↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
4. ここにいたい
51/65

4-14. 命じられなくても

継暦六百二十七年 八月十一日


午前の仕事を終えて宿舎へ戻ったころには、食堂の片づけもほとんど終わっていた。


入口を開けると、厨房から水の音が聞こえる。マルタは洗った布を桶の縁へ掛け、昼のあいだに乾かす食器を棚へ並べていた。


「おかえり」


「戻りました」


「店はどうだった?」


「布が二点、留め具が一点売れました。外套の補修依頼を一件受けています」


「そうかい」


マルタは手を前掛けで拭き、リゼの右脚へ目を向けた。


「脚は?」


「異常はありません」


「なら、部屋で休んでおいで。今日は午後に出る予定もないんだろ」


「はい」


「文字の準備をするって言ってたね」


「教える順序を確認します」


「子ども相手なんだから、あまり難しく考えないようにね」


「どの程度から難しいですか」


マルタは一度口を開き、閉じた。


「それを聞くところから、もう難しいんだよ」


リゼは答えの意味を確認しようとしたが、厨房の奥から木箱を動かす音がしたため、そちらへ顔を向けた。


「何をしていますか」


「乾物の箱を入れ替えてるんだよ。古いものを前へ出しておこうと思ってね」


「手伝いますか」


「今日はいいよ。店でも働いてきたんだろ」


「作業は可能です」


「可能でも、頼んでないよ」


昨夜、ロアンから言われたことを思い出す。


できるかどうかだけで決めるな。


頼まれたからといって、すべて行う必要はない。


いまは、頼まれていない。


「分かりました」


リゼは階段へ向かった。


二〇三号室へ戻ると、部屋は朝のままだった。


ロアンの寝台には畳まれた毛布が置かれ、壁際に立て掛けられていた棒剣はなくなっている。胸当てを置いていた棚にも空きがあり、机の上には、昨夜使った木板と炭だけが残されていた。


