2-3. 食事と宿
大通りへ戻ったところで、ロアンは足を止めた。
日が沈み、通りに並ぶ灯具はすでに白い光を放っている。石を敷いた大通りの中央を荷車が進み、その左右を人足や商会の使い、小さな台車を押す者たちが行き交っていた。建物の一階には厚い石が使われ、上階は木の柱と板で組まれている。扉や屋根の縁、荷揚げ口には金属の補強が入り、白い灯りを受けて鈍く光っていた。
白い光の下で、人と荷は動き続けていた。誰がどこへ向かうのかを確かめる必要は、もうなかった。
しばらく立っているうちに、空腹を覚えた。
腹が鳴ったわけではない。ただ、胃の奥が縮み、身体の内側から力が抜けていくような感覚があった。
最後にまともな食事を取ったのは、朝の出発前だった。その後は荷車の進み具合を見ながら、固いパンと煎った豆を少し口へ入れただけだった。商館へ着いてからも、荷の確認と精算が終わるまでは、食事のことを思い出しもしなかった。
空腹を意識すると、ほかの感覚も戻ってきた。
棒剣の帯が右肩へ食い込んでいる。
歩いているあいだは、鈍い痛みがあることだけを確認していた。いまは、その痛みが肩の奥から首筋へ広がり、腕を動かすたびに筋を引いているのが分かった。
腰も重かった。
足の裏には、硬い地面を長く歩いたあとの熱が残っている。靴の中には細かな砂が入り込み、指を動かすと皮膚の上を擦れた。
ロアンは棒剣の帯を左手で持ち上げ、肩へ掛かる重さを少し減らした。
治療所は明日でいい。
骨を折っているとは思えなかった。指は動き、肘も曲がる。腕を大きく上げなければ、今夜を過ごすには支障はない。今夜のうちに診せる必要はなかった。
まず食事だった。
大通りを少し進み、倉庫区から外れかけたところで、ロアンは細い道へ入った。
ベルグラートへ来るたびに同じ店を使うわけではない。宿の食事が十分なら、外で食べる必要もない。だが、この一帯には倉庫や工房で働く者を相手にした食堂が多く、値段も量も大きくは変わらなかった。
通りに面した一軒の店で足を止めた。
間口は狭かったが、奥へ長い。入口の横へ、今日出せる料理の名と値段を書いた板が掛けられていた。文字の下には何度も書き直した跡があり、表面が白く擦れている。
中から、人の話し声と食器の触れ合う音が聞こえた。
ロアンは扉を開けた。
店内には長い卓が三つ並んでいた。
壁と床は石で、天井を支える梁と卓、椅子は木でできている。壁際には空の酒樽が積まれ、その上へ食器を入れた籠が置かれていた。客の多くは、仕事を終えた人足や御者だった。外套を椅子の背へ掛け、汚れた手でパンを割りながら大声で話している。
入口に近い卓の端が空いていた。
ロアンは棒剣がほかの客へ当たらないよう身体を横へ向け、壁際を通って席へ着いた。背負ったままでは座りにくいため、剣を外して壁へ立てかける。柄が倒れないことを確かめてから、椅子へ腰を下ろした。
その瞬間、腰と脚の力が一度に抜けた。
椅子は硬く、座面も広くはない。それでも、自分の身体を自分で支えなくてよいだけで楽だった。
肩から重さがなくなると、痛みはかえってはっきりした。
ロアンは右腕を卓へ載せず、身体の脇へ下ろしたままにした。
料理を運んでいた女が、空いた器を片手に近づいてきた。ロアンの旅装と、壁へ立てかけた棒剣を一度見たが、珍しがる様子はなかった。
「食事か」
「ああ」
「煮込みならすぐ出る。肉入りは終わった」
「煮込みでいい。パンも一つ」
「酒は」
「薄いものを」
女は注文を繰り返さず、そのまま奥へ戻った。
ロアンの正面では、三人の男が車軸の修理代について話していた。
「鉄帯はまだ使える」
「車輪が歪んでいるんだ。鉄だけ残して何に巻く」
「木材が高すぎる」
「安いところへ持っていって、街道で割れたらもっと高くつく」
声は大きかったが、喧嘩をしているわけではないらしい。一人が酒を飲み、別の一人が卓の上へ指で車輪の形を描いていた。
隣の卓では、荷役たちがその日の賃金を数えている。
硬貨を卓へ並べるたび、金属と陶芯が乾いた音を立てた。誰かが一枚を取り上げ、縁の刻みを指先で確かめている。
店の中にいる者たちは、それぞれ一日の続きを話していた。
ロアンの仕事は、商館で途切れていた。
次に護衛へ入るとしても、積荷も人員も別になる。それは今日の続きではなかった。
帰りの仕事が見つかれば受ける。
見つからなければ待つ。
