4-17. 二十クレド
継暦六百二十七年 九月十八日
昼前、ギルドを出たところでネラに呼び止められた。
工房で着けている厚い前掛けはなかったが、上衣の袖には白い削り粉が残っていた。短く切った髪にも細かな木屑が絡み、額には工房区から歩いてきた汗が浮かんでいる。
「ちょうどよかった」
ネラはロアンの前で足を止めた。
「少し時間ある?」
「何だ」
「リゼの脚の話」
ロアンは、ネラの後ろを見た。
リゼの姿はない。
今日は朝からメリダの店へ行き、午後は孤児院で子どもたちへ文字を教える予定だった。
「本人は」
「いないときに話したかった」
「なぜだ」
「ここでは話しにくいから」
ネラはそれだけ言い、工房区へ向かって歩き始めた。
ロアンは一度、ギルドの入口を振り返った。
午後に受ける仕事は、まだ決めていない。掲示板には明朝からの荷運びと、外壁沿いの見回りが残っていたが、今日中に返事をする必要はなかった。
ネラのあとを追う。
工房へ着くと、奥の作業台には木材と金属部品が並んでいた。
人間の脚をそのまま模した形ではない。
細長く削られた木材の隣に、膝下へ取り付ける受け具がある。薄い金属板を重ねた軸と、革帯を通すための穴。その先には、踵から足先へ向けて緩く曲がった木の部品が置かれていた。
足裏へ貼る樹脂は、まだ取り付けられていない。
「これか」
ロアンが尋ねる。
「形を見るために並べただけ。まだ作り始めてないよ」
ネラは受け具を持ち上げ、内側をロアンへ向けた。
「膝の下に残ってる信号を拾って、こっちの軸へ伝える。人間の脚みたいに細かくは動かせないけど、踵をついて、体重を前へ送るくらいならできると思う」
作業台の紙には、リゼの右膝下に残る外殻の形が描かれていた。
サンドワームに食い千切られ、砕けた部分を整えた断面は、きれいな円形ではない。受け具も、その形に合わせて作る必要がある。
「走れないんだろ」
「無理。跳ぶのも、急に曲がるのも駄目。戦いには使わせないで」
「街道は」
「路面が整っていれば歩ける。穴の多い道や、石が転がってるところ、灰の深い場所は厳しいね」
「いまよりは」
「ずっとまし」
ネラは足先の部品を作業台へ立てた。
「町の中なら、人間と大きく変わらない速さで歩ける。階段も、慣れれば左右交互に上がれるよ」
「どれくらいで慣れる」
「リゼなら、工房の中を何度か歩けば十分かもしれない。身体の制御そのものは、そこらの人間よりずっと正確だから」
ロアンは受け具の内側を見た。
角材を布で縛るだけの現在の脚とは違い、残った外殻を広く包む形になっている。革帯も膝の一箇所だけではなく、複数の位置へ回し、力を分けるらしい。
「話はそれだけか」
「違う」
ネラは作業台の下から、小さな木箱を取り出した。
蓋を開ける。
中には硬貨が、いくつもの布袋へ分けて入っていた。大きな銀貨はほとんどなく、五十ミルや百ミルずつ積み重ねてきた跡が見える。
「二十クレドある」
ロアンは箱の中を見た。
「何の金だ」
「リゼがもってきたお金よ」
「ここへ預けてたのか」
「少し貯まるたびに持ってきた。全部揃ってからでいいって言ったんだけど、部屋へ置くより工房へ預けたほうが確実だって」
ロアンは、細かく分けられた袋を見た。
一日五十ミル。
二日働いて一クレド。
二十クレドへ届くまでに、何度この箱の蓋が開かれたのかは分からない。
「何のために欲しいかは聞いたのか」
「脚に使うためでしょ」
「そうじゃない。脚を手に入れて、何をするつもりかだ」
ネラはロアンの顔を見た。
「あんた、本人に聞いてないの?」
「必要なものがあるとしか」
「それ以上は?」
「聞いてない」
「何で」
「言いたければ言うと思っていた」
ネラは何か返そうとしたが、やめた。
箱の中の硬貨へ目を落とす。
「このまま一日五十ミルで貯めたら、あと六十クレド。何ヶ月もかかる」
「ああ」
「今の脚は、そこまでもたないよ」
ロアンは作業台の紙を見る。
