4-20. 新しい足音
継暦六百二十七年 十月三日から十月二十九日
新しい脚で初めてメリダの店へ向かった朝、リゼは予定していた時刻より早く着いた。
宿舎の階段は、前日と同じように一段ずつ下りた。
左足を下の段へ置き、右脚を持ち上げる。足先が段の縁へ触れないよう、失われた爪先を上げるつもりで信号を送る。
右の靴底が、左と同じ段へ下りる。
金属筒の中で軸が動き、小さな音を立てた。
平らな道へ出ると、歩くための動作は少なくなった。
踵をつける。
受け具へ荷重を移す。
足先で地面を押す。
角材を持ち上げ、次の位置へ運んでいた頃より、一歩ごとの停滞が短い。
人の流れへ入っても、大きく遅れることはなかった。
それでも、急に前を横切られれば、すぐには方向を変えられない。荷を抱えた男が店先から出てきたとき、リゼは左足を何度か小さく動かし、身体の向きを変えて道を空けた。
新しい右脚へ横から力を掛けない。
走らない。
深い窪みを避ける。
ネラから言われたことを一つずつ守り、メリダの店まで歩いた。
扉を開ける。
メリダは帳場の奥で布を数えていた。
二つの靴底と、金属筒の擦れる音を聞いて顔を上げる。入ってきたリゼを見るまで、手にした布を戻さなかった。
「あんただったのかい」
「はい」
「見れば分かるよ。音が違うから、別の客かと思った」
リゼは扉を閉めた。
「以前より小さい音ですか」
「小さいというより、普通の靴の音に何か混じってるね」
メリダは帳場から出てくると、リゼの右脚を上から下まで見た。
茶色い木材。
その両側を支える金属板。
前面へ露出した筒と軸。
膝の上下へ回された革帯。
足先を覆う新しい靴。
「歩けるのかい」
「はい。平らな場所では、以前より速く移動できます」
「見せてみな」
リゼは店の奥まで歩いた。
狭い通路で方向を変えるときだけ、左足を小さく動かす。
戻ってくると、メリダは右脚ではなく、リゼの顔を見た。
「よかったね」
リゼは少し間を置いた。
「はい」
その日の仕事では、棚から棚へ布を運ぶ時間が短くなった。
両手に品物を持ったままでも、身体を止めずに数歩続けて歩ける。
午前のうちに、いつもより多くの作業を終えた。
「次は何をしますか」
リゼが尋ねると、メリダは帳面から顔を上げた。
「休みな」
「まだ、仕事の時間です」
「分かってるよ」
「行える作業があります」
「脚が速くなったからって、仕事を倍にするつもりはないよ」
「時間が余ります」
「余ったなら、品物でも見てな。客が来たら呼ぶから」
リゼは店内を見回した。
畳まれた布。
繕いを待つ上衣。
壁へ掛けられた肩掛け。
それらを見ているだけでは、仕事をしていることにならない。
「それは、休憩ですか」
「そうだよ」
「給金から差し引きますか」
メリダは眉を寄せた。
「差し引かない。できることが増えたからって、全部やらなきゃいけないわけじゃないんだよ」
リゼは、帳場の横に置かれた椅子へ座った。
新しい右脚を少し前へ伸ばす。
足先には靴がある。
以前と同じ姿勢でいる必要はなかったが、まだ膝をどこまで引けばよいのか、何度か確かめる必要があった。
扉が開いたのは、それから間もなくのことだった。
「メリダ、戻ったよ。預けてた――」
声が途中で止まる。
ティナが入口に立っていた。
旅装のままで、短槍を布へ包み、肩へ掛けている。数日の仕事から戻ったばかりらしく、上衣や革具には街道の土が残っていた。
ティナは最初にメリダを見た。
次に椅子へ座るリゼを見る。
その視線が、右膝下で止まった。
「え」
リゼは立ち上がった。
「おかえりなさい」
「ちょっと待って」
ティナは包んだ短槍を壁へ立て掛け、店の中へ入ってきた。
リゼの前で立ち止まり、右脚をもう一度見下ろす。
「脚、変わってる!」
「はい」
「いつ?」
「昨日です」
「昨日?」
ティナは木材と金属板を横から覗き込んだ。
右へ回り、前面の金属筒を見る。
さらに一歩下がり、足先の靴まで確かめた。
「作ってたの?」
「はい」
「聞いてないよ」
「伝えていません」
「なんで?」
「尋ねられなかったためです」
