4-14. 命じられなくても
継暦六百二十七年 八月十一日
午前の仕事を終えて宿舎へ戻ったころには、食堂の片づけもほとんど終わっていた。
入口を開けると、厨房から水の音が聞こえる。マルタは洗った布を桶の縁へ掛け、昼のあいだに乾かす食器を棚へ並べていた。
「おかえり」
「戻りました」
「店はどうだった?」
「布が二点、留め具が一点売れました。外套の補修依頼を一件受けています」
「そうかい」
マルタは手を前掛けで拭き、リゼの右脚へ目を向けた。
「脚は?」
「異常はありません」
「なら、部屋で休んでおいで。今日は午後に出る予定もないんだろ」
「はい」
「文字の準備をするって言ってたね」
「教える順序を確認します」
「子ども相手なんだから、あまり難しく考えないようにね」
「どの程度から難しいですか」
マルタは一度口を開き、閉じた。
「それを聞くところから、もう難しいんだよ」
リゼは答えの意味を確認しようとしたが、厨房の奥から木箱を動かす音がしたため、そちらへ顔を向けた。
「何をしていますか」
「乾物の箱を入れ替えてるんだよ。古いものを前へ出しておこうと思ってね」
「手伝いますか」
「今日はいいよ。店でも働いてきたんだろ」
「作業は可能です」
「可能でも、頼んでないよ」
昨夜、ロアンから言われたことを思い出す。
できるかどうかだけで決めるな。
頼まれたからといって、すべて行う必要はない。
いまは、頼まれていない。
「分かりました」
リゼは階段へ向かった。
二〇三号室へ戻ると、部屋は朝のままだった。
ロアンの寝台には畳まれた毛布が置かれ、壁際に立て掛けられていた棒剣はなくなっている。胸当てを置いていた棚にも空きがあり、机の上には、昨夜使った木板と炭だけが残されていた。
左足のあとを角材の右脚が追う。
椅子へ腰を下ろし、右脚を斜めに伸ばした。
木板の上には、五人の名前が並んでいる。
ミナ。
ノル。
ユーリ。
カイ。
リル。
その下には、本、戸、水、狐、服、食事。
昨夜、炭の先を置いた小さな黒い点も残っていた。
リゼは新しい板を取り、一人ずつ教える順序を書き始めた。
ミナには、自分の名前の最初の文字。
ノルには、炭へ入れる力を弱くすること。
ユーリには、すでに知っている文字を確認すること。
カイには、本の次に、戸と水。
リルには、狐。
炭を動かしている途中で、一階から大きな音が響いた。
木材が床へ落ち、そのあとに、いくつもの硬いものがぶつかる。
リゼは炭を置いた。
すぐに立ち上がり、扉を開ける。
階段の下からマルタの声が聞こえた。
「カイル、動くんじゃないよ!」
返事はなかった。
リゼは手摺へ左手を添え、階段を下りた。
一階へ着く前に、食堂の奥が見えた。
厨房脇の物置の戸が開き、その前へ薪が崩れ出している。乾いた枝や割った木材が通路へ広がり、一部は傾いた棚へ引っ掛かっていた。
カイルは床へ片膝をつき、両腕で棚を押さえている。
背後には、横倒しになった木箱があった。
棚の上段には、まだ薪の束や小箱が残っている。手を離せば、棚ごとカイルの側へ倒れる位置だった。
マルタは反対側から近づこうとしていたが、床へ散らばった薪が邪魔になっている。
「何がありましたか」
リゼが尋ねると、カイルが顔を上げた。
「箱を出そうとしたら、棚の脚が外れた」
「手を離せますか」
「離したら倒れる」
棚の片側は床の溝から外れ、脚がわずかに浮いていた。カイルが押さえているため、かろうじて壁へ寄り掛かっている。
「誰か呼んで」
カイルが言った。
「アルドなら戻せると思う」
アルドは仕事へ出ている。
ガルドも、裏手の排水溝を見に行っていた。
呼びに行けば、そのあいだカイルが棚を支え続けることになる。腕はすでに震え始めていた。
「マルタは離れてください」
「一人でどうするつもりだい」
「棚を支えます」
リゼは散らばった薪を見た。
角材の先で踏めば、滑る可能性がある。
左足を棚に近い床板へ置き、角材の右脚を、木片のない平らな場所へ固定する。
両手を棚の横板へ当てた。
「カイル、私が支えます。手を離してください」
「大丈夫?」
「はい」
「重いよ」
「確認しました」
棚を押し返す。
木材が軋んだ。
壁へ傾いていた棚がわずかに起き、カイルの肩へ掛かっていた重さが抜ける。
