5-5. 調査へ
継暦六百二十七年 十一月二日
窓の外はまだ暗かった。水路を流れる音だけが聞こえ、通りを行く荷車も、宿舎の廊下を歩く足音もない。朝というより、まだ夜の続きを残した時刻だった。
リゼは机の前に立っていた。
肩掛けはまだ羽織っていない。新しい右脚には、左と揃いの茶色い靴を履いている。机の上にはロアンの上衣と胸当てが置かれ、その脇に腰袋が並んでいた。
「起きていますか」
「いま起きた」
寝台から上体を起こし、右腕を動かす。
指を握り、肘を伸ばし、肩を一度回す。動かせないほどではない。その様子を、リゼが見ていた。
「右肩に痛みがありますか」
「少しな」
リゼは一度だけ頷いた。
「セナに伝えてください」
「ああ」
「自分からです」
「分かってる」
それで会話は終わった。
ロアンは寝台を出た。上衣を着て、胸当てを身につける。留め具を締めようとすると、リゼが右脇の革紐へ手を伸ばした。
「自分でできる」
「昨日、右肩を使用しています」
「だから何だ」
ロアンは手を離した。
リゼは革紐を引き、強くなりすぎない位置で留めた。指先が胸当てから離れる。
「苦しくありませんか」
「問題ない」
棒剣は壁際にあった。
手に取る。
昨日まで何度も確認した武器だった。今朝になって新しく調べることはない。腰へ差し、鞘代わりの革具を固定する。
遠征用の荷の大半はギルドに置いてある。部屋から持ち出すのは、自分の武器と身につけるものだけだった。
ロアンは一番下の棚を見る。
リゼの場所。
赤い花の刺繍がある巾着。
セルに関わるもの。
留守中に使うよう渡した二十クレド。
昨日、ギルドへ出した書類も思い出した。
死亡が確認された場合、百日間の処分保留。
それ以上は決めなかった。
考えても、どうにもできなかった。
「六日」
ロアンが言った。
「はい」
「ネラのところへ行け。昨日のことも話せ」
「模擬戦を行ったことですか」
「ああ」
「問題は何もありません」
「それも含めて言え」
「分かりました」
「店も孤児院も、脚がおかしければ休め」
「はい」
「セルも――」
ロアンはそこで止めた。
もう話した。
何度も確認した。
リゼも覚えている。
「何ですか」
「いや」
ロアンは腰袋を確かめた。
「何かあったら、一人で決めるな。ガルドでもマルタでも、ネラでもいい。言え」
「分かりました」
昨日、自分の引渡先については誰も選ばなかったリゼが、今日は素直に頷いた。
それで十分だと思うことにした。
「東門まで行きます」
「ああ」
止める理由はなかった。
リゼは肩掛けを羽織った。
二人で部屋を出る。
暗い廊下を歩き、階段を下りる。
左の靴底。
右の靴底。
その間に、足首の金属筒が動く小さな音が続く。
毎朝聞くようになった音だった。
食堂には、すでに灯りがついていた。
マルタが厨房に立ち、ガルドは入口近くの卓へ座っている。窓際にはダーレスもいた。いつもの薄い茶ではなく、水の入った器を前に置いている。
「起きたね」
マルタが言った。
「座りな。食べていきな」
ロアンが椅子を引く。
リゼも向かいへ座った。いつも通り、食事はロアンの分だけだった。
マルタは麦粥を置いたあと、布包みを卓へ載せた。
「途中で食べな」
「ギルドから出る」
「それとは別だよ」
「荷物になる」
「パン二枚で歩けなくなるなら、行くのをやめな」
以前と同じ調子だった。
ロアンは布包みを手に取った。
「ありがとう」
マルタが少しだけ眉を上げる。
「今日は素直だね」
「朝から言い合いたくないだけだ」
「そういうことにしとくよ」
包みを腰袋へ入れる。
ガルドが卓の上の帳面を閉じた。
「部屋代は一月分預かってる」
「ああ」
「遅れても部屋はそのままにしておく」
「頼む」
「リゼのことも、何かあればこっちで見る」
向かいから、リゼが言った。
「私は自分で生活できます」
「知ってる」
ガルドは苦笑もしなかった。
「何かあったら言えというだけだ」
「はい」
ロアンが昨夜から何度も言ったことと同じだった。
窓際からダーレスの声がした。
「人形がいたら、近づくなよ」
ロアンは顔を向けた。
「分かってる」
「倒れててもだ」
「ああ」
「一体いたら、ほかにもいると思え」
「ああ」
ダーレスはそれ以上続けなかった。
以前なら、同じ忠告を何度もされることを鬱陶しいと思ったかもしれない。
今日は何も言わずに受け取った。
食事を終え、水を飲む。
椅子を引くと、リゼも立った。
マルタは食堂の出口まで来た。
日帰りの仕事へ出るときにも、二日の護衛へ向かうときにも聞いてきた言葉を、いつもと同じように言う。
「いってらっしゃい」
片道七日。
何もなければ二十日ほど。
何かあれば、それ以上。
それでも、返す言葉まで変える必要はなかった。
「行ってくる」
ガルドが頷く。
ダーレスは器を持ち上げた。
リゼとともに宿舎を出た。
外はようやく明るくなり始めていた。
東の空だけが白み、建物の影はまだ長い。水路の表面へ細い光が落ち、通りでは朝の仕事を始める者がぽつぽつと動き始めている。
二人で水路沿いを歩く。
リゼは隣にいた。
新しい右脚を得る以前なら、ロアンが歩調を落としていた。
いまは、その必要がない。
