4-19. ふたり並んで
継暦六百二十七年 十月二日
前回と同じ弟子が食堂の入口に立ち、リゼを見つけると片手を上げた。相変わらず、上衣の胸元と袖には木屑がつき、指先には黒い汚れが残っている。
「脚ができたって」
リゼは卓の下へ伸ばしていた右脚を見た。
角材。
擦れて色の変わった布。
右膝下へ巻かれた革。
十二日前と同じ形だった。
「完成しましたか」
「うん。最後に合わせるから、午前のうちに来てほしいって」
「分かりました」
弟子はそこでロアンを見る。
「ネラが、できればロアンも来てくれって」
ロアンは匙を置いた。
「なぜだ」
「帰りに何かあったとき、一人よりいいからじゃないかな。詳しくは聞いてない」
リゼが口を開く。
「一人で戻れます」
「新しい脚で問題が起きたらどうする」
ロアンが言った。
「工房で確認します」
「工房から宿舎までは別だ」
「途中で異常が発生した場合は、工房へ戻ります」
「戻れなかったらどうする」
リゼは答えなかった。
ネラの弟子が二人を見比べる。
「最初は、いままでと歩き方が変わるって言ってた。転ばないとは思うけど、念のためだと思う」
「店は」
ロアンが尋ねる。
「今日は休みです」
「孤児院は」
「午後に行く予定です」
「初日にそこまで歩くな」
「完成後の歩行距離を確認できます」
「今日は宿舎までだ」
リゼは少し考えた。
「ネラにも確認します」
「ああ」
ロアンは残った朝食を口へ運んだ。
それ以上、同行するかどうかは口にしなかった。
食事を終えると、棒剣だけを腰へ差し、上衣を着る。
リゼも肩掛けを羽織った。
工房区へ向かう道を、いつもと同じ速度で歩く。
左足が石畳を踏み、そのあとを角材が追う。
ロアンは半歩先を進み、角材の音が遅れれば歩幅を狭めた。
何度も通った道だった。
工房へ着くと、入口の近くに一脚の椅子が置かれていた。
その向こうの作業台には、布を掛けられた細長いものが横たわっている。
ネラが奥から出てきた。
「来たね」
「完成しましたか」
「できたよ。まだ、リゼに合うかは分からないけど」
「完成していないのですか」
「形にはなった。使えるかどうかは、これから確かめるの」
ネラは作業台の布へ手を掛けた。
一度ロアンを見たあと、そのまま取り払う。
新しい右脚が現れた。
全体の長さと輪郭は、人間の膝下に近かった。
受け具から茶色い木材が脛のように伸び、その左右を細長い金属板が支えている。前側には軸を収めた筒があり、足首へ向かって露出した継ぎ手が続いていた。
木材と金属の境は隠されていない。
留め具も、革帯も外から見える。
足先だけは、人間の足に近い長さと幅を持っていた。爪先と踵があり、靴へ収められる形に削られている。
その横には、左右一足分の新しい靴が置かれていた。
どちらも同じ茶色の革で作られている。右足用だけは甲がわずかに高く、履き口の内側へ厚い革と布が縫い込まれていた。
リゼは作業台へ近づいた。
「これが、私の脚ですか」
「合えばね」
木材へ指を触れる。
表面は滑らかに削られていたが、人間の皮膚へ似せる加工はされていない。木目がそのまま残り、金属板を留める鋲も見えていた。
足首の前にある金属筒へ触れる。
わずかな隙間から、内部の軸が見える。
「この部分が動きますか」
「少しだけ。踵をついたときに縮んで、体重を前へ移すと戻る。切断面のケーブルから信号が来れば、足先の軸も動く」
「どれくらい動きますか」
「つけてみないと分からない」
ネラは椅子を指した。
「座って」
リゼは腰を下ろした。
右脚を前へ伸ばす。
ネラが角材を留めている革と布を解いていく。
布が外れ、最後に角材が右膝下から離れた。
床へ置かれる。
リゼは右脚の先を失ったまま、椅子へ座っていた。
切断面の奥には、細いケーブルがいくつも残っている。
以前の点検で用途を確かめたものには、小さな札が結ばれていた。
足先を上げる信号。
踵を下げる信号。
前へ押す信号。
ネラは新しい脚の受け具を持ち上げた。
内側には、リゼの断面へ合わせた硬い枠と、接合面の精度を調整するための革が重ねられている。
「入れるよ」
「はい」
右膝下へ受け具が当てられた。
断面を包むように押し上げられ、残った外殻へ広く触れる。
一点へ強く力が掛かる感覚はなかった。