「離してください」
カイルはすぐには手を放さなかった。
「本当に平気?」
「腕が震えています」
「それは俺の腕」
「はい。長くは支えられません」
カイルは棚から手を離し、後ろへ下がった。
その瞬間、上段に載っていた薪の束がずれた。
束をまとめていた紐がほどけ、数本の木材が落ちる。
リゼは左腕を上げた。
薪が前腕と肩へ当たり、床へ転がった。右手は棚から離さず、傾いた木枠を支える。
衝撃で身体が右へ押された。
角材の先が床板を滑る。
右膝が床へつき、白い外殻が硬い音を立てた。
それでも棚は倒れなかった。
「リゼ!」
カイルが近づこうとする。
「反対側を押してください」
カイルは言われたとおり、棚へ手を掛けた。
マルタも薪を足で払い、空いた場所へ入る。
三人で棚を壁際へ押し戻す。
浮いていた脚を床の溝へ入れると、棚はようやく自立した。
リゼは右手を離した。
肩へ当たった薪が足元に残っている。上衣には木屑がついていたが、人工皮膚が裂けた様子はなかった。
「立てる?」
カイルが尋ねる。
「はい」
左足へ体重を移し、床へついていた右膝を上げる。
角材の先を元の位置へ戻し、立ち上がった。
「どこか壊れてない?」
「確認します」
左腕を曲げ、肩を動かす。
動作に異常はない。
右膝の外殻にも、新しい亀裂は見当たらなかった。角材を固定している布も、大きくはずれていない。
「損傷は増えていません」
カイルが長く息を吐いた。
「助かった。俺一人じゃ、どうにもならなかったよ」
「棚を支えました」
「うん。だから助かった」
リゼはカイルの両手を見る。
指は動いているが、手のひらと甲が赤くなっていた。
「負傷していますか」
「少し痛いだけ」
カイルが手を開閉する。
マルタがすぐに近づき、手首と指を順に確かめた。
「腫れてきたら冷やすんだよ。動くからって、今日は無理に使うんじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「分かってないじゃないか」
カイルは困ったように笑った。
「でも、リゼが来てくれてよかった」
食堂の窓際で、器が卓へ置かれる音がした。
ダーレスが座っていた。
食事の時間ではなかった。
いつからそこにいたのかは分からない。薄い茶の入った器へ手を添えたまま、物置の戸口を見ている。
視線は、カイルではなくリゼへ向いていた。
「ずいぶん力があるんだな」
声は低かった。
カイルが振り返る。
「見てたなら手伝ってよ」
ダーレスは答えなかった。
「人一人が押さえきれなかった棚を、一人で止めた」
「両手を使用しました」
「途中から片手だっただろ」
「薪が落下したため、左腕で防ぎました」
「そうか」
ダーレスは器へ視線を落とした。
飲むことはせず、指で縁をなぞる。
「誰かに命じられたのか」
リゼは顔を向けた。
「棚を支えることですか」
「ああ」
「命令は受けていません」
ダーレスの指が止まった。
「自分で動いたのか」
「はい」
「どうしてだ」
「棚が倒れる可能性がありました」
「それを、お前が決めたのか」
「確認しました」
「誰に」
「棚と、カイルの状態を見ました」
食堂が静かになった。
マルタはカイルの手を見ていたが、顔だけをダーレスへ向ける。
「カイルが下敷きになりかけてたんだよ」
「見れば分かる」
「なら、何が問題なんだい」
ダーレスはすぐには答えなかった。
リゼの右手を見る。
棚を押し返した手だった。
そのあと、薪を受けた左腕へ視線を移す。
「命令がなくても、人間より先に必要なことを決める」
「はい」
「その力を使うかどうかも」
「はい」
「誰に向けるかもか」
「棚へ向けました」
「今日はな」
マルタの表情が変わった。
「ダーレス」
「何だ」
「それ以上はやめな」
「聞いただけだ」
「聞き方があるだろう」
「俺には必要なことだ」
カイルが、赤くなった右手を押さえながら言った。
「助けてもらったのは俺だよ」
「お前は黙ってろ」
「でも」
「無事だったから言えるんだ」
ダーレスの声は大きくなかった。
それでも、食堂の空気が張った。
「次に何を必要だと決めるのか、誰にも分からない」
リゼはダーレスを見る。
「状況によって異なります」
「そういうところだ」
「何がですか」
