2-6. 指名依頼
継暦六百二十七年 六月三日
扉を叩く音で、ロアンは目を覚ました。
強くはなかったが、宿の者が朝食を知らせるときの叩き方とは違った。間を置いて二度、返事を待つように三度目が続く。
窓から差し込む光は、まだ床の端に細く落ちているだけだった。通りから聞こえる車輪の音も少なく、近くの建物で戸を開ける音や、店先へ荷を運び出す声が、ときおり下から上がってくる。
ロアンは寝台の上で身体を起こし、右手を開いて指を曲げた。肘を動かし、腕を身体の前へ少し上げる。右肩の奥には、眠っているあいだ動かさなかった筋の固さが残っていた。
痛みは消えていない。
それでも、治療所へ行った日の朝より軽くなっていた。肩の高さまで上げようとすればまだ引かれるだろうが、日常の動作に支障が出るほどではない。
扉がもう一度叩かれた。
「ロアン・ハルヴァさん」
若い男の声だった。
ロアンは枕元の短刀を取って腰へ差し、上着を羽織って前を留めた。それから扉の内側に掛けていた木栓を外す。
廊下には、見覚えのない男が立っていた。
二十をいくらか過ぎたくらいだろう。砂や旅の汚れのない灰色の上着を着て、その胸元にベルグラートのギルドを示す小さな金属札をつけている。肩から革鞄を掛け、片手には細長い木札を持っていた。
男は扉の奥にいるロアンと、前日に支部へ届けられた宿名を書き写したらしい手元の紙を見比べた。
「ロアン・ハルヴァさんで間違いありませんか」
「ああ」
「ベルグラート支部から参りました。エゼル商会より、あなたを指名した護衛依頼が提出されています」
男は木札を差し出した。
表にはギルドの印が押され、その下にロアンの名と宿の名が記されている。依頼の契約書そのものではなく、指名依頼が届いたことを本人へ通知するための札だった。
ロアンは受け取り、裏へ返した。
記されている内容は簡潔だった。依頼主はエゼル商会。目的地はエルデン。使用する荷車は五台と予備車両一台。商隊責任者はラウルで、護衛責任者としてロアン・ハルヴァを指名。経路調査については別途相談し、出発予定は九日後となっている。
依頼担当者の欄には、ヴァルドの名が書かれていた。契約を出すのも報酬を支払うのも、エゼル商会である。
通知札には報酬が書かれておらず、護衛の総人数もない。積荷の種類も、砂海で雇う案内人も、通る経路も決まっていないらしい。出発予定だけは九日後とされているが、それも準備に大きな問題がなかった場合のものだろう。
「通知を受け取った確認が必要です」
ギルドの使いが言った。
「本日中に支部へ来ていただけますか」
「ああ」
「支部で依頼を受諾する必要はありません。商会で条件を確認したあとに判断する旨は、依頼書にも記載されています。今日は通知の受領だけで結構です」
ヴァルドが、そのように手配したのだろう。
条件を見ないまま受けないことを、彼は知っている。護衛責任者として名を載せたところで、ロアンが無条件に従うとは考えていない。
「分かった」
使いは革鞄から小さな帳面を取り出した。頁の上には、朝のうちに回るらしい宿や工房の名が並んでいる。
「本人へ通知済み、と記録します」
ロアンがうなずくと、男は時刻と短い印を書き込んだ。
「依頼受付は東側の入口です。正面の依頼掲示所ではありません。こちらの札を見せてください」
「場所は知っている」
「承知しました」
男は帳面を鞄へ戻し、一礼した。
ロアンが扉を閉める前に、男はすでに階段へ向かっていた。最後の一段へ足を置く前に速度を落とす。緩んでいることを宿主から聞いたのか、一度踏んで気づいたのかは分からなかった。
足音が一階へ消えてから、ロアンは部屋へ戻り、通知札を卓の上へ置いた。