左足のあとを角材の右脚が追う。


椅子へ腰を下ろし、右脚を斜めに伸ばした。


木板の上には、五人の名前が並んでいる。


ミナ。


ノル。


ユーリ。


カイ。


リル。


その下には、本、戸、水、狐、服、食事。


昨夜、炭の先を置いた小さな黒い点も残っていた。


リゼは新しい板を取り、一人ずつ教える順序を書き始めた。


ミナには、自分の名前の最初の文字。


ノルには、炭へ入れる力を弱くすること。


ユーリには、すでに知っている文字を確認すること。


カイには、本の次に、戸と水。


リルには、狐。


炭を動かしている途中で、一階から大きな音が響いた。


木材が床へ落ち、そのあとに、いくつもの硬いものがぶつかる。


リゼは炭を置いた。


すぐに立ち上がり、扉を開ける。


階段の下からマルタの声が聞こえた。


「カイル、動くんじゃないよ!」


返事はなかった。


リゼは手摺へ左手を添え、階段を下りた。


一階へ着く前に、食堂の奥が見えた。


厨房脇の物置の戸が開き、その前へ薪が崩れ出している。乾いた枝や割った木材が通路へ広がり、一部は傾いた棚へ引っ掛かっていた。


カイルは床へ片膝をつき、両腕で棚を押さえている。


背後には、横倒しになった木箱があった。


棚の上段には、まだ薪の束や小箱が残っている。手を離せば、棚ごとカイルの側へ倒れる位置だった。


マルタは反対側から近づこうとしていたが、床へ散らばった薪が邪魔になっている。


「何がありましたか」


リゼが尋ねると、カイルが顔を上げた。


「箱を出そうとしたら、棚の脚が外れた」


「手を離せますか」


「離したら倒れる」


棚の片側は床の溝から外れ、脚がわずかに浮いていた。カイルが押さえているため、かろうじて壁へ寄り掛かっている。


「誰か呼んで」


カイルが言った。


「アルドなら戻せると思う」


アルドは仕事へ出ている。


ガルドも、裏手の排水溝を見に行っていた。


呼びに行けば、そのあいだカイルが棚を支え続けることになる。腕はすでに震え始めていた。


「マルタは離れてください」


「一人でどうするつもりだい」


「棚を支えます」


リゼは散らばった薪を見た。


角材の先で踏めば、滑る可能性がある。


左足を棚に近い床板へ置き、角材の右脚を、木片のない平らな場所へ固定する。


両手を棚の横板へ当てた。


「カイル、私が支えます。手を離してください」


「大丈夫?」


「はい」


「重いよ」


「確認しました」


棚を押し返す。


木材が軋んだ。


壁へ傾いていた棚がわずかに起き、カイルの肩へ掛かっていた重さが抜ける。


「離してください」


カイルはすぐには手を放さなかった。


「本当に平気?」


「腕が震えています」


「それは俺の腕」


「はい。長くは支えられません」


カイルは棚から手を離し、後ろへ下がった。


その瞬間、上段に載っていた薪の束がずれた。


束をまとめていた紐がほどけ、数本の木材が落ちる。


リゼは左腕を上げた。


薪が前腕と肩へ当たり、床へ転がった。右手は棚から離さず、傾いた木枠を支える。


衝撃で身体が右へ押された。


角材の先が床板を滑る。


右膝が床へつき、白い外殻が硬い音を立てた。


それでも棚は倒れなかった。


「リゼ!」


カイルが近づこうとする。


「反対側を押してください」


カイルは言われたとおり、棚へ手を掛けた。


マルタも薪を足で払い、空いた場所へ入る。


三人で棚を壁際へ押し戻す。


浮いていた脚を床の溝へ入れると、棚はようやく自立した。


リゼは右手を離した。


肩へ当たった薪が足元に残っている。上衣には木屑がついていたが、人工皮膚が裂けた様子はなかった。


「立てる?」


カイルが尋ねる。


「はい」


左足へ体重を移し、床へついていた右膝を上げる。


角材の先を元の位置へ戻し、立ち上がった。


「どこか壊れてない?」


「確認します」


左腕を曲げ、肩を動かす。


動作に異常はない。


右膝の外殻にも、新しい亀裂は見当たらなかった。角材を固定している布も、大きくはずれていない。


「損傷は増えていません」


カイルが長く息を吐いた。


「助かった。俺一人じゃ、どうにもならなかったよ」


「棚を支えました」


「うん。だから助かった」


リゼはカイルの両手を見る。


指は動いているが、手のひらと甲が赤くなっていた。


「負傷していますか」


「少し痛いだけ」


カイルが手を開閉する。


マルタがすぐに近づき、手首と指を順に確かめた。


「腫れてきたら冷やすんだよ。動くからって、今日は無理に使うんじゃない」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「分かってないじゃないか」