ダーレスは答えず、椅子から立った。
足を引きずることもなく、食堂の出口へ向かう。
リゼの横を通る前に、一度だけ足を止めた。
近づきすぎることはなかった。
「ロアンに聞け」
「何をですか」
「自分で判断して、あれだけの力を使うことまで、あいつが分かってるのか」
「ロアンは、私が決めるように言いました」
ダーレスの目が細くなる。
「だから支えたのか」
リゼは棚を見る。
床の溝へ戻された脚。
落ちた薪。
カイルの赤くなった手。
「違います」
「何が違う」
「棚が倒れるためです」
ダーレスは何も言わなかった。
「ロアンが何も言っていなくても、棚は倒れます」
マルタが短く息を吐く。
カイルは自分の手へ視線を落とした。
ダーレスだけが、しばらくリゼを見ていた。
「そうかよ」
やがて、それだけ言った。
食堂を出ていく。
廊下を進み、階段を上がる足音が聞こえた。右足も左足も、同じように床を踏んでいる。
二階へ上がったあと、廊下を階段方向から進み、五部屋先で扉が閉まった。
食堂に静けさが戻る。
マルタが長く息を吐いた。
「悪かったね」
「なぜマルタが謝りますか」
「止めるのが遅かった」
「ダーレスは、私が行動した理由を確認しました」
「確認したいだけなら、あんな言い方はしないよ」
リゼは、ダーレスが出ていった廊下を見る。
「何を恐れていましたか」
マルタはすぐには答えなかった。
「それは、あたしから話すことじゃないね」
「知っていますか」
「少しだけね」
それ以上、マルタは言わなかった。
カイルが床へ散らばった薪を拾おうとする。
「手を使用してよいですか」
リゼが尋ねると、カイルは動きを止めた。
「拾うくらいなら平気だよ」
「マルタは、無理に使わないよう言いました」
「リゼまで同じこと言うの?」
「腫れる可能性があります」
「じゃあ、少しだけ」
「全部置いておきな」
マルタが言った。
「あとでアルドが戻ったら、棚ごと見てもらうよ。今度こそ倒れないよう、壁へ留めてもらわないとね」
リゼは床の薪を見る。
通路を塞いでいる。
「端へ寄せます」
「脚は大丈夫なのかい」
「はい」
「腕は?」
「動作に問題はありません」
マルタは少し迷ったあと、頷いた。
「無理だと思ったら、すぐやめるんだよ」
「はい」
リゼは一本ずつ薪を拾い、壁際へ重ねた。
先ほど棚を支えたときのような力は必要ない。左手と右手へ一本ずつ持ち、角材の先が木片へ触れないよう進む。
カイルは椅子へ座らされ、右手を布で冷やしていた。
「本当にありがとう」
「手の痛みは増えていますか」
「増えてない」
「明日も痛む場合は、治療所へ行ってください」
「分かった」
「本当ですか」
「行くよ」
カイルは苦笑した。
「ロアンに似てきたね」
「どこがですか」
「治らなくても知らないって言いそうなところ」
「私は、まだ言っていません」
「まだ?」
「必要であれば言います」
カイルが笑った。
マルタも口元を緩めたが、すぐに階段のほうへ目を向ける。
二階から音は聞こえなかった。
薪を端へ寄せ終えると、リゼは二〇三号室へ戻った。
机の上には、途中まで書いた木板が残っている。
五人の名前。
本。
戸。
水。
狐。
服。
食事。
リゼは椅子へ座り、炭を取った。
子どもたちへ教える文字の下に、今日の出来事を順に書く。
棚。
倒れる。
支える。
薪。
右膝。
その次で手が止まった。
命令。
判断。
必要。
いずれも、子どもたちへ教える予定のない文字だった。
ロアンからは、できるかどうかだけで決めるなと言われた。
嫌なら行う必要はないとも言われた。
棚を支えることが嫌だったかは、考えていなかった。
カイルが下敷きになる前に、動く必要があった。
命じられなかった。
それでも、自分で決めた。
リゼは木板の端へ、日付を書いた。
その下に、
ロアンへ報告する。
と記した。
窓の外では、午後の通りを荷車が進んでいる。
ラグ採石場へ向かったロアンは、すでに到着しているころだった。
戻るのは明日の夕方か、それよりあとになる。
リゼは炭を置いた。
右膝へ手を添え、角材の固定が緩んでいないことを確かめる。
それからしばらく、五部屋先の扉がある方角へ耳を向けていた。
ダーレスの部屋からは、最後まで何の音も聞こえなかった。




