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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第3章 境界の崩壊

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4:大きな予言

4:大きな予言


 午後の光が少し傾きはじめたころ、島の色はまた別の層を見せ始めた。

 海の見える細道を離れ、蒼と凪はしばらく無言のまま歩いていた。さっき、白い船影を見た瞬間に頭の中でぶつかった二つの声――「見るな」と「見ろ」――その残響が、蒼の中ではまだ完全に静まっていなかった。頭の奥が薄く熱を持ち、耳の内側に空気が溜まっているような感じがする。音は聞こえているのに、少しだけ遠い。風の音も、凪の足音も、現実の中にあると分かっているのに、一枚膜を通して届いてくる。

 このまま歩き続けていいのか、蒼には判断がつかなかった。

 頭の中で声が割れたことは、今までの変化とはまた違う種類の危険を示しているように思えた。近くで導くような声と、昔のように押し留めるざらついた声。その二つが同時に存在し、しかも同じ風景を前にして反対の指示を出す。どちらも自分の中に近く、どちらも完全には他人の声として切り離せない。だからこそ、従うも拒むも難しい。

 凪が先に口を開いたのは、海が見えなくなり、白い壁と石段の続く本村の内側へ戻ってきた頃だった。

「今日は、ここまでにした方がいいかもしれませんね」

 蒼はすぐには返事をしなかった。たしかに、それが妥当だと思う。これ以上、絵を探し、路地を照合し、声の指示を追って歩けば、たぶん何かが壊れる。けれど同時に、今ここで止まると、頭の中で起きていることの続きが、もっと曖昧で不気味な形で膨らみそうでもあった。

「……そうですね」

 ようやくそう答えると、凪は小さく頷いた。

「宿まで送りますか」

「大丈夫です」

 そう言いかけて、蒼は自分の声に力がないことに気づく。ほんとうに大丈夫かどうか、自分でも怪しかった。凪はそれを見透かしたように、少しだけ眉を寄せた。

「じゃあ、広場のところまで」

 断る理由が見つからず、蒼は頷いた。

 二人は青い絵のある広場へ向かった。あそこを経由するのは、もはや自然な流れになっていた。蒼にとって、広場は単なる展示場所ではなく、島の中で現実と別の層が最初に噛み合った場所になっている。怖い。だが同時に、そこを通らずに今日を終えることもできない気がした。

 坂道を上る途中で、蒼はふと、妙な静けさに気づいた。

 観光客の話し声が減っている。鳥の声も遠い。風は吹いているはずなのに、その音だけが薄い。周囲の世界の音量が少しだけ絞られ、そのぶん頭の中の輪郭だけがくっきりしてくる感じ。嫌な予感がした。こういう静けさは、何かが始まる前によく似ている。

 

 ――来る。


 近い声が言った。

 蒼は足を止めた。

 凪が振り返る。「どうしました」と訊こうとするより先に、蒼は首を横に振った。言葉にしたくなかった。来る、と聞いた瞬間、その来るものに輪郭を与えてしまう気がしたからだ。

 広場へ着く。

 白い壁。青い絵。夕方ほどではないが、朝とも昼とも違う、少し乾いた光。広場には誰もいなかった。凪が「少し座りましょうか」と言ったが、蒼は首を振った。座れない。今は、身体の中に奇妙な緊張が走っていて、じっとしていると逆に壊れそうだった。

 蒼はスケッチブックを取り出した。自分でもなぜそうしたのか分からない。ただ、もう描くしかない、という感覚があった。何かが来るのなら、その前に紙の上へ出さなければならない。さもないと、自分の中で直接形を持ってしまう。

「蒼さん」

 凪の声がしたが、蒼はもう止まれなかった。

 ページを開く。白い紙。鉛筆を持つ指先が熱い。手が震えているのに、線だけは妙にはっきりしている。蒼は深く息を吸おうとしたが、肺に入る前に鉛筆が動き出した。

 最初に現れたのは、広場そのものではなかった。

 斜めに落ちる影。低い石垣。白い壁の端。そこまでは、いま目の前にある風景の一部にも見える。だが次の瞬間、紙の上には細い身体の輪郭が現れた。人だ。こちらに背を向けている。髪の長さ、肩の線、片手を少し上げた仕草。女性に見えた。凪かもしれない、と蒼は思う。だが確信はない。

