2-5. 武具工房
工房区へ向かうころには、朝の光が大通りの石へまっすぐ落ち始めていた。
荷車はすでに途切れなく行き交っている。近郊から運び込まれた野菜の籠、商館へ向かう木箱、空になった水樽。御者の声と車輪の音が、道の両側に並ぶ建物の間へ反響していた。
ロアンは人の流れが切れるのを待ち、反対側へ渡った。
棒剣は左肩へ寄せている。
普段は背の中央へ斜めに負い、右手を伸ばせば柄へ触れられる位置に置く。いまは右肩へ直接重さを掛けないよう帯をずらしていたため、鞘の下端が歩くたび左脚の後ろへ触れた。
慣れない位置ではあるが、治療者に言われたことは守っている。
少なくとも、いまのところは。
棒剣は、見た目だけなら細身の長剣に近い。だが刀身は薄くなく、側面と峰に厚みを残している。切り裂くより、重さを乗せて叩き、外殻や骨を崩したところへ先端を差し込むための武器だった。
その分、同じ長さの剣より重い。
長く背負えば肩へ残り、振れば衝撃が腕と身体へ返ってくる。
ロアンはその性質を知っている。
知っていたからこそ、傷めた肩を無理に使わず、先に工房へ預ける必要があった。
目的の工房は、工房区の入口に近い場所にある。
二階建ての石造りで、上階と屋根だけに木が使われていた。入口の上には、横向きの剣と槌を組み合わせた金属板が掛かっている。
扉は半分開いていた。
中から槌と砥石の音が聞こえる。
ロアンが入ると、受付台の向こうにバルトがいた。
五十代の終わりに見える男で、白髪の混じった短い髭と、金属粉で灰色になった眉をしている。太い腕を台へ置き、ロアンの顔から左肩へ寄せた棒剣へ視線を移した。
「また砂を持ってきたのか」
「ああ」
ロアンは帯を外した。
右手は柄を支えるだけにし、左腕で大半の重さを受ける。受付台へ置くと、鞘が低い音を立てた。
バルトはその持ち方を見ていた。
「肩をやったな」
「少し」
「少しの奴は、そんな置き方をしない」
「治療所には行った」
「なら、俺が診るのは剣の方だ」
バルトは棒剣を引き寄せた。
柄革は、握る位置を中心に色が濃くなり、端の一部が浮いていた。指で押すと、わずかに動く。
鞘からゆっくり抜く。
細身の刀身には、砂と乾いた黒い汚れが残っていた。側面には小さな欠けが二つあり、細く絞られた先端も片側が潰れている。
バルトは灯りの下で刀身を回した。
「何を叩いた」
「サンドワーム」
「どこを」
「顎の脇と、口の中だ」
「先は」
「止まるまで入れた」
バルトが顔を上げる。
「そのあと」
「押し込んだ」
「肩をやったのは、それか」
「ああ」
バルトは先端へ目を戻した。
「欠けは浅い。先も戻せる。問題は曲がりと中だな」
奥へ声を掛ける。
「ニコ、長台を空けろ」
若い職人が作業台から工具を退けた。
バルトは棒剣を長台の溝へ置き、柄元と先端を合わせた。薄い板を当て、反対へ返し、刀身の浮きを確かめる。
「少し曲がってませんか」
ニコが覗き込んだ。
「汚れだ」
バルトは布で刀身を強く拭った。砂と黒い汚れが落ち、その下の金属面をもう一度台へ当てる。
「曲がってはいない。これを曲げるなら、持ち主の肩が先に負ける」
ニコがロアンを見る。
バルトは続けた。
「今回は、その通りになったらしいがな」
ロアンは答えなかった。
バルトは柄の端にある小さな金属蓋へ工具を差し、留め具を緩めた。
蓋を完全に外す前から、細かな砂が台へ落ちる。
「中まで入っている」
柄と刀身の接合部には、衝撃を受け流すための部材が収められている。完全に密閉されているわけではなく、長く砂海を歩けば、継ぎ目から砂が入り込む。
バルトが柄を傾けると、細い筋になって砂が落ちた。
「鞘も同じだな」
棒剣を半ばまで戻し、ゆっくり引く。
内部で、砂と金属が擦れる音がした。
「このまま使えば、鞘の内側で刀身を削る。柄革も巻き直す」
「任せる」
バルトはニコへ棒剣を渡した。
ニコは片手で受け取りかけ、すぐに両手へ持ち替えた。
「先を落とすなよ」
「分かっています」
「分かってる奴は最初から両手で持つ」
ニコは言い返さず、作業台の横へ棒剣を置いた。
バルトは受付台へ戻った。
「先端の整形。側面の欠けを均す。柄を開けて砂を出す。革は巻き直す。鞘も掃除する」
「どれくらいだ」
「三日目の夕方までには仕上がる」
「二日では」
「渡してもいい」
バルトはロアンを見る。
「三日目に、もう一度持ち込むならな」
「三日目でいい」
「そうしろ。肩も一日余分に休まる」
バルトは帳面へ修理内容を書き、預かり札を作った。
「ほかは」