「角材は替えられるんだろ」
「角材と布だけならね。問題は、膝の下に残ってるフレームと外殻のほう」
ネラは断面図の一部を指した。
「いまは、この辺りへ力が集中してる。受け具がないから、歩くたびに同じ場所で全部受けてるんだよ。亀裂が増えてから作ろうとしても、固定できる場所そのものがなくなるかもしれない」
「あとどれくらい使える」
「分からない」
「だいたいでいい」
「一月で割れるかもしれないし、半年もつかもしれない」
「幅がありすぎる」
「機械人形の脚へ角材を縛って、何月も歩かせた記録なんてないからね」
ネラは紙を作業台へ戻した。
「ロアン、八十クレド貯まるまで待つのが危ないことだけは分かるだろう」
「リゼには話したのか」
「前から、長く使える脚じゃないとは言ってる。あの子なら、壊れるまで使うよ」
否定できなかった。
壊れたら、そのとき修理する。
動くかぎり働く。
一日五十ミルを積み重ね、八十クレドへ届くまで続ける。
リゼなら、そうする。
「それで、俺に何を聞きたい」
ネラは箱の蓋を半分閉じた。
「残りの六十をどうするか」
「俺が出す」
返事をすると、ネラはすぐには動かなかった。
「今、決めたの?」
「ああ」
「六十クレドだよ」
「知ってる」
「すぐに出せる額なの」
「ああ」
「出したあと、いくら残る?」
ロアンは答えなかった。
ネラの目が細くなる。
「一月分くらい?」
「ああ」
「仕事で怪我したら?」
「そのとき考える」
「仕事がなかったら?」
「探す」
「装備が壊れたら?」
「直す金を稼ぐ」
ネラは片手を額へ当てた。
「それ、出せるって言わないよ」
「足りる」
「何に」
「当面の生活には」
「当面しかないじゃない」
ロアンは答えなかった。
リゼを買うまで、仕事が途切れても半年以上は暮らせるだけの金を残していた。
怪我で動けなくなったとき。
治療が必要になったとき。
棒剣や胸当てが使えなくなったとき。
誰かに頼るつもりはなかった。
自分が動けなくなったあと、自分を食わせるのは、自分が残しておいた金だけだった。
そのための蓄えだった。
「今まで、何月分も残してたんでしょ」
「ああ」
「本当に出すの?」
「ああ」
「リゼに話す?」
「話すな」
ネラは額から手を下ろした。
「それは無理があるでしょ」
「なぜだ」
「八十クレドって見積もりを出したのは私だよ。二十しかないのに、急に作り始めたらおかしいと気づく」
「二十で作れることにしろ」
ネラはしばらくロアンを見た。
「簡単に言わないでよ」
「作れるんだろ」
「八十あればね」
「六十は俺が払う」
「そういう話じゃない」
ネラは腕を組んだ。
「あの子、自分で買うために働いたんだよ。毎朝店へ通って、少しずつ貯めて、二十まで持ってきた」
「二十は自分で払う」
「残りを隠したら、全部自分で買ったと思うでしょ」
「そう思わせろ」
「ひどいこと言ってるの、分かってる?」
「ああ」
返事をすると、ネラは黙った。
作業台の下にある木箱へ目を向ける。
「言えば、受け取らないと思ってるんだ」
「ああ」
「返すって言うかもしれない」
「ああ」
「何年掛かっても?」
「ああ」
「それで黙って払うの?」
「今の脚が壊れるまで待てない」
「本人が待つと言っても?」
ロアンは、受け具の内側を見た。
残った外殻へ合わせて作られる形。
壊れてからでは遅い。
「待たせない」
「それを決めるのは、あんた?」
「今回はな」
ネラの眉が寄る。
「リゼには、自分で決めろって言ってるんじゃなかったの」
ロアンは答えなかった。
頼まれたからといって、何でも引き受けるな。
できるかどうかだけで決めるな。
嫌なら断れ。
自分がやりたいかも考えろ。
そう言った。
それでも、壊れるまで待つという選択だけはさせない。
矛盾していることは分かっていた。
「勝手だね」
「勝手だ」
「自分でも分かってるんだ」
「わかっている」
ネラは長く息を吐いた。
それから、作業台の部品を一つずつ見始めた。
