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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
4. ここにいたい
52/65

4-15. 居場所

継暦六百二十七年 八月十二日


昼を過ぎると、宿舎の中から人の気配が減っていった。


アルドとカイルは朝から仕事へ出ている。ガルドは裏手の排水溝を見に行き、マルタも夕食に使う野菜と塩を買うため、市場へ向かった。


食堂には、リゼとダーレスだけが残っていた。


入口に近い卓で、リゼは木板へ文字を書いている。


ミナ。


ノル。


ユーリ。


カイ。


リル。


その下には、子どもたちへ教える予定の言葉が並んでいた。


本。


戸。


水。


狐。


服。


食事。


短い炭を持ち、正しい文字の隣へ、形を崩した文字を書く。


ミナが最初に書いた、長すぎる線。


ノルが力を入れすぎて潰した角。


ユーリが途中までしか思い出せなかった文字。


どの箇所を直せば読める形になるのか、一つずつ確かめていた。


窓際では、ダーレスが椅子へ浅く腰掛けている。


薄い茶の入った器を前へ置いていたが、ほとんど口をつけていない。


ときどきリゼの木板へ目を向け、そのあと、右腕や角材の脚を見る。


リゼは炭を止めた。


「何かありますか」


ダーレスの眉が動いた。


「何がだ」


「先ほどから、こちらを見ています」


「見ちゃ悪いか」


「悪いとは言っていません」


「なら放っておけ」


「はい」


リゼは板へ視線を戻した。


炭の先を置こうとしたところで、椅子が床を擦った。


ダーレスが立ち上がる。


足を引きずる様子はない。護衛の仕事を辞めてから年月が経っているとはいえ、肩や腕には、まだ剣や荷を扱っていたころの厚みが残っていた。


食堂を横切り、リゼの卓の前まで来る。


「昨日のこと、ロアンに話すつもりか」


「帰還後に報告します」


「全部か」


「必要な内容を報告します」


「俺が何を言ったかも?」


「はい」


ダーレスは鼻から息を吐いた。


「律儀な人形だな」


リゼは返事をせず、板へ炭を置いた。


ダーレスの手が伸びる。


木板が卓から持ち上げられた。


「返してください」


「何に使う」


「孤児院の子どもたちへ文字を教えるためです」


ダーレスは板へ書かれた名前を見る。


「ミナ。ノル。ユーリ。カイ。リル」


一つずつ読んだ。


「人形が、子どもに字を教えるのか」


「はい」


「頼まれたから?」


「エルナから頼まれました」


「なら命令と同じだな」


「違います」


「何が違う」


「断ることができます」


ダーレスの指が、板の表面をなぞった。


「断らなかった」


「はい」


「どうしてだ」


リゼはすぐには答えなかった。


子どもたちは、自分で本を読めない。


カイは、次に何を覚えるか尋ねた。


ノルは、次は長い炭を用意するよう言った。


リルは、狐という文字を書く約束をした。


「次も行くと決めたためです」


「誰が決めた」


「私です」


ダーレスの指が止まる。


昨日、棚の前でも同じことを聞かれた。


誰が決めた。


あのときも、リゼは自分だと答えた。


ダーレスは親指で、ミナの最初の文字を擦った。


炭が広がり、線の端が黒く滲む。


「やめてください」


「また書けるだろ」


「書き直すことはできます」


「なら、困らない」


「消す必要がありません」


ダーレスは、今度はノルの名前を指で擦った。


二文字目の半分が消える。


リゼは椅子から立ち上がった。


左足のあとを角材が追い、卓の向こうへ一歩近づく。


それ以上は進まなかった。


「返してください」


「取り返せばいい」


ダーレスは板を片手に持ったまま、もう片方の腕を下ろした。


「昨日、棚を支えたみたいにな」


「棚とは異なります」


「板を返す必要はないのか」


「あります」


「なら、俺の腕を掴め」


「その必要はありません」


「返さないと言ってる」


「返すよう求めます」


「口で言えば、人間は従うと思ってるのか」


「まだ、二度しか求めていません」


ダーレスの口元がわずかに歪んだ。


笑ったのかは分からなかった。


木板を卓へ落とす。


角が当たり、乾いた音がした。文字の一部は滲んでいたが、板そのものは割れていない。


