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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第1章:島へ向かう理由

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1:崩れた日常

1:崩れた日常


 朝の電車は、いつも同じ匂いがした。

 湿った布と、整髪料と、眠気を無理やり押し込めた人間たちの体温が混ざり合ったような、逃げ場のない匂いだった。蒼は吊革につかまりながら、窓ガラスに映る自分の顔を見ていた。白い。自分で思うほど白いわけではないのかもしれないが、少なくとも健康そうには見えなかった。頬は少しこけ、目の下には薄い影が落ちている。前髪がまぶたに触れるたび、ひどく神経を逆なでされた。

 車窓の向こうに流れていく住宅街は、どこまでも平板で、まるで紙に印刷された背景のようだった。そこに人が住み、毎日を送り、笑ったり怒ったりしていることが、ときどき蒼にはうまく信じられなくなることがあった。現実というものが、自分以外の人間にはあまりにも自然に馴染みすぎているように思えたからだ。


 ――お前だけだよ。


 耳のすぐ後ろで、誰かが囁いた。

 蒼は反射的に肩をすくめた。つり革を持つ手に力が入り、指先がこわばる。振り返ることはしなかった。振り返っても、そこには誰もいないと知っているからだった。何度確認しても同じだった。声は、空気を震わせて届く音ではなく、もっと直接、脳の奥に染みこんでくる。


 ――普通の顔して立ってるけど、お前だけだよ。壊れてるのは。


 蒼は目を閉じた。息を整えようとしたが、かえって喉の奥が狭くなる。今さら驚きはしない。驚きはしないが、慣れたわけでもなかった。むしろ、その中途半端さがいちばん厄介だった。恐怖に飛び上がるほどではない。完全に無視できるほど鈍感にもなれない。だから、毎回少しずつ削られていく。紙やすりで神経の表面を撫でられるように。

 次の駅で人がどっと降り、また乗り込んできた。女子高生が笑っている。サラリーマンがスマートフォンをのぞき込んでいる。幼い子どもが母親の手を引き、窓の外を指差していた。世界は何も変わらない顔をして、時間通りに進んでいく。そのことが蒼には、時々ひどく残酷に思えた。

 自分のほうが、止まってしまっているのだ。

 その感覚は、病名を告げられたときよりもずっと前からあった。大学に通っていた頃、講義中に周囲の話し声が急に意味を持ちはじめたことがある。誰も自分を見ていないはずなのに、笑い声が自分への合図に聞こえた。廊下の足音が、監視のリズムに思えた。眠れない夜が続き、頭の中のざわめきはやがて、はっきりした言葉の形を取るようになった。

 病院に行くまでには時間がかかった。自分が変なのではなく、周囲が何かを隠しているのだと本気で思っていた時期もあった。けれど、診察室の白い光の下で、医師が穏やかな声で一つひとつ確認していくうちに、自分の感じているものが他の人には共有されていないらしいと知った。理解したというより、理解せざるを得なかった。検査結果や診断名の羅列よりも、その事実のほうが痛かった。

 病名を受け取ったところで、世界は輪郭を変えなかった。薬は少しだけ睡眠を整え、少しだけ頭のざわつきを薄めたが、すべてを消してくれるわけではなかった。声は波のように引いたり寄せたりしながら、蒼の生活に居座り続けた。

 いま勤めているデザイン事務所も、紹介で入った小さな会社だった。広告やパンフレット、イベント用のビジュアル制作を請け負う、十人にも満たない事務所だ。蒼はそこで主に下請けの作業をしていた。写真の切り抜き。レイアウトの調整。文字詰め。色味の修正。画面の中だけを見つめていれば済む仕事は、まだ呼吸がしやすかった。人と長く話さなくていいのも助かった。

 だが、そのまだ大丈夫の幅は、この数か月で目に見えて狭くなっていた。

 会社の最寄り駅で電車を降りると、朝の空は薄曇りだった。春の終わりとも初夏のはじまりともつかない、色の定まらない空だった。蒼は改札を抜け、人の流れに押されるように歩いた。駅前のコンビニから揚げ物の匂いが漂い、通りの向こうで工事車両が低く唸っている。見慣れた風景のはずなのに、どこか遠くの映像を眺めているような感覚が離れなかった。

 事務所は古い雑居ビルの三階にある。エレベーターの扉が開くと、廊下にはいつもの蛍光灯の白さが満ちていた。蒼はタイムカードを押し、小さく息を吐いてから作業室に入った。

「おはよう、蒼くん」

 いちばん奥の机から声をかけてきたのは、先輩の志村だった。三十代半ばの、いつも柔らかなシャツを着ている男だ。人当たりがよく、必要以上に踏み込まない。その距離感に蒼は何度か救われていた。

