4-13. やりたいこと
継暦六百二十七年 八月十日夜から十一日朝
夕食を終えて二〇三号室へ戻ると、リゼは棚から小さな木板を取り出した。
昨日、孤児院から戻ったあとに使っていたものだった。表面には、五人の名前が並んでいる。
ミナ。
ノル。
ユーリ。
カイ。
リル。
その下には、本、戸、水、狐と書かれていた。
リゼは机の前へ腰を下ろし、布の上に並べた炭から一本を取った。
ロアンは棒剣を壁へ立て掛け、胸当ての留め具を外す。
机の端には、今朝ギルドから持ち帰った依頼札の写しが置かれていた。
エルデンから北東へ半日ほど進んだところにある、ラグ採石場までの護衛だった。
荷車は二台。
行きは補修用の石材と採石道具を運び、翌日、切り出した石を積んで戻る。街道から大きく外れるわけではなく、近ごろ周辺で野盗や機械生命が出たという報告もなかった。
依頼には二日と書かれている。
危険は低い。
それでもロアンは、札を受け取ってから一日、返事を保留していた。
「何を書いてる」
尋ねると、リゼは板へ顔を向けたまま答えた。
「文字を教える順序を確認しています」
「順序があるのか」
「一度に多く教えると、覚えられない可能性があります」
炭が板を滑る。
リゼは五人の名前の横へ、小さな印をつけていった。
「ミナは、自分の名前の最初の文字を識別できます。ノルは、炭へ力を入れすぎます。ユーリは一部の文字を知っていますが、人に見せたがりません」
「カイは」
「自分の名前を書けます」
「リルは」
「狐を描きます」
ロアンは、板の端にある丸い形を見た。
耳らしい三角が二つあり、脚は一本しかない。
「これか」
「はい」
「狐には見えない」
「私も、形が異なると伝えました」
「泣かなかったか」
「狐であると主張しました」
「なら、狐でいいだろ」
リゼは少し考え、絵の隣へ書かれた文字を見た。
狐。
「この文字を教えます」
「次はいつだ」
「メリダへ勤務日を確認しました。三日後の午後に行きます」
ロアンは依頼札へ視線を落とした。
予定どおりなら、その日にはエルデンへ戻っている。
「ティナは」
「仕事から戻っていない可能性があります」
「一人で行くのか」
「はい」
「帰りは」
「日没前に戻ります」
「暗くなるまで掛かるなら、行くな」
「分かりました」
リゼは板へ次の文字を書いた。
服。
その下に、食事。
子どもたちが日常で使うものから選んでいるらしい。
ロアンは寝台の端へ腰を下ろし、机の上の依頼札を取った。
明日の朝に出れば、翌日の夕方には戻る。
帰りの荷は重くなる。車輪や車軸に故障があれば、もう一日掛かる可能性もあった。
以前なら、確かめるのは仕事のことだけだった。
道。
荷。
同行する人間。
水と食料。
戻る部屋に誰がいるかなど、考える必要はなかった。帰還予定を伝える相手も、遅れたときに何日待てと残す相手もいなかった。
「リゼ」
「はい」
「明日、店は」
「午前のみです」
「午後は」
「宿舎へ戻り、文字を教える準備をします」
「孤児院へは行かないのか」
「三日後です」
「ああ」
リゼは顔を上げた。
「ロアンは、明日仕事ですか」
「この依頼を受ける」
札を机の中央へ置く。
リゼは板から手を離し、そこに書かれた文字を追った。
「二日ですか」
「ああ。明日の朝に出て、明後日の夕方に戻る」
「宿泊しますか」
「採石場の小屋を使う」
「護衛は何人ですか」
「俺を含めて三人だ」
「以前、同行した人間ですか」
「一人は知ってる。もう一人は初めてだ」
「危険はありますか」
「ないとは言わない」
ロアンは札をリゼのほうへ向けた。
リゼは机へ両手を置き、記載された内容を読む。
「街道上の危険報告はなし。荷車二台。依頼主側の人員は四人。護衛三人」
「ああ」
「石材を運ぶ仕事ですか」
「行きは道具と補修用の石だ。帰りに切り出した石を積む」
「帰りの荷車は重くなります」
「そうだな」
「予定より遅れる可能性があります」
「ああ」
「明後日の夕方までに戻らない場合は、どうしますか」
「その日のうちに戻れないこともある」
「三日になる可能性がありますか」
「荷車が壊れればな」
リゼは札から顔を上げた。
「連絡はありますか」
「近くの宿駅へ人を出せれば、ギルドへ伝わる」
「出せない場合は」
「戻るまで分からん。三日目の夜までは待て」
「四日目になった場合は」
「ガルドへ言って、ギルドへ行け。エダがいれば、依頼先を確認してもらえ」
リゼは頷いた。
