2-4. 治療所
継暦六百二十七年 六月二日
目を覚ましたとき、部屋の中はまだ薄暗かった。
閉じた鉄戸の隙間から、細い光が床へ差し込んでいる。昨夜は身体を拭くこともなく横になったらしい。外套は椅子の背へ掛かったままで、胸当ては卓の脇へ立てかけられていた。脱いだ靴のそばには、払いきれなかった砂が小さく溜まっている。
ロアンは左肘を寝台へつき、上体を起こした。
動かさずにいた右肩は、周囲の筋が固まっていた。指と肘は問題なく動き、痺れもない。だが、腕を前へ上げると肩の高さに近づいたところで奥が引かれ、横へ開けば、それより早く背中まで張った。
鋭い痛みではない。腕も動く。
それでも、普段どおり剣を扱える状態ではなかった。
ロアンは右腕を下ろした。自分で確かめられるのは、その程度だった。
骨が折れていれば、沈み道からベルグラートまで棒剣を背負って歩くのは難しかったはずだ。肩が外れているようにも見えない。筋を傷めたのだろうと思ったが、自分の判断だけで済ませるなら、治療所へ行く必要はなくなる。
肩は剣を扱うために使う。
治りを遅らせれば、その方が面倒だった。
昨夜は宿主に朝のうちに行けと言われ、商館ではヴァルドにも診せておけと言われた。二人に言われたから従うわけではないが、少なくとも専門の者へ一度見せるべきだった。
ロアンは水差しから器へ水を注ぎ、顔と首筋を洗った。右腕を上げる動作は避け、残っていた旅の汚れを左手で拭っていく。
衣服を着直したが、胸当ては身につけなかった。
脇の縫い目が切れ、留め具も一つ歪んでいる。傷めた肩へ重さを掛けて歩く理由もない。診察のあと、そのまま工房へ運ぶことも考えたが、棒剣を持ったうえで胸当てまで抱えれば、身体の均衡を取るために右肩を使うことになる。
胸当ては部屋へ残した。
棒剣だけは、診察後に工房へ預けるつもりだった。革帯を調整し、いつもの位置ではなく左肩側へ寄せる。鞘の下端が歩くたび左脚へ触れたが、右肩へ直接重さを掛けるよりはましだった。
腰の袋と硬貨を確かめ、部屋を出た。
一階の広間では、宿の女中が卓を拭いていた。窓に近い席では、二人の旅人が固いパンを煮汁へ浸している。
帳場に宿主の姿はなく、代わりに奥の戸からロナが出てきた。宿主の妻で、ロアンも以前の滞在で顔を知っている。
「出るのかい」
「治療所へ行く」
ロナは左側へ寄せられた棒剣を見た。
「肩か」
「ああ」
「北の大通りへ出て、古い水場の手前を右だよ。朝ならまだ空いてる」
「知っている」
以前にも同業の護衛を運んだことがあり、場所は覚えていた。
宿を出ると、朝の光が建物の間へ斜めに入っていた。夜のあいだ点いていた街灯は消え、金属柱の先端には白く濁った灯具だけが残っている。
空の台車を引く人足、戸口へ木箱を積む商人、道の端へ水を撒いて砂を流す店の者。夜より人は少なかったが、都市はすでに動き始めていた。
ロアンは治療所へ向かう前に、ギルド支部へ寄った。
ベルグラート支部は、工房区と中央商業区の境にある。正面の掲示所には朝から依頼を探す者が集まり始めていたが、ロアンはそちらへ回らず、脇の入口から中へ入った。
長い卓の向こうにいた書記が顔を上げた。
「依頼ですか」
「到着報告だ」
名を告げると、書記は帳簿の頁を探した。
「ロアン・ハルヴァ。エルデン支部か。第八十三ヴァルド西方商隊でベルグラート着」
「昨日着いた」
「負傷は」
「右肩を傷めた。自分で歩ける。これから治療所へ行く」
書記は筆を止め、左へ寄せられた棒剣と右肩を見た。
「宿泊先は」
ロアンは宿の名を告げた。
「滞在は何日ですか」
「決めていない。まず三泊だ」
書記は宿と日付を記入した。
「商隊の正式な損害記録は、エゼル商会から届きます。こちらでは到着、生存、負傷、滞在先だけ確認します。宿を移る場合は先に届けてください」
