5-6. 北へ続く道
継暦六百二十七年 十一月二日
東門を出てから半刻ほど経つと、エルデンの城壁は丘の向こうへ沈み始めていた。
振り返ればまだ見える。灰色の土地の上に、朝の光を受けた石壁の上半分だけが白く浮いていた。東門の位置も分かる。その門から伸びた街道が、丘を越えながら七人の足元まで続いている。しかし門前を行き来する人の姿までは、もう見分けられなかった。
ロアンは一度だけそちらを見て、前へ向き直った。
片道は七日ほど。現地で何日か調べ、それから同じ道を戻る。予定どおりなら二十日前後で帰れる。何かあって遅れたとしても、一月も留守にすることにはならないだろう。
そう考えれば、いつもの長い仕事と大きく違うわけではなかった。
道はよく乾いていた。秋の終わりにしては風も弱く、街道の両側には刈り入れを終えた畑が広がっている。その向こうには低い丘が連なり、ところどころに疎らな林が見えた。
都市に近いうちは、行き交う者も多かった。薪を積んだ荷車がエルデンへ向かい、空の籠を背負った農夫が畑へ戻っていく。東から野菜を運ぶ二輪車も何台か通った。七人の装備を見て道を空ける者もいれば、ギルド札に気づいて軽く会釈する者もいる。
七人は出発前に決めた順で歩いていた。
先頭にオルンがいて、その少し後ろをヘイルとセナが進む。中央にはティナとミラ、最後をロアンとガレスが歩いた。ただし、今のところ隊列を厳密に保つ必要はなかった。荷車とすれ違えば自然に一列になり、道幅が広がれば二人並びに戻る。ミラの弓は背中にあり、ティナの短槍も肩へ掛けられたままだった。ガレスも大盾を背負っている。
午前のあいだ、ロアンは街道の外へ何度も目を向けた。
林があれば木々の間を見る。丘の上に黒い影があれば、人なのか木なのかを確かめる。遠くで金属が触れ合うような音がすれば、音の元を探した。
どれも、確認してみれば変わったものではなかった。
林にいたのは薪を拾う老人で、丘の上では二人の男が柵を直していた。金属音は、前を進んでいた古い荷車の車輪から出ているものだった。
最初の休憩は、街道脇に古い石標が残る場所で取った。
誰かが号令を掛ける必要はなかった。七人はそれぞれ荷を下ろし、水を飲み、身体に当たる革帯の位置を直した。ティナは短槍の革巻きを確かめ、ミラは弓弦を指で弾いて張りを見ている。ガレスは大盾を一度背から外し、留め具を確認してからまた担いだ。ヘイルは地図を広げて、今いる場所を確かめている。
セナも自分の荷を下ろし、水を飲んでいた。誰かを診る必要はない。数日歩いただけで身体を壊すような者は、この中にはいなかった。
少し離れたところで、オルンが街道の端にしゃがんだ。
ロアンが近づくと、灰の薄く積もった地面に鹿の蹄跡が残っている。
「何かおかしいところでもあるのか」
「三頭だ」
オルンは跡をいくつか見比べた。
「夜のうちに西から東へ渡った。大きいのが一頭と、若いのが二頭。走った跡じゃない」
ロアンも蹄の並びを見る。間隔は揃っていた。
「問題はなさそうだ」
「ああ」
それだけ確認して、二人はほかの者たちのところへ戻った。
昼が近づくにつれ、畑は少なくなった。代わりに黄色く枯れた草地が増え、その中から黒い石がいくつも覗いている。風の通る場所には白い灰が浅く溜まっていた。
道そのものはよく使われていた。何本もの轍が重なり、人の靴跡も残っている。北東へ向かう者だけではなく、前方からエルデンへ戻ってくる者とも何度かすれ違った。
昼前には、弓を持った二人組が向こうから歩いてきた。
年嵩の男と、若い男だった。どちらも背中に毛皮を括りつけている。
オルンが先に道を空け、ロアンはすれ違う前に声を掛けた。
「どこから来た」
年上の男が七人を見る。
「クレバの林だ」
オルンが答える。
「北東か」
「ああ。ここからなら一日半くらいだ」
「何か変わったことはあったか」
男は少し考えたあと、逆に尋ねた。
「何か問題でもあったのか」
「人が戻ってない」
「噂になっているな。でもそれはもっと北のほうだと聞いている」
「ああ」
「俺たちはそこまでは行ってない。林で三日いただけだ。獣もいつもどおりだったよ」
若い男が背負った毛皮を動かした。兎のものに混じって、少し大きな獣の毛皮もある。
「鹿は二度見た。大きい雄がいた」
「撃ち損なったんだけどな」
年上の男が言う。
「遠かったんだ」
「近くてもありゃ外したはずだ」
二人は言い合いながら西へ歩いていった。
怪我をしている様子も、何かから逃げてきた様子もない。
ロアンは遠ざかる二人を少しだけ見てから、再び歩き出した。