それでもリゼは先へ行かなかった。
ロアンと同じ速度で歩いている。
「ロアン」
「何だ」
「右肩は」
「変わらん」
「ギルドに着いたら、セナに伝えてください」
「二度目だぞ」
「忘れている可能性があります」
「忘れてない」
「では、問題ありません」
ロアンは返さなかった。
しばらく、水の音と二人の足音だけが続いた。
ギルドへ着く頃には、空はすっかり明るくなっていた。
中庭には、すでに六人が揃っている。
ガレスは大盾を地面へ立て、昨日作った木製の栓を一度抜いて戻した。ティナは短槍を肩へ掛けている。ミラは弓と矢筒を背負い、ヘイル、オルン、セナもそれぞれ荷を持っていた。
昨日確認したものばかりだった。準備は万全で、改めて何かを見直す必要はなかった。
「遅くない?」
ティナが言った。
「遅れてはいない」
「私のほうが早かった」
「それを遅いとは言わん」
ミラが横から言う。
「ティナ、昨日から東門が開く前に来てた」
「絶対遅れたくなかったから」
「誰もそこまで早く来いとは言ってない」
二人のやり取りを横に、セナがロアンへ近づいた。
「右肩はどうですか」
ロアンが答える前に、隣からリゼが言った。
「昨日の模擬戦後から、痛みが残っています」
ロアンはリゼを見る。
「自分で言うと言っただろ」
「まだ言っていませんでした」
セナはロアンの右半身を眺めて、顔を向けた。
「痺れは」
「少しある」
今度はリゼがロアンの顔を見た。
「悪化したら必ず言ってください」
「ああ」
「必ずです」
「わかってる」
リゼが何も言わなくなったので、今度こそ終わったらしい。
中庭の端には、エダとバルガスが立っていた。
エダは名簿と契約札を確認し、七人を順に見る。
「全員そろっています」
昨日の書類については、何も言わなかった。
ロアンも聞かなかった。
使わない書類だった。少なくとも、使わないで済むよう行動する。
バルガスは七人の前へ来た。
「話すことは昨日までに話した」
視線が一人ずつを通る。
「調べろ。無理だと思ったら退け。情報を持って帰ってこい」
ガレスが盾を背負う。
ティナも槍を肩へ掛け直した。
ヘイルが袋を持ち、オルンは先頭へ出る準備をする。セナは最後に治療具の位置を確かめた。
「行くぞ」
ロアンが言った。
七人が中庭を出た。
リゼとエダも見送りのため後ろへ続く。
ギルドの広間を抜け、東門へ向かう。
朝の都市は、少しずついつもの姿を見せ始めていた。
荷車が動く。
店の戸が開く。
橋の上を仕事へ向かう人間が渡っていく。
ロアンたちのために都市が止まることはない。
七人は人の流れを避けながら歩いた。
オルンが先。
その近くをヘイルとセナ。
ティナとミラ。
ロアンとガレスが後ろへつく。
リゼはロアンの隣にいた。
門へ近づくほど、人と荷車が増えた。
外へ出る商人。
戻ってきた採取者。
積み荷を確認する門番。
城壁の上では、夜番と朝番が交代している。
東門の前で一行は止まった。
オルンが空と街道を見る。
薄い雲の向こうに朝の光が広がり、東へ伸びる道を白く照らしている。
エダが七人の名を再度確認し、門番へ出発記録を渡す。
先に荷車が一台、門を抜けた。
そのあと、街道が空いた。
ティナがリゼのほうを見た。前を向くロアンの後ろ姿を見つめていた。
「リゼ――」
呼びかけようとしたところで、ロアンがリゼのほうへ振り返る。
ティナは一度だけ口を閉じた。そのまま短槍の肩紐を直す。
隣のミラがちらりと見る。
ティナは小さく首を振った。
リゼの目が、ロアンを見つめていた。ロアンは何のために振り返ったのかを考えた。
話すことは、もうほとんどなかった。
だからこそ、何か言わなければならないように感じた。
「六日はネラのところへ行け」
「はい」
「店も孤児院も、無理なら休め」
「はい」
「何かあれば、ガルドかマルタに言え」
「はい」
「金は必要なら使え」
「記録します」
「好きに使えと言っただろ」
「必要なものに使用します」
昨日までと変わらない返事だった。
ロアンは少し考えた。
昨日、ギルドの受付で決められなかったことを思い出す。
誰へ渡すか。
誰に頼るか。
百日後をどうするか。
結局、何一つ決まらなかった。
決める必要もなかった。帰ればいい。
リゼがロアンを見る。
「帰ってきてください」
声は、いつもと変わらなかった。
けれど昨日までとは違って聞こえた。
帰るという言葉が何を意味するのか、リゼは尋ねた。
未来を保証する言葉ではない。
帰るために行動するという意味だと答えた。
ならば、そのとおりにするしかない。
「待っていろ。戻る」
リゼは頷いた。
「待っています」
それで終わった。
ロアンは前を向いた。
オルンが門を越える。
ヘイルとセナが続く。
ティナとミラ。
ロアンも歩き出した。
最後にガレスの大盾が門を抜ける。
靴底の下が、石畳から街道の土へ変わった。
ロアンは振り返らなかった。
振り返らなくても、リゼがまだ東門の内側にいることは分かっていた。
新しい右脚で立ち、こちらを見ている。
やがて都市の音が遠くなる。
前ではティナが何かを言い、ミラが短く返した。ガレスの盾の金具が、歩調に合わせて鳴っている。
七人の足音が、朝の街道へ続いていった。




