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島に残された絵  作者: Futahiro Tada
第3章 境界の崩壊

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3:現実との衝突

3:現実との衝突


 昼に近づくにつれて、本村の路地には観光客の姿が少しずつ増えていった。

 白い壁のあいだを、地図を片手に歩く人たち。展示の案内札を探しながら立ち止まる二人連れ。カメラを首から下げた外国人の男性。島の空気は相変わらず静かだったが、その静けさの上に、外から来た人々の足音と視線が薄く重なり始めている。蒼は石垣から立ち上がり、スケッチブックを鞄にしまった。

 凪が「少し場所を変えましょうか」と言う。

 さっきの細道の前に長く留まり続けるのは、蒼にもよくない気がしていた。路地そのものが呼吸の浅さを強めている。光は白く、壁は近く、風があまり通らない。その狭さが、頭の中の声を必要以上に鮮明にしてしまう。凪の提案に頷き、二人はゆっくり坂を下り始めた。

 蒼は歩きながら、自分の足が少しだけ地面を確かめるようになっていることに気づいていた。一歩ごとに、足裏へ伝わる硬さや傾きを確認する。そうしないと、頭の中だけが先に進みすぎて、身体があとからついてくる感じになるからだ。今朝から、自分の中の順番が何かおかしい。風景を見る。声が補足する。現実がそれに近いかたちで応答する。その繰り返しの中で、蒼は世界を「見る」のではなく、「先に予感し、その答え合わせをする」ような見方へ少しずつ引きずられている。

 それが恐ろしい。

 恐ろしいが、完全には抗えない。

 坂を下り、少し開けた場所へ出ると、海が斜めに見えた。凪はそのまま広場とは別方向の、比較的人通りの少ない道へ蒼を導いた。歩きながら「お昼、ちゃんと食べられそうですか」と何気なく訊く。蒼は少し考えてから、「たぶん」と答えた。凪はその曖昧さに慣れてきたように、特に言い直させたりはしない。

「食べられるうちに食べたほうがいいです」とだけ言って、小さなカフェのような店の前で立ち止まった。観光客向けというより、島の人も普通に入るような簡素な店だった。木の看板、開け放たれた窓、店先に置かれた鉢植え。こういう具体的な場所に入ることは、蒼にとって少し意味があった。現実に座り、現実の皿を前にして、現実のものを口にする。その行為自体が、薄くなりかけた輪郭を戻すことがある。

 店に入ると、昼前のせいか客はまだ少なかった。窓際の席に座る。窓の外には低い塀と、その向こうに空の切れ端が見える。完全に海が見えるわけではないが、風の匂いに塩気が混ざっている。凪はメニューを見ながら「食べやすいものにしましょう」と言い、蒼もそれに倣って簡単なランチを頼んだ。

 注文を終えると、テーブルの上に静かな間が落ちる。

 蒼は水のグラスを握りながら、自分の中で何をどこまで話すべきかを考えていた。朝から聞こえた声。描いてしまった新しい路地。細道の前で「ここで待て」と言われたこと。そしてそのあと、実際に奥から一人の人が現れたこと。凪はすでにその一部を知っている。だが蒼には、まだ言っていないことがあった。

 今朝から、声は以前よりも便利になっているのだ。

 その言い方をすること自体が危険だと分かっている。けれど、風景を選び、細部を判断し、場所を導こうとする今の声は、たしかに以前のような純粋な苦痛だけではなくなっていた。だからこそ、境界が崩れ始めているのだと思う。

「凪さん」

 蒼は低く呼んだ。

「はい」

「朝から、声の話をしましたけど……たぶん、もっと悪い言い方をしたほうが正しいかもしれないです」

 凪は何も言わずに蒼を見る。その沈黙に押し出されるように、蒼は続けた。

「前は、もっと嫌でした。責めてくるとか、否定してくるとか。自分を削る感じで。でも今は……」

 喉が乾く。水を一口飲んでも、うまく言葉が滑らない。

「今は、自分を助けてるみたいに聞こえるんです」

 言ってしまった瞬間、蒼はテーブルの木目を見た。凪の顔を見るのが少し怖かった。助けてる。そんなふうに表現したくないのに、それがいちばん近い。危険だと分かっているからこそ、その言葉は口の中で苦かった。

 凪は少しだけ考えるように視線を落とした。

「助けてる、というと」

「道を選ばせたり、違うって言ったり、待てって言ったり。……前より、自分の感覚と一緒に動く感じがするんです」

「蒼さん自身がそう思ってる部分と、重なってる?」

「たぶん」

 またその曖昧な返事になる。だが今は、それ以上はっきり言えなかった。

「だから、余計に分からないんです。これが自分の勘なのか、病気なのか、ただの思い込みなのか」

 凪はしばらく黙っていた。店の奥で食器の音がした。外を誰かが通り過ぎる足音がする。現実は普通に続いている。その普通さの中で、自分だけがこんな話をしていることの奇妙さに、蒼は少し眩暈を覚えた。