木材を持ち上げ、節の位置を確かめる。金属の軸を手に取り、指先で表面を撫でる。
「工房に残ってる材料を使うという言い訳はできる」
「中古か」
「全部じゃないよ。力が掛かる軸と、信号を拾う部分は新しいものを使う。そこを安くしたら、リゼは疑う」
「ほかは」
「外側の木材は端材を使える。長さも太さも足りる。足裏の樹脂も、別の修理で余ったものがある」
「耐久性を聞かれたら」
「新品で揃えるのと変わらないと説明する」
「なら、それでいい」
「まだ足りない」
ネラは受け具を置いた。
「工賃があるからね」
「六十から出せ」
「本当の金の話じゃなくて、リゼに何て説明するかの話だからね」
ロアンは黙った。
ネラは作業台の端を指で叩く。
「試作扱いにする」
「何だ」
「この形の脚を作るのは初めてだから、完成後の動作記録を取らせてもらう。歩いた距離、信号のずれ、受け具の摩耗、革帯の交換時期。次に似たものを作るときの資料にする」
「それで安くなるという説明を納得させられるのか」
「納得させる」
ロアンは口を閉じた。
ネラは少し考え、続ける。
「最初の見積もりは、新しい材料を全部揃えて、通常の工賃を取る場合の八十クレド。今回は、使える材料が工房にあった。試作記録を取らせてもらう代わりに、工賃を大きく引く。それで、預かってる二十クレドで引き受けられる」
「それで通るか」
「あの子は細かく聞くよ」
「ああ」
「どの部品が残り物か。耐久性は落ちないか。私の利益は不足しないか。今後の調整はいくら掛かるか」
「答えられるのか」
「本当のことを答える。端材を使う場所も、記録に価値があることも、調整が別料金なのも本当」
「六十のことだけ言わない」
「そういうこと」
ネラはロアンを見る。
「でも、工房の帳簿には残すよ」
「ああ」
「リゼから二十。あんたから六十。そこはごまかさない」
「好きにしろ」
「本人が見たら分かるけど」
「工房の帳簿を見るのか」
「普通は見ない」
「ならいい」
「よくないけどね」
ネラは腕を組み直した。
「手は抜かないからね。二十クレドに下がったから仕方ないと、リゼには思わせない」
「ああ」
「八十クレドの脚を作る」
「ああ」
「材料も手間も落とさない」
「分かってる」
「本当に?」
「何度言わせる」
「六十クレドを出して、作るものを気にしていないように見えるから言ってるんだよ」
ロアンは作業台の部品を見た。
「リゼが必要としているのなら、それでいい。いつ始められる」
「金を受け取れば、今日からでも」
「採寸は済んでるだろ」
「大まかにはね。受け具を作ったあと、最後に合わせる必要がある。信号を拾う位置も、実際につないでみないと分からない」
「そのときは」
「点検だと言って呼ぶ」
「嘘じゃないな」
「本当に点検するからね」
「ならいい」
「よくないんだけど」
ネラはまた息を吐いた。
「完成まで、どれくらい」
「一月は掛からない。部品が揃えば、十日から二週間くらい」
「早いな」
「使う形は決まってるし、リゼの外殻も測ってある。旧時代の部品を一から作るわけじゃないから」
「分かった」
ロアンは工房を出ようとした。
「ロアン」
呼び止められる。
振り返ると、ネラは作業台の上の足先へ手を置いていた。
「この脚ができても、どこへでもついていけるわけじゃないよ」
「ああ」
「町の中。整った道。階段。それくらい」
「ああ」
「遺跡も、灰の深い場所も、戦闘も無理」
「分かってる」
「それでも、あの子は欲しがった」
ロアンは答えなかった。
「何のためか、本当に聞かないの?」
「本人が言わない」
「聞けば、話すかもしれない」
「話したくなれば話す」
ネラはしばらくロアンを見たあと、作業台へ視線を戻した。
「そう」
それ以上は言わなかった。
工房を出る。
昼の工房区には、金槌や鋸の音が重なっていた。道の片側には木材を積んだ荷車が止まり、職人たちが狭い隙間を行き交っている。
