4-15. 居場所
継暦六百二十七年 八月十二日
昼を過ぎると、宿舎の中から人の気配が減っていった。
アルドとカイルは朝から仕事へ出ている。ガルドは裏手の排水溝を見に行き、マルタも夕食に使う野菜と塩を買うため、市場へ向かった。
食堂には、リゼとダーレスだけが残っていた。
入口に近い卓で、リゼは木板へ文字を書いている。
ミナ。
ノル。
ユーリ。
カイ。
リル。
その下には、子どもたちへ教える予定の言葉が並んでいた。
本。
戸。
水。
狐。
服。
食事。
短い炭を持ち、正しい文字の隣へ、形を崩した文字を書く。
ミナが最初に書いた、長すぎる線。
ノルが力を入れすぎて潰した角。
ユーリが途中までしか思い出せなかった文字。
どの箇所を直せば読める形になるのか、一つずつ確かめていた。
窓際では、ダーレスが椅子へ浅く腰掛けている。
薄い茶の入った器を前へ置いていたが、ほとんど口をつけていない。
ときどきリゼの木板へ目を向け、そのあと、右腕や角材の脚を見る。
リゼは炭を止めた。
「何かありますか」
ダーレスの眉が動いた。
「何がだ」
「先ほどから、こちらを見ています」
「見ちゃ悪いか」
「悪いとは言っていません」
「なら放っておけ」
「はい」
リゼは板へ視線を戻した。
炭の先を置こうとしたところで、椅子が床を擦った。
ダーレスが立ち上がる。
足を引きずる様子はない。護衛の仕事を辞めてから年月が経っているとはいえ、肩や腕には、まだ剣や荷を扱っていたころの厚みが残っていた。
食堂を横切り、リゼの卓の前まで来る。
「昨日のこと、ロアンに話すつもりか」
「帰還後に報告します」
「全部か」
「必要な内容を報告します」
「俺が何を言ったかも?」
「はい」
ダーレスは鼻から息を吐いた。
「律儀な人形だな」
リゼは返事をせず、板へ炭を置いた。
ダーレスの手が伸びる。
木板が卓から持ち上げられた。
「返してください」
「何に使う」
「孤児院の子どもたちへ文字を教えるためです」
ダーレスは板へ書かれた名前を見る。
「ミナ。ノル。ユーリ。カイ。リル」
一つずつ読んだ。
「人形が、子どもに字を教えるのか」
「はい」
「頼まれたから?」
「エルナから頼まれました」
「なら命令と同じだな」
「違います」
「何が違う」
「断ることができます」
ダーレスの指が、板の表面をなぞった。
「断らなかった」
「はい」
「どうしてだ」
リゼはすぐには答えなかった。
子どもたちは、自分で本を読めない。
カイは、次に何を覚えるか尋ねた。
ノルは、次は長い炭を用意するよう言った。
リルは、狐という文字を書く約束をした。
「次も行くと決めたためです」
「誰が決めた」
「私です」
ダーレスの指が止まる。
昨日、棚の前でも同じことを聞かれた。
誰が決めた。
あのときも、リゼは自分だと答えた。
ダーレスは親指で、ミナの最初の文字を擦った。
炭が広がり、線の端が黒く滲む。
「やめてください」
「また書けるだろ」
「書き直すことはできます」
「なら、困らない」
「消す必要がありません」
ダーレスは、今度はノルの名前を指で擦った。
二文字目の半分が消える。
リゼは椅子から立ち上がった。
左足のあとを角材が追い、卓の向こうへ一歩近づく。
それ以上は進まなかった。
「返してください」
「取り返せばいい」
ダーレスは板を片手に持ったまま、もう片方の腕を下ろした。
「昨日、棚を支えたみたいにな」
「棚とは異なります」
「板を返す必要はないのか」
「あります」
「なら、俺の腕を掴め」
「その必要はありません」
「返さないと言ってる」
「返すよう求めます」
「口で言えば、人間は従うと思ってるのか」
「まだ、二度しか求めていません」
ダーレスの口元がわずかに歪んだ。
笑ったのかは分からなかった。
木板を卓へ落とす。
角が当たり、乾いた音がした。文字の一部は滲んでいたが、板そのものは割れていない。
リゼは板を取り、元の位置へ戻した。
炭を持ち、消えた文字を書き直そうとする。
その前に、ダーレスの手が腰へ伸びた。