ティナは口を開いたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて息を吐き、片手で額を押さえる。
「そういうところだよ、リゼ」
「どの部分ですか」
「あとで話す。いまは歩いてみて」
「ここまで歩いてきました」
「そうじゃなくて、ちゃんと見たいの。そこから、こっちまで」
ティナは店の奥を指した。
リゼは言われた場所まで歩き、戻った。
右脚を前へ出す前に足先を上げ、踵から床へつける。足首の筒が縮み、体重が前へ移ると元へ戻った。
ティナは正面から見たあと、今度はリゼの横へ並んだ。
「もう一回」
「必要ですか」
「必要」
もう一度歩く。
ティナは隣を歩き、途中から少し速度を上げた。
リゼも歩幅を広げる。
店の端へ着く前に、メリダが声を上げた。
「店の中で競争するんじゃないよ」
「競争じゃないよ。どれくらい歩けるか見てるだけ」
「同じことだよ」
ティナは止まり、もう一度右脚を眺めた。
「人の脚みたいな形だけど、全然違うね」
「人間に近い歩行を行うため、この長さと形になっています」
「この筒も動くの?」
「はい」
ティナが指を伸ばしかけ、途中で止める。
「触っていい?」
「停止している状態で、一つの指だけであれば問題ありません」
「子どもに言うみたい」
「孤児院でも同じように伝える予定です」
ティナは指先で金属筒へ触れた。
表面をなぞらず、一度触れただけで手を離す。
「そっか」
それから、右脚全体を見て笑った。
「リゼの脚って感じだね」
「私の脚です」
「うん。そうだね」
その日の午後、ティナは孤児院まで一緒に歩いた。
以前であれば、ティナが何度か立ち止まり、リゼが追いつくのを待っていた。
今は、並んで歩ける。
ティナが少し速くなれば、リゼも速度を上げた。
ただし、急に方向を変えることはできない。ティナが道端の露店を見つけて横へ寄ったとき、リゼはそのまま数歩進んでから、左足を軸に身体を回した。
「曲がるのは、まだ大変?」
「慣れていません。急な方向転換はできません」
「じゃあ、先に言うようにする」
「必要ありません。ティナが急に動く可能性を考慮します」
「それ、私が落ち着きないみたいじゃない?」
リゼは答えなかった。
ティナも返事を待たず、孤児院の門を開けた。
庭にいた子どもたちは、二人の姿を見つけると駆け寄ってきた。
最初に足元へ気づいたのはミナだった。
「脚が違う」
その言葉で、ほかの四人もリゼの右脚を見る。
ノルはすぐに正面へ回った。
「走れる?」
「走れません」
「その脚でも?」
「この脚だからです」
「じゃあ、競争できない?」
「できません」
カイは金属筒の近くへしゃがみ込んだ。
「これ、動くの?」
「はい」
「いま動かせる?」
リゼは右足の踵を少し上げた。
足先を床へ残したまま、筒の内部で軸が動く。
カイが顔を近づける。
「触っていい?」
「停止している状態で、一つの指だけ使用してください」
「私も同じこと言われた」
ティナが後ろから言った。
ユーリは左右の靴を見比べていた。
「左も新しい」
「はい。左右の靴底の高さを合わせる必要がありました」
「同じ靴?」
「外側は同じです。右だけ内部が異なります」
リルは何も尋ねず、木板と炭を持ってきた。
庭の低い台へ板を置き、文字を書き始める。
横線が長く伸び、その下へ曲がった線が続いた。
最後の一文字を書き終えると、板をリゼへ向ける。
「読める?」
リゼは書かれた文字を見た。
「あ」と読める文字のあとに、形の違う二つの文字が並んでいる。
「何と書きましたか」
「あるく」
「二文字目と三文字目が異なります」
「でも、読めた?」
「読めませんでした」
「じゃあ、あるくだよ」
リゼは木板を受け取った。
正しい文字を横へ書こうとして、手を止める。
「これも残しますか」
「うん」
リルが答えた。
リゼは誤った文字を消さず、その下へ正しい「あるく」を書いた。
帰る時間になると、エルナが門まで見送りに来た。
「脚は大丈夫ですか」
「問題ありません」
「無理はしないでくださいね。また」
リゼは少し考え、
「はい」
と答えた。