「ああ」
ギルドを通した仕事で都市を移った以上、依頼を終えた者が生きて到着したか、どこに滞在しているかは記録される。そうでなければ、街道で死んだ者と、宿で休んでいる者の区別もつかない。
用件はそれで済んだ。
治療所は古い水場の近くにあった。
石造りの一階建てで、正面には通常の入口と、担架や荷車で負傷者を運び込むための広い扉が並んでいる。入口の横には、治療を示す印を彫った金属板が掛けられていた。
中へ入ると、外より空気が冷たかった。
水で拭かれた石床は薄く湿り、壁の棚には畳んだ布、瓶、木箱、添え木が並んでいる。乾いた薬草と油、酢に似た刺激のある匂いが混じっていた。
待合の長椅子には、すでに数人が座っていた。手へ布を巻いた職人、咳をする老人、膝を擦りむいた子どもと母親、顔の片側を腫らした若い男。
受付の女が帳面から顔を上げた。
「怪我ですか」
「肩だ」
「いつ傷めました」
「二十日は経っていないがそれくらい前だ」
女の筆が止まった。
「そのあいだ、診てもらっていないの?」
「護衛の途中だった」
「原因は」
「沈み道で、サンドワームの外皮へ棒剣を叩き込んだ。最後に口の脇へ押し込んだ」
「肩を直接打ったり、噛まれたりは」
「ない」
「腕の痺れは?」
「ない。指も動く」
女は必要な項目を書き込んだ。
「座って待ってください。剣はこちらへ」
受付脇の金属枠へ棒剣を収め、革帯で固定する。
重さを手放した途端、身体がわずかに左へ傾いた。長く背負ってきたものがなくなっても、身体はすぐには元の均衡へ戻らないらしい。
ロアンは長椅子の端へ座った。
待っているあいだ、担架用の入口から、二人の男に支えられた人足が運び込まれた。右足を地面へつけられず、靴を脱がせると足首が大きく腫れている。
受付の女は奥から治療者を呼び、先に来ていた者たちも、順番が変わることへ文句を言わなかった。
治療所では、自分より重い怪我をした者があとから来ることもある。
ロアンは右腕を腿へ置き、動かさずに待った。
やがて奥から名を呼ばれた。
「ロアン・ハルヴァ」
診察室には、厚い布を張った木製の台と、水桶、薬瓶を並べた棚があった。
治療者は四十代の終わりほどの女だった。灰色の混じった髪を短く切り、作業衣の袖を肘まで上げている。
受付から渡された紙を読んだあと、ロアンを見た。
「二十日ほど前にサンドワームとやったらしいな」
「ああ」
「肩を噛まれたわけでも、直接打ったわけでもない。それで、どう傷めた」
「外皮へ棒剣を叩き込んだ。そのあと口の脇へ刺した。止まらなかったから、身体ごと押した」
「両手で?」
「ああ」
「刃が途中で止まったか」
「止まった」
「そのとき痛んだ?」
「たぶん」
治療者が眉を寄せた。
「たぶん?」
「戦闘中だった。終わったあとに気づいた」
「その後も剣を使ったか」
「二度。人も一人、荷車へ上げた」
「それから二十日、剣を背負って歩いた?」
「ああ」
治療者は小さく息を吐いた。
「治らないわけだ。痛くなかったのか」
「痛んだ」
「なら、なぜ背負った」
「必要だったからだ」
治療者はそれ以上、理由を聞かなかった。
「上を脱げ。肩を見る」
ロアンが右腕から袖を抜こうとすると、肩が引かれた。
「無理に後ろへ回すな。左から脱げ」
言われたとおり左腕を先に抜き、上着を身体の前へ回してから、右腕を動かさないよう袖を外した。
治療者は左右の肩の高さを比べ、骨の輪郭に沿って指を当てた。大きな腫れや変色はない。
「右が少し下がっている」
「剣のせいだろう」
「いまは背負っていない」
肩の前から後ろへ、少しずつ押していく。
「ここは」
「痛まない」
「ここ」
「少し」
