4-12. 頼まれること
継暦六百二十七年 八月十日
午前の仕事を終える少し前、ティナがメリダの店へ来た。
腰には短剣を下げ、背には小さな旅袋を負っている。前回のように、孤児院へ運ぶ荷は持っていなかった。
リゼは客へ見せた布を畳み、棚へ戻すところだった。
「今日、本の続きを読む予定だったでしょ」
「はい」
「リルの熱は下がったよ。昨日から起きてるって」
リゼの手が止まった。
「食事は取れていますか」
「朝も食べたみたい。まだ外では遊ばせてないけど、本を聞くくらいなら大丈夫だって」
「分かりました」
「ただ、ごめん。私、午後から仕事が入ったの」
ティナは背負った旅袋の帯へ手を掛けた。
「ナディルまで、荷車の護衛に行くことになって」
「では、絵本は別の日に読みますか」
「しばらく帰れないかもしれないの。リゼ、一人で行ける?」
孤児院までの道は記憶していた。
メリダの店から南へ進み、大通りを外れる。二階部分の張り出した家が続く道を通り、壁際へ薪が積まれた角を曲がる。
現在の右脚でも、往復できる距離だった。
「行けます」
「帰りが遅くならないようにね。脚がきつくなったら、途中で休むんだよ」
「はい」
「エルナには昨日話してあるから。リゼが来たら入れてあげてって」
ティナはそこで笑った。
「そんなこと言わなくても、あの子たちが門まで迎えに来ると思うけど」
「絵本を読むためですか」
「それもあるし、リゼが来るからでしょ」
「違いがありますか」
「あるよ」
ティナはそれ以上説明せず、奥にいるメリダへ声を掛けた。
「それじゃ、行ってくるね」
「いってらっしゃい」
「リゼもね」
ティナは片手を上げ、店を出ていった。
外套の補修を受け取りに来た客へ品を渡し、午前の仕事が終わる。
リゼは店内を掃き、棚の布の端を揃えたあと、肩掛けを羽織った。
メリダが右脚の固定布を確かめる。
「緩んではいないね」
「はい」
「本を読み終わったからって、暗くなるまで話し込むんじゃないよ」
「日没前に戻ります」
「帰るころには、いまより脚が疲れてることも考えるんだよ」
リゼは右脚を見る。
角材は、朝と同じ位置に固定されている。
「途中で異常があれば休みます」
「そうおし」
店を出た。
一人でこの道を歩くのは、以前、孤児院の前を通ったとき以来だった。
そのときは、中へ入る予定はなかった。庭にいた三人と柵越しに話し、建物の前を通り過ぎただけだった。
今日は、五人の子どもと絵本が待っている。
左足が石畳を踏み、そのあとを角材の右脚が追う。
大通りを外れ、狭い道へ入る。窓から張り渡された洗濯物の下を通り、壁際へ積まれた薪を避けて進む。
低い木の柵が見えた。
庭にはノルとミナがいた。
地面へ何本もの線を引き、その間を石で埋めている。先に顔を上げたミナが、手にしていた石を落とした。
「来た」
ノルも振り返る。
「ティナは?」
「仕事へ行きました」
「ロアンは?」
「宿舎にいます」
「リゼだけ?」
「はい」
ミナは門まで走り、取っ手を開けた。
「一人で来たの?」
「はい」
「道、分かった?」
「記憶しています」
「迷わなかった?」
「迷っていません」
ノルは門から顔を出し、リゼの後ろを確認した。
「本は?」
「孤児院にあります」
「そうだった」
以前も同じ質問をしたことは、覚えていないらしい。
ミナがリゼの肩掛けへ触れ、建物のほうへ引こうとする。
「早く来て。リルも起きてるよ」
「歩行速度は上げられません」
「分かってる。今日は私がゆっくり歩く」
ミナはリゼの左側へ移り、歩幅を合わせた。
ノルは先に建物へ向かって走る。
「リゼ来た! ティナと怖い人はいない!」
「ロアンは怖い人ではありません」
声を掛けたが、ノルはすでに入口まで着いていた。
扉は、持ち上げなくても開いた。
内側からカイが押し開ける。最初にリゼを見て、そのあと門のほうへ視線を向けた。
「一人?」
「はい」
