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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第3章 境界の崩壊

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5:選択

5:選択


 その夜、蒼はなかなか眠れなかった。

 宿の畳の部屋に戻ってから、女将に「顔色悪いけど大丈夫?」と声をかけられ、「少し疲れているだけです」と答えた。嘘ではない。疲れている。それも、歩き疲れたというより、頭の中で何かを抱え続けたまま一日を過ごしたあとの、芯の部分の消耗だった。

 夕食は出された分の半分ほどしか食べられなかった。味がしないわけではない。けれど、口に入れたものが胃へ落ちていくまでに、いちいち意識を向けなければならない感じがした。女将はそれ以上何も聞かなかった。ただ、「お風呂、空いたら声かけるね」とだけ言った。その距離の取り方がありがたかった。

 風呂から戻るころには、外はもう完全に夜になっていた。本村の夜は、蒼の住んでいる街の夜とはまるで違う。街灯が少ない。人の話し声もほとんど聞こえない。たまに遠くで戸が閉まる音や、誰かの足音が短く響くくらいで、あとは夜そのものが静かに辺りを満たしている。その静けさが、都会ではいつも救いに見えた。騒音のない場所。人の気配が薄い場所。自分を刺激するものの少ない場所。けれど今夜の静けさは、少し違っていた。余計なものがない分、自分の中にあるものが、外へ逃げずにそのまま濃くなる。

 蒼は机の上にスケッチブックを置き、椅子に座った。ページは開いていない。開けたくなかった。

 午後の広場で描いた絵。女性の後ろ姿。石段の近くの不安定な影。落下の軌道のような斜線。そして、そのあと実際に起きた小さな躓き。もし凪と一緒にいなければ、あの高齢の女性は転んで膝を打っていたかもしれない。あるいは何も起きなかったかもしれない。そこまでは分からない。分からないまま、しかし「近かった」ことだけが、いやになるほど身体に残っている。

 蒼は目を閉じた。

 すると、すぐにあの場面が浮かんだ。広場の白い壁、青い絵、石段、女性の足元、揺れた買い物袋。今までは見るだけだった。脳裏をよぎる像と、あとから起きる小さな一致。それが豊島の白い船や、本村の路地のときの形だった。けれど今日は違った。自分はその中へ飛び込んだ。凪と一緒に手を伸ばした。つまり、ただ見ていただけではない。選んだのだ。声に従ったのか、自分の意志で動いたのか、その境目が曖昧なまま。


 ――変えた。


 近い声が、思い出したように言った。

 蒼は目を開けた。部屋の暗がりが、少しだけ揺れて見える。

 変えた。午後にもその声はそう言った。凪は「分からないことを、今すぐ一つの物語にしない方がいい」と言った。蒼もそう思う。思うのに、近い声が囁くその一言は、やけに強い吸引力を持っていた。変えた。何を。事故の大きさをか。起きるはずだった未来をか。あるいは、もっと別の、名づけにくい何かをか。

 同時に、ざらついた声もまだ完全には消えていない。


 ――だから言うな。

 ――触るな。


 その二つの声は、互いに反対を向きながらも、どちらも蒼を何かに近づけすぎないようにしているように見える瞬間がある。近い声は行動させる。ざらついた声は引き留める。そのどちらも、自分の意志を挟む余地を少しずつ削っていく。導かれるか、押し戻されるか。そのどちらかしかないような狭い通路へ追い込まれていく感じがした。

 蒼はスケッチブックを開いた。

 午後に描いたページ。乱れた線と、傾きかけた人影。ページの下には、自分で書いた記録が残っている。午後/広場/女性が石段で躓く/凪さんと支えた/大きな転落にはならず。

 文字にすると、その出来事は異様なほど静かだった。あんなにも身体の中では大きく響いたのに、紙の上では短い数行で済んでしまう。だがその簡潔さの中に、取り返しのつかなさがある。記録は、体験に薄い輪郭を与える。輪郭を持ったものは、二度と完全には曖昧へ戻らない。

 蒼はさらにページをめくった。今朝描いた本村の細道。午前9時過ぎ/本村・白壁の細道/「ここで待て」/配達の人が奥から来た。その前には、帰りの船で描いた広場の二人の人影。豊島の港での小さな一致の絵。白い船。斜線。そして最初の、洗面台の前で無意識に描いた、白い壁と青い絵。