腰へ下げていた、小さな巾着が掴まれる。
赤い花の刺繍がある布袋だった。
リゼは顔を上げた。
「これは何だ」
「私の巾着です」
「中は」
「所持金です」
「人形が金を持つのか」
「働いて得ました」
ダーレスは紐を引いた。
巾着の口が少し開き、中で硬貨が触れ合う。
「誰のための金だ」
「私のものです」
「ロアンのじゃなく?」
「はい」
「所有されてる人形が、自分の物を持つのか」
「持っています」
ダーレスは巾着を腰から外した。
完全に手の中へ移す。
リゼは左手を伸ばしたが、布へ触れる前に止めた。
「返してください」
「これは、何に使う」
リゼはダーレスを見た。
少しの間を置いて、口を開く。
「新しい脚です」
「その脚で何をする」
「歩きます」
「どこへ」
「まだ決まっていません」
「ロアンについていくためか」
リゼは答えなかった。
ダーレスは巾着を少し持ち上げた。
「取り返せ」
「返してください」
「俺がこのまま持っていったら?」
「マルタかガルドへ伝えます」
「俺の腕を掴めば、今すぐ返せる」
「できます」
「ならやれ」
「行いません」
返答はすぐだった。
ダーレスの目が細くなる。
「ロアンに止められてるのか」
「いいえ」
「人間へ手を出すなとも?」
「言われていません」
「じゃあ、どうしてだ」
リゼは、ダーレスの手にある巾着を見た。
中には、メリダの店で働いて得た金が入っている。
少しずつ増やし、ネラの工房へ預けるまで持っていく金だった。
取り返すことはできる。
手首を掴み、指を開かせるだけなら、長い時間は掛からない。
しかし、ダーレスの指や関節は、人間のものだった。
どの程度の力で傷つくかは分かる。
加減もできる。
それでも、動いた拍子に倒れれば、卓や椅子へ身体を打つ可能性がある。
「ダーレスが負傷する可能性があります」
「加減できるんだろ」
「できます」
「なら傷つけないように取り返せ」
「行いません」
「どうしてだ」
「加減したとしても、予想外のことが起きるかもしれません。ダーレスを負傷させる可能性があります」
「金を盗られても?」
「返すよう求めます」
「それだけか」
「はい」
ダーレスはしばらくリゼを見た。
「ロアンが困るからか」
「はい」
「結局、持ち主のためじゃないか」
「それだけではありません」
ダーレスの手が止まる。
「ほかに何がある」
リゼは食堂を見た。
マルタが料理を出す厨房。
ガルドが帳面をつける管理室。
カイルやアルドが座る卓。
二階へ続く階段。
この宿舎へ来た最初の夜には、誰がどこへ座るのかも知らなかった。
朝、何時に食堂が開くのか。
床のどこが軋むのか。
マルタが煮込みを運ぶとき、どちらの手で器を持つのか。
カイルが何度注意されても椅子を斜めに置くこと。
アルドが仕事から戻ると、最初に水を飲むこと。
ガルドが帳面を閉じる音。
ダーレスが窓際へ座ることも、知っている。
「私も、ここにいたいです」
ダーレスは何も言わなかった。
巾着を持つ手が、わずかに下がる。
「ここに?」
「はい」
「ロアンの部屋にいれば、それでいいんじゃないのか」
「違います」
「何が違う」
「メリダの店へ行きます。孤児院へも行きます。食堂で、マルタやカイルと話します」
「俺ともか」
「必要であれば話します」
「俺は、お前にいてほしいなんて言ってない」
「はい」
「なら、ここはお前の場所じゃない」
「ダーレス一人が決めることではありません」
声は大きくなかった。
それでも、ダーレスの顔から表情が消えた。
「人形が、住む場所を選ぶのか」
「はい」
「誰に教わった」
「誰にも教わっていません」
「ロアンの真似か」
「違います」
「なら、何だ」
「私が決めました」
食堂の外を、荷車が通り過ぎる。
車輪の軋みが、壁越しに長く続いた。
ダーレスは巾着を卓へ置いた。
返したように見えた。
リゼが手を伸ばす。
その前に、ダーレスの手がリゼの右腕を掴んだ。
肘を覆う布より、少し上だった。
リゼの動きが止まる。
「これは、壊れてるんだったな」
「人工皮膚と、外殻が損傷しています」
