5-4. 引渡先
継暦六百二十七年 十一月一日
「ロアン」
中庭を出ようとしたところで、エダに呼び止められた。
差し出されたのは、昨日の契約書を挟んだ木板だった。死亡補償の受取人と、所有財産の引渡先。空欄が残っている。
「決まりましたら、受付へ提出してください」
「ああ」
エダはリゼへ一度視線を向け、中へ戻っていった。倉庫係も最後の木箱を運び終え、扉を閉める。七人で話していた声がなくなると、通りを行く荷車の音が壁の向こうから聞こえてきた。
ロアンは書類を持ったまま、空いた中庭を見た。
明日持っていく荷は、すべて確かめた。重すぎるものは減らし、捨ててもよいものと、手元に残すものを分けた。ガレスは盾を外せるようにした。ほかに足りないものがあれば、今日のうちに揃えられる。
紙の上には、二つの空欄が残っていた。
「昨日、エダに聞いた。補償金は、お前が直接受け取ることはできない」
リゼは隣から書類を見ていた。
「分かっています」
「誰かに預けて、お前のために使ってもらうことになる。引渡先も決めておく」
「必要ありません」
ロアンは顔を上げた。
「帰らなかった場合の話だ」
「ロアンは帰ってきます」
「ああ。帰る」
「では、必要ありません」
風が紙の端をめくった。リゼが左手を添える。ロアンが持ち直すまで押さえてから、その手を下ろした。
「ガルドなら、宿舎に残れる。マルタもいる」
「はい」
「ネラなら、脚やセルのことを頼める。メリダのところなら、仕事も続けられる」
リゼは名前が出るたびに頷いた。しかし、誰を選ぶとも言わなかった。
「誰がいい」
リゼは書類から目を離し、中庭の中央を見た。盾を引き、杖を構えていた場所には、靴跡だけが残っている。
「誰を選んでも、ロアンではありません」
「代わりを選べと言ってるんじゃない」
ロアンはそう答えてから、もう一度紙を見た。
引渡先に名前を書けば、その相手がリゼを引き取る。部屋を用意し、セルを充填し、脚の具合を見る。困ったことがあれば、その者が判断する。
いま自分がしていることを、誰かへ頼む話だった。駄目かもしれないが、頼むことならできる。
「暮らしていけるようにするためだ」
「エルデンで待ちます」
「待っているあいだのことだけじゃない」
「二十クレドを預かっています。必要なものには、それを使います」
「なくなったら」
「働きます」
「脚が壊れたら」
「ネラのところへ行きます」
返答は早かった。どこへ行くかも、誰に頼むかも分かっている。
「俺が死んだあとは」
リゼの目が、ロアンへ戻った。
そのまま待ったが、答えはなかった。壁の向こうで荷車が止まり、誰かが荷の降ろし方を指示している。
「死ぬことがないと思ってるのか」
「そうは思っていません」
「なら、決めておく必要がある」
リゼは紙へ目を落とした。
「どこでも同じです」
「同じじゃない。お前をどう扱うかは、人によって違う」
「はい」
「ネラやガルドが、お前を部品にして売るとは思わん。だが、知らない相手へ渡れば、そうなることもある」
リゼは黙って聞いていた。
以前なら、部品として売ったほうが利益になるだろうと言ってきたかもしれない。
「お前が困らないようにしたい」
ロアンは言った。
「だから聞いてる」
「ロアンが帰るまでなら、必要なものは分かります」
リゼは空欄を見たまま続けた。
「帰らないのなら、どこを選んでも、ロアンはいません」
ロアンは書類を下げた。
メリダの店で働くことも、孤児院へ行くことも、リゼが自分で選んだものだと思いたかった。新しい脚も、自分の金を入れる巾着もある。それらが、自分一人の不在でどうでもよくなるとは思いたくなかった。
だが、何が残るかを一つずつ挙げても、リゼがそれを知らないわけではない。
「俺がいなくても、店には行ける」
「はい」
「子どもたちも待ってる」
「はい」
「全部なくなるわけじゃない」
リゼは少し俯いた。
「明日は、東門へ行きます」
ロアンはリゼを見た。
「そのあと、宿舎へ戻ります。店にも、孤児院にも行きます」
「その先は」
「ロアンが帰るのを待ちます」
ロアンは紙を持つ指を動かした。端を強く押さえていたらしく、指を離しても折れた形が残った。
「帰ると言ったから、必ず帰れるわけじゃない」
リゼが顔を上げた。
言うべきことだった。それでも、言ったあとで取り消したくなった。
「では、帰るという言葉は、どのような意味ですか」
「帰るために動く。勝てなければ退く。無理に敵を倒そうとはしない」
「はい」
「そうして戻るという意味だ」
「私は、そのロアンを待ちます」