「……おはようございます」

「昨日のデータ、先方から戻ってきたよ。あとで修正箇所だけ共有する」

「はい」

 それだけのやり取りで済む朝はありがたい。蒼は自席に座り、パソコンを立ち上げた。机の隅には、昨夜のうちに鞄へしまい忘れていたスケッチブックが置かれている。白い表紙に小さな染みがついていた。最近は無意識に、何かを描いていることが多かった。意味のない線。建物の輪郭。海のような模様。知らない顔。描けば落ち着くというわけではなかったが、描かないでいると、指先の内側に何かが溜まっていく気がした。

 メールを開き、修正依頼の一覧を確認する。バナー広告三点。イベントチラシ一件。ロゴの色味調整。どれも小さな仕事だが、積み重なると息が詰まる。特に、赤字で注釈がびっしり入ったPDFを見ると、胸の中央に冷たいものが沈んでいく。


 ――どうせ間違える。


 また、声がした。

 蒼はマウスを持つ手を止めた。

 ――お前が触ると、全部ずれる。見ろよ、文字も線も、みんな嫌がってる。

 そんなはずはない。画面の中のオブジェクトに意思などあるはずがない。分かっている。分かっているのに、言われた瞬間、ロゴの水平がほんのわずかに傾いて見えた。写真の人物の笑顔が引きつったように見えた。テキストボックスの中の一行だけ、他の行から浮き上がっているように見えた。

 蒼はディスプレイから目を離し、深く息を吸った。机の木目を数える。引き出しの取っ手の傷を見る。現実にあるものを確認する。医師に教わった方法だ。自分の感覚が揺らいだとき、手触りのある物へ意識を戻す。効果がある日もあるし、まったく歯が立たない日もある。

 午前中は、なんとか持ちこたえた。修正作業を二件終え、メールも返した。志村が淹れてくれたコーヒーを飲み、短い会話もした。だが昼が近づくにつれ、頭の奥に重たい綿が詰まっていくような感覚が強くなった。周囲のキーボードの音が妙に硬く、ひとつひとつ意味を持って響きはじめる。

 カタ、カタ、カタ。

 違う。あれはただの打鍵音だ。

 カタ、カタ、カタ。

 帰れ。帰れ。帰れ。

 蒼は唇を噛んだ。視界の端が薄暗くなる。心拍が速い。隣の席の女性スタッフが電話に出る声まで、遠くから水の中を通ってくるようだった。

「蒼くん、大丈夫?」

 気づけば、志村が立っていた。

「顔色悪いよ。ちょっと休む?」

「いえ……平気です」

 平気だと言いながら、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。志村はすぐには何も言わなかった。気遣いと遠慮が、彼の沈黙には同じくらい混ざっている。

「無理しなくていいからね」

「……はい」

 蒼は頷いた。だが、その直後、画面の中の写真に映る青空が、急に不自然なほど明るく見えた。明るいというより、内側から光っているようだった。空の色がにじみ、白いノイズが混じる。その中央に、黒い線が一本、ゆっくりと引かれていくのが見えた。

 誰かが描いている。

 そう思った瞬間、全身の毛が逆立った。

 黒い線は、空ではなく画面の上に現れているはずなのに、なぜかもっと深い場所、現実の裏側を裂いているように見えた。その線は一本では終わらなかった。二本、三本、何本も重なり、やがて顔の輪郭のようなものを形づくる。目のない顔。口だけがある顔。笑っているような、裂けているような、判別のつかない形。


 ――見つけた。


 耳元ではなく、頭の内側全体に声が広がった。

 蒼は椅子を蹴るようにして立ち上がった。机の上のペン立てが倒れ、カラカラと床に転がる。事務所の空気が一斉にこちらを向いた気がした。実際に皆が見ていたのか、それともそう思っただけなのか、蒼には判断できなかった。

「蒼くん?」

 志村の声がする。

「すみません……ちょっと、外、」

 言葉を最後まで言えず、蒼は作業室を飛び出した。廊下の蛍光灯が異様に白い。トイレの鏡の前で立ち止まり、両手を洗面台について頭を下げる。水を出そうとしたが、蛇口をひねる手が震えてうまく力が入らない。鏡の中の自分は、ひどく怯えた目をしていた。

「違う……」

 蒼は低く呟いた。

「違う、違う、違う……」

 何が違うのか、自分でも分からなかった。見えたものか、聞こえたものか、それとも、それに反応してしまう自分自身か。

 やっと水が出た。冷たい水で手を濡らし、顔にもかける。呼吸は少しだけ整った。けれど、鏡を見上げた瞬間、今度は背後に誰かが立っているような気配がした。蒼は息を止めたまま振り返る。しかし誰もいない。個室の扉が二つ閉じているだけだ。換気扇の回る音が単調に続いていた。


 ――ほら、また確かめた。


 嘲るような声が言った。

 蒼は目を閉じた。瞼の裏に、さっきの黒い線が焼きついている。あの顔は何だったのか。なぜ、あんなふうに描かれるように見えたのか。いつもの幻聴や違和感とは、少し質が違った。音や言葉ではなく、像だった。線だった。まるで世界そのものが、一枚の紙の上に描き直されようとしているみたいに。