荷物台には旅袋が載っている。水袋、薬、火口、縄、革紐、予備の布。次に出るまでに、使ったものを補充し、傷んだものを除く必要があった。
棒剣が工房から戻るのは明日で、胸当ては明後日だった。
出発が九日後なら、装備の修理が予定どおり終わるかぎり、日数には余裕がある。右肩も、今のまま回復が続けば、出発までには棒剣を背負って長く歩ける程度には戻るだろう。
ただし、依頼を受けるかどうかは別だった。
ロアンはもう一度、通知札を手に取った。
荷車五台と予備車両一台。ヴァルド西方商隊より大幅に小さい。
確認することは多かった。荷と人員。予備車両に残す空き。ラウルが持つ権限。経路調査の範囲と手当。護衛責任者を引き受けるなら、先に確かめる必要があった。
ロアンは通知札を上着の内側へ収めた。
顔を洗い、寝癖のついた髪を濡らして押さえる。足布を巻き直して靴を履く。棒剣も胸当ても工房にあるため、身支度は短く済んだ。
腰の短刀、現金の入った小袋、ギルドの通知札、宿の部屋札。それぞれを確かめてから、部屋を出た。
一階へ下りると、宿主が帳場の奥で棚を調べていた。
革鞄を持ったギルドの使いはすでにいない。朝食を取る客が二人、窓際の卓に座っている。片方はパンを煮汁へ浸し、もう片方は眠そうな顔で薄い酒を口へ運んでいた。
宿主はロアンを見ると、棚から帳面を一冊抜いた。
「使いなら帰ったぞ」
「ああ。部屋へ来た」
「おまえが泊まっているか確認された。エゼル商会からの指名だそうだな」
「そうだ」
「エルデンへ戻る便か」
「ああ」
宿主は帳面を卓へ置いた。
「なら、帰りの仕事を探す手間は省けたな」
「まだ受けていない」
「指名されたんだろう」
「条件を聞いていない」
宿主は一瞬だけ黙り、それから納得したように鼻から息を吐いた。
「荷の中身も知らずに砂海へ入る奴は、長くは続かんか」
「荷だけではない」
「人もか」
「ああ」
宿主はロアンの右肩へ目を向けた。
「出発はいつだ」
「予定では九日後」
「肩は間に合うのか」
「悪化しなければ」
「剣は」
「明日」
「胸当ては」
「明後日」
「なら、少なくとも裸で出ていくことはなさそうだ」
ロアンは返事をせず、入口へ向かった。
「朝食はどうする」
背後から宿主が尋ねる。
「食べる」
「すぐ出るんだろう」
「パンだけでいい」
宿主は奥へ声を掛けた。
ロアンは立ったまま、出されたパンと薄い煮汁を腹へ入れた。熱さを味わうほどの時間は掛けなかった。
扉を開けると、朝の冷えた空気が宿の中へ入った。
通りにはすでに人が出ている。店の戸を開ける者、木箱を軒下へ運ぶ者、空の台車を押して倉庫区へ向かう人足。建物の間には斜めに朝日が入り、石を敷いた道の片側だけを照らしていた。
ロアンはベルグラートのギルド支部へ向かった。
宿のある通りから大通りへ出ると、夜とは違う種類の混雑が始まっていた。近郊から入ってきた荷車が中央を進み、その左右を商会の使いや職人が歩いている。人が押す小さな台車は、荷車の列が途切れる場所を選んで横道へ入っていった。
金属柱の上にある街灯は消えている。夜には白く輝いていた部分も、朝の光の下では濁った板か石のように見えた。柱の足元では作業着を着た男が蓋を開け、内部の配線を調べている。通行人はそれを珍しがらず、少し道を避けて通り過ぎていった。
ギルド支部は、工房区と中央商業区の境にあった。
旧時代の大きな建造物の下層を利用し、その周りへ現在の石造りと木造の建物を継ぎ足している。正面には依頼掲示所と一般受付があり、朝から多くの人が出入りしていた。
護衛の仕事を探す者。工房の修理依頼を持ち込む者。遺跡の情報を報告する回収屋。荷を運ぶための人手を求める商人。