リゼは板を取り、元の位置へ戻した。


炭を持ち、消えた文字を書き直そうとする。


その前に、ダーレスの手が腰へ伸びた。


腰へ下げていた、小さな巾着が掴まれる。


赤い花の刺繍がある布袋だった。


リゼは顔を上げた。


「これは何だ」


「私の巾着です」


「中は」


「所持金です」


「人形が金を持つのか」


「働いて得ました」


ダーレスは紐を引いた。


巾着の口が少し開き、中で硬貨が触れ合う。


「誰のための金だ」


「私のものです」


「ロアンのじゃなく?」


「はい」


「所有されてる人形が、自分の物を持つのか」


「持っています」


ダーレスは巾着を腰から外した。


完全に手の中へ移す。


リゼは左手を伸ばしたが、布へ触れる前に止めた。


「返してください」


「これは、何に使う」


リゼはダーレスを見た。


少しの間を置いて、口を開く。


「新しい脚です」


「その脚で何をする」


「歩きます」


「どこへ」


「まだ決まっていません」


「ロアンについていくためか」


リゼは答えなかった。


ダーレスは巾着を少し持ち上げた。


「取り返せ」


「返してください」


「俺がこのまま持っていったら?」


「マルタかガルドへ伝えます」


「俺の腕を掴めば、今すぐ返せる」


「できます」


「ならやれ」


「行いません」


返答はすぐだった。


ダーレスの目が細くなる。


「ロアンに止められてるのか」


「いいえ」


「人間へ手を出すなとも?」


「言われていません」


「じゃあ、どうしてだ」


リゼは、ダーレスの手にある巾着を見た。


中には、メリダの店で働いて得た金が入っている。


少しずつ増やし、ネラの工房へ預けるまで持っていく金だった。


取り返すことはできる。


手首を掴み、指を開かせるだけなら、長い時間は掛からない。


しかし、ダーレスの指や関節は、人間のものだった。


どの程度の力で傷つくかは分かる。


加減もできる。


それでも、動いた拍子に倒れれば、卓や椅子へ身体を打つ可能性がある。


「ダーレスが負傷する可能性があります」


「加減できるんだろ」


「できます」


「なら傷つけないように取り返せ」


「行いません」


「どうしてだ」


「加減したとしても、予想外のことが起きるかもしれません。ダーレスを負傷させる可能性があります」


「金を盗られても?」


「返すよう求めます」


「それだけか」


「はい」


ダーレスはしばらくリゼを見た。


「ロアンが困るからか」


「はい」


「結局、持ち主のためじゃないか」


「それだけではありません」


ダーレスの手が止まる。


「ほかに何がある」


リゼは食堂を見た。


マルタが料理を出す厨房。


ガルドが帳面をつける管理室。


カイルやアルドが座る卓。


二階へ続く階段。


この宿舎へ来た最初の夜には、誰がどこへ座るのかも知らなかった。


朝、何時に食堂が開くのか。


床のどこが軋むのか。


マルタが煮込みを運ぶとき、どちらの手で器を持つのか。


カイルが何度注意されても椅子を斜めに置くこと。


アルドが仕事から戻ると、最初に水を飲むこと。


ガルドが帳面を閉じる音。


ダーレスが窓際へ座ることも、知っている。


「私も、ここにいたいです」


ダーレスは何も言わなかった。


巾着を持つ手が、わずかに下がる。


「ここに?」


「はい」


「ロアンの部屋にいれば、それでいいんじゃないのか」


「違います」


「何が違う」


「メリダの店へ行きます。孤児院へも行きます。食堂で、マルタやカイルと話します」


「俺ともか」


「必要であれば話します」


「俺は、お前にいてほしいなんて言ってない」


「はい」


「なら、ここはお前の場所じゃない」


「ダーレス一人が決めることではありません」


声は大きくなかった。


それでも、ダーレスの顔から表情が消えた。


「人形が、住む場所を選ぶのか」


「はい」


「誰に教わった」


「誰にも教わっていません」


「ロアンの真似か」


「違います」


「なら、何だ」


「私が決めました」


食堂の外を、荷車が通り過ぎる。


車輪の軋みが、壁越しに長く続いた。


ダーレスは巾着を卓へ置いた。


返したように見えた。


リゼが手を伸ばす。


その前に、ダーレスの手がリゼの右腕を掴んだ。