 その向こうに、別の形が描かれる。

 人影。男か女か分からない。背が高い。広場の端、石段の近くに立っている。その人影は、まるで今にも足を踏み外しそうな、不安定な角度で傾いていた。蒼の手は止まらない。さらに一本の線を引く。落下の軌道みたいな斜線。次に、黒い点。地面に散るような小さな点。最後に、紙の端近くに大きく乱れた筆圧の跡が残る。

 蒼ははっとして鉛筆を止めた。

 心臓がひどく速い。耳の奥で血の音がする。目の前の絵は、これまでの小さな予兆とは違っていた。白い船が少し傾くとか、路地の奥から誰かが現れるとか、そういう近いことではない。もっと明確で、もっと不吉だ。誰かが転落する。あるいは、事故に遭う。そういう類の像だった。

「……何を描いたんですか」

 凪の声は低かった。責める響きではないが、いつもより緊張している。

 蒼は自分でもうまく呼吸ができないまま、ページを見下ろいた。女性の後ろ姿。傾く人影。斜線。黒い点。広場に似た空間。これが何を意味しているか、言葉にしたくない。口にした瞬間、それが現実へ近づく気がした。


 ――言うな。


 ざらついた声が即座に言う。


 ――言え。


 近い声が、ほとんど重なるように囁く。

 蒼はこめかみを押さえた。二つの声が同時に押し寄せると、頭の中が一瞬白くなる。凪は蒼の顔色を見て、ページへ視線を戻した。

「誰かが……落ちるように見えます」

 結局、凪の方が先に言葉にした。

 蒼の喉がひきつる。

「……はい」

 絞り出すように答えると、広場の空気がほんのわずか重くなった気がした。白い壁も、青い絵も、さっきまでとは違う意味を帯びる。絵は相変わらず何も言わない。だが、その前でいま描かれたものは、あまりにも具体的だった。

「ここで?」凪が訊く。

 蒼はすぐには答えられなかった。ここで、と断定するのが怖かった。けれど、紙の構図は広場によく似ている。石段の位置、壁の余白、青い絵の矩形までは描いていないのに、この場所の空気が染み込んでいる。

「たぶん……」

 またその曖昧な返事になる。

 凪は小さく息を吐き、広場を見回した。誰もいない。風が吹き、壁際の草が揺れるだけだ。こういうときでさえ、島はひどく静かだ。その静けさが、かえって不気味だった。

「今すぐ何か起きる感じはしますか」

 その問いは現実的だった。蒼は助けられる思いで、紙から目を離し、自分の身体の感覚に意識を向けた。胸の鼓動。手の震え。頭の奥のざわめき。だが時間までは分からない。船のときも、すぐ後に起きたわけではあるが、数分の幅があった。路地のときも、待っているあいだに人が現れた。今の絵が、いつを指しているのかは分からない。

「……近い気はします。でも、今すぐかは」

 凪は頷いた。その顔には迷いがあったが、パニックはなかった。そこが蒼には救いだった。もしここで凪が露骨に怯えたり、逆に「そんなわけない」と切り捨てたりしたら、蒼はたぶん耐えられなかった。

「蒼さん」

 凪が静かに言う。

「一つ決めましょう」

 蒼は顔を上げる。

「この絵を、当たるか外れるかで考えるのをいったんやめます」

「……やめる?」

「はい。いま必要なのは、もし近いなら、どうするかです」

 その言い方に、蒼は目を見開いた。当たるか外れるか。たしかに、自分はそこに囚われていた。予言なのか、偶然なのか、当たるのか外れるのか。けれど凪が言う通り、いま問題なのは、もしこの絵が近い何かを示しているなら、それにどう現実で対処するかだ。