 増えている。

 蒼は改めてそれを実感した。絵が、増えている。しかも、ただ数が増えているだけではない。最初の絵は曖昧だった。次は少し具体的になり、路地が現れた。そして今日、転落しかける人影まで描かれてしまった。断片の濃度が上がっている。もしこれがさらに続いたら、次はもっとはっきりした何かが現れるのではないか。そう考えると、喉の奥が冷えた。

 そこでふと、スマートフォンが震えた。

 凪からのメッセージだった。

《今日はここまでにできてよかったです。記録、もし書けそうなら、時間だけでも残しておいてください。無理に意味づけしないで》

 短い文面だった。けれど蒼は、その最後の一行をしばらく見つめた。無理に意味づけしないで。それは当然の助言のようでもあり、同時に難題でもあった。意味づけしないでいること。いま自分が最もできなくなりつつあることが、まさにそれだったからだ。絵が現れ、近いことが起こり、自分が手を伸ばしてそれを止める。そこに意味を見ないほうが不自然に思える。だが、見すぎれば壊れる。その境界に、いま自分は立っている。

 蒼は《ありがとうございます。時間は書きました。今日はもう描かないようにします》と返信した。

 送信してから、その描かないようにしますという一文が、自分に対する約束としてどれほど頼りないものかを思い知らされた。描かないようにする。それは可能なのだろうか。今の自分にとって、絵はもう単なる表現ではなくなっている。何かが現れる場所であり、確認する場所であり、時に現実と噛み合ってしまう危険な面でもある。だが同時に、描かなければ頭の中にそれが濃いまま残ることも知ってしまった。

 机に向かったまま、蒼は両手で顔を覆った。

 「選ぶしかない」

 ふいに、自分の声でそう呟いていた。

 その言葉が部屋の中へ落ちた瞬間、頭の中の二つの声が、めずらしく同時に沈黙した。

 選ぶしかない。

 それは、声に従うか従わないかという単純な話ではなかった。自分の中で起きていることを、どこまで現実へ持ち込むのか。どこから先を、自分の内側だけに留めるのか。絵を描くのか、描かないのか。見えたものを誰かに伝えるのか、黙って飲み込むのか。自分は見るだけの側でいるのか、それとも止めに入るのか。選択肢は少なくない。けれど、そのどれにも危険がある。

 蒼はスケッチブックの最後のページ近くを開き、新しい紙を前にした。描くつもりではなかった。ただ、何かを書かなければ頭の中が整理できない気がした。鉛筆ではなく、ペンを持つ。そしてページの上に、小さく箇条書きのような形で書き始めた。


 1. 声にすぐ従わない。

 2. 見えたら、時間と場所を書く。

 3. 一人で確認しに行かない。

 4. 描く前に、一度呼吸を整える。

 5. 誰かが危ないと感じたら、止める。


 書き終えると、その五行が思いのほか強い重みを持って見えた。ルール。いや、約束に近いものかもしれない。自分の感覚を完全に信じないための約束であり、同時に、自分の感覚を完全に捨てないための約束でもある。

 蒼はそのページをじっと見た。

 これで十分かどうかは分からない。たぶん十分ではない。けれど、何も持たずにいるよりはいい。もし明日、また何かが見えたら。そのとき、近い声が「行け」と言っても、ざらついた声が「言うな」と言っても、その真ん中にこの五行を差し挟めるかもしれない。


 ――そんなもので足りるのか。


 ざらついた声が、久しぶりに明確に言った。

 蒼は目を閉じた。足りないかもしれない。だが、足りるかどうかが先ではない。自分が自分であるために、何か一本、現実の側から線を引かなければならないのだ。


 ――遅い。


 今度は近い声が低く言った。

 遅い。その言葉に、蒼の胸がざわつく。遅い。何に対して。次の予兆にか。次の事故にか。あるいは、自分が選択をすることそのものにか。明確な答えはない。けれど、その一言だけで、空気が少し変わった気がした。

 蒼は顔を上げた。

 部屋の暗がりの中で、窓の外がわずかに白んで見えたわけではない。夜はまだ深い。だが自分の中のどこかで、次の出来事がもう近づいている気配があった。それは恐怖でもあるし、避けられない波のようなものでもある。

 そのとき、スマートフォンが再び震えた。

 今度は凪ではなかった。知らない番号からの着信だった。蒼は一瞬、出るべきか迷った。こんな時間に誰だろう。けれど島では、宿や展示関連の連絡が携帯から来ることもあるかもしれない。数秒の躊躇のあと、通話ボタンを押した。