「待っても帰らなかったときのために――」
ロアンは言葉を切った。
同じ話へ戻っている。リゼの望む返事をするなら、帰るとだけ言っておけば良かったのか。
しかし明日の朝、自分はこの街を出る。
「お前が決めないなら、俺が決める」
「決めないでください」
リゼは書類へ手を伸ばさなかった。ただ、ロアンの手元を見ている。
「私の引渡先です」
「ああ」
「私が決めないものを、ロアンが決めないでください」
ロアンは口を閉じた。
ガルドの名前を書くことはできる。ネラでもよい。本人へ事情を話し、必要な金を預ける。頼めば、引き受けてくれるかもしれない。
これは、リゼのためではない。そうしなければ、ロアンは自分が一歩を踏み出せないことに気付いた。
「空欄のままでは、ほかの財産と一緒に処理される」
リゼは答えなかった。
「それだけは止めるぞ」
しばらくして、リゼが頷いた。
ロアンは昨日エダから聞いた一時預託の欄へ、希望の確認まで処分を保留するよう書き加えた。引渡先と第二候補には、誰の名も書かなかった。補償金の受取人も空いている。
リゼが隣から覗き込む。
「誰も記載していません」
「ああ」
「これで提出できますか」
「エダに聞く」
二人で中庭を出た。
広間は人が増えていた。依頼札の前で話す護衛や、荷の受領を待つ商人がいる。受付の向こうでは、書記が積まれた紙を順に確かめていた。
エダは別の契約を処理していた。ロアンたちに気づくと、手元の話を終えてからこちらへ来た。
差し出した紙を受け取り、空欄と書き加えた箇所を読む。
「引渡先は、決まりませんでしたか」
「ああ」
エダはリゼへ向いた。
「希望はないのですか」
「ロアンは帰ります。引渡先は必要ありません」
エダはすぐには答えなかった。紙を持ち直し、背後にいた書記へ受付を代わってもらうと、壁際の小さな卓へ二人を案内した。
椅子を二脚引き、自分は向かいへ座る。
「すぐに一人へ決めなくても、希望を残しておくことはできます」
エダは書類を卓へ置いた。
「宿舎に残りたいとか、メリダの店で仕事を続けたいとか。引き取る人の名前ではなく、暮らしについてでも構いません」
リゼは椅子へ浅く腰を下ろしていた。右の靴底を床へつけ、両手を膝の上へ置いている。
「宿舎には残ります」
「では、その希望を――」
「ロアンが帰る場所です」
エダの筆が止まった。
ロアンは卓の端へ肘を置きかけ、やめた。
「帰らなかったあとのことは、決めたくないらしい」
「はい」
リゼが答えた。
エダは筆を置いた。
「ガルドやマルタに頼むことが嫌なのですか」
「嫌ではありません」
「ネラやメリダにも?」
「はい」
エダは次の言葉を探すように、一度書類を見た。
「リゼが望まない場所へ、渡されないようにしたいんです」
「どこへ行きたいかは、決まっています」
エダが顔を上げる。
「ロアンのところです」
エダは手元の筆へ指を掛けたが、持ち上げずに離した。
受付で人を呼ぶ声がする。エダはそちらへ顔を向けず、リゼを見ていた。
ロアンが口を開いた。
「一時預託のままにできないか」
エダはロアンへ向いた。
「希望を確認するための預託には、第二候補が必要です。リゼが意思を伝えられない状態になることもありますから」
「いま、選ばないと言ってる」
「ええ」
「それでも、誰かの名前がいるのか」
エダは空欄へ目を落とした。
ロアンは返事を待った。昨日なら、必要ですと答えた箇所だった。エダは紙をめくり、ロアンの書いた処分保留の一文へ戻った。
「少し待ってください」
席を立ち、書類棚から綴じられた冊子を持ってきた。印のついた頁を開き、指で行を追っていく。別の頁と読み比べたあと、手元の契約書を引き寄せた。
「期間を区切れば、引渡先を未指定のまま受け付けられます」
「どれくらいだ」
「死亡が確認されてから、百日です。そのあいだは処分を保留し、ギルドが一時的に管理します」
ロアンはエダを見た。
「百日」
「はい。その期間内に、リゼの希望を確認します」
「その先は」
エダの指が、冊子の上で止まった。
「改めて判断することになります」
「決まらなかったら」
「この指定だけで、その先まで保留を約束することはできません」
ロアンは背もたれへ寄りかからず、両手を卓の上へ置いた。
百日あれば、セルを充填し、脚を調整できる。部屋も、仕事も探せるだろう。何も知らない相手へすぐに売られることは避けられる。
隣にいるリゼは、百日という日数にも何も尋ねなかった。
「金を多く残せば、延ばせるか」
「費用だけの問題ではないんです」