肘を覆う布より、少し上だった。


リゼの動きが止まる。


「これは、壊れてるんだったな」


「人工皮膚と、外殻が損傷しています」


「昨日、棚を支えた腕か」


「はい」


「俺がこうしても、何もしないのか」


ダーレスは腕を外側へ引いた。


強い力ではなかった。


動きを確かめるような引き方だった。


リゼは身体を引かれる方向へ一歩寄せ、負荷を逃がした。


「やめてください」


「やめなかったら?」


「もう一度求めます」


「それだけか」


「はい」


ダーレスは右腕を掴んだまま、リゼの顔を見る。


試している。


何をすれば、どのように動くのか。


棚へ向けた力が、人間へ向けられるのか。


その境を確かめようとしていた。


「俺を止めろ」


「やめてください」


「口じゃない」


ダーレスの指へ、少し力が加わった。


布の下で、損傷した外殻と内部の継ぎ目へ負荷が掛かる。


細い警告信号が、右肘から肩へ伝わった。


「力で止めろ」


「行いません」


「どうしてだ」


「ダーレスを傷つけたくありません」


ダーレスの手が一度止まる。


「俺は、お前を壊そうとしてる」


「まだ、破壊に至る力ではありません」


「そういうことを聞いてるんじゃない」


「では、何ですか」


ダーレスは答えなかった。


自分でも、何を確かめたいのか分からなくなっているようだった。


巾着を取った。


返すよう言われた。


腕を掴んだ。


やめるよう言われた。


それでも、リゼは自分へ力を向けない。


ダーレスの指が、もう一度強くなる。


角材の先が床を擦った。


「やめてください」


「止めろ」


「ダーレスが負傷することを望みません」


「人形のくせに」


「はい」


「そういう答え方をするな」


さらに腕が引かれる。


警告信号が増えた。


布の下で、硬い外殻の亀裂へ負荷が集中する。右肘の動作範囲に異常が出る直前だった。


リゼの左手が動く。


ダーレスの手首へ触れた。


ダーレスの肩が揺れ、身体がわずかに固くなった。


しかし、リゼは手首を捻らなかった。


親指の付け根を押し、右腕を掴んでいる指を一本ずつ開かせる。


ダーレスは抵抗した。


それでも、指はゆっくりと外れていく。


最後の一本が離れた。


リゼはすぐに手を放し、一歩下がった。


それ以上近づかなかった。


「これ以上は、損傷が拡大します」


ダーレスは自分の手を見た。


指を曲げる。


開く。


手首も動く。


傷はなかった。


「俺へ力を使ったな」


「はい」


「昨日は棚で、今日は人間か」


「ダーレスを負傷させない強さで行いました」


「次は、もっと強くするのか」


「必要であれば」


ダーレスの顔が歪んだ。


「やっぱり、何をするか分からない」


「はい」


「否定しないのか」


「そのときの状況によって判断します」


「同じだ」


声が震えていた。


怒りだけではなかった。


リゼは黙った。


ダーレスは、自分の無傷の手を見たまま言った。


「遺跡にいたやつも、動くまでは何もしなかった」


炉の奥で、消えかけた薪が小さく鳴った。


「何度か一緒に仕事をした男がいた。友人じゃない。顔を合わせれば話して、同じ護衛に入れば背中を預ける程度のやつだ」


言葉を切り、息を吐く。


「遺跡の奥に、人形が立ってた。止まってると思った。武器も持ってなかった。警告もしなかった」


ダーレスの視線は、自分の手から動かなかった。


「区画へ入った途端に動いた。あいつは、俺の前にいた」


それ以上の様子は語らなかった。


「止められなかった」


リゼは右肘へ左手を添えた。


曲げる。


伸ばす。


薄い警告信号は残っているが、動作はできた。


「その機械人形は、停止するよう求めても止まりませんでしたか」


「止まるわけないだろ」


「私は停止しました」


ダーレスが顔を上げる。


「同じにするな」


「同じではありません」


「何が違う」


「ダーレスがやめるよう求めたとき、私は何もしていません」


「やめなかったから、力を使った」


「はい」


「次は、俺の手を折るかもしれない」


「折りませんでした」


リゼは、ダーレスの手を見る。


「現在も、負傷していません」


ダーレスも自分の指へ視線を戻した。


リゼなら、折ることはできた。


手首を壊すこともできた。