「胸当てを修繕したい」
「見当たらないが」
「宿だ」
「持ってきてないのか」
「肩へ余計な重さを掛けないために置いてきた」
バルトは入口の外を見た。
「宿は遠いか」
「歩いて四半刻ほどだ」
「今持ってこい。革の担当は昼を過ぎると別の仕事へ入る」
ロアンは札を受け取り、工房を出た。
背から重さがなくなっていた。
左へ寄せていたとはいえ、一月近く背負っていたものだ。軽くなったはずなのに、最初の数歩はかえって歩きにくい。
背中が、そこにあるはずの重さを探していた。
右手を後ろへ伸ばしても、柄はない。
都市の中を歩くだけなら問題はない。腰には短刀がある。すぐに棒剣を必要とする場所へ向かうわけでもない。
それでも、背が空いた感覚には落ち着かなかった。
宿へ戻ると、一階の広間には宿主とミレイだけがいた。
宿主は帳面から顔を上げ、ロアンの背を見る。
「剣はどうした」
「工房へ預けた」
「肩も診せたか」
「ああ」
「何と言われた」
「骨は折れていない。筋を傷めている。数日は重いものを頭より上へ持ち上げるなと」
宿主は筆を置いた。
「なら、胸当ても自分で運ぶな」
「持てる。頭より上に持ち上げるわけじゃない」
「持てるかどうかは聞いてない」
朝の治療者と同じようなことを言われた。
ロアンは返事をせず、階段へ向かおうとした。
「うちのミレイに持たせろ」
宿主が言った。
「胸当て一つだ」
「その一つで肩を悪くする奴がいるから言っている」
ロアンは足を止めた。
胸当ては棒剣ほど重くない。だが、金属と革を組み合わせた防具であり、片手で持つには嵩張る。右腕を使わなければ、左肩と腕へ重さが偏る。
持てないわけではない。
だが、持つ必要があるかと聞かれれば、なかった。
宿主は床を掃いていたミレイを見た。
ミレイは箒を止めた。
「胸当てを持てばいいんですね」
「ああ。部屋は二階の奥だ」
宿主が返す。
「工房までですか」
「下まででいい」
ロアンが口を挟むが、宿主がそれを遮った。
「工房まで行ってやれ」
「そこまでは――」
「あんたが肩を壊して、もうここへ来なくなるよりましだ」
宿主はすでに帳面へ目を戻していた。
ミレイと二階へ上がった。
部屋を開けると、胸当ては昨夜置いた場所に残っている。ミレイは両手で持ち上げ、一度持ち方を変えた。
「重いですね」
「ああ」
「これを着て、剣も背負って歩いてきたんですか」
「ああ」
「肩が痛くなるはずです」
「傷めたのは戦闘だ」
「その前から痛かったんじゃないですか」
ロアンは答えなかった。
自覚はなかった。
いま考えても、確かめようがない。
宿を出ると、ミレイが胸当てを抱え直した。
「どの工房ですか」
「剣と槌の印がある。工房区の手前だ」
「分かります」
二人は並ばず歩いた。
ミレイが前へ進み、ロアンが少し後ろにつく。通りが混み合う場所では、ロアンが先へ出て道を選んだ。
工房へ戻ると、受付台にはバルトではなく、革の前掛けをつけた女がいた。
三十代半ばに見える。短い黒髪をしており、爪の縁には革粉が残っていた。
ミレイが胸当てを台へ置く。
ロアンは小さな硬貨を一枚差し出した。
「受け取れません」
「おまえが運んだ」
ミレイは少し迷ってから受け取った。
「では、戻ります」
「ああ」
ミレイが工房を出ると、女はその後ろ姿を見てからロアンへ向き直った。
「話は聞いているよ、どこか痛めているのか」
「肩だ。たいしたことはない」
ラウラは胸当てを裏返した。
内側の革と布には、汗と埃が染み込んでいる。
「どこを直す」
「右脇の縫い目。留め具が一つ歪んでいる」
「それだけなら、自分で縫えただろう」
「体液を浴びた」
ラウラの手が止まった。
胸当ての表面には、黒く乾いた跡が残っている。砂や泥とは違い、革の奥まで染み込み、周囲が硬くなっていた。
「何の」
「サンドワーム」
「いつ」
「二十日ほど前」
「そのあと洗ったか」
「水で拭いた」
「それだけか」
「ああ」
ラウラは金属棒の先で染みの端を軽く擦り、剥がれたものを布へ落とした。匂いを確かめ、指で周囲を押す。
「腐ってはいない。だが、革が硬くなっている」
「使えるか」
「いまはな」
右脇の留め具を動かす。
金具は内側へ曲がり、革帯を引けば角へ擦れる状態だった。縫い目の一部は切れ、旅の途中で通した細い革紐だけが残っている。
「これを無理に締めたな」
「緩んだまま使うよりはいい」
「そのせいで穴が広がっている」
ラウラは応急処置の革紐を抜いた。
「縫い穴を少しずらして直す。留め具は外して戻すが、亀裂があれば交換だ」