「どうする、って……」

「この広場でしばらく一緒にいて、変なことが起きそうなら止める。それだけです」

 あまりにも単純な言い方だった。けれどその単純さが、蒼には必要だった。意味づけや診断ではなく、行動として何をするか。誰かが転びそうなら支える。危ない場所へ行きそうなら声をかける。それだけの現実。

 蒼はスケッチブックを見下ろいた。女性の後ろ姿。傾く人影。斜線。黒い点。たしかに恐ろしい。だが、それを運命のように受け取るのではなく、起きるかもしれない事故として警戒することはできるのかもしれない。

「……分かりました」

 蒼は言った。

「じゃあ、少しここに」

「はい」

 凪は広場の入り口寄りに立ち位置を変えた。蒼も青い絵の前から少し外れ、石段と広場の全体が見える位置へ移る。二人の間に、言葉の少ない緊張が流れる。広場は静かだ。風がある。遠くで誰かの笑い声がほんの一瞬聞こえる。それだけだ。

 時間がゆっくり伸びる。

 蒼は自分の目をどこへ置けばいいのか分からなかった。石段か。広場の端か。坂を上ってくる人影か。視線を動かすたび、頭の中の二つの声がまたざわつく。


 ――見るな。

 ――見ろ。


 蒼は歯を食いしばった。凪にはもう話した。だから、せめていまは声に従うのではなく、現実の動きを見る。そう自分に言い聞かせる。

 数分後、坂の下から人の話し声が近づいてきた。若い女性二人組だった。観光客らしく、スマートフォンを見ながら何かを話している。彼女たちは広場へ入り、青い絵の前で立ち止まった。蒼の胸が強く打つ。紙に描かれていた後ろ姿の一つは、たしかに女性に見えた。凪も少しだけ身体を強張らせた気配がある。

 二人は絵の前で写真を撮り、しばらく話していた。片方が少し後ろへ下がる。もう一人が石段の方を向く。蒼の手のひらが汗ばむ。だが何も起きない。彼女たちは数分後、また坂を下って去っていった。

 蒼は息を吐いた。肩に入っていた力が、一度に抜ける。外れたのかもしれない。そう思った瞬間、ざらついた声が小さく笑った気がした。


 ――だから言うなと言ったのに。


 蒼は顔をしかめる。すると近い声が、重なるように言った。


 ――まだだ。


 その一言で、再び全身が強張った。

 まだ。何がまだなのか。凪も何かを感じたのか、広場の入り口から坂の方を見上げている。

 次に現れたのは、一人の高齢の女性だった。地元の人らしく、買い物袋を片手にゆっくり坂を上ってくる。広場を横切るだけのつもりらしく、青い絵には目もくれない。その歩き方は安定している。蒼は少しだけ安堵した。紙に描かれた後ろ姿の女性とは違う気がした。

 だが、その女性が広場の端の石段近くへ差しかかったとき、片方のサンダルが段差に引っかかった。

 ほんの小さな躓きだった。

 しかし蒼の体は、自分で考えるより先に動いていた。

「危ない!」

 声が出る。同時に凪も走る。高齢の女性の身体が前へ傾きかける。買い物袋が大きく揺れ、中の野菜が覗く。転倒まではいかない。けれどこのままなら、膝から石段へぶつかっていたかもしれない。凪が女性の腕を支え、蒼は反対側から袋を受け止めた。

「あら……」

 女性は驚いた顔をしたが、すぐに体勢を立て直した。

「すみませんねえ」

「大丈夫ですか」

 凪が訊くと、女性は「大丈夫、大丈夫」と笑った。少し膝を擦ったらしいが、大きな怪我はない。袋の中身も無事だった。蒼は受け止めた買い物袋を女性へ返しながら、自分の指先がまだ細かく震えているのを感じていた。

 それは、まぎれもなく近いことだった。

 紙に描いたような大きな転落ではない。人が死ぬような事故でもない。けれど、女性の後ろ姿、石段の近く、身体の傾き、落下の寸前、散りそうになるもの――その要素は、恐ろしいほど絵に近かった。しかも、さっきの二人組ではなく、あとから来た地元の女性という点が、蒼の予測をさらに外したかたちで一致している。