ネラは位置を変えながら、内側の革を指で確かめる。
「強く当たるところは?」
「前側が少し強いです」
「ここ?」
「もう少し上です」
ネラが受け具を外し、内側の革を一枚減らした。
もう一度装着する。
「どう?」
「先ほどより均等です」
革を足す。
外す。
位置を少し回す。
何度か繰り返したあと、受け具が固定された。
ネラは膝の上と下へ革帯を回した。
一箇所ずつ締め、指が一本入る余裕を残して留める。
「線をつなぐよ」
受け具の側面に、小さな蓋があった。
開くと、細い導線が束ねられている。
ネラは切断面に残るケーブルと、新しい脚の導線を一組ずつ接続した。
一本のケーブルを、そのまま一つの動きへつないでいるわけではない。
似た信号を出す数本が一つにまとめられ、足首側へ送られる。
接続具が留められるたび、右脚の内部へ、これまでとは異なる感覚が生じた。
失われた足先は存在しない。
それでも、そこから何かが続いているように感じられた。
「足先を上げてみて」
ネラが言った。
リゼは、失われた右足の爪先を持ち上げるように信号を送った。
新しい脚の足先が、わずかに上がる。
金属筒の中で軸が擦れ、小さな音を立てた。
ロアンが壁際から、その動きを見る。
「動きました」
リゼが言った。
「もう一度」
足先が上がる。
先ほどより動きは小さかった。
「同じ信号です」
「何度かやってみて」
上げる。
戻す。
前へ押す。
踵を下げる。
信号を送るたび、脚の異なる箇所が動いた。足首全体が自由に曲がるわけではない。決められた方向へ、決められた範囲だけ軸が動く。
一度、足先を上げようとしたとき、踵も同時に動いた。
リゼは止める。
「二つの信号が混ざりました」
「どっち?」
「足先を上げるものと、踵を下げるものです」
ネラは接続を一箇所外し、別のケーブルへつなぎ直した。
「もう一度」
今度は足先だけが動いた。
「分離しました」
「よし」
ネラは蓋を閉じた。
「靴を履かせるよ」
新しい靴のうち、右足用だけは内部へ細工が施されていた。
ネラは靴紐を大きく緩め、木と金属で作られた足先へ履かせる。
人間の足のようには曲がらないため、爪先から真っすぐ差し入れ、踵を押し込む必要があった。
内側の革と布が足先を包み、靴の中でずれないよう固定する。
靴紐を締めると、外から見える足先は左と大きく変わらなかった。
次に、古い左の靴を脱がせる。
新しい左靴を履くと、左右の靴底の厚さと減り具合が揃った。
靴から上へ伸びる右の脛だけが、木と金属のままだった。
「立ってみて」
リゼは椅子の縁へ両手を置いた。
左足を床へつける。
新しい右脚の靴底を床へ下ろす。
これまでの角材と違い、踵と爪先の両方があった。
どこから荷重を掛ければよいのか、すぐには分からなかった。
右足全体を床へ置こうとすると、身体が後ろへ傾く。
ロアンが一歩前へ出た。
ネラが先にリゼの肩を支える。
「最初は踵から」
「はい」
一度椅子へ戻る。
今度は、右足の踵を床へつけた。
金属筒がわずかに縮む。
そこへ体重を載せる。
受け具全体へ荷重が広がった。角材を固定していたときのように、膝下の一部へ強く圧力が集中しない。
「痛いところは」
「ありません」
「警告は」
「ありません」
「じゃあ、重心を前に」
身体を前へ移す。
足首の軸が動き、踵から足裏へ接地する場所が変わる。
最後に、足先を押す信号を送る。
右足の爪先が床を押した。
左足が前へ出る。
一歩だった。
リゼは立ったまま、自分の右脚を見た。
「歩きました」
「一歩ね」
ネラが肩から手を離す。
「今度は、右脚を前へ出して」
左足へ体重を移し、新しい右脚を運ぶ。
足先が床へ触れる前に、上げる信号を送る。
動きが遅れ、靴の爪先が床を擦った。
身体が前へ傾く。
ロアンが右腕を伸ばし、肩を掴んだ。
「止まれ」
リゼは左足で身体を支えた。
転倒はしなかった。
「信号が遅れました」
「急ぐな」
ロアンは手を離さない。
「次は、足先を上げてから前へ出して」
ネラが言った。
「はい」
足先を上げる。
右脚を前へ運ぶ。
踵をつける。
体重を移す。
足先で押す。
今度は爪先を擦らなかった。
工房の床を端まで歩く。
振り返るときには、右脚を軸にせず、左足を小さく何度か動かして身体の向きを変えた。