「昨日、棚を支えた腕か」
「はい」
「俺がこうしても、何もしないのか」
ダーレスは腕を外側へ引いた。
強い力ではなかった。
動きを確かめるような引き方だった。
リゼは身体を引かれる方向へ一歩寄せ、負荷を逃がした。
「やめてください」
「やめなかったら?」
「もう一度求めます」
「それだけか」
「はい」
ダーレスは右腕を掴んだまま、リゼの顔を見る。
試している。
何をすれば、どのように動くのか。
棚へ向けた力が、人間へ向けられるのか。
その境を確かめようとしていた。
「俺を止めろ」
「やめてください」
「口じゃない」
ダーレスの指へ、少し力が加わった。
布の下で、損傷した外殻と内部の継ぎ目へ負荷が掛かる。
細い警告信号が、右肘から肩へ伝わった。
「力で止めろ」
「行いません」
「どうしてだ」
「ダーレスを傷つけたくありません」
ダーレスの手が一度止まる。
「俺は、お前を壊そうとしてる」
「まだ、破壊に至る力ではありません」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「では、何ですか」
ダーレスは答えなかった。
自分でも、何を確かめたいのか分からなくなっているようだった。
巾着を取った。
返すよう言われた。
腕を掴んだ。
やめるよう言われた。
それでも、リゼは自分へ力を向けない。
ダーレスの指が、もう一度強くなる。
角材の先が床を擦った。
「やめてください」
「止めろ」
「ダーレスが負傷することを望みません」
「人形のくせに」
「はい」
「そういう答え方をするな」
さらに腕が引かれる。
警告信号が増えた。
布の下で、硬い外殻の亀裂へ負荷が集中する。右肘の動作範囲に異常が出る直前だった。
リゼの左手が動く。
ダーレスの手首へ触れた。
ダーレスの肩が揺れ、身体がわずかに固くなった。
しかし、リゼは手首を捻らなかった。
親指の付け根を押し、右腕を掴んでいる指を一本ずつ開かせる。
ダーレスは抵抗した。
それでも、指はゆっくりと外れていく。
最後の一本が離れた。
リゼはすぐに手を放し、一歩下がった。
それ以上近づかなかった。
「これ以上は、損傷が拡大します」
ダーレスは自分の手を見た。
指を曲げる。
開く。
手首も動く。
傷はなかった。
「俺へ力を使ったな」
「はい」
「昨日は棚で、今日は人間か」
「ダーレスを負傷させない強さで行いました」
「次は、もっと強くするのか」
「必要であれば」
ダーレスの顔が歪んだ。
「やっぱり、何をするか分からない」
「はい」
「否定しないのか」
「そのときの状況によって判断します」
「同じだ」
声が震えていた。
怒りだけではなかった。
リゼは黙った。
ダーレスは、自分の無傷の手を見たまま言った。
「遺跡にいたやつも、動くまでは何もしなかった」
炉の奥で、消えかけた薪が小さく鳴った。
「何度か一緒に仕事をした男がいた。友人じゃない。顔を合わせれば話して、同じ護衛に入れば背中を預ける程度のやつだ」
言葉を切り、息を吐く。
「遺跡の奥に、人形が立ってた。止まってると思った。武器も持ってなかった。警告もしなかった」
ダーレスの視線は、自分の手から動かなかった。
「区画へ入った途端に動いた。あいつは、俺の前にいた」
それ以上の様子は語らなかった。
「止められなかった」
リゼは右肘へ左手を添えた。
曲げる。
伸ばす。
薄い警告信号は残っているが、動作はできた。
「その機械人形は、停止するよう求めても止まりませんでしたか」
「止まるわけないだろ」
「私は停止しました」
ダーレスが顔を上げる。
「同じにするな」
「同じではありません」
「何が違う」
「ダーレスがやめるよう求めたとき、私は何もしていません」
「やめなかったから、力を使った」
「はい」
「次は、俺の手を折るかもしれない」
「折りませんでした」
リゼは、ダーレスの手を見る。
「現在も、負傷していません」
ダーレスも自分の指へ視線を戻した。
リゼなら、折ることはできた。
手首を壊すこともできた。
