳の内壁に張りついてくる感じが弱い。代わりに、広い場所に置き去りにされたような寂しさが少し増した。

 窓の外では、小さな島影がいくつも浮かんでいた。近くを行き交う船。岸に沿って並ぶ家々。斜面にへばりつくように建つ建物。海はひとつの面ではなく、細かい道の集合なのだと蒼は思った。水でできた道路が島々のあいだを通り、人や物をゆっくり運んでいる。そこには都会の道路のような急き立てる速さがない。時間そのものが少し伸びる。

 蒼はスケッチブックを取り出した。何を描くつもりでもなかったのに、目の前の景色を前にすると、指が自然に鉛筆を探した。水平線。島影。船窓の縁。ざっくりした線だけが紙に乗る。以前なら、こうして何かを描くとき、もっと「上手く描かなければ」という焦りが先に立った。だが今は違った。形を取っていくこと自体が、呼吸みたいだった。

 ふと、隣の席に座っていた老人が、紙の上を見て「いいですね」と呟いた。

 蒼は少し驚いて顔を上げた。白い帽子をかぶり、日に焼けた顔をした老人だった。地元の人かもしれない。

「……いえ、適当です」

「適当で描ける人は、だいたいちゃんと見てる人ですよ」

 老人はそう言って笑った。歯の少し欠けた、穏やかな笑い方だった。

「観光ですか」

「はい」

「直島?」

「そうです」

「ええところですよ。静かでね。何もないようで、いろいろある」

 その言い方が妙に印象に残った。何もないようで、いろいろある。島のことを言っているのか、人のことを言っているのか分からない響きだった。

「アート、見に?」

「……たぶん」

 さっきの男の子と同じ返事になったことに、蒼は心の中で苦笑した。老人は「たぶん、でもええじゃないですか」と言った。

「島はね、用事がはっきりしとる人ばかり来るわけじゃない。なんとなく来て、なんとなく残る景色もある」

 それだけ言うと、老人はまた窓の外へ視線を戻した。蒼もそれ以上話を続けなかった。だが、その言葉は海の光の中で、静かに沈んでいった。

 船はゆっくりと島へ近づいていく。

 陸地の輪郭がはっきりしてくると、港の白い建物や防波堤、停泊している船の形が見えてきた。山の緑は思っていたより濃く、海とのあいだにくっきりした境目を作っている。島そのものは決して派手ではない。むしろ、拍子抜けするほど静かで普通に見えた。そこに「アートの島」という特別な名前が重ならなければ、ただの穏やかな島の港だ。

 だが蒼は、その穏やかさの中に、昨日自分を引いた見えない線の続きを感じていた。

 上陸して港に降り立った瞬間、風の質がまた変わった。陸の匂いと潮の匂いが混ざり、日差しは確かに強いのに、どこか空気が乾いている。観光案内所の前に数人が並び、自転車を借りる人たちの声がする。遠くで鳥が鳴いた。

 蒼は一歩だけ足を止めた。

 ここまで来て、ようやく本当に「来てしまった」と思った。会社から逃げるように出て、衝動半分で切符を取り、乗り継いできた。その終点のひとつが、いま目の前にある。だが、まだ旅の目的は定まっていない。何を見つけに来たのか、自分でも説明できない。白い壁と青い絵を探しているのか。声の意味を確かめたいのか。それともただ、静かな場所で息をつきたいだけなのか。


 ――もう戻れない。


 声がした。

 蒼は目を細めた。

 それは脅しのようにも、事実の確認のようにも聞こえた。たしかに、少なくとも今この瞬間、昨日までの自分の場所へは戻っていない。海を渡ったというだけで、日常との距離は確かに生まれた。その距離がどんな意味を持つのかは、まだ分からない。

 港の先に伸びる道を見ながら、蒼は鞄の肩紐を握り直した。頭の中は、不思議なほど静かだった。完全な無音ではない。遠くで微かなざわめきが残っている。けれど、それはいつものように蒼を責め立てたり急かしたりしない。海と同じで、ただ広く、輪郭を持たないままそこにある。

 蒼はゆっくりと歩き出した。

 港の白い光の中へ、島の沈黙の中へ、自分でもまだ知らない絵の続きを探すように。

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