「採石場の名称は」
「ラグ採石場だ」
「場所は」
「お前が行く必要はない」
「所在を確認するためです」
ロアンは壁へ掛けていた近郊路の図を取り、机へ広げた。
エルデンの北門から延びる街道を指でたどり、途中で東へ分かれる細い道を示す。
「ここだ」
リゼは地図へ顔を近づけた。
「エルデンからの距離は」
「荷車を護衛しながら歩いて、半日だ」
「はい」
「探しに来るなよ」
リゼの視線が、地図の上で止まった。
「帰還しない場合でもですか」
「ギルドへ言え」
「私が行く必要はありませんか」
「ない」
「ギルドが人を向かわせますか」
「必要ならな」
「分かりました」
返事をしたあとも、リゼはしばらく採石場の位置を見ていた。
ロアンは地図を畳んだ。
「明日は、店へいつもどおり行け」
「はい」
「終わったら宿舎へ戻れ。孤児院へは行くな」
「行きません」
「マルタに午後の手伝いを頼まれても、夜まで掛かるなら断れ」
「なぜですか」
「脚へ負担が掛かる」
「作業内容によります」
「そうだ。だから、先に内容を聞け」
リゼは少し考えた。
「カイルに、荷を運ぶよう頼まれた場合は」
「重いなら断れ」
「持てる重さであれば」
「やってもいい」
「高い場所へ置く場合は」
「上るな」
「マルタに、外へ買い物へ行くよう頼まれた場合は」
「行き先をガルドへ言え。知らない場所なら断れ」
「ダーレスに頼まれた場合は」
ロアンは一度言葉を止めた。
「内容を聞け」
「ほかの人間と同じですか」
「無理に聞く必要はない」
「なぜですか」
「お前を嫌ってる」
「知っています」
「なら分かるだろ」
「頼まれた内容が必要であれば、行います」
「必要でも、やらなくていいことはある」
「どのようなものですか」
「自分でできることを、面倒だからお前へ押しつけるようなものだ」
「私には可能です」
「できるかどうかだけで決めるな」
リゼは黙った。
机の上には、本、戸、水、服、食事と並んでいる。
どれも、子どもたちが日々使うものとして、リゼが選んだ文字だった。
「マルタに頼まれても、脚に負担が掛かるなら断れ」
「はい」
「カイルに頼まれても、自分でできることなら自分でやらせろ」
「はい」
「知らないやつに、来いと言われてもついていくな」
「はい」
「嫌なら、やる必要はない」
リゼの目が、わずかに動いた。
「嫌であることは、必要かどうかに影響しますか」
「する」
「誰にとってですか」
「お前にとってだ」
リゼはすぐには返事をしなかった。
「私が断ることで、ロアンと宿舎の人間との関係が悪化する可能性があります」
「もともと、それほど関わってない」
「私が原因で、さらに悪くなる可能性があります」
「なら、俺が断らせたことにしろ」
「事実と異なります」
「お前が断るなら、俺も断る」
「内容を確認していません」
「無理なことを頼まれた場合の話だ」
「無理でなければ、行います」
「好きにしろ。ただ、頼まれたからって、全部やるな」
「二つは同時に成立しますか」
ロアンは眉を寄せた。
「できるからやるのか、自分がやりたいからやるのか、少しは考えろ」
言ってから、余計なことを口にしたと思った。
リゼは黙ったまま、ロアンの顔を見ている。
「やりたい、とは」
「今のは忘れろ」
「なぜですか」
「うまく説明できん」
「では、判断できません」
「そのときに考えろ」
「そのときとは」
「何か頼まれたときだ」
「はい」
返事はしたが、理解したかは分からなかった。
ロアンにも、何を基準にすればよいのか説明できなかった。
必要かどうかだけなら、これまでと同じだった。
できるかどうかだけでも足りない。
自分自身、何をしたいかで仕事を選んできたわけではない。
報酬。
危険。
期間。
身体が動くかどうか。
ほとんどは、それで決めてきた。
リゼにだけ、別の基準を持てと言っている。
「分かりました」
やがてリゼが答えた。
「本当か」
「頼まれた内容を確認します。可能であるか、必要であるかを判断します」
「それだけじゃない」
「嫌であるかも確認します」
「……ああ」
「嫌でなければ、行います」
「好きにしろ」
ロアンは寝台へ背を預けた。
リゼは木板へ視線を戻す。
炭を手に取ったが、新しい文字は書かなかった。空いている場所へ先端を触れさせ、小さな黒い点だけを残す。
それから五人の名前の下へ戻り、ノルの横につけた印を書き直した。
翌朝、空は薄く曇っていた。
