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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
4. ここにいたい
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4-16. 伝えない

継暦六百二十七年 八月十二日


夕方になる少し前、宿舎の外で荷車の音が止まった。


リゼは二〇三号室の机へ向けていた顔を上げた。


通りを歩く複数の足音に、革具の金具が触れ合う音が混じっている。そのうちの一つだけが宿舎の入口へ近づき、ほかは水路沿いの道を先へ進んでいった。


床石を踏む間隔。


革具の重さ。


歩幅。


ロアンだった。


リゼは炭を布の上へ置いた。


木板には、書き直した五人の名前と、その下へ加えた二つの言葉が残っている。


ここ。


いたい。


板を棚の下段へ収め、椅子から立ち上がった。


左足のあとを角材の右脚が追う。


扉を開け、廊下へ出る。


階段を一段ずつ下りている途中で、宿舎の入口が開いた。


「帰った」


ロアンの声が聞こえた。


「おかえり」


厨房からマルタが答える。


市場から戻ったあとらしく、食堂の隅には野菜の入った籠が置かれていた。ガルドは管理室の前で帳面を開き、カイルは窓際の卓へ座って右手を動かしている。


最後の段へ左足を下ろす。


角材が床板へ当たった。


ロアンが顔を向ける。


上衣の裾と靴には乾いた土がつき、旅袋の表面には薄く白い灰が残っていた。胸当てにも細かな擦れがある。


血の跡はない。


歩き方にも異常はなかった。


「おかえりなさい」


「ああ」


ロアンの視線が、リゼの顔から右脚へ下がる。


角材。


固定布。


右膝。


そこから右肘を覆う布へ移った。


その音を聞き、姿を確かめたところで、ロアンの肩からわずかに力が抜けた。


都市へ戻った時点で、仕事は終わっていたはずだった。


それでも、左足と角材の音を聞いてから、ようやく帰ったような気がした。


「何かあったか」


リゼはすぐには答えなかった。


昨日、厨房脇の棚が傾いた。


カイルが下敷きになりかけた。


自分が棚を支え、薪を受け、右膝を床へついた。


それは報告するべきことだった。


今日、ダーレスに木板を取られた。


巾着を奪われた。


右腕を引かれた。


自分の左手で、ダーレスの指を外した。


それは、言わないと決めた。


「昨日、厨房脇の棚が傾きました」


ロアンの顔が変わる。


「誰か怪我したか」


「カイルの右手に、軽い腫れが生じました」


ロアンはすぐにカイルを見る。


「見せろ」


「もう、だいぶ引いたよ」


「見せろ」


カイルは苦笑しながら右手を差し出した。


手の甲には、まだ薄い腫れが残っている。指は動き、握ることもできていた。


ロアンは手首を取り、指を一本ずつ動かさせる。


「痛みは」


「力を入れると少し」


「治療所は」


「行ってない。昨日よりよくなってるし、マルタにも見てもらった」


「明日も痛むなら行け」


「分かった」


「本当か」


「行くよ」


カイルは手を引き、リゼを見る。


「棚が倒れる前に、リゼが止めてくれたんだ」


ロアンの視線が戻る。


「どうやって」


「棚を支えました」


「一人でか」


「最初は一人です。そのあと、カイルとマルタが加わりました」


「上に何が載ってた」


「薪と木箱です」


「落ちたか」


「はい」


「お前に当たったのか」


「左腕と肩へ当たりました」


ロアンは旅袋を床へ下ろした。


「部屋へ行くぞ」


「食事の支度が始まります」


「先に見る」


リゼは頷いた。


ロアンは棒剣を腰へ下げたまま、階段へ向かった。


そのあとを追う。


二階へ上がり、すぐ近くにある二〇三号室へ入る。


同じ廊下の五部屋先にダーレスの部屋がある。


階段の向こうには部屋がない。


ロアンはそちらを見なかった。


二〇三号室の扉を閉める。


旅袋を床へ置き、棒剣を壁へ立て掛けた。


胸当てを外すより先に、リゼへ向き直る。


「左腕を見せろ」


リゼは袖を捲った。


薪が当たった箇所には、薄い擦れが残っている。人工皮膚は裂けていない。


ロアンは腕を取り、前腕から肩まで目で追った。


「動かせ」


リゼは肘を曲げ、肩を上げる。


「異常は」


「ありません」


「警告信号は」


「現在はありません」


「昨日は」


「薪が当たった際に発生しました」


ロアンは肩へ指を添えた。


人工皮膚の表面を押し、内部にずれがないか確かめる。


問題がないと分かっても、すぐには手を離さなかった。


リゼは、その指を見た。


昨日、ダーレスのことを考えたときに想像した手だった。


右肘の亀裂を調べたあとも、何も言わず、そこへ触れ続ける手。


ロアンはようやく左腕を離した。


次に、リゼの前へしゃがみ込む。


「膝は」


「棚を支えた際、床へつきました」


角材の固定布を押し、残った外殻との境を確かめる。


右膝へついた木屑は、すでに拭き取られていた。


「強く打ったのか」


「身体を支えられる程度です」


「それじゃ分からん」


「新しい亀裂はありません」


「見れば分かる」


ロアンは布の結び目を外さず、角材をわずかに動かした。


緩みはない。


荷重を受けている位置も、大きくはずれていなかった。


それでも、すぐには立ち上がらない。


「なぜ、棚を支えた」


「カイルが下敷きになる可能性があったためです」


「人を呼ぶ時間は」


「ありませんでした」


「お前が壊れる可能性は」


「ありました」


「分かっててやったのか」


「はい」


ロアンの眉が寄る。


「次も同じことをするか」


「同じ状況であれば、行います」


「別のやり方を考えろ」