「俺の指定では足りない?」
エダは答える前に、冊子へ目を戻した。すでに読んだ行を、もう一度確かめている。
「すぐに引き渡さない指定はできます。リゼの希望を優先することも、書けます」
「ずっとはできない」
「……はい」
エダは冊子を閉じなかった。
ロアンは隣のリゼを見る。
この紙を使うことになったとき、自分は何も言えない。百日を過ぎても待ってやれとも、名前を書かせるなとも言えない。いま聞けることを、聞いておかなければならなかった。
「百日あれば、決められると思うか」
エダへ尋ねた。
エダはリゼを見た。リゼも顔を向けている。
「分かりません」
それ以上を言いかけて、エダは口を閉じた。
やがて、契約書を自分の前へ引いた。
「でも、いま名前を書かせることはしないで済みます」
ロアンは紙を見た。
「それしかないか」
「いま、この書類でできるのは、そこまでです」
エダの声は小さかった。
ロアンは頷こうとして、しばらく動けなかった。何か足せるはずだと思った。金でも、条件でも、人の名前でも。空欄を埋めれば足りるような話なら、何度でも書き直せる。
隣のリゼが待っている。
「百日後に決めろと、いま約束させないでくれ」
ロアンが言った。
エダは筆を持ったまま、頷いた。
「約束は求めません」
「紙だけで希望を確認したことにするな」
「本人に会って聞きます」
エダはリゼへ向き直った。
「私が話を聞きます。いま答えられないことを、ここで答えなくて構いません」
リゼはエダを見ていた。
「ロアンが帰れば、話す必要はありません」
「ええ」
エダは答えた。
「帰ってきてほしいです。私も」
リゼは何も言わなかった。
エダは書類へ条件を書き加えた。死亡確認後、百日間の処分保留。ギルドによる一時管理。その期間内は、リゼ本人の希望を優先する。
受取人と第二候補の欄は、未指定のまま残した。
書き終えると、紙をロアンの前へ向ける。
「確認してください」
ロアンは上から読んだ。
百日という文字で、目が止まる。
その下に、リゼの希望を優先するという一文があった。ロアンはそこまで読み、紙を返した。
「これで頼む」
エダが印を押した。
硬い音が卓へ落ちた。
「この内容で受理します」
リゼが印のついた箇所を見る。
「死亡が確認されなければ、この指定は実行されませんか」
「実行されません」
エダが答えた。
「帰還が遅れただけで、リゼの引渡先を決めることはありません」
「分かりました」
リゼは両手を膝から離した。
ロアンは書類をもう一度見た。受取人の欄も、引渡先の欄も、出したときと同じように空いている。エダの手が紙を重ね、その空欄が見えなくなった。
「ほかに、書いておくことは」
ロアンは尋ねた。
エダは少し黙ったあと、首を横へ振った。
「この手続きについては、以上です」
ロアンは椅子から立ち上がった。リゼも続く。右足首の金属筒が小さく動き、二つの靴底が床へ揃った。
「頼む」
ロアンが言うと、エダは書類を持ったまま頷いた。
「はい」
二人が受付を離れかけたところで、エダが呼んだ。
「ロアン」
振り返ると、エダはリゼにも顔を向けた。
「帰ったら、二人で顔を見せてください」
ロアンは短く頷いた。
「ああ」
ギルドを出ると、通りには荷車が増えていた。
ロアンは人の流れを避け、水路沿いへ入った。リゼが隣へ並ぶ。歩くたび、右脚の金属筒が小さく鳴っている。
明日の朝には、七人で東門を出る。
持っていくものは揃った。留守のあいだに必要な金も渡した。使わずに済ませたい書類も、受理された。
それでも、もう一度受付へ戻れば、何か別の方法を聞けるのではないかと思った。
エダは最後まで冊子を開いていた。答えを見落としている様子ではなかった。
「ロアン」
リゼに呼ばれ、顔を向ける。
「宿舎へ戻りますか」
「ああ」
「そのあと、出かけますか」
「用がなければ、部屋にいる」
「分かりました」
リゼは前を向いた。
ロアンはその足元を見た。中庭で一度、足首の戻りが遅れた。いまは左右の靴が同じ間隔で石畳を踏んでいる。
「右脚は」
「異常はありません」
「宿舎へ戻ったら、確認する」
「はい」
「ネラにも、模擬戦をしたことは言え」
リゼは少し間を置いた。
「分かりました」
今日は、脚を見られる。革帯が緩んでいれば直し、分からなければネラのところへ連れていける。
ロアンは、確認するものを探してリゼの顔を見た。何か言うべきことを探したが、見つからなかった。
宿舎へ戻るまでの道を、少しゆっくり歩いた。リゼも何も言わず、隣で歩調を落とした。




