1:かつての画家
1:かつての画家
翌朝、蒼は目覚ましが鳴る前に目を開けた。
障子の隙間から入る光は、まだ朝としては弱く、部屋の中の輪郭をやわらかく浮かび上がらせていた。畳の目、壁際に置いた鞄、机の上のスケッチブック。すべてが、昨夜より少しだけ遠くにあるように見える。眠れなかったわけではない。だが深く休めたとも言えなかった。意識の底に、ずっと何かが起きる前の張りつめた膜のようなものがあり、その上で短い眠りを何度も繰り返した感じだった。
蒼は布団の中で、しばらく天井を見ていた。
以前、自分で書いた六つのルールが頭の中に浮かぶ。
1. 声にすぐ従わない。
2. 見えたら、時間と場所を書く。
3. 一人で確認しに行かない。
4. 描く前に、一度呼吸を整える。
5. 誰かが危ないと感じたら、止める。
6. 止めた結果がどうであっても、全部を自分の力だと思わない。
昨夜は、その六行を書き終えたところで、ようやく呼吸が少し深くなった気がした。自分の中で何かが壊れかけていることは変わらない。けれど、その壊れかけた部分に向き合うための細い手すりのようなものが、ようやく一本できた。もちろん、その手すりが本当に役に立つかどうかはまだ分からない。だが何もないよりはましだった。
――起きろ。
近い声が言った。
蒼は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。昨日までと違うのは、その声に対して、自分の中にすぐ反射的な恐怖だけが立ち上がるわけではなくなっていることだった。怖い。もちろん怖い。けれど今は、その声が存在すること自体よりも、その声に何をさせるか、あるいは何をさせないかの方へ意識が向く。
蒼は布団から起き上がった。窓を少し開けると、潮の匂いを薄く含んだ朝の風が入ってくる。路地はまだ静かで、どこかの家の引き戸が開く音が一つ、乾いた響きで届いた。鳥の声もする。そうした外側の音があることが、ありがたかった。
顔を洗い、鏡を見る。
目の下に疲れはある。だが一昨日のような真っ青な顔ではない。むしろ、目だけが妙に冴えて見えた。いやな冴え方だ。眠気が飛んでいるのではなく、神経だけが薄く張ったまま朝へ持ち越されている種類の醒め方。
朝食の席に行くと、女将が「今日は少し雲が出るかもねえ」と言った。味噌汁の湯気の向こうで、彼女の声はいつも通りだった。昨夜より顔色が少し戻ったことに気づいたのか、「昨日よりは食べられそう?」と尋ねる。蒼は「たぶん」と答え、自分でも少し笑いそうになった。何を訊かれても曖昧な返事しかできないのは、たぶん自分の性分なのだろう。
「今日はどこへ?」
女将の問いに、蒼は一瞬だけ迷った。
凪に会う約束をしているわけではない。だが昨日のことを考えれば、勝手に一人で動くのはよくないと分かっていた。三宅からは、石段の危険な金具は今朝直すと連絡があった。広場の件は、現実の事故未満の出来事として一応片づいたとも言える。けれど自分の中では、まだ何も片づいていない。むしろ、昨日の電話で一つの可能性が現実味を持ったせいで、余計に複雑になってしまった。
「まだ、決めてません」
蒼がそう言うと、女将は「決めずに歩くのも、まあ島らしくていいんじゃない」と笑った。それから少しだけ声を落として、「でも、疲れてるなら無理しないように」と付け加える。その言い方はあくまで自然で、気遣いが重くなりすぎない。蒼は礼を言い、焼き魚をゆっくり口に運んだ。
朝食を終えて部屋へ戻ると、スマートフォンにメッセージが入っていた。凪からだった。
《今日は午前中、少しだけ時間あります。昨日の続き、話せそうなら広場の近くで会えますか》
蒼は画面を見つめた。広場の近く、という言い方に、凪なりの配慮があるのだと分かった。あの場所そのものに縛られすぎないように、それでいて必要ならすぐ行ける距離で会う、という意味なのだろう。
《お願いします》
短く返し、蒼はスケッチブックを鞄へ入れた。今日は描かないつもりでいた。そう決めていたわけではないが、少なくとも朝から何かに引かれるままページを開くことだけは避けようと思っていた。ルールの四番、描く前に、一度呼吸を整える。 それをちゃんと守りたい。
宿を出ると、本村の路地は昨日より少し曇った光に包まれていた。白い壁の反射もやわらかい。雲があるせいか、影の境目が鋭くない。そのことが、蒼には少しだけ助けになった。昨日のように光と壁のコントラストが強すぎると、頭の中の線まで研ぎ澄まされる感じがある。今日は風景の輪郭が少し鈍いぶんだけ、自分の神経も過敏になりすぎずに済みそうだった。
広場の少し手前、低い石垣と細い道が交わる場所で凪は待っていた。麻のシャツに薄い灰色の羽織りものを重ね、手には小さなノートを持っている。蒼を見ると、凪はいつものように大きく手を振るでもなく、小さく目を細めて「おはようございます」と言った。
「おはようございます」
「少し、顔色はましですね」
「……たぶん」