カイは扉を大きく開き、リゼの角材が敷居へ当たらないよう横へ退いた。
「蝶番は緩んでいませんか」
「うん。毎日見てる」
「触ってはいませんか」
「見てるだけ」
以前、ロアンから言われたことを守っているらしい。
広間では、ユーリが椅子を並べていた。
低い椅子にはリルが座っている。背中には畳んだ毛布が入れられていた。
まだ庭を走れるほどではないようだったが、前回より顔色はよい。
膝の上には絵本が置かれている。
リゼを見ると、表紙を両手で持ち上げた。
「来た」
「はい」
「もう熱ないよ」
「確認しますか」
「うん」
リゼはリルの前まで行き、右手を額へ当てた。
人工皮膚を通じて伝わる温度は、前回より低い。
「平常時に近いです」
「もう本読める?」
「読めます」
リルはすぐに絵本を差し出した。
表紙の端には、以前より小さな折れが増えている。子どもたちが何度か開いたのかもしれない。
通路の奥から、エルナが出てきた。
手には繕いかけの上衣と糸を持っている。
「来てくれたのね」
「はい。ティナから依頼されました」
「一人で大丈夫だった?」
「問題ありません」
「ありがとう。リルも朝から待っていたの」
「朝だけじゃないよ」
ミナが言った。
「昨日も、リゼはいつ来るのって聞いてた」
リルは毛布へ背を預けたまま、絵本を指す。
「二十頁から」
「はい」
リゼは本を開いた。
頁の下に書かれた数字を確かめ、前回止めた場所まで進める。
そのあいだに、子どもたちが周囲へ集まった。
ミナはリゼの隣へ座る。ノルは正面へ椅子を動かし、ユーリはリルの横で、背中に入れた毛布を直した。
カイは少し離れたところから、リゼが頁をめくる手元を見ている。
「二十頁です」
ノルが本の下を覗き込んだ。
「どれが二十?」
リゼは頁の端にある数字を指す。
「これです」
「二つある」
「二と、零です」
「二は分かる」
「こちらが零です」
ノルは数字を見たあと、カイへ顔を向けた。
「知ってた?」
「前に教えてもらった」
「誰に?」
「エルナ」
ミナも横から頁を覗いた。
「私は分かんない」
「ミナは三まで分かるだろ」
ユーリが言う。
「三は分かる。二十は分からない」
「二と零だって」
「並べたら違う数になるの?」
「はい」
「どうして?」
「位が異なるためです」
「くらい?」
「先に本を読んでもらおう」
ユーリが言った。
「数字の話をしていたら終わらない」
「ユーリは二十、分かるの?」
ノルが尋ねる。
ユーリは答えず、頁へ視線を落とした。
リゼはその様子を見たあと、本文へ目を移す。
前回は、姫が道の途中で困っている旅人を手伝い、溝へ落ちた荷車の車輪を押し上げたところまで読んだ。
次の頁では、旅人が姫へ乾いたパンと水を渡していた。
姫が探している従者の話を聞くと、旅人は山道の先で、白い花を持った若い男を見たと教えた。
「やっぱり、助けたから教えてくれた」
ノルが言った。
「助けなくても教えてくれたかもしれない」
ユーリが返す。
「でも、助けなかったら話さないよ」
「困ってる人を無視したって、分からないだろ」
二人の声が重なる。
リゼは読むのを止めた。
「どちらであるか、本には書かれていません」
「でも、姫は従者の場所が分かったんでしょ」
ミナが尋ねる。
「正確な場所ではありません。山道の先で見たという情報を得ました」
「手伝ってよかった?」
「結果としては、従者の発見へ近づきました」
「結果じゃなかったら?」
ミナが続けて尋ねる。
リゼは答えなかった。
以前、二〇三号室で同じ頁を読んだとき、ロアンにも似たことを尋ねた。
旅人を助けた結果、従者の情報を得た。
何も得られなければ、荷車を手伝った時間は無駄だったのか。
ロアンは、助けるときには結果を知らないと言った。
「姫は、情報を得るために荷車を手伝ったのではありません」
リゼは言った。
「じゃあ、どうして?」