灰が降るほどではなかったが、東の空には白い霞が掛かっている。水路沿いの通りには朝の荷車が行き交い、北門へ向かう者たちの声が聞こえていた。
ロアンは胸当てを着け、旅袋の口を締めた。
二日分より少し多い水と保存食。
予備の布。
棒剣の手入れ道具。
着替えは一組だけだった。
以前なら、持ち物を確かめれば、そのまま部屋を出ていた。
いまは、机の前にリゼが立ち、旅袋の中身を順に見ている。
「水筒は二つあります」
「ああ」
「保存食は、二日分より多いです」
「遅れたときの分だ」
「予備の布があります」
「ああ」
「薬は」
「いらん」
「喉の痛みは残っています」
「仕事に支障はない」
「薬を持っていくことに、支障はありますか」
ロアンは旅袋を見た。
小さな薬包一つで、重さが変わるわけではない。
「マルタに聞いてこい」
リゼはすぐに部屋を出た。
左足と角材の音が階段を下り、しばらくして戻ってくる。手には、紙に包まれた薬を一つ持っていた。
「一包です。発熱した場合に服用します。次の服用まで、半日空けます」
「分かった」
「二包を同時に飲んではいけません」
「一包しかないだろ」
「追加で購入しないでください」
「しない」
リゼは薬包を旅袋の内側へ収めた。
紐を結び直し、口が開かないことを確かめる。
「帰還予定は、明日の夕方です」
「ああ」
「遅れる場合があります」
「ああ」
「三日目の夜を過ぎた場合、ガルドへ伝え、ギルドで確認します」
「ああ」
「自分で採石場へは行きません」
「そうしろ」
「孤児院へも行きません」
「ああ」
「午前はメリダの店で働きます。午後は宿舎へ戻り、文字を教える準備をします」
「次の日は」
「午前は店へ行きます」
「夕食は」
「食堂にいます」
ロアンはリゼを見た。
「俺はいないぞ」
「分かっています」
「食わないだろ」
「はい」
「なら、部屋にいても同じじゃないのか」
「食堂にいます」
リゼは当然のことのように答えた。
マルタが料理を運ぶ。
ガルドが管理室から出てくる。
カイルやアルドが卓へ座る。
ロアンがいなくても、その時間の食堂はなくならない。
「……そうか」
ロアンは旅袋を肩へ掛けた。
リゼの目がわずかに動いた。
「はい」
棒剣を腰へ差し、扉を開ける。
廊下へ出ると、左足と角材の音が続いた。
「見送りはいらん」
「一階まで行きます」
「店へ行く準備は」
「終わっています」
階段を下りる。
ロアンの足音のあとを、左足と角材の二つの音が追った。
一階では、マルタが朝食の片づけを始めていた。ガルドは管理室の前で帳面を開き、宿舎を出るロアンへ顔を上げる。
「二日か」
「ああ」
「こっちは見ておくよ」
ガルドの視線がリゼへ向いた。
「頼む」
ロアンが答えると、リゼが口を開いた。
「私も、宿舎の状況を確認します」
「そういう意味じゃないよ」
マルタが器を重ねながら言った。
「帰ってくるまで、あんたが無茶しないよう見ておくってことさ」
「私は無茶をしません」
「そう思ってるのは、あんただけかもしれないね」
「どの行動を指していますか」
「いまはいいから、ロアンを送りな」
宿舎の入口まで行く。
外には朝の冷たい空気が残り、通りの石には薄く湿り気があった。北門へ向かう荷車の音が、遠くから近づいている。
ロアンは敷居を越えた。
以前なら、部屋を出るときに振り返ることはなかった。
戸が閉まれば、それで終わりだった。
いまは、まだ内側にリゼが立っている。
肩掛けを着け、腰には赤い花の刺繍がある巾着を下げていた。これからメリダの店へ向かう姿だった。
「明日の夕方には戻る」
「はい」
「遅れれば、もう一日掛かる」
「三日目の夜を過ぎた場合は、ガルドへ伝えてギルドへ行きます」
「ああ」
「自分で採石場へは行きません」
「そうしろ」
すでに何度も確認したことだった。
それでも、何か言い残しているような気がした。
「戸締まりを忘れるな」
「ガルドが行います」
「部屋の話だ」
「忘れません」
「何かあれば」
「マルタかガルドへ伝えます」
ロアンはそれ以上の言葉を探したが、見つからなかった。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
通りへ出る。
数歩進んでから振り返ると、リゼはまだ入口に立っていた。
目が合い、小さく片手を上げる。別れの挨拶として覚えた動きだった。
ロアンも片手を上げ、それから北門へ続く道へ向き直った。
背後で扉が閉まった。