新しい脚の調整は、その後も続いた。
三度目にネラの工房へ行った頃には、受け具の革が身体へ馴染み始めていた。
後ろ側へ偏っていた圧力を直し、足先を持ち上げる信号も調整した。
平らな道では、右の爪先を擦ることはほとんどなくなった。
階段では、しばらく一段ずつ上り下りした。
数日後、ネラの指示を受けて、右脚で一段上へ身体を押し上げる動作を試した。
右の靴を上の段へ置く。
受け具へ荷重を掛ける。
足先を押し、残った右膝を伸ばす。
左足が次の段へ上がった。
宿舎の階段でそれを初めて行ったとき、後ろからカイルの声がした。
「いま、右脚で上がった?」
リゼは一段上で止まった。
「はい」
「もう一回やって」
「上へ来たため、もう一度行うには下りる必要があります」
「そうだけど」
リゼは次の段も右脚から上がった。
金属筒が縮み、戻る。
身体は傾かなかった。
「すごいな」
「できると言われていました」
「でも、やったのはリゼだろ」
リゼは階段の上からカイルを見る。
返答を決められないまま、もう一段上がった。
食堂へ入れば、マルタが足音で振り返るようになった。
最初の数日は、姿を見るまで誰が来たか分からなかった。
一週間を過ぎた頃には、靴底の間に混じる金属筒の音だけで気づいた。
「戻ったね」
リゼはまだ階段の途中にいた。
「姿が見えていません」
「その音にも、もう慣れたよ」
マルタは鍋の蓋を開けた。
「前の足音より、自然だね」
「角材より接地面が広くなっています」
「そういう意味じゃないけど、まあいいさ」
椅子から立つ動作も変わった。
以前は、角材の先が床へ適切に接しているか確かめてから立ち上がっていた。
いまは右の踵を床へ置き、前へ荷重を移せば立てる。
マルタはそれを見るたび、
「速くなっても、料理を持って急ぐんじゃないよ」
と言った。
「走ることはできません」
「歩くのが速くなった話をしてるんだよ」
ガルドは、右の靴底と床板を一度見ただけだった。
「これで傷を気にしなくてよくなったな」
「傷が生じた場合は、修理費を支払います」
「どこも傷だらけだ。誰がつけた傷かどうかなんてわからん」
それ以上、新しい脚について尋ねることはなかった。
階段を使い、廊下を歩き、自分の部屋へ戻る。
それができるなら、宿舎の管理人として問題はないらしかった。
アルドが脚に気づいたのは、仕事から戻った夕方だった。
食堂へ入り、マルタから水を受け取る前に、椅子へ座るリゼの右脚を見た。
「新しい脚か」
「はい」
「そうか」
アルドはそれだけ言って、いつもの席へ向かう。
途中で一度足を止めた。
振り返らないまま、低い声で言った。
「よかったな」
リゼは背中へ答えた。
「はい」
アルドは席へ着き、水を飲んだ。
カイルは新しい脚の動きを何度も見たがった。
マルタは食事を運ぶときの歩幅を気にした。
ガルドは床へ傷がつかないことを確認した。
アルドは一度だけ、よかったと言った。
ダーレスは、しばらく何も言わなかった。
新しい脚ができてから十日ほど経った夕方、二階の廊下で二人は向かい合った。
ダーレスは自分の部屋から出たところだった。
リゼは階段から上がり、二〇三号室へ戻る途中だった。
以前とは違う足音に、ダーレスはすぐには顔を上げなかった。
互いの距離が狭くなってから、前にいるのがリゼだと気づく。
リゼは壁際へ寄ろうとした。
同時に、ダーレスも同じ側へ動いた。
二人とも止まる。
リゼが反対側へ移ろうとすると、ダーレスも同じ方向へ動きかけた。
また止まった。
ダーレスが先に半歩下がり、壁へ背を寄せた。
「先に行け」
「ありがとうございます」
リゼは廊下を進んだ。
ダーレスの前を通るとき、その視線が新しい右脚へ落ちる。
「速くなったのか」
「はい」
「力も増えたのか」
「いいえ。右脚は歩行のためのものです。走行や戦闘には使用できません」
「そうか」
リゼは一礼し、二〇三号室へ向かう。
背後から、ダーレスの声がした。
「前の音のほうが分かりやすかった」
リゼは振り返った。
ダーレスはまだ壁際に立っている。
「私が歩いていると分かりましたか」
ダーレスはすぐには答えなかった。