治療者が同じ場所へ指を深く入れた。
肩の奥へ痛みが響き、右手の指がわずかに曲がる。治療者はそこを見ていた。
「これは少しじゃない」
「耐えられる」
「耐えられるかは聞いていない。どの程度、動きを邪魔する」
ロアンは少し考えた。
動けるなら軽い。動けなければ重い。仕事の途中では、その区別で足りていた。
「剣を振るには邪魔になる」
「最初からそう言え」
治療者は肩甲骨の周囲と首筋へつながる筋を確かめた。硬くなった場所へ触れられると、鈍い痛みが腕の外側まで広がる。
「痺れはない。力が入らないことも、物を落としたこともないんだな」
「ない」
治療者は手首と肘を動かし、次に右腕を前へ持ち上げた。
「強く痛んだら言え」
腕が胸の高さを越え、肩と同じ高さへ近づく。
「まだか」
「まだだ」
さらに上がると、肩の奥が強く引かれた。
ロアンが黙っていると、治療者は腕と肩の動きを見て止めた。
「ここだろう」
「ああ」
「我慢せず言え」
「まだ上がる」
治療者は腕を下ろした。
「上がることと、上げていいことは別だ」
横へ開いた場合は、それより早く筋が張った。治療者はロアンが答える前に止め、肘を曲げた状態で内外へ力を加えた。
右腕にも力は入る。ただし、動きは左より硬かった。
診察を終えると、治療者は手を洗った。
「骨折はない。関節も外れていない。肩の周囲の筋を傷めている。外皮へ叩き込んだ衝撃か、そのあと強く押した動きで傷め、使い続けたせいで治りが遅れている」
「何日で使える」
「もう使っているだろう」
「普段どおりには」
「剣を振ることも、荷を持つこともできる。だから治っている、という話ではない」
治療者は布で手を拭いた。
「重いものを頭より上へ持ち上げるな。右腕で強く押す動きも避けろ。肩へ重い荷を掛け続けるのもよくない」
「剣は背負う」
「左へ寄せろ。さっきのようにな」
「戦うなとは言わないのか」
「言えば戦わないのか」
「必要なら戦う」
「なら、言うだけ無駄だ。ただし、いま無理に使えば治るまでが長くなる。次に本当に腕が上がらなくなってから来ても、元どおりになる保証はできない」
ロアンは上着を取り、治療者に言われたとおり、肩を後ろへ引かずに着直した。
「薬は」
「痛み止めなら出せる」
「いらない」
「そう言うと思った」
治療者は棚へ伸ばしかけた手を止めた。
「眠れないほど痛むなら使えばいい。腫れる、熱を持つ、指が痺れる、腕に力が入らない、痛みが強くなる。そのどれかがあれば戻ってこい。一週間経っても変わらない場合もだ」
「なければ」
「来なくていい。今日は休め」
治療者は診察料を告げた。
ロアンが硬貨を卓へ置くと、治療者はすぐには取らなかった。
「少なく言えば、怪我が軽くなると思っているのか」
「思っていない」
「なら、聞かれたことには答えろ」
「答えた」
「こちらが何度も聞いて、ようやくだ」
ロアンは少し考えた。
「次は二度目で答える」
治療者は笑わず、呆れたように鼻から息を吐いた。
「次がないようにしろ」
診察室を出ると、待合の人間は来たときより増えていた。
ロアンは受付脇の枠から棒剣を受け取った。いつものように右肩へ掛けかけ、途中で手を止める。
帯を左へ回し、重さをそちらへ寄せた。
治療所を出ると、朝の光はすでに高くなっていた。大通りの人通りも増え、荷車が二台続いて通ったあとを、人々がまとめて横切っていく。
右肩の痛みは残っている。
骨折ではない。
関節も外れていない。
数日は頭上へ重いものを持ち上げず、強く押す動きを避ける。悪化しなければ、もう治療所へ来る必要はない。
必要なことは分かった。
まず棒剣を工房へ預ける。
そのあと宿へ戻り、胸当てを運ぶ方法を考える。
ロアンは棒剣を左へ寄せ直し、工房区へ向かった。