ロアンは宿舎へ戻った。
昼を過ぎた食堂は閉まっていた。マルタは厨房の奥で布を洗い、ガルドは管理室にいる。
階段を上がる。
二〇三号室の扉を開けた。
部屋には誰もいなかった。
机。
寝台。
棚。
壁際の棒剣。
どれも、朝に出たときと変わっていない。
以前なら、この静けさが普通だった。
仕事から戻っても、部屋の中に人の声はない。出たときのまま物が残り、置いた場所へ自分で戻す。
それだけだった。
いまは、まだ誰も帰っていない部屋のように見えた。
ロアンは扉を閉めた。
旅袋を床へ置く。
無意識に、机の前の椅子を見る。
リゼはいない。
メリダの店へ行っていることは知っている。
左足と角材の音が聞こえないことも、帰る時刻には早いことも分かっていた。
それでも、部屋へ入っただけでは、まだ戻った気がしなかった。
机の上には、木板が置かれていた。
ミナ。
ノル。
ユーリ。
カイ。
リル。
その下には、本、戸、水、狐、服、食事。
さらに少し離れた場所へ、二つの言葉が書かれていた。
ここ。
いたい。
ロアンは木板の前で足を止めた。
誰へ教えるつもりなのかは分からない。
ほかの文字より大きくもなく、強く書かれているわけでもなかった。
ただ、二つの言葉の間には、少し広い隙間がある。
ここに、いたい。
リゼが誰へ言った言葉なのか、ロアンは知らなかった。
木板へ触れず、棚へ向かう。
奥から、蓄えを入れた革袋を取り出した。
机へ中身を並べる。
大きな銀貨から先に分け、足りない分を小さな硬貨で補う。
六十クレドになるまで数え、別の布袋へ移した。
残った硬貨を革袋へ戻す。
持ち上げると、以前より明らかに軽かった。
これまでは、その重さが減ることを避けてきた。
誰かと暮らすつもりはなかった。
自分の明日を支えるのは、自分が残した金だけだと思っていた。
いま、机の向かいにはリゼの椅子がある。
棚には、リゼノものを置くために空けた場所がある。
木板には、五人の子どもの名前が並んでいる。
六十クレドを使えば、以前と同じ余裕はなくなる。
それでも、角材の脚が壊れるまで待つつもりはなかった。
ロアンは六十クレドの袋を上衣の内側へ入れた。
軽くなった革袋を、棚の奥へ戻す。
木板の文字は、そのままにした。
部屋を出る。
ネラの工房へ戻り、布袋を作業台へ置いた。
ネラは中身を数えた。
大きな硬貨。
小さな硬貨。
最後の一枚まで確かめ、袋へ戻す。
「六十ある。本当に預かるよ。返せと言われても、すぐには返せないからね。材料を買う」
「ああ」
「リゼには、二十クレドで引き受けると言う」
「頼む」
「理由は、端材と残っていた部品。試作記録。簡素な仕上げ。調整代は別。性能は、八十クレドで作るものと同じ」
「話した内容の通りだ」
ネラは袋を作業台の下へしまった。
「そこまで分かってるなら、自分で説明すればいいのに」
「俺が言えば気づく」
「私なら気づかれないと思ってる?」
「うまくやれ」
「簡単に言うね」
「できるだろ」
ネラは返事をせず、作業台へ掛けていた布を外した。
木と金属の部品が、再び光の下へ現れる。
「じゃあ、作るよ」
「ああ」
「二十クレドの脚をね」
ロアンはネラを見た。
ネラは少しだけ口元を上げる。
「リゼにとっては、ね」
ロアンは何も答えなかった。
その日の夕方、宿舎へ戻ると、二〇三号室の扉の向こうから炭が木板を擦る音が聞こえた。
扉を開ける。
リゼは机の前へ座っていた。
顔を上げる。
「おかえりなさい」
「ああ」
机の上には、昼に見た木板がある。
ここ。
いたい。
その隣へ、新しい文字が一つ加えられていた。
歩く。
ロアンは上衣の内側へ手を入れなかった。
六十クレドを入れていた場所には、もう何もなかった。
ロアンは棒剣を壁へ立て掛け、上衣を脱ぐ。
棚の奥にある革袋は、朝より軽くなっている。
リゼは気づかなかった。
ロアンも、何も言わなかった。
二〇三号室には、炭が木を擦る音が続いていた。