胸当ての表側へ返し、黒い染みをもう一度見る。
「汚れは完全には消えない」
「機能に問題がなければいい」
「見た目を気にする人間もいるが、そうは見えないな」
「なら聞く必要はない」
ラウラの口元がわずかに動いた。
「先に言わないと、受け取りに来てから文句を言う奴がいる」
「言わない」
「そうだろうな」
肩帯、金属板、内側の当て革、縁の縫い目を順に確かめる。
「左肩の糸も減っている」
「切れてはいない」
「切れてから持ってくるつもりか」
「その前に気づけば直す」
「いま気づいたから丁度いい」
ラウラはそこへも印をつけた。
「ここも補強する。内側は洗う。体液を吸った場所は油を抜き、乾かしてから入れ直す。硬さが戻らなければ、裏へ薄い革を当てる」
「どれくらいだ」
「四日」
「棒剣は三日目の夕方だ」
「革は乾かす時間が要る。同じ日に欲しいなら、汚れを残したまま縫うだけになる」
「四日でいい」
「そうしろ」
ラウラは帳面へ内容を書き、預かり札を作った。
「四日目の午後。受け取るときは着合わせをする。薄着で来い」
ロアンは札を腰袋へ入れた。
工房を出たとき、昼の鐘が鳴っていた。
朝からギルドと治療所へ寄り、工房へ二度足を運んだだけだった。それでも身体には、一日歩いたような重さがあった。
右肩は、朝よりも痛んでいる。
診察で動かされたためか、歩き続けたためかは分からない。激しく悪化したわけではないが、これ以上動かさずにいたい程度には重かった。
宿へ戻ると、広間では遅い昼食を取る客が二人いた。
宿主は帳場で荷札を整理している。先に戻っていたミレイが、軽く会釈をした。
「預けたか」
「ああ」
「何日だ」
「剣が三日目の夕方。胸当てが四日目の午後」
「なら四日は仕事にならんな」
「装備がなくても受けられる仕事はある」
「そういうものは、あんたがしたい仕事じゃないだろう」
ロアンは答えず、階段へ向かった。
「食事は」
宿主が尋ねる。
「朝は食べていない」
「食べたいかどうかを聞いてる」
ロアンは少し考えた。
「腹は減っていない」
実際、空腹より眠気が勝っていた。
昨夜は長く眠ったはずだった。
それでも、身体の中には一月分の疲れが残っている。旅の途中でも横になって眠ることはできたが、夜番やワトの鳴き声、風向きの変化に気を配らず眠れる夜は少なかった。
ベルグラートで一晩休んだだけでは、足りていなかった。
部屋へ入り、扉を閉める。
窓の鉄戸を開けると、昼の光が床へ入った。
棒剣も胸当てもなくなり、部屋が昨日より広く見える。壁の鉤には何も掛かっておらず、卓の脇も空いていた。
外套を椅子へ掛け、腰の短刀だけを枕元へ置く。完全に武器を持たず眠る習慣はなかった。
靴を脱ぎ、寝台へ腰を下ろす。
仰向けになれば肩の後ろが押される。右を下にすれば痛む。左を下にすれば、右腕の重さが前へ垂れる。
ロアンは外套を丸め、右肘の下へ入れた。
腕がわずかに持ち上がり、肩へ掛かる重さが減る。
そのまま仰向けになった。
外から昼の光と、通りを歩く者の声が入ってくる。
眠るには早い時間だった。
夕方まで休めばいい。
そう考えて目を閉じる。
治療者に押された場所が、まだ鈍く痛んでいた。棒剣をサンドワームへ押し込んだときの衝撃が、身体の感覚として一度だけ戻った。
それ以上思い返す前に、意識が途切れた。
一度、廊下を歩く足音で目を覚ました。
部屋はまだ明るかった。
起きる理由はなかった。
もう一度目を閉じる。
次に目を覚ましたとき、窓から白い街灯の光が入っていた。一階から食器の音が聞こえ、夕食の時間になっているらしい。
身体を起こそうとすると、右肩に痛みが走った。
左手を寝台へつき、ゆっくり起きる。
腹は減っていた。
だが、すぐに下へ行く気にはならなかった。
水を飲み、器を卓へ戻す。
いま降りなければ、宿の食事はなくなるかもしれない。
ロアンはそう考えたが、再び寝台へ横になった。
一食抜いたところで問題はない。
明日の朝に食べればよかった。
外套を右肘の下へ戻し、目を閉じる。
今度は、ほとんど間を置かず眠りへ落ちた。
夜中に一度だけ目を覚ました。
肩の痛みは残っていたが、昼よりは熱が引いている。窓の外では、遠くを荷車が通る音がした。
ロアンは耳を傾けた。
車輪の音はしばらく石の上を進み、やがて聞こえなくなった。
見張りへ起きる時間ではない。
荷縄を確かめる必要もない。
棒剣も胸当ても、数日は戻らない。
朝になっても、急いでするべきことはなかった。
ロアンは再び目を閉じた。
そのまま、翌朝まで長く眠った。