ロアンは正面へ回らず、建物の東側へ向かった。
狭い入口の上には、契約と指名依頼を示す金属札が掛けられている。中へ入ると正面側の広間ほど人はいなかった。長い卓が二つあり、その向こうに数人の書記が座っている。壁際には待つ者のための長椅子が並び、すでに三人が座っていた。
ロアンは空いている受付へ進み、通知札を差し出した。
書記は札の表と裏を確認し、卓の下から指名依頼の帳簿を取り出した。
「ロアン・ハルヴァさんですね」
「ああ」
書記は名義とギルド記録を照合する。
「エルデン支部との優先契約者。現在、ベルグラート滞在中。エゼル商会からの指名依頼で間違いありません」
頁をめくり、該当する依頼を見つけると、通知札の番号と合わせた。
「内容はご覧になりましたか」
「ああ」
「この場で受諾されますか」
「しない。商会で条件を聞く」
「承知しました。では本日は、通知受領の確認のみとします」
書記は依頼の欄へ短く記入した。
「商会との協議後、受ける場合はエゼル商会から契約条件を確定した書類がこちらへ戻ります。辞退する場合も、商会か本人から連絡をお願いします」
「分かった」
「経路調査については、護衛契約とは別項目になる予定です。現時点では報酬も期間も未確定となっています」
「それも商会で聞く」
書記はうなずき、通知札へ受領済みの印を押してロアンへ返した。
「これで確認は終了です」
手続きは短かった。
依頼内容を聞く場所はここではない。ギルドは、依頼が正式に提出されたことと、指名された本人へ通知が届いたことを記録する。条件を交渉するのはエゼル商会とロアンであり、まとまった内容をギルドが契約として管理する。
ロアンは通知札を受け取り、支部を出た。
そのままエゼル商会へ向かう。
前回、十五台の荷車とともに通った大通りを、今日は一人で歩いた。
商隊に合わせる必要がないため、進む速度は速かった。荷車の列が途切れた場所で道を渡り、人の流れが詰まれば横道へ入る。右肩へ棒剣の重さがないだけでも、身体は軽かった。
ただ、その軽さにはまだ慣れなかった。
背へ手を伸ばす必要のある場面はない。それでも、後ろから台車が近づいたときや、人の多い場所で誰かが肩へ触れそうになったとき、右手が無意識に柄のあるはずの位置へ動きかける。
何もないことに気づき、手を下ろした。
エゼル商会の商館が近づくにつれ、荷を扱う者が増えていった。建物の前に並べられた木箱、商館ごとの印をつけた台車、荷札を束ねて走る書記、空車を修理場へ押す人足。ロアンが数日前に商隊とともに入った搬入口にも、今日は別の荷車が並んでいた。
彼は荷捌き場へ直接回らず、本館の受付へ向かった。
正面の入口は、荷を扱う場所より静かだった。石造りの広間には商談を待つ者のための長椅子が置かれ、壁際にはエゼル商会が扱う地域や中継所を示した木札が並んでいる。奥の卓では書記たちが帳面を開き、来客の名と用件を確認していた。
ロアンは空いた受付へ進んだ。
若い書記が顔を上げる。
「お名前とご用件をお願いします」
「ロアン・ハルヴァ。ヴァルドから、指名依頼の条件を聞くことになっている」
書記はロアンの名を聞くと、机の脇に積まれていた札を一枚めくった。
札には、朝にギルドで見た依頼と同じ番号が記されている。その下にはヴァルドの名と、ロアンが来た場合の案内先が書かれていた。
「確認いたしました」
書記は立ち上がり、奥へ続く通路を一度見た。
「ヴァルドは第二倉庫におります。お呼びしますので、裏の荷捌き場でお待ちください」
ロアンはうなずいた。
書記は受付横の扉を開き、通路を先に進んだ。
数日前、商隊の荷を引き渡したのと同じ荷捌き場だった。