戻る。
最初の往復では、二度足先を擦った。
二度目には、一度だった。
三度目には、擦らなかった。
音も変わっていた。
左足の靴底。
右足の靴底。
そのあいだに、金属筒と軸が動く小さな音が混じる。
角材が床を打つ音は、もうしなかった。
「もう、支えは必要ありません」
リゼが言う。
ロアンは、肩へ置いていた手を離した。
それでも、すぐそばからは動かなかった。
リゼはもう一度、工房を往復する。
踵。
足裏。
足先。
動作の順序を一つずつ確かめる。
歩幅はまだ左と揃っていない。
右脚へ体重を載せる時間が短く、左足をすぐ前へ出してしまう。
「右でもう少し立てる」
ネラが言った。
「受け具へ荷重を掛けていい。いまは左で逃げすぎてる」
リゼは右脚へ体重を移した。
受け具が膝下を包み、革帯へ力を分ける。
荷重を掛けても、膝下から警告信号は返らなかった。
そのまま左足を前へ出す。
歩幅が少し広がる。
「人間と同じ速さで歩けますか」
「町の中ならね。今日から急に同じにはならないけど」
「どれくらい必要ですか」
「数日歩けば、たぶん慣れる。でも、今日は宿舎まで帰るくらいにしときな」
「午後に孤児院へ行く予定です」
「行かない」
ロアンが口を挟む。
「文字を教える日です」
「エルナに伝言を出す。初日に無理して、転んで壊したらどうする」
リゼは右脚を見る。
「宿舎までの距離は歩きます」
「途中で痛みや警告が出たら、止まること」
「はい」
「階段は?」
「宿舎にあります」
「今日は一段ずつ。左右交互は、何日か平らな道へ慣れてから」
「上れる可能性はありますか」
「ある。でも、先に平らな道へ慣れて」
リゼは頷いた。
ネラは受け具の位置をもう一度確かめ、革帯へ印をつけた。次に締め直すとき、同じ位置へ戻せるようにするためだった。
古い角材と布は、作業台の端へ置かれている。
リゼはそれを見た。
「これは、持ち帰りますか」
「必要なら」
「必要ではありませんか」
「新しい脚に問題があれば、また使うかもしれない」
ネラは角材を持ち上げた。
木の表面には、地面へ当たり続けた傷がいくつも残っていた。先端は潰れ、布にも土と灰の色が染み込んでいる。
「捨てる?」
リゼはすぐには答えなかった。
砂海からベルグラートまで。
ベルグラートからエルデンまで。
宿舎。
メリダの店。
ネラの工房。
孤児院。
右脚の代わりとして、その角材で歩いてきた。
「持って返ります」
「分かった」
「靴代は」
リゼが尋ねる。
「靴一足と、右側を合わせる手間まで製作費に入れた。次に履き替えるときは別」
「分かりました」
「今日は金を取らないよ」
ネラは言ってから、ロアンを見た。
リゼも腰の巾着へ手を添える。
「点検費用は、前回支払いました」
「今日は製作したものの確認だからね」
「はい」
「完成まで、十日から二週間と聞いていました」
「十二日。範囲内でしょ」
「はい」
リゼは新しい右脚を動かした。
足先がわずかに上がる。
元の位置へ戻る。
「ネラ」
「何?」
「ありがとうございます」
ネラは一度だけ目を逸らした。
「だから、完成してからって言ったでしょ」
「完成しました」
「まだ最初の調整が終わっただけ。三回は来てもらうからね」
「はい」
工房を出る。
最初の一歩で、リゼは足元を見た。
右の踵をつける。
体重を前へ送る。
足先で押す。
左足を前へ出す。
石畳は、工房の床より凹凸が多かった。
右の靴底が石の継ぎ目へ触れるたび、受け具へ返る力の向きが変わる。
角材の先だけで地面へ触れていたときとは違う。
踵。
足裏。
爪先。
靴底のどこが石へ触れているかを、膝下へ伝わる荷重から判断する。
「遅くていい」
隣からロアンが言った。
「現在の速度でも、以前より速いです」
「そうか」
「ロアンは、歩幅を変えていません」
ロアンは自分の足元を見なかった。
「無理なら言え」
「無理ではありません」
工房区の通りを進む。
リゼは何度か足先を石へ擦ったが、転ばなかった。
角を曲がり、大通りへ出るころには、平らな場所では、右足を出す前に足先を上げる動作が遅れなくなっていた。
歩幅も、少しずつ左と揃っていく。
ロアンが半歩先へ出ることはなくなった。
二人の肩が、ほぼ同じ位置に並んでいる。
リゼは前を見た。