エゼル商会、ヴァルドがギルドへ指名依頼を出すと言っていた。確実ではないが、近いうちにということであれば待つのも良いと思えた。
料理が運ばれてきた。
深い陶器の器に、豆と根菜の煮込みが盛られている。豆の形が残ったところと、煮崩れて汁へ溶けたところが混じっていた。細く切られた根菜は淡い色をしており、表面に少量の油が浮いている。
横へ置かれたパンは、手のひらより少し大きく、表面が固く焼かれていた。
酒は金属の杯に入っていた。香りは弱く、水で大きく薄められている。
ロアンはまず酒を一口飲んだ。
冷たくはなかった。わずかな酸味が舌に残り、喉を通るとすぐに消えた。
パンを両手で割ろうとして、右肩に力が入った。
痛みが走り、ロアンは一度手を止めた。
左手でパンを卓へ押さえ、右手は添えるだけにして割る。固い表面が乾いた音を立て、中から密度の高い生地が現れた。
一片を煮込みへ浸す。
汁を吸わせてから口へ運んだ。
味は濃くなかった。
豆と根菜に塩が効き、油の匂いが少しする。街道で食べてきた保存食と比べれば、それだけで十分だった。
一口食べるごとに、胃の奥の縮みがゆるんでいった。
温かいものが腹へ入ると、身体の疲れが軽くなるというより、それまで疲れていたことが分かるようになった。背中が重く、首の筋が張っている。目の奥にも鈍い熱があった。
ロアンは急がずに食べた。
隣の客が立ち上がり、椅子が床を擦った。
新しい客が入り、空いた場所へ座る。
食器を下げる音。
注文する声。
外を通る荷車の車輪。
店内の物音は絶えなかった。
砂海では、夜営を終えたあとの静けさの中で、小さな音を一つずつ聞き分けていた。砂の下を動くものがいないか。暗がりでワトが怯えていないか。見張りが眠っていないか。
いま聞こえてくる音に、意味を探す必要がなかった。
誰かが笑っても、椅子を倒しても、入口の扉が急に開いても、ロアンが立ち上がる理由にはならない。
煮込みを食べ終え、器の底に残った汁をパンで拭った。
最後に薄い酒を飲み干す。
腹は満ちた。
満腹というほどではないが、今夜を過ごすには足りた。
代金を卓へ置き、女へ声を掛ける。
「ここに置く」
女は別の客へ器を運びながらうなずいた。
ロアンは棒剣を背負い直した。
帯が右肩へ触れた瞬間、顔をしかめるほどではない痛みが戻る。掛ける位置を少し外側へずらし、店を出た。
外は完全に暗くなっていた。
大通りへ戻ると、白い灯具が一定の間隔で道を照らしている。建物の上階は暗く、窓から細い光が漏れる家もあれば、すでに戸を閉ざした店もあった。
通りの人通りは、夕刻より減っていた。
それでも荷車は動いている。昼のうちに商館へ入れなかった車が、誘導役の灯りに従って倉庫区へ進んでいた。通りの端には、明日の仕事を待つらしい空の台車が並べられている。
ロアンは宿へ向かった。
ベルグラートには何度か来ている。
そのたびに同じ宿へ泊まると決めているわけではないが、今回向かっている宿は過去にも数度使ったことがあった。エゼル商会から歩いてそれほど遠くなく、長く滞在しても高くつかない。部屋の広さや食事に特別よいところはないが、宿主は余計なことを尋ねず、預けた荷を勝手に動かさなかった。
大通りを離れ、二本目の道を曲がる。
道幅は狭くなったが、人がすれ違うには十分だった。石造りの一階へ木の上階を載せた建物が並び、上へ行くほど通り側へ少し張り出している。
宿の看板は、入口の上から金属の腕で吊られていた。
木板に描かれていた図柄は、長い雨風でほとんど消えている。黒い線が何本か残っているだけで、獣なのか荷車なのかも判別できなかった。
扉を開けると、一階の広間に数人の客がいた。
壁際で酒を飲む男。
卓へ突っ伏している人足。
隅では宿の女中が床を掃き、集めた砂を木の板へ載せていた。
正面の帳場にいた宿の主、ロームが顔を上げた。
四十代の終わりに見える男で、短い黒髪には白いものが混じっている。大柄ではないが、元荷役らしく肩と腰が厚かった。以前に会ったときと同じ、袖を肘まで捲った服を着ていた。
男はロアンの顔を見たあと、旅装と棒剣、胸当ての汚れへ視線を下ろした。
「久しぶりだな」
「ああ」
「今着いたのか」
「さっき仕事が終わった」
宿主はうなずき、帳場の下から宿帳を取り出した。
「何泊する」
「決めていない。帰りの仕事が見つかるまでだ」
宿主は帳面を開きかけた手を止めた。
「前もそう言って、十日いたな」
ロアンは覚えていなかった。