「一つだけ、はっきりしてることはあります」

 やがて凪が言った。

「何ですか」

「その声に全部預けないほうがいいってことです」

 蒼はゆっくり顔を上げた。凪の声は穏やかだったが、そこには今までより少しだけ硬い芯があった。

「もしそれが勘だとしても、もし本当に何かを先に拾ってるんだとしても、全部をそこに委ねると、蒼さんが消えるから」

 蒼は言葉を失った。

 全部をそこに委ねると、蒼さんが消える。凪のその一言は、自分でも輪郭を掴みきれていなかった怖れを、そのまま形にしたように響いた。自分が消える。たしかにそうだ。以前のように責められるだけなら、まだ抵抗する自分が残る。だが今の声は、助ける顔をして近づいてくる。だからこそ、その声に従うほど、自分の意志と区別がつかなくなる。気づいたときには、自分が選んでいるのか、選ばされているのか分からなくなる。

「……はい」

 蒼は小さく答えた。

 ちょうどそのとき、注文した料理が運ばれてきた。皿の上の湯気、スープの匂い、パンの焼けた香り。食べ物が目の前に置かれると、会話はいったん途切れる。凪は「無理に全部食べなくていいですから」と言い、スプーンを手に取った。蒼もそれに倣う。最初の一口を口に入れると、思っていた以上に空腹だったことに気づく。体はちゃんと消耗していたのだ。

 数口食べたあと、凪がぽつりと訊いた。

「会社にいたとき、こういう感じはありましたか」

 蒼はスプーンを止めた。

「こういう感じ、って」

「声が、自分を助けてるみたいに近づいてくる感じ」

 蒼は少し考えた。会社。電車。事務所の白い蛍光灯。キーボードの音。洗面台の鏡。あの日、最初に白い壁と青い絵のスケッチが現れた場所。そうした記憶を順に辿る。

「……なかったです」

 やがて蒼は言った。

「会社では、ただ邪魔でした。働くこととか、人と同じ速度でいることを壊すだけで」

「今は違う」

「違います」

 その違いを認めるのは怖い。けれど認めないと、ここまでの変化を説明できない。

「島に来てから、変わった気がします。静かで、余計な音が少なくて……その分だけ、はっきりしてるのかもしれない」

「あるいは」と凪は言う。「島に来たから変わったんじゃなくて、蒼さんが描くほうへ一歩進んだせいかもしれません」

 蒼はその言葉に息を止めた。

 描くほうへ進んだ。たしかにそうだった。豊島の小さな一致を経て、自分はもうただ見てしまう人ではなくなっている。あの青い絵の前で、自分の手で一枚描いた。意味を持ちきらない予兆の断片を、自分の線に変えた。そこから今朝、さらに別の路地が現れた。絵が増えていく。増えるたびに、声は少しずつ変質していく。

「……描くことが、悪いんですか」

 気づけばそう訊いていた。

 凪は首を振った。

「悪いとは思いません。ただ、描くことで見えるものが増える人はいると思います」

「見えるものが増える」

「はい。良くも悪くも。だから、描くこと自体じゃなくて、描いたあとにどう扱うかの方が大事なのかもしれない」

 扱う。蒼はその言葉を心の中で繰り返した。描いたものに呑まれずに、それをどう置いておくか。記録としてか。作品としてか。予兆としてか。まだ何も決められない。だが少なくとも、描いてしまうことそのものを全面的に否定されなかったことに、蒼は少しだけ救われた。

 食事を終えるころには、店内の客が少し増えていた。観光客らしいグループが隣の席で小声で話している。注文のやりとり、皿の触れ合う音、窓の外を通る原付。現実の音が、蒼の周りに穏やかに積もっていく。その中で、頭の中の声は少しだけ遠のいていた。

 だが完全に消えたわけではない。

 むしろ、静かに待っている感じがあった。次の場面を。次の場所を。蒼がまた風景の線を拾い始める瞬間を。

 店を出たあと、凪は「少し海の方に出ますか」と言った。人通りの少ないほうが、いまの蒼にはいいだろうという判断だろう。二人はゆるやかに港と反対側の道へ向かった。途中、凪が何気なく「午前中の記録、あとでちゃんと書いてくださいね」と言う。蒼は「はい」と答えた。記録する。時間、場所、聞こえたこと、起きたこと。その作業が、自分を現実へつなぎとめる数少ない方法になりつつある。