「もしもし」

 少しの雑音のあと、聞こえてきたのは男の声だった。

『あ、すみません。三宅です』

 直島で出会った、展示の搬入や補修をしていると言っていた男だ。蒼は思わず背筋を伸ばした。

「三宅さん?」

『はい。急にすみません。凪ちゃんに番号聞いたんですけど』

 その時点で、蒼の胸に嫌な予感が走った。凪から番号を聞いてまで連絡してくる理由が思い浮かばない。三宅の声は落ち着いていたが、少しだけ急いでいるようにも聞こえる。

『今日、広場にいましたよね』

「……はい」

『あのあと、石段のところ、少し補修しようと思って見に行ったんですけど』

 三宅はそこで一拍置いた。

『妙なものがあって。いや、妙っていうか……誰か、広場の近くで転んだりしませんでした?』

 蒼の喉がひくりと動く。

「高齢の女性が、少し躓いて……でも大きな怪我では」

『そうですか。やっぱり』

 三宅の声が、少し低くなった。

『実はあの石段の下、古い鉄の金具が浮いてたんです。今日たまたま見つけて。もしもう少し強く転んでたら、膝じゃ済まなかったかもしれない』

 蒼は椅子に座ったまま動けなくなった。

 午後の小さな事故。もし転んでいたら。ただの躓きで終わったかもしれない。だが実際には、石段の下に危険なものがあった。つまり、自分たちが支えたことで、大きくならなかった可能性が、一気に現実味を帯びてしまったのだ。

 電話の向こうで、三宅が続ける。

『とりあえず明日の朝一番で直します。夜のうちにロープだけ張っておこうと思ってるんですけど、念のため共有しといたほうがいいかなって』

 蒼は声を出そうとしたが、うまくいかなかった。

「……ありがとうございます」

 やっとそれだけを言うと、三宅は『いや、こちらこそ。もし今日近くにいたなら助かりました』と返した。

『あそこ、ちょっと危なかったですね。たまたま大事にならなくてよかった』

 たまたま。大事にならなくてよかった。三宅のその現実的な言い方が、かえって蒼を深く打った。たまたま、で済ませるには、自分の描いた絵と起きたことの距離が近すぎる。けれど、現実の側の人間はそれを「危なかったですね」「大事にならなくてよかった」と処理する。それが普通だ。たぶん、それが正しい。

 通話を切ったあと、蒼はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。

 部屋は静かだった。だがその静けさの中で、先ほどまで言い争っていた二つの声が、また別の形で近づいてくる。


 ――だから言うなと言った。


 ざらついた声が言う。


 ――見たから防げた。


 近い声が囁く。

 蒼は机に置いた自分の五つのルールを見た。


 1. 声にすぐ従わない。

 2. 見えたら、時間と場所を書く。

 3. 一人で確認しに行かない。

 4. 描く前に、一度呼吸を整える。

 5. 誰かが危ないと感じたら、止める。


 その五番目が、いま急に重みを持って迫ってくる。誰かが危ないと感じたら、止める。 それは今日、自分が現実でやったことだった。そして、もし三宅の言うとおり石段の下に危険な金具があったのなら、その選択はたしかに意味を持っていたことになる。

 蒼はゆっくりとペンを取り、ページの下に一行だけ書き足した。


 6. 止めた結果がどうであっても、全部を自分の力だと思わない。


 書き終えた瞬間、胸の奥の熱が少しだけ下がった気がした。選択することは必要だ。けれど、その結果まで全てを自分の特別な力や責任に結びつけてしまえば、たぶん取り返しがつかない。そこに溺れないための線が、もう一本必要だった。

 蒼はスケッチブックを閉じた。

 第三章の最後で、自分が選ぶべきものは、声に従うかどうかだけではないのだと、ようやく分かり始めていた。見ること、描くこと、止めること。そのたびに、自分を失わないための細い線を引き直さなければならない。おそらく、この先も何度も。

 布団に入っても、すぐには眠れなかった。

 けれど今夜は、ただ怯えているだけではなかった。怖い。たしかに怖い。自分の見たものが現実に近づくことも、それによって何かが変わるかもしれないことも。けれど、その中で自分にできる小さな選択があることもまた、分かってしまった。

 それは救いではない。

 むしろ、責任に近い重さを持っていた。

 夜の底で、蒼はその重さを胸に載せたまま目を閉じた。次に何が見えるのかは分からない。だが、もう何も見ないふりはできない。そして、見たときにどうするかも、少しずつ自分で決めなければならない。

 そのことを受け入れたところで、第三章はようやく終わるのかもしれなかった。

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