夕刻前には、街道沿いの宿砦へ着いた。
石壁は低く、外からの襲撃を防ぐというより、夜の獣が簡単に入り込まないよう囲っている程度のものだった。厩にはワトが五頭いて、門の内側には荷車が二台停まっている。片方は染料を積んで西へ向かう途中のもの、もう片方は東の村から根菜を運んできたものだった。
七人が入っても、宿砦の空気は変わらなかった。
管理人はギルド札を確かめ、四十二番遺跡へ向かう調査隊だと知ると帳面を一冊持ってきた。驚いた様子も、急に声を落とすような様子もない。
「北の話は何か入ってるか」
ロアンが尋ねた。
「遺跡へ行った連中が戻ってないって話なら聞いてるよ」
「それ以外は」
「特にはないね。三日前に炭焼きが二人、北東から戻ってる。昨日も薬草採りが来た。もっと奥までは知らないけど、この辺りはいつもどおりだ」
「機械生命や、機械人形を見たって話は」
「ここでは聞いてない」
管理人はそこで初めて少し興味を示した。
「出たのか?」
「遺跡周辺であればその可能性もあるというだけの話だ」
「そうか」
ひどく普通の返答だった。
ロアンは少し間を置いてから尋ねる。
「怖くないのか」
「いちいち怖がってたらここの管理なんかしていない。野盗や獣と同じようなものだろう?」
その夜は宿砦で食事を取った。
豆と根菜を長く煮たものに、薄く切った燻製肉が入っていた。遠征の先では毎晩温かいものを食べられるとは限らない。食べられる場所では食べておく。
食事が終わるころには、七人の会話も依頼から離れていた。ティナが朝すれ違った荷車の御者について何か言い、ミラがその内容をほとんど覚えていなかったことで話が続いた。ガレスは黙って聞いていたが、ときどき口元だけで笑った。ヘイルは管理人から借りた街道記録を読み、オルンは先に二階へ上がった。
ロアンも水を飲み終え、器を戻した。
警戒を解いたわけではない。しかし、ここには壁があり、人がいて、旅人も普通に泊まっている。何かが来るかもしれないという理由だけで、一晩中張りつめている必要はなかった。
最初の夜番はロアンとオルンだった。
二人で石壁の内側へ出ると、雲の切れ間から細い月が見えた。街道そのものは暗いが、宿砦の中は完全には静まっていない。厩でワトが身じろぎし、厨房ではまだ器を片づける音がしている。しばらくすると、草地の向こうから小さな獣の声が聞こえた。
「狐だ」
オルンが言った。
「この辺にもいるのか」
「どこにでもいる」
それから半刻ほど、何も起きなかった。
ロアンはいつの間にか、道の向こうから何かが現れるのを待っている自分に気づいた。人影でも、金属の音でも、夜の静けさに似合わない何かでもいい。しかし、いくら待っても街道には何も出てこなかった。
番を交代して寝床へ入る。
目を閉じると、宿砦の屋根を風が撫でる音が聞こえた。
リゼはもう宿舎へ戻っているだろう。明日はメリダの店へ行き、その次は孤児院。六日にはネラのところで脚を見てもらうと言っていた。
ロアンがいなくても、することはある。
宿舎では他の住人と軽い挨拶を交わして、時折マルタの手伝いをする。店では、メリダとも客とも上手くやっている。孤児院では、子供たちから慕われている。工房では、ちゃんと動けるようにメンテナンスしてもらっている。
そのような毎日が良いことなのかはわからなかった。しかし、悪くはないはずだと思いたかった。
そう考えているうちに眠った。
翌朝、十一月三日。
夜のあいだに薄く霜が降りていた。宿砦の外へ出ると、草の先が白くなっている。日の当たるところから溶け始め、七人が出発するころには道の端が濡れていた。
その日も、特に何も起きなかった。
午前中に荷車を二台追い越し、昼前には東から来た家族連れとすれ違った。男が荷を背負い、女が幼い子どもの手を引いている。北東の集落からエルデンの親類を訪ねる途中だという。歩みは遅かったが、何かを恐れて急いでいる様子はない。
道の脇では鳥が木の実を啄み、七人が近づけば枝を移った。鹿の足跡も見つかったし、泥を掘り返した小型獣の痕跡もあった。
オルンは気になるものがあれば確かめたが、どれも旅を止める理由にはならなかった。
午後になるころには、ロアン自身も街道の外へ目を向ける回数が減っていた。
警戒をやめたわけではない。
前はオルンが見ている。後ろにはロアンとガレスがいる。林へ入ればミラは弓へ手を伸ばし、ティナも短槍を下ろす。視界が狭まれば互いの距離を詰め、開ければまた楽な間隔へ戻る。
どれも指示されるまでもないことだった。