 坂を下り、海の見える細道へ出たときだった。

 蒼の頭の中に、急に別の声が混ざった。

 今までのような低く平坦な声ではない。もっと乾いていて、懐かしいような、嫌なざらつきがある。


 ――言うな。


 蒼は足を止めた。

 凪が振り返る。

「どうしました」

 蒼はすぐには答えられなかった。いまの声は、さっきまでの助けるような近い声とは違っていた。以前の、責めるような声に近い。ただし内容が違う。言うな。何を。たぶん、凪に話しているこの流れを。自分の中で起きていることを、言葉にするな、と。


 ――話すと壊れる。


 ざらついた声が続ける。

 蒼の喉がひくりと動いた。これだ。これが前の声に近い。責めるようでいて、同時に何かを守るふりもする。話すと壊れる。たしかにそういう怖れは、蒼自身の中にもある。だからこそ、この声はまた自分の考えと混ざりやすい。

「蒼さん」

 凪がもう一度呼ぶ。

 蒼は無理に息を整えた。

「……今、別の感じの声が」

 口にした瞬間、ざらついた声が少しだけ遠のいた気がした。

「別の感じ?」

「前の……会社にいたときとかに近い、嫌な感じのやつです。言うな、って」

 凪は一歩だけ近づいたが、触れはしなかった。

「私に話すな、ってことですか」

「たぶん……そういう意味だと思います」

 凪は短く黙り、それから言った。

「じゃあ、今の蒼さんにとって、話すこと自体が一つの衝突なんですね」

 衝突。蒼はその言葉に少し驚いた。そうかもしれない。自分の中ではいま、少なくとも二つの流れがぶつかっている。一つは、近くで導くような声。もう一つは、昔のように押し込めようとするざらついた声。そしてその両方のあいだに、自分がいる。

「……そうかもしれないです」

「だったら、無理に全部を話さなくてもいいです」

 凪は海の方を見ながら言った。

「でも、話したいのに止められてるってことだけは、残しておいた方がいいかもしれない」

 蒼はしばらくその言葉を考えた。全部を話さなくてもいい。だが、止められていること自体は記録する。なるほどと思った。自分の中で起きている衝突そのものを、まず事実として残す。それなら、声の命令に完全に従うことにも、逆に無理やり突破することにもならない。

 海の見える細道の先には、午後の水面が白く光っていた。風が強く、塀の上に置かれた何かの布がはためいている。蒼は鞄から小さなメモ帳を取り出した。スケッチブックではなく、文字だけを書くための薄いノートだ。ページを開き、今日の午前の記録の下に書き足す。

 昼前/凪さんと移動中/「言うな」「話すと壊れる」/ざらついた、前の声に近い

 文字にしてみると、そのざらついた声が少しだけ外へ出る。頭の中にこもっていたときより、距離が取れる気がした。

「書けましたか」

 凪が訊く。

「……はい」

「じゃあ、それでいいです」

 それでいい。凪は本当に、すぐに答えを出そうとしない。蒼はそのことに、何度目かの安堵を覚えた。もしここで「それは悪化してます」とか、「気にしすぎです」とか、どちらかに決められたら、たぶん自分はどちらにせよ壊れていた。曖昧なまま事実を置いておくこと。それが今は、唯一の橋のように思える。

 けれど、現実との衝突は終わっていなかった。

 海へ向かう細道を抜けた先で、蒼はもう一度立ち止まった。目の前には午後の海がある。何事もないように光っている。だが、その水面の上を遠くに横切る白い船影を見た瞬間、胸の奥のざらついた声と、近くで導く声とが、一瞬だけ同時に重なった。


 ――見るな。

 ――見ろ。


 蒼は息を止めた。

 二つの声が、初めてはっきりと反対方向を向いた。

 その裂け目の真ん中に、自分の意志が押し潰されそうになる。海は静かで、風はただ吹いているだけなのに、頭の中では現実よりはるかに大きな衝突が起きている。そのことを、凪はまだ知らない。いや、蒼自身もいま初めて、それが衝突という形を取ったと理解したところだった。

 白い船影は、何事もなく遠ざかる。

 今回は何も見えない。少なくとも、まだ。だが見えないことが安心にはならなかった。むしろ、自分の中で二つの声が分かれたことの方が、今はずっと重大だった。

 境界は崩れていくだけではないのかもしれない。崩れながら、内部で新しい線を引き始めている。導く声と、押し留める声。そのあいだに立つ自分。どちらに引かれても危うい。だがどちらにも引かれずにいるには、自分の意志がまだ細すぎる。

 蒼は海を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。

 現実との衝突とは、出来事が起こることだけではない。現実の前に立った自分の内部で、何が現実として選ばれるかを巡って、静かに戦いが始まっている。そのことを、蒼は午後の光の中でようやく認めざるを得なかった。

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