前回ベルグラートへ来たときも、帰路の護衛が決まるまで滞在していた。十日だったと言われれば、そうだったのだろう。
宿主は部屋札の並んだ板を見上げた。
「まず三泊分でいい。延ばすなら三日目にまた払え」
「わかった」
ロアンは腰袋から硬貨を出した。
宿主は帳場の上へ並べ、一枚ずつ指で動かして数える。硬貨を受け皿へ入れ、宿帳へロアンの名を書いた。
「二階の奥。前にも使った部屋だ」
板から札を外し、卓上へ置く。
「湯は」
「今日はもうない。水なら裏で使える」
「それでいい」
「食事はまだ出せるぞ」
「済ませた」
宿主はロアンの右肩を見た。
棒剣の帯が触れないよう、身体がわずかに左へ傾いていたのかもしれない。
「治療所へ行くなら朝のうちに行け。昼を過ぎると待たされる」
「ああ」
「階段の最後の一段が緩んでいる。踏み抜くほどじゃないが、中央を踏むな」
ロアンは部屋札を取った。
広間を横切り、奥の階段へ向かう。
階段は木で組まれ、中央が長年の足でわずかに窪んでいた。上階へ進むにつれて、一階の話し声が床板を通した低い響きへ変わる。
ロアンは中央を避け、端へ足を置いた。
それでも最後の一段は、小さく軋んだ。
二階の廊下には、小さな灯りが一つだけ点いている。
左右に扉が並ぶ。話し声はなかったが、床板を通して、ときおり人の動く振動が伝わった。
部屋札と一緒に渡された鍵で、突き当たりの扉を開けた。
中は以前と変わっていなかった。
一人用の寝台。
木の椅子。
小さな卓。
荷物を置くための低い台。
壁には外套や武器を掛ける金属の鉤が取りつけられ、窓は鉄板の戸で閉じられている。
広くはない。
ロアンが棒剣を置き、装備を外し、眠るだけの場所だった。
扉を閉め、内側から留める。
棒剣を外し、壁の鉤へ革帯を掛けた。
右肩から重さが消えた。
そのまま胸当ての留め具へ手を掛ける。脇の下に近い金具を外そうとして腕を上げると、肩の奥に鋭い痛みが走った。
ロアンは腕を下ろした。
呼吸を整え、左手を使って上側から順に外していく。急いで脱ぐ必要はない。留め具を一つずつ外し、最後に胸当てを身体から離した。
革と金属でできた防具は、いつもより重く感じられた。
卓の脇へ置く。
表面には旅の埃が積もり、脇の縫い目が切れている。歪んだ留め具の周囲には、沈み道で浴びたサンドワームの体液が黒い跡となって残っていた。
明日、工房へ持っていく。
外套を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。
腰の袋を卓へ置く。現金を入れた袋と預かり証が別々にあることを確かめ、食事代と宿代を使った残りを数えることなく戻した。
靴を脱ぐ。
片方を逆さにすると、細かな砂が床へ落ちた。
もう片方からも同じように砂を出す。
砂海を越えてから何日も経っていた。途中の宿でも靴を脱ぎ、何度か中を払っている。それでも縫い目や足布の間に入り込んだ砂は、ベルグラートまで残っていた。
ロアンは足布を外した。
指の付け根に赤く擦れた箇所がある。皮は破れていない。薬を使うほどでもなかった。
水で身体を拭くことを考えたが、立ち上がる気になれなかった。
寝台の端へ腰を下ろす。
敷布の下にある板が、身体の重さを受けて小さく軋んだ。
そのまましばらく動かなかった。
部屋は静かではない。
廊下を歩く足音がする。
一階から、誰かが笑う声が上がる。
通りを荷車が通り、車輪の振動が建物の木組みへかすかに伝わった。
それでも、どの音もロアンへ何かを求めてはいなかった。
夜番に立つ必要はない。
ワトの状態を見に行く必要もない。
風向きを確かめる必要も、荷縄の緩みを調べる必要もない。
誰かが起こしに来る時刻を考えなくてよかった。
明日の朝、ギルドへ行き、到着と宿泊先を届ける。
そのあと治療所へ行く。診察が済んだら、棒剣と胸当てを工房へ預ける。
それ以外は、起きてから決めればよい。
ロアンは寝台へ腰を下ろしたまま、両手を膝へ置いた。
右肩の痛みが、脈に合わせてゆっくりと返ってくる。食事を取った腹は温かく、歩き続けた脚には重さが溜まっていた。
商隊の者たちは、もうそれぞれの宿や知人の家へ向かっているだろう。
十五台の荷車も、商館の敷地の中で別々に扱われている。
いま自分がいる部屋には、守るべき荷も、次の水場までの日数を尋ねる者もいない。
ロアンは息を吐いた。
そこでようやく、今回の仕事が終わったのだと分かった。