通りを行く人々の流れが、以前より遅く見えた。
実際には、人々の速度が変わったわけではない。
自分の速度が近づいた。
「ロアン」
「何だ」
「速く歩けます」
「ああ」
「町の中であれば、人間と大きく変わらないと言われました」
「ああ」
「孤児院までの時間も短くなります」
「今日は行くな」
「今日は行きません」
「本当か」
「ネラから止められました」
「俺が言ったときは聞かなかっただろ」
「ネラは、この脚のことについて一番よく知っています」
「そうかよ」
リゼはもう一歩進んだ。
ロアンより、わずかに前へ出る。
そのまま歩けば、先へ行くことができた。
角材の右脚では、ロアンが速度を落とさなければ並んで歩けなかった。
いまは違う。
リゼは右足の動きを少し緩めた。
次の一歩を、先ほどより短くする。
ロアンの肩が隣へ戻った。
「どうした」
「何がですか」
「急に遅くなった」
「この速度で歩きます」
「もっと速く歩けるだろ」
「はい」
「なら、先に行けばいい」
リゼはロアンを見た。
「宿舎へ一緒に戻ります」
ロアンは前を向いたまま、何も答えなかった。
歩調を上げることもしなかった。
二人で水路沿いの道を進む。
左足。
右足。
二つの靴底が、交互に石畳を踏んだ。
宿舎へ着く。
入口の前で、リゼは一度足を止めた。
階段がある。
これまでなら、左足を上の段へ置き、角材を持ち上げ、同じ段へ運んでいた。
一段ごとに、二つの音が続いた。
「今日は一段ずつだ」
ロアンが言う。
「分かっています」
手摺へ左手を置く。
左足を一段上へ載せる。
右脚を持ち上げる。
新しい足先が段の縁へ当たりそうになり、途中で上げる信号を強くする。
靴底が、左足と同じ段へ置かれた。
次の段。
同じ動作を繰り返す。
四段目で、右の爪先が木へ触れた。
身体が前へ傾く。
ロアンの手が背中へ添えられる。
「止まれ」
リゼはその場で姿勢を戻した。
「足先を上げる動作が不足しました」
「分かってるなら、次はやるな」
「はい」
ロアンの手は、すぐには離れなかった。
リゼが次の段へ進むとき、ようやく背中から外れた。
二階へ上がる。
二〇三号室の扉を開けると、机も寝台も棚も、朝と同じ位置にあった。
リゼは部屋の中へ入った。
右の靴底が床板を踏む。
角材の硬い音はしない。
ロアンがあとから扉を閉める。
今まで使っていた角材を、自分の棚に置こうとして、リゼの手が止まった。どう見ても場所を取ることは明らかだった。
「棚の横に立て掛けておけ」
「はい」
その動作を一通り眺めて、ロアンが口を開く。
「座れ」
「まだ歩けます」
「不具合があるかもしれない。少しずつ慣れさせろ」
リゼは椅子へ腰を下ろした。
右脚を前へ伸ばす。
ロアンがしゃがみ、受け具と革帯を見る。
「痛みは」
「ありません」
「警告は」
「ありません」
靴の履き口。
足首の軸。
露出した金属筒。
最後に、右の靴底を見る。
「工房から歩いただけです」
「分かってる」
ロアンは立ち上がった。
リゼは右足を少し動かす。
靴の爪先が上がる。
戻る。
「明日、孤児院へ行きます」
「ああ」
「ネラから、三回は工房で調整すると言われました」
「毎日行く必要はないだろ。暗くなる前に戻れる日にしろ」
「はい」
ロアンは壁際へ棒剣を立て掛けた。
リゼは新しい右脚を見る。
人間の脚に近い長さ。
人間の脚には見えない木と金属。
露出した軸。
革帯。
新しい靴。
それは、失った右脚の代わりではなかった。
以前と同じものへ戻ったわけでもない。
それでも、自分が信号を送り、自分の足として動かすことができた。
「ロアン」
「何だ」
「町の中では、同じ速度で歩けます」
「ああ」
「ロアンが、歩調を遅くする必要はありません」
ロアンは上衣を脱ぎ、棚へ置いた。
「そうだな」
リゼは少し考えた。
「隣を歩きます」
ロアンの手が止まった。
振り返る。
リゼは椅子へ座り、新しい右脚を床へつけていた。
「好きにしろ」
「はい」
返事をしたのは、リゼだった。
窓の外では、水路の音が流れている。
机の上の木板には、以前から残された文字があった。
ここ。
いたい。
歩く。
リゼはその下へ、新しい言葉を書かなかった。
右足を床へつける。
その脚でどこへ行くかは、もう決まっていた。