「時間があれば考えます」


「なければ」


「必要な行動を取ります」


ロアンは立ち上がった。


「お前が壊れていい理由にはならない」


「カイルが負傷してよい理由にもなりません」


返したあと、部屋が静かになった。


窓の外を、夕方の荷車が進んでいる。


ロアンは何か言おうとして、口を閉じた。


昨日、自分で決めろと言った。


危険があれば判断しろとも言った。


リゼは、そのとおりにした。


それでも、壊れる可能性がある行動を認めたわけではなかった。


どこまで任せ、どこから止めればよいのか、ロアン自身にも分からなかった。


「右腕も見せろ」


リゼの動きが止まった。


薪が当たったのは左側だった。


それでもロアンの視線は、右肘を覆う布へ向いている。


「なぜですか」


「ずれてる」


リゼは右肘を見る。


昨日までより、布の端がわずかに上へ寄っている。


ダーレスに腕を引かれたあと、自分で巻き直した。


外から見れば大きな違いはないと思っていた。


ロアンには分かったらしい。


「動作中にずれた可能性があります」


嘘ではなかった。


いつの動作かを伝えていないだけだった。


ロアンは右腕を取った。


結び目を解く。


布が一巻きずつ外れていく。


人工皮膚が剥がれた部分と、その下にある白い外殻が露出する。亀裂は以前と大きく変わってはいなかった。


ロアンの指が、その縁を避けて動く。


「曲げろ」


リゼは右肘を曲げた。


弱い警告信号が伝わる。


動作はできた。


「異常は」


「動作できます」


ロアンが顔を上げる。


「聞いてるのは、それだけじゃない」


リゼは右腕を見る。


「弱い警告信号があります」


「昨日の棚でか」


答えを返すまでに、わずかな間が生じた。


「棚を支えた際にも発生しました」


「いまも残ってるのか」


「はい」


「どこだ」


「判別できません」


ロアンはもう一度、亀裂の周囲を確かめた。


指へ力を入れず、外殻のわずかなずれだけを探している。


ダーレスに引かれたことを言えば、この手は止まる。


顔が上がる。


声が低くなる。


五部屋先の扉へ向かう。


そのあとロアンの中へ残るものを、リゼはまだ正確な言葉にできなかった。


ただ、与えたくなかった。


「棚を支えたとき以外に、右腕へ負荷が掛かったか」


ロアンが尋ねた。


問いは明確だった。


リゼは、ロアンの指を見た。


亀裂へ触れないようにしている。


自分が傷つけられたことを知れば、ロアンは自分を守ろうとする。


守ろうとするロアンもまた、傷つく。


「ありません」


答えは短かった。


胸の内部で、処理が一つ遅れる。


これまでとは違う返答だった。


質問の意味は理解している。


答えも知っている。


それでも、事実と異なる言葉を選んだ。


ロアンは顔を上げた。


淡い青の瞳を見ている。


問い直せば、別の答えを得られるかもしれなかった。


しばらくして、ロアンは視線を右肘へ戻した。


「そうか」


それ以上は尋ねなかった。


新しい布を棚から取り出す。


人工皮膚と外殻の境へ負担が掛からないよう巻き直し、端を引いて結ぶ。


いつもより少し緩くしたあと、指を一本差し入れて締まりを確かめる。


「動かせ」


リゼは右肘を曲げ伸ばした。


警告信号は残っている。


布による圧迫はなかった。


「どうだ」


「固定に問題はありません」


「異常が増えたら、すぐ言え」


「はい」


返事をすると、ロアンはようやく手を離した。


リゼは巻き直された布を見た。


言わなかったことで、この手の動きは変わらなかった。


そのことに安堵しているのかは、分からなかった。


ロアンは胸当てを外し、床へ置いた。


上衣の留め具を緩めながら、旅袋を開く。


使わなかった薬包と、残った保存食を机へ並べた。


「仕事はどうでしたか」


リゼが尋ねる。


「何もなかった」


「荷車に故障は」


「ない」


「帰還が遅れていません」


「ああ」


「怪我もありませんか」


「ない」


「確認しますか」


ロアンはリゼを見る。


「何をだ」


「肩や腕です」


「見れば分かるだろ」


「外から見えない負傷がある可能性があります」


「ない」


「本当ですか」


「本当だ」


リゼは少しのあいだロアンを見たあと、頷いた。


「分かりました」


階下から、夕食を知らせるマルタの声が聞こえた。


ロアンは上衣を着直し、立ち上がる。


「行くぞ」


「はい」


扉を開ける。


廊下へ出ると、階段のほうから煮込みの匂いが上がってきた。


リゼがあとへ続く。


階段の前で、ロアンが一度だけ足を止めた。


「リゼ」


「はい」


何か言おうとしたようだった。


しかし、結局は階段へ顔を向けた。


「何でもない」


一段下りる。


リゼも続いた。


左足が床板を踏み、そのあとを角材が追う。


食堂へ入ると、ダーレスは窓際の席にいた。


薄い茶の器を前へ置き、こちらを見なかった。


ロアンは気づいた様子もなく、いつもの卓へ向かう。


リゼは、その向かいへ座った。


マルタが煮込みを運ぶ。


カイルとアルドの話し声が続き、ガルドは管理室から出てきて卓へついた。


宿舎の夕食は、いつもと同じように始まった。


ロアンが匙を取る。


リゼは向かいに座り、その手元を見る。


視界の端で、ダーレスが器へ手を伸ばした。


指は昨日と変わらず動いている。


傷は残っていない。


ダーレスは一度だけ、リゼを見た。


リゼも顔を向ける。


互いに何も言わなかった。


ロアンは、そのあいだにあるものを知らない。


それでも問い直さなかった。


リゼは、ロアンが食事を終えるまで、いつもの席にいた。

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