「旅人が困っていたためです」
「それでいいんじゃない?」
ミナは簡単に答えた。
リゼは返事をせず、続きを読む。
姫と狐は、旅人から教えられた山道へ向かった。
道は狭く、ところどころ岩が崩れている。姫は何度も足を止め、狐は先へ進んでは戻ってきた。
「狐、待ってる」
リルが言った。
「はい」
「姫、遅いから?」
「歩行速度に差があります」
「置いていかないね」
「はい」
ノルが狐の絵を指す。
「いい狐だから」
「以前も同じことを言いました」
「いい狐は、何回見てもいい狐だよ」
リゼには、その判断の仕方が分からなかった。
それでも否定せず、次の頁へ進めた。
山の中腹で、姫は従者を見つける。
従者は岩壁のそばへ横たわり、片脚を布で固定していた。隣には折れた花籠と、枯れかけた白い花が落ちている。
「いた!」
ノルが声を上げた。
ミナも椅子から身を乗り出す。
「生きてる?」
「はい」
「脚、どうしたの?」
「岩場から落ち、負傷したと書かれています」
「歩けないの?」
「困難だと思われます」
リルは、絵の中の従者を見つめた。
「痛い?」
「負傷しているため、痛みがある可能性があります」
「姫、手を握ってる」
ミナが言った。
絵の中では、姫が従者のそばへ膝をつき、その手を両手で包んでいた。
「どうして?」
リルが尋ねる。
リゼは本文を確認した。
「理由は書かれていません」
「痛いからだよ」
ミナが答える。
「手を握ると、痛くなくなるの?」
ノルが尋ねた。
「なくならないと思う」
ユーリが言う。
「じゃあ、何で?」
誰も答えなかった。
リゼは自分の左手へ一度だけ視線を落とした。
ロアンの手は、リルの手より大きかった。
昨日の朝、指を触れさせたときには、リゼの掌よりも熱かった。今朝は、その熱が少し下がっていた。
手を握ったことで、熱が下がったわけではない。
痛みが消えたわけでもない。
それでも、ロアンは手を引かなかった。
リゼは頁をめくった。
姫は従者を連れて山を下りようとした。
しかし、従者は立ち上がれない。
姫は木の枝と毛布を使い、簡単な担架を作る。狐も枝を咥え、姫のそばへ運んでいた。
「狐も作ってる」
リルが嬉しそうに言った。
「狐が運んだ枝は一本です」
「手伝ってるよ」
「はい」
今回は訂正しなかった。
カイが担架の絵へ顔を近づける。
「この結び方、外れない?」
「外れる可能性があります」
「やっぱり」
「人間を運ぶ場合は、結び目を増やす必要があります。身体を固定する布も必要です」
ノルが絵とリゼを見比べる。
「リゼなら作れる?」
「必要な材料と時間があれば可能です」
「人も運べる?」
「重量によります」
「ロアンは?」
「一人では困難です」
「ティナは?」
「担架を引く人間が、ほかに必要です」
「俺なら?」
「ノルは小さいため、持ち上げられます」
ユーリがノルの肩を押し、絵本から離した。
「話が進まないだろ」
リゼは続きを読む。
姫と狐は、従者を担架へ乗せて山を下り始めた。
途中で雨が降る。
姫は城から持ってきた最後の衣服を、従者へ掛けた。自分は濡れたまま担架を引いている。
「姫も風邪ひく」
ミナが言った。
「はい」
「一緒に使えばいいのに」
「布の大きさから、二人を覆える可能性があります」
「じゃあ、姫はまた間違えたの?」
「判断には問題があります」
ノルが笑った。
「やっぱり馬鹿なお姫様」
「でも、従者が寒かったんでしょ」
リルが言う。
「姫も寒いよ」
「従者は動けないから、もっと寒い」
ユーリが絵を見ながら言った。
「姫は歩いてる」
「では、姫は従者を優先したのですか」
リゼが尋ねる。
「たぶん」
「自分が動けなくなる可能性があります」
「でも、ならなかった」
「結果としては、動けました」
「また結果って言った」
ミナが笑った。
リゼは言葉を止めた。
姫は正しい判断だけをしているわけではない。