カイルは困ったように笑った。


「でも、リゼが来てくれてよかった」


食堂の窓際で、器が卓へ置かれる音がした。


ダーレスが座っていた。


食事の時間ではなかった。


いつからそこにいたのかは分からない。薄い茶の入った器へ手を添えたまま、物置の戸口を見ている。


視線は、カイルではなくリゼへ向いていた。


「ずいぶん力があるんだな」


声は低かった。


カイルが振り返る。


「見てたなら手伝ってよ」


ダーレスは答えなかった。


「人一人が押さえきれなかった棚を、一人で止めた」


「両手を使用しました」


「途中から片手だっただろ」


「薪が落下したため、左腕で防ぎました」


「そうか」


ダーレスは器へ視線を落とした。


飲むことはせず、指で縁をなぞる。


「誰かに命じられたのか」


リゼは顔を向けた。


「棚を支えることですか」


「ああ」


「命令は受けていません」


ダーレスの指が止まった。


「自分で動いたのか」


「はい」


「どうしてだ」


「棚が倒れる可能性がありました」


「それを、お前が決めたのか」


「確認しました」


「誰に」


「棚と、カイルの状態を見ました」


食堂が静かになった。


マルタはカイルの手を見ていたが、顔だけをダーレスへ向ける。


「カイルが下敷きになりかけてたんだよ」


「見れば分かる」


「なら、何が問題なんだい」


ダーレスはすぐには答えなかった。


リゼの右手を見る。


棚を押し返した手だった。


そのあと、薪を受けた左腕へ視線を移す。


「命令がなくても、人間より先に必要なことを決める」


「はい」


「その力を使うかどうかも」


「はい」


「誰に向けるかもか」


「棚へ向けました」


「今日はな」


マルタの表情が変わった。


「ダーレス」


「何だ」


「それ以上はやめな」


「聞いただけだ」


「聞き方があるだろう」


「俺には必要なことだ」


カイルが、赤くなった右手を押さえながら言った。


「助けてもらったのは俺だよ」


「お前は黙ってろ」


「でも」


「無事だったから言えるんだ」


ダーレスの声は大きくなかった。


それでも、食堂の空気が張った。


「次に何を必要だと決めるのか、誰にも分からない」


リゼはダーレスを見る。


「状況によって異なります」


「そういうところだ」


「何がですか」


ダーレスは答えず、椅子から立った。


足を引きずることもなく、食堂の出口へ向かう。


リゼの横を通る前に、一度だけ足を止めた。


近づきすぎることはなかった。


「ロアンに聞け」


「何をですか」


「自分で判断して、あれだけの力を使うことまで、あいつが分かってるのか」


「ロアンは、私が決めるように言いました」


ダーレスの目が細くなる。


「だから支えたのか」


リゼは棚を見る。


床の溝へ戻された脚。


落ちた薪。


カイルの赤くなった手。


「違います」


「何が違う」


「棚が倒れるためです」


ダーレスは何も言わなかった。


「ロアンが何も言っていなくても、棚は倒れます」


マルタが短く息を吐く。


カイルは自分の手へ視線を落とした。


ダーレスだけが、しばらくリゼを見ていた。


「そうかよ」


やがて、それだけ言った。


食堂を出ていく。


廊下を進み、階段を上がる足音が聞こえた。右足も左足も、同じように床を踏んでいる。


二階へ上がったあと、廊下を階段方向から進み、五部屋先で扉が閉まった。


食堂に静けさが戻る。


マルタが長く息を吐いた。


「悪かったね」


「なぜマルタが謝りますか」


「止めるのが遅かった」


「ダーレスは、私が行動した理由を確認しました」


「確認したいだけなら、あんな言い方はしないよ」


リゼは、ダーレスが出ていった廊下を見る。


「何を恐れていましたか」


マルタはすぐには答えなかった。


「それは、あたしから話すことじゃないね」


「知っていますか」


「少しだけね」


それ以上、マルタは言わなかった。


カイルが床へ散らばった薪を拾おうとする。


「手を使用してよいですか」


リゼが尋ねると、カイルは動きを止めた。


「拾うくらいなら平気だよ」


「マルタは、無理に使わないよう言いました」


「リゼまで同じこと言うの?」


「腫れる可能性があります」


「じゃあ、少しだけ」


「全部置いておきな」


マルタが言った。


「あとでアルドが戻ったら、棚ごと見てもらうよ。今度こそ倒れないよう、壁へ留めてもらわないとね」


リゼは床の薪を見る。


通路を塞いでいる。


「端へ寄せます」


「脚は大丈夫なのかい」


「はい」


「腕は?」


「動作に問題はありません」


マルタは少し迷ったあと、頷いた。


「無理だと思ったら、すぐやめるんだよ」


「はい」


リゼは一本ずつ薪を拾い、壁際へ重ねた。


先ほど棚を支えたときのような力は必要ない。左手と右手へ一本ずつ持ち、角材の先が木片へ触れないよう進む。


カイルは椅子へ座らされ、右手を布で冷やしていた。


「本当にありがとう」


「手の痛みは増えていますか」


「増えてない」


「明日も痛む場合は、治療所へ行ってください」


「分かった」


「本当ですか」


「行くよ」


カイルは苦笑した。


「ロアンに似てきたね」


「どこがですか」


「治らなくても知らないって言いそうなところ」


「私は、まだ言っていません」


「まだ?」


「必要であれば言います」


カイルが笑った。


マルタも口元を緩めたが、すぐに階段のほうへ目を向ける。


二階から音は聞こえなかった。


薪を端へ寄せ終えると、リゼは二〇三号室へ戻った。


机の上には、途中まで書いた木板が残っている。


五人の名前。


本。


戸。


水。


狐。


服。


食事。


リゼは椅子へ座り、炭を取った。


子どもたちへ教える文字の下に、今日の出来事を順に書く。


棚。


倒れる。


支える。


薪。


右膝。


その次で手が止まった。


命令。


判断。


必要。


いずれも、子どもたちへ教える予定のない文字だった。


ロアンからは、できるかどうかだけで決めるなと言われた。


嫌なら行う必要はないとも言われた。


棚を支えることが嫌だったかは、考えていなかった。


カイルが下敷きになる前に、動く必要があった。


命じられなかった。


それでも、自分で決めた。


リゼは木板の端へ、日付を書いた。


その下に、


ロアンへ報告する。


と記した。


窓の外では、午後の通りを荷車が進んでいる。


ラグ採石場へ向かったロアンは、すでに到着しているころだった。


戻るのは明日の夕方か、それよりあとになる。


リゼは炭を置いた。


右膝へ手を添え、角材の固定が緩んでいないことを確かめる。


それからしばらく、五部屋先の扉がある方角へ耳を向けていた。


ダーレスの部屋からは、最後まで何の音も聞こえなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。