 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 取り出すと、母からのメッセージだった。

《元気にしてる? この前送った薬、ちゃんと飲めてる? 無理しないでね》

 短い文面だった。心配をかけたくなくて、最近は自分から連絡していない。母は母で、それを責めることはないが、定期的にこうして様子をうかがってくる。その優しさがありがたい日もあれば、首を絞められるように苦しい日もあった。

 蒼は返信画面を開いたものの、何も打てなかった。元気だと書くのは簡単だ。けれど、それが嘘だと自分がいちばん知っている。大丈夫だと書くたび、その大丈夫に追いつけない自分がどこかで腐っていく気がした。

 スマートフォンをしまい、蒼は洗面台の縁を見つめた。白い陶器の表面に、ほんのかすかな灰色の筋が走っている。小さな傷だ。たぶん誰も気に留めないくらいの。しかし、その一本の線から、さっき見えた黒い線の感触がまた蘇った。

 線。

 描かれたもの。

 見つけた、という声。

 気づくと、蒼はポケットからシャープペンシルを取り出し、持ち歩いていた小さなメモ帳を開いていた。何かを書かなければならない気がした。理由は分からない。ただ、今この瞬間に線を引かなければ、頭の中に残ったあの像がもっと別の形で膨らんでしまう気がした。

 蒼の手は、ほとんど意識とは無関係に動いた。

 丸。斜めの線。影。輪郭。窓のような四角。暗い空間。そこに立つ一人の人影。

 人影の向こうには、白い壁がある。壁には、大きな絵がかかっている。何の絵なのかまでは分からない。ただ、海のように平らで、青く、静かな色だけが見えた。

 蒼ははっとして手を止めた。

 自分が何を描いたのか、うまく理解できなかった。そこはトイレの洗面台の前で、描くような場所ではない。しかも、描いた記憶より先に、絵のほうがすでにそこにあったような違和感がある。

「……なんだよ、これ」

 掠れた声が漏れた。

 描かれていたのは、知らない場所だった。少なくとも、この会社でも、これまで自分が行ったことのある場所でもない。なのに、妙に確かな質感があった。白い壁の冷たさ、青の静けさ、その前に立つ人影のかすかな傾き。見たことがないはずなのに、見覚えがある。

 そのとき、トイレのドアが開く音がして、蒼は慌ててメモ帳を閉じた。入ってきたのは事務の女性スタッフで、蒼を見ると少し気まずそうに会釈した。

「大丈夫ですか?」

「……すみません。ちょっと、気分が悪くて」

「無理しないでくださいね」

 彼女はそれ以上踏み込まず、個室へ入っていった。蒼はその気遣いに感謝しながらも、自分がこの場にいること自体が異物のように思えてならなかった。会社の人たちは優しい。少なくとも露骨に責めたりはしない。けれど、その優しさの中で、蒼はますます自分の壊れ方だけが浮き彫りになる気がした。

 作業室へ戻る前に、蒼はメモ帳をもう一度だけ開いた。

 そこには、さっき自分が描いたはずの場所が、やはりあった。

 白い壁。青い絵。人影。

 そして、ページの端に、自分の字ではないような、細く尖った文字が走っていた。

 海の見える場所へ。

 蒼は息を呑んだ。

 そんな言葉を書いた覚えはなかった。いや、もしかしたら無意識に書いたのかもしれない。そう考えるしかない。だが、その文字には妙な意志があった。偶然の走り書きにしては整いすぎていて、まるで最初からそこに書かれることを待っていたみたいだった。

 海の見える場所へ。

 その言葉だけが、心の奥に小さな棘のように刺さった。

 事務所に戻れば、たぶんまた画面を見て、修正をして、夕方までやり過ごすことはできるかもしれない。けれど、今日のどこかで、何かが決定的にずれたのだと蒼は感じていた。それは崩壊というほど派手なものではない。ただ、日常を支えていた薄い板の一枚が、音もなく抜け落ちたような感覚だった。

 このままでは、たぶん近いうちに立っていられなくなる。

 蒼はメモ帳を閉じ、胸ポケットへしまった。洗面台の鏡に映る自分の顔は、来たときよりもいっそう青白く見えたが、その目の奥には、恐怖と同じくらい、説明のつかない引力のようなものが宿っていた。

 海の見える場所。

 その言葉は、命令のようでもあり、救いのようでもあった。

 まだこのときの蒼は知らなかった。自分がこれから、本当に海の見える島へ向かい、白い壁に掛かった青い絵の前へ立つことになるとは。その場所で、描かれたものと現実の境目が、ゆっくりと崩れはじめることになるとは。

 ただひとつ分かっていたのは、いま立っているこの場所には、もう長くいられないということだけだった。

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