それでも、指を開かせただけだった。
手が離れたあと、追いかけてもいない。
「見れば分かる」
低い声だった。
「傷がないことは、見れば分かる」
ダーレスは卓に置いた巾着を取り上げた。
今度は紐を引かず、リゼへ差し出す。
リゼは受け取った。
中の硬貨を確認する。
数は変わっていなかった。
「木板も返してください」
「そこにあるだろ」
「文字が消えています」
「また書ける」
「はい」
リゼは巾着を腰へ戻した。
木板を卓へ置き、消えた文字を見る。
ダーレスは窓際の席へ戻らず、その場に立っていた。
「ロアンに言うのか」
リゼは顔を上げる。
「言いません」
ダーレスの眉が動いた。
「どうしてだ」
「ロアンが、ダーレスと争う可能性があります」
「俺を庇うのか」
「違います」
「なら何だ」
リゼは右肘を見た。
布の下には、まだ警告信号が残っている。
ロアンが戻れば、最初に右脚を見る。
角材の固定を確かめる。
棚の事故を伝えれば、左腕や右膝も調べる。
右肘の布がずれていれば、外して亀裂を見るだろう。
ダーレスに引かれたと知れば、その手の動きは変わる。
声が低くなる。
五部屋先の扉へ向かう。
次に仕事へ出るとき、リゼを一人にしない方法を考えるかもしれない。
それだけではなかった。
ロアンは、自分のいないところでリゼが傷つけられたことを知る。
右肘の損傷を確かめたあとも、すぐには手を離さないかもしれない。何も言わず、ただ亀裂を見続けるかもしれない。
そのとき、ロアンの中に生じるものを、リゼは正確な言葉にできなかった。
怒りだけではない。
それを、ロアンへ与えたくないと思った。
「ロアンが、ここで生活しにくくなります」
ダーレスは黙っている。
「私も、ここにいたいです」
先ほどと同じ言葉だった。
「だから黙るのか」
「はい」
「俺がまた同じことをしたら?」
「やめるよう求めます」
「やめなかったら」
「今日と同じ方法で止めます」
「俺を傷つけずに?」
「可能であれば」
「可能じゃなかったら」
リゼは少し考えた。
「そのときに決めます」
ダーレスの口元が歪んだ。
今度は、わずかに笑ったようにも見えた。
「やっぱり、何をするか分からないな」
「はい」
「それでも、ここにいるつもりか」
「はい」
返答に迷いはなかった。
ダーレスは食堂の出口へ向かった。
廊下へ出る前に、足を止める。
「昨日の棚のことも、今日のことも、信用したわけじゃない」
「分かりました」
「同じだと思ってる」
「はい」
「ただ、あれとは……」
ダーレスはそこで口を閉じた。
何を言うべきか探すように視線を逸らしたが、続きを口にすることはなかった。
そのまま食堂を出ていく。
階段を上がる足音が聞こえる。
右足と左足が、同じ間隔で床を踏む。
階段を上がったあと、二階の廊下を進み、しばらく先で扉が閉まった。
食堂には、リゼ一人が残った。
卓の上の木板では、ミナとノルの名前が途中まで滲んでいる。
リゼは椅子へ座り、炭を取った。
消えた文字を書き直す。
最初の線。
次の線。
元の形へ戻していく。
右肘を動かすたび、弱い警告信号が伝わった。
動作はできる。
だが、どこへ負荷が残っているのかまでは判別できなかった。
それでも、文字は書けた。
ミナ。
ノル。
その下へ、昨日までなかった言葉を書く。
ここ。
少し間を空ける。
いたい。
二つを並べると、子どもたちへ教えるには、まだ長い言葉になった。
リゼは木板を見た。
布で消すことはしなかった。
やがて、宿舎の外から市場帰りの荷車の音が近づいてくる。
マルタが戻る時刻だった。
リゼは右肘の布を整えた。
完全には元の位置へ戻らなかったが、外から見て大きくずれてはいない。
巾着は腰にある。
硬貨の数も変わっていない。
ダーレスの手にも、傷は残っていない。
今日の出来事をロアンへ伝えれば、ロアンは自分を守ろうとする。
守ろうとするロアンもまた、傷つく。
そのことを、リゼはまだ何と呼べばよいのか知らなかった。
ただ、言わないと決めた。
そう決めたのは、ロアンではなかった。