 女性は何度も礼を言いながら、そのまま広場を抜けていった。凪はその背中を見送り、やがて蒼のほうを振り返る。

「……今の、近かったですね」

 蒼は答えられなかった。喉の奥がひどく乾いている。近かった。それでは済まないような感覚があった。自分たちが止めなければ、もう少し大きく現実に寄っていたかもしれない。そう思うと、絵が当たったのかどうかより、自分がそれを受けて行動したことで何かが変わったのではないか、という新しい怖れが生まれる。


 ――変えた。


 近い声が、ほとんど満足そうに囁いた。

 蒼はぞっとした。

 変えた。何を。事故の大きさをか。絵の行き先をか。もしそうだとしたら、自分は見る側ではなく、すでに介入する側へ足を踏み入れてしまっていることになる。

「蒼さん」

 凪の声が、今度は少し強く響いた。

「座りましょう」

 その口調に逆らえず、蒼は壁際のベンチに腰を下ろした。膝に力が入らない。頭の中では、ざらついた声と近い声がまだ遠くで揺れている。だが今いちばん鮮明なのは、自分の叫んだ「危ない!」という現実の声だった。あれは、自分の意志で出した声だ。少なくともその瞬間は、そう信じたい。

 凪も隣に座った。しばらく何も言わなかった。蒼の呼吸が少し落ち着くのを待っているのだと分かる。

「……大きな予言、っていうより」

 蒼はやっとの思いで言葉を絞り出した。

「大きくなりかけた事故、だったのかもしれないです」

 凪は少し考えてから頷いた。

「そうかもしれません」

「でも、もし僕たちがここにいなかったら」

「それも、分かりません」

 凪ははっきり言った。

「分からないことを、今すぐ一つの物語にしない方がいいです」

 その言い方に、蒼はほんの少しだけ救われる。もしここで「蒼さんが見たから防げたんです」と言われたら、たぶん自分はもっと危うい方へ倒れていた。逆に「ただの偶然です」と切り捨てられても、今起きたことを自分の中で処理できなかっただろう。分からない、と言ってもらえることが、いまは必要だった。

 それでも、絵はもう一段階大きくなった。

 白い船の小さな一致より、路地の奥から現れた配達の人より、今の方がずっと現実に近く、身体に触れている。女性の腕を支えた感触。袋の重さ。躓いたときの靴音。その全部が、ただの予兆ではなく具体的な手触りとして残っている。

「今日は、もう終わりにしましょう」

 凪が静かに言った。

 蒼はうなずいた。これ以上は無理だ。頭も体も、もう十分に限界に近い。広場を離れる前に、蒼はスケッチブックを開き、さっき描いた絵のページの下に震える字で書き込んだ。

 午後/広場/女性が石段で躓く/凪さんと支えた/大きな転落にはならず

 書き終えると、紙の上の絵と現実のあいだに、ひどく細い橋がかかった気がした。その橋を渡るべきか、壊すべきか、まだ分からない。けれど少なくとも、もう何も起きていないふりはできなかった。

 広場の青い絵は、午後の終わりの光の中で静かに沈んでいた。

 それは相変わらず何も語らない。だが蒼にはもう、この絵が始まる前の色であるだけでなく、大きくなりかけたものを留める色にも見え始めていた。何かが起こる。その寸前で止まる。その境界に、自分は立っているのかもしれない。

 その考えに、蒼はまた新しい恐怖を覚えた。見ることより、変えることの方がずっと重い。もしこの先、もっと大きな何かが来たら、自分はどうするのか。凪と一緒にいても防げないことが起きたら。あるいは、防いだつもりで別の形に変えてしまったら。

 広場を下りるとき、風が少し強く吹いた。蒼は一度だけ振り返った。白い壁、青い絵、静かな空間。あの場所はもう、単なる作品の前の広場ではなかった。予兆が現実とぶつかり、かろうじて傷になりきらずに済んだ場所として、蒼の中に刻まれてしまったのだ。

 大きな予言は、まだ完成していないのかもしれない。

 けれど、その輪郭だけは、もう確かにこちらへ向かってきていた。

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