それでも、指を開かせただけだった。


手が離れたあと、追いかけてもいない。


「見れば分かる」


低い声だった。


「傷がないことは、見れば分かる」


ダーレスは卓に置いた巾着を取り上げた。


今度は紐を引かず、リゼへ差し出す。


リゼは受け取った。


中の硬貨を確認する。


数は変わっていなかった。


「木板も返してください」


「そこにあるだろ」


「文字が消えています」


「また書ける」


「はい」


リゼは巾着を腰へ戻した。


木板を卓へ置き、消えた文字を見る。


ダーレスは窓際の席へ戻らず、その場に立っていた。


「ロアンに言うのか」


リゼは顔を上げる。


「言いません」


ダーレスの眉が動いた。


「どうしてだ」


「ロアンが、ダーレスと争う可能性があります」


「俺を庇うのか」


「違います」


「なら何だ」


リゼは右肘を見た。


布の下には、まだ警告信号が残っている。


ロアンが戻れば、最初に右脚を見る。


角材の固定を確かめる。


棚の事故を伝えれば、左腕や右膝も調べる。


右肘の布がずれていれば、外して亀裂を見るだろう。


ダーレスに引かれたと知れば、その手の動きは変わる。


声が低くなる。


五部屋先の扉へ向かう。


次に仕事へ出るとき、リゼを一人にしない方法を考えるかもしれない。


それだけではなかった。


ロアンは、自分のいないところでリゼが傷つけられたことを知る。


右肘の損傷を確かめたあとも、すぐには手を離さないかもしれない。何も言わず、ただ亀裂を見続けるかもしれない。


そのとき、ロアンの中に生じるものを、リゼは正確な言葉にできなかった。


怒りだけではない。


それを、ロアンへ与えたくないと思った。


「ロアンが、ここで生活しにくくなります」


ダーレスは黙っている。


「私も、ここにいたいです」


先ほどと同じ言葉だった。


「だから黙るのか」


「はい」


「俺がまた同じことをしたら?」


「やめるよう求めます」


「やめなかったら」


「今日と同じ方法で止めます」


「俺を傷つけずに?」


「可能であれば」


「可能じゃなかったら」


リゼは少し考えた。


「そのときに決めます」


ダーレスの口元が歪んだ。


今度は、わずかに笑ったようにも見えた。


「やっぱり、何をするか分からないな」


「はい」


「それでも、ここにいるつもりか」


「はい」


返答に迷いはなかった。


ダーレスは食堂の出口へ向かった。


廊下へ出る前に、足を止める。


「昨日の棚のことも、今日のことも、信用したわけじゃない」


「分かりました」


「同じだと思ってる」


「はい」


「ただ、あれとは……」


ダーレスはそこで口を閉じた。


何を言うべきか探すように視線を逸らしたが、続きを口にすることはなかった。


そのまま食堂を出ていく。


階段を上がる足音が聞こえる。


右足と左足が、同じ間隔で床を踏む。


階段を上がったあと、二階の廊下を進み、しばらく先で扉が閉まった。


食堂には、リゼ一人が残った。


卓の上の木板では、ミナとノルの名前が途中まで滲んでいる。


リゼは椅子へ座り、炭を取った。


消えた文字を書き直す。


最初の線。


次の線。


元の形へ戻していく。


右肘を動かすたび、弱い警告信号が伝わった。


動作はできる。


だが、どこへ負荷が残っているのかまでは判別できなかった。


それでも、文字は書けた。


ミナ。


ノル。


その下へ、昨日までなかった言葉を書く。


ここ。


少し間を空ける。


いたい。


二つを並べると、子どもたちへ教えるには、まだ長い言葉になった。


リゼは木板を見た。


布で消すことはしなかった。


やがて、宿舎の外から市場帰りの荷車の音が近づいてくる。


マルタが戻る時刻だった。


リゼは右肘の布を整えた。


完全には元の位置へ戻らなかったが、外から見て大きくずれてはいない。


巾着は腰にある。


硬貨の数も変わっていない。


ダーレスの手にも、傷は残っていない。


今日の出来事をロアンへ伝えれば、ロアンは自分を守ろうとする。


守ろうとするロアンもまた、傷つく。


そのことを、リゼはまだ何と呼べばよいのか知らなかった。


ただ、言わないと決めた。


そう決めたのは、ロアンではなかった。

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