長い道を歩き、野営し、護衛をしてきた人間が七人いる。誰かが立ち止まれば理由を確かめ、休憩を取れば近くの者が周囲を見る。狭い場所へ入れば自然に列が短くなり、見晴らしのいい場所では少し広がる。
仕事として何度も繰り返してきた動きだった。
午後、道は小さな林へ入った。
落葉した木が多く、葉のある季節よりは見通しが利く。地面には白い灰の上へ茶色い葉が重なり、踏むたび乾いた音を立てた。
林の中ほどまで来たところで、ミラが急に足を止めた。
弓へ手が伸びる。
それを見たティナも短槍を肩から外し、ロアンは棒剣の柄へ手を添えた。
「何だ」
ミラは道の右側を見ていた。
枝の奥で何かが動く。
茶色い背が見えた。
しばらくして、鹿が二頭、木々の間から飛び出した。
一頭はまだ若い。七人の姿に驚いたのか、街道へ出る直前で向きを変え、斜面の上へ駆けていった。もう一頭もあとを追い、枝が揺れて落ち葉が散った。
ティナが短槍を肩へ戻す。
「鹿か」
ミラも弓から手を離した。
オルンは道の端へ寄り、鹿がいた辺りを眺めた。
「近くで休んでたんだろう」
木の根元には、しばらくその辺りを歩いていた足跡が残っている。何かに追われて駆け込んできたような乱れはなかった。
それだけ確かめて、一行はまた歩き出した。
その晩は、街道から少し外れた古い採石場で野営した。
半分崩れた石壁が風を遮り、少し離れた場所には浅い水場もある。オルンが以前にも何度か使った場所だった。
荷を下ろすと、それぞれが勝手に動き始めた。ガレスとティナが薪になりそうな枝を拾い、ミラは採石場の周囲を一度回った。オルンが水場を確認し、セナは鍋と食料を取り出す。ヘイルはまだ明るいうちに地図を開き、その日の行程を書き加えていた。
ロアンは石壁の崩れ方と周囲の地形を確かめ、外側に警戒用の細い縄を張った。
それも、特別なことではない。
火を起こし、ギルドから支給された携行食を温めた。乾燥させた豆と肉を水へ入れ、少量の塩を加えただけのものだが、寒い夜にはそれで十分だった。
食事のあと、ヘイルは火の近くで記録を書いていた。
今日通った道の状態や、水を得られる場所、途中ですれ違った人間について、必要なことだけをまとめている。途中で手を止め、今日一日を思い返してから、最後の余白へ何かを書き足した。
ロアンは向かい側から尋ねた。
「何かあったか」
「ありません」
「なら何を書いてる」
「『何もなかったこと』を書いています」
ロアンは少しだけ紙を見る。
「それも記録するのか」
「ええ、あったことと、なかったことを記録する必要があります。この紙を手渡せるとは限らないので」
「そうか。確かに、そうだな」
ヘイルは再び筆を動かした。
ロアンは火へ目を戻した。
依頼を受けたときには、もっと早く何かが見つかると思っていた。
十二人が戻っていない。
同じ方面で人が消えている。
原因不明の負傷者がいる。
野盗かもしれない。獣かもしれない。機械生命や機械人形が関わっているかもしれない。
そういう情報を受けて出たのだから、四十二番遺跡へ近づくほど、何かが少しずつおかしくなるのだと思っていた。
しかし、二日歩いても、何も変なことは起きなかった。
人が消えたことは事実だ。原因が遺跡にあると決まったわけではない。崩落に巻き込まれたのかもしれない。道を外れて戻れなくなった可能性もある。病気や事故で動けなくなり、連絡だけが途切れていることも考えられた。
何が起きたかは、見つけてから考えればいい。
夜番の途中、暗い林のほうで枝が折れた。
ガレスが顔を向け、ロアンも音のしたほうを見る。しばらく待っていると、もう一度、小さく枝の擦れる音がした。
暗闇の中から現れたのは、灰鼠だった。鼠というには大きいが、犬より少し小さな四足の獣だった。火の明かりが届くぎりぎりのところで立ち止まり、鼻先を何度も動かしている。食べ物の匂いに寄ってきたらしい。
ロアンが小石を拾って手前へ投げると、獣は身を翻し、すぐに暗闇の中へ消えた。
ガレスはしばらくその先を見ていた。
「腹が減ってたんだろうな」
「ああ」
それ以上、何も来なかった。
交代の時刻まで、林の中で聞こえたのは風が枝を揺らす音と、遠くで鳴く獣の声だけだった。
ロアンは火のそばへ戻り、眠っている仲間たちを見た。
エルデンを出て二日。
四十二番遺跡までは、まだ遠い。
十二人が帰っていないことも、ほかに消息を絶った人間がいることも変わらない。それでも、ここまで歩いてきた道には、何かが起きていると分かるようなものは一つもなかった。
明日も同じなら、それでいい。
ロアンは外套を寄せ、石壁へ背を預けた。