またその返しになってしまい、凪はわずかに笑った。昨日の重さを引きずりつつも、その一瞬だけ、空気が少し軽くなる。
「広場、今朝は三宅さんが見てるそうです」と凪が言った。「石段の補修、もう始めてるみたいで」
蒼は頷いた。昨日の電話を思い出す。もし転んでいたら危なかったかもしれないという、三宅の現実的な言葉。それによって、絵と現実の距離はさらに厄介になった。自分が見たのか、たまたま危なかったのか、止めたから避けられたのか。どれも完全には否定できない。
「それで」と凪が続けた。「昨日のこと、もう少し別の角度から見た方がいいかもしれないと思ってます」
「別の角度?」
「はい。絵が増えてることとか、声の変化ももちろん大事ですけど、それと同じくらい、この島で前にも似たことがあったのかを知った方がいいかもしれない」
蒼は少しだけ目を見開いた。
「前にも?」
凪は頷いたが、言葉を選んでいるようだった。
「はっきり似たことと言っていいかは分かりません。でも、昔、この辺で作品を残した人の話を聞いたことがあります。今みたいにちゃんと記録が残ってるわけじゃないし、半分は噂みたいなものなんですけど」
蒼の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
昔、この辺で作品を残した人。
それだけで、頭の中の近い声がわずかにざわめくのを感じた。ざらついた声も、その後ろで小さく身じろぎする。蒼は意識して深く息を吸った。まだだ。まだ、そこに意味を見すぎるな。
「どんな話ですか」
凪は少しだけ視線を落とし、それから道の向こうを見た。
「前に、島の古い建物で管理の手伝いをしてた時に、三宅さんと別の年配の方が話してたんです。かなり前、この辺に長く滞在して絵を描いていた人がいたって」
「画家……ですか」
「たぶん。ちゃんとした美術史に載るような人じゃなくて、もっと個人的な人。島の中では少し変わった人として知られてたみたいです」
少し変わった人。その言葉に、蒼の胸が微かに強張る。凪はそれに気づいたのか、すぐに続けた。
「変わった、っていうのも、島の人がそう言ってただけです。よそから来て、あちこち歩いて、急に絵を描き始めたり、何日か姿を見せなかったりしたら、そりゃ少し変わって見えると思う」
蒼は黙って聞いた。
「その人が残した絵の一部が、今もどこかにあるんじゃないか、って話もあって」
「今も?」
「全部じゃないと思います。なくなったものも多いし、誰もそれを作品として扱ってないかもしれない。でも、広場の青い絵とは別に、前からここにあったものみたいに言われる絵や壁の跡がある、って」
蒼の頭の中で、白い壁と青い絵の広場が一瞬だけ遠のき、その奥に別の層が透けた気がした。自分が初めてあの青い絵を見た時から感じていた、単なる作品以上の既視感。それがもし、この島の空間の中にもう少し古い層として埋まっているのだとしたら。
――近い。
近い声が囁いた。
蒼は唇を噛んだ。すぐ意味にするな。そう自分へ言い聞かせる。
「その人のこと、詳しく知ってる人はいるんですか」
「三宅さんなら、少しは知ってるかもしれません。あと、昔から島にいる年配の方なら、名前くらいは」
凪はそこで小さく首を傾げた。
「昨日のあと、ちょっと考えたんです。蒼さんに今起きてることを、すぐに病気とか予言とか、どっちかに決めるんじゃなくて、島そのものの文脈の中でも一回見てみた方がいいんじゃないかって」
島そのものの文脈。その言い方は、蒼にとって新鮮だった。これまで自分は、自分の内側だけを問題として見てきた。病気か、自分の感覚か、偶然か、表現か。そのどれかだった。だが凪は今、それを島の側の時間や記憶とも接続して見ようとしている。
「……それって、危なくないですか」
蒼は率直に言った。
「自分の見てるものに、島の昔話まで重ねたら、余計に意味を与えすぎる気がする」
凪はその通りだというように頷いた。
「危ないです。だから慎重に、です。でも逆に、蒼さん一人の異常としてだけ見続けるのも、それはそれで偏る気がして」
蒼はしばらく黙った。たしかにそうかもしれない。病気という言葉で全てを片づければ、自分の感覚の中に現実と結びついてしまう部分を見落とす。逆に特別なものとして持ち上げれば、今度は自分が消える。その間に、第三の見方があるのかもしれない。それが、島の中に前からあった誰かの表現や記憶とつなげて考えることだとしたら。
「その人、どんな絵を描いてたんですか」
蒼が訊くと、凪はゆっくり首を振った。
「そこまでは、まだ。海を描いた、とか、壁に色を置いた、とか、そのくらいしか」
海。壁。色。蒼の中で、その断片だけでも何かが微かに呼応する。
「ただ」と凪は続けた。「一つだけ印象に残ってる話があって。三宅さんが言ってたんです。あの人は、起きる前のことばかり描いてたって」
蒼の呼吸が止まりそうになった。
起きる前のことばかり描いていた。