「……ああ」
「新しい音でも、分かるようになりますか」
「知らん」
それで会話は終わった。
数日後、廊下を歩くリゼへ、ダーレスが部屋の中から言った。
「今日は遅かったな」
扉は半分だけ開いていた。
リゼは足を止める。
「孤児院で、本を二度読みました」
「そうか」
ダーレスは姿を見せなかった。
新しい足音にも、すでに慣れ始めていた。
ロアンの生活も、形を変えた。
遠方の商隊護衛や、数週間都市を離れる仕事を受けることはなくなった。
外壁沿いの巡回。
近郊の荷車護衛。
水路設備の修繕隊への随行。
日帰りで戻れる採取隊の警護。
報酬は、長い護衛仕事より低い。
一度の仕事で得られる金だけを見れば、以前のほうが多かった。
それでも、宿舎代と食費を払い、セルの検査や新しい脚の調整に備えても、二人で暮らすには足りていた。
リゼがメリダの店で得る金もあったが、ロアンがそれをあてにすることはなかった。
急いで大きな金を稼ぐ理由はなかった。
ロアンは依頼札を見るとき、報酬と危険度のほかに、帰還時刻を見るようになった。
リゼが店へ行く日。
孤児院へ行く日。
ネラの工房で脚を調整する日。
その予定をすべて避けて仕事を選ぶわけではない。
リゼが一人で出歩けることも、宿舎にはマルタやガルドたちがいることも分かっている。
それでも、同じ条件の依頼が二つあれば、早く戻れるほうを取った。
日が沈む前に宿舎へ戻れば、食堂にはまだ人がいる。
マルタへ帰ったと声を掛ける。
カイルに仕事先の話を尋ねられれば、以前のように一言で終わらせず、必要な部分だけ答える。
北壁の水門で使う縄の結び方を聞かれた日には、食堂の柱を使って教えた。
アルドから水路の外側に機械生命の痕跡がなかったか尋ねられれば、見た範囲を答えた。
ガルドから二階の窓枠を押さえるのを手伝ってくれと言われれば、断らなかった。
ティナが宿舎へ寄ったときには、孤児院の子どもが覚えた文字について聞くこともあった。
ダーレスが窓際の席にいても、別の卓へ移ることはなくなった。
話す量が大きく増えたわけではない。
寡黙なのも変わらない。
ただ、必要のないところで関係を切ることが減った。
十月の終わりが近づいた日の夕方、ロアンは都市北側の巡回から戻った。
階段を上がると、二〇三号室から炭が木を擦る音が聞こえる。
扉は少し開いていた。
中ではリゼが机の前へ座り、木板へ文字を書いている。
右脚は椅子の下へ置かれ、足先の靴が床へついていた。
「帰った」
ロアンが言う。
リゼが振り返る。
「おかえりなさい」
ロアンは棒剣を壁へ立て掛け、上衣を棚へ置いた。
机の木板には、孤児院で使う言葉が並んでいる。
水。
戸。
本。
狐。
歩く。
帰る。
「今日は、北壁ですか」
「ああ」
「何かありましたか」
以前なら、何もないと答えていた。
ロアンは寝台の端へ腰を下ろした。
「水路の入口に木が詰まってた」
「取り除きましたか」
「俺たちの仕事じゃない。明日、補修人足が行く」
「アルドですか」
「たぶんな」
「機械生命は」
「痕跡はなかった」
リゼは木板へ一つ線を書き加えた。
「孤児院では、リルが『帰る』を書きました」
「読めたのか」
「二文字、異なっていました」
「なら、書けてないだろ」
「意味は分かりました」
ロアンは木板を見る。
正しく書かれた文字の横に、形の崩れた線が残されている。
消されてはいなかった。
「そうか」
窓の外では、水路の音が流れていた。
階下から、マルタが器を並べる音が聞こえる。
カイルが何かを落とし、ガルドが拾えと言った。
少し遅れて、アルドが宿舎の扉を開ける。
廊下の向こうでは、ダーレスの部屋の扉が閉まった。
「夕食ですか」
リゼが尋ねた。
「ああ」
ロアンは立ち上がった。
リゼも椅子から腰を上げる。
右の踵を床へつけ、足先へ重心を移す。
二人が扉へ着くのは、ほとんど同時だった。
並んで廊下へ出る。
右と左の靴底が、交互に床板を踏む。
その間に、金属筒の小さな音が続いた。
一月前には、誰も知らなかった音だった。
いまはもう、二〇三号室から食堂へ下りてくる、いつもの足音になっていた。