それは、今の自分に起きていることへ近すぎる言葉だった。青い絵を見つける前のスケッチ。豊島の船。細道の奥から現れた人。広場で転びかけた女性。どれも決定的な出来事そのものではなく、その手前の、まだ世界が少しずれている段階だった。
――だからだ。
近い声が言う。
――だから、お前は見つけた。
ざらついた声が、すぐに低く被せる。
――乗るな。
蒼は視界が少し揺れるのを感じた。意味を与えすぎるな。だが与えずにもいられない。もし本当に、昔この島に「起きる前のことばかり描いていた」画家がいたのなら。自分が見つけてしまった青い絵や、増えていくスケッチは、その人の残した何かと地続きなのかもしれない。そんな考えが、一瞬で広がる。
凪は蒼の変化に気づいたようだった。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫じゃ、ないかもしれません」
蒼は正直に答えた。
「でも、聞きたいです。その人のこと」
凪は少し考え、それから「じゃあ、三宅さんに会いに行きましょうか」と言った。
「今なら広場の補修をしてるはずです。人がいる場所の方がいいですし」
人がいる場所。それは、現実の側へ繋がるための言葉でもある。蒼は頷いた。
二人は広場へ向かった。坂道を上る途中、蒼は自分の中が妙に静まり返っているのに気づいた。声は消えていない。けれど、今は押し合いへし合いする代わりに、互いを窺っているような感じがする。まるで、自分がこれから聞く話が、どちらにとっても重要なのだと分かっているみたいに。
広場に着くと、三宅は本当に石段のそばで作業していた。工具箱と黄色いロープが置かれ、金具の外れた部分をしゃがんで直している。蒼たちに気づくと、立ち上がって額の汗を拭った。
「お、昨日の」
三宅は少し笑ったが、その笑いは広場の出来事を軽く流そうとする感じではなかった。
「昨日は助かりました。やっぱりあそこ、危なかった」
そう言いながら、石段の端を指す。そこには古い鉄の金具があったらしい跡が見え、今は仮に埋められている。現実の傷跡だ。蒼はそれを見ることで、昨日のことが単なる思い込みではなく、本当に危うい場面だったのだと改めて思い知らされた。
凪が言った。
「三宅さん、前に話してた昔この辺にいた人のこと、少し聞いてもいいですか」
三宅は工具を置き、二人の顔を見た。凪がこうして訊くということは、ただの雑談ではないと察したのだろう。少しだけ表情を改める。
「昔の画家の話?」
「はい」
三宅は「ああ」と低く声を出し、白い壁の方をちらりと見た。
「なんでまた急に」
凪は蒼の方へ一瞬目をやったが、全部は説明しなかった。
「ちょっと気になって」
三宅は数秒考えたあと、「立ち話でもいいなら」と言った。
その一言で、蒼の胸の奥に新しい緊張が走る。自分はいま、何かの入口に立っているのかもしれない。島に来てから起きたことを、自分の内側の問題だけではなく、もっと前からこの場所に沈んでいた何かとつなぐ入口。
三宅は広場の石段に腰を下ろし、工具を脇へ寄せた。
「名前ははっきり覚えてないんですけどね」と前置きしてから、ゆっくり口を開く。
「かなり昔、この辺に長く滞在してた人がいたらしいんです。画家っていうか、絵を描く人。正式に住んでたのか、どこかから通ってたのかも曖昧で。島の人からしたら、よく歩いてる、ちょっと変わった人だったみたいで」
蒼は息を殺して聞く。
「その人、海とか家とかを描いてたんですけど、普通の風景画とはちょっと違ったって聞いてます。島の人があとで見ると、これ、あのときの前じゃないかってなるような絵が多かったって」
前。やはり、その言葉だった。
蒼の指先が冷たくなる。
「前、っていうのは」
自分でも驚くほど低い声で訊くと、三宅は肩をすくめた。
「たとえば、台風の前の港とか、誰かが家を手放す前の庭とか。そういう、あとから振り返ってああ、この時もう変わり始めてたんだなって分かる瞬間。そういうのばっかり描いてた、みたいな」
凪は黙って聞いている。蒼はもう、広場の白い壁も青い絵も意識の端へ退いていた。頭の中で何かが強く鳴っている。
「その人も、変なこと言ってたらしいですよ」と三宅が続ける。
「起きたことを描いてるんじゃない、起きる前に見えるものを描いてるんだ、って」
その瞬間、蒼の背中を冷たいものが一気に走った。
起きる前に見えるもの。
それはもう、偶然の一致でも、自分だけの勝手な連想でもないところまで、自分の今と重なっていた。
――ほら。
近い声が静かに言う。
――乗るな。
ざらついた声が、すぐに返す。
蒼は白い壁に目をやった。広場の青い絵は今日も静かだった。だが今、その沈黙の奥に、誰か別の時間の息づかいが潜んでいるように思えた。自分より前に、この島で起きる前のものを描いていた人がいた。その事実はまだ噂に近い。確かな史料でも、証明でもない。けれど、今の蒼にとっては十分すぎるほど強かった。
ここで初めて、ただの予兆ではなく「前からあった何か」へ向けて口を開き始めたのだった。