必要以上の荷を持ち、橋のない場所で川へ入り、狐に助けられた。従者を運ぶ担架も、十分な作りではなかった。
帰り道でも、自分の衣服をすべて従者へ渡している。
それでも、城に残っていれば、従者を見つけることはできなかった。
最後の頁を開く。
小さな焚き火が描かれていた。
姫と従者は、城へ戻る道の途中で火を囲んでいる。狐は姫の足元に丸くなり、従者の脚には新しい布が巻かれていた。
空の端は薄く明るくなっている。
「城に帰ったの?」
ミナが尋ねる。
「まだです」
「これで終わり?」
「はい」
「帰るところまでないの?」
「書かれていません」
「じゃあ、帰れないかもしれない?」
ノルが言う。
「朝になれば、再び移動すると書かれています」
「なら帰るよ」
「途中で別の問題が発生する可能性があります」
「しないよ」
「なぜですか」
「終わりだから」
ノルは当然のように答えた。
リゼは最後の文章を読んだ。
焚き火の向こうで、従者は姫へ、なぜここまで来たのかと尋ねた。
姫はしばらく考えたあと、分からないと答えた。
「分からないの?」
ミナが聞いた。
「はい」
「従者が大切だったからでしょ」
「最初には、そのように書かれていました」
「じゃあ、それでいいじゃない」
「姫は、なぜ大切であるかを説明していません」
「説明しないと駄目?」
リゼは答えなかった。
ノルは、焚き火のそばに座る姫を見たまま言う。
「見つけたかったから行ったんだよ」
「なぜ見つけたかったのですか」
「いなくなったから」
「別の従者がいました」
「その人じゃない」
「同じ仕事ができます」
「でも、違う人でしょ」
以前、ロアンが答えたものと同じだった。
同じ仕事ができても、同じ相手ではない。
ミナが姫を指した。
「お姫様も、分からないけど来たんでしょ」
「はい」
「じゃあ、分からなくてもよかったんだよ」
「危険でした」
「次は、ちゃんと兵隊を連れていけばいい」
「本には、次について書かれていません」
「でも、今度は分かるでしょ」
リゼは最後の頁を見た。
なぜ来たのかを説明できなくても、姫は城を出た。
間違えながら進み、他人に助けられ、従者を見つけた。
「読み終わりました」
本を閉じる。
ノルがすぐに言った。
「もう一回読んで」
「最初からですか」
「今度は狐だけ見る」
「話を聞かないの?」
ミナが尋ねる。
「聞くよ。狐が出るところは」
「今日はここまでにしましょう」
エルナが広間へ入ってきた。
先ほどまで通路の奥で上衣を繕っていたが、いつから聞いていたのかは分からない。
「リルも、長く座りすぎないほうがいいからね」
「もう元気」
「元気になったばかりでしょう」
エルナはリルの背へ入れた毛布を直し、それからリゼへ顔を向けた。
「ありがとう。ずいぶん時間が掛かったでしょう」
「質問へ回答したためです」
「読んでもらうと、話が膨らんでいくのよ」
エルナは閉じられた絵本へ目を落とした。
「自分たちで読めれば、もう少し静かになるかもしれないけれど」
「子どもたちは、文字を読めませんか」
広間にいた四人が、それぞれ違う反応をした。
ノルは目を逸らした。
ミナは、読めないとすぐに答える。
ユーリは口を閉じ、カイは頁の数字を見た。
「カイは少し読めます」
エルナが言った。
「自分の名前と、よく使う言葉。それから、小さな数なら。ユーリも、荷札の数字はいくつか分かるね」
「全部じゃない」
ユーリが小さく答える。
「ええ。ミナとノルは、自分の名前の最初の文字を見分けられるくらい。リルには、まだ早いと思っていたのだけれど」
エルナは、繕いかけの上衣を畳んだ。
「教えたいとは思っています。ただ、食事や洗濯、外の仕事を済ませると、毎日決まった時間を取るのが難しくて」
「本はあります」
リゼは棚を見る。
絵本は何冊か並んでいる。どれも新しくはない。表紙が剥がれているものもあった。
「あります。でも、読める人がいなければ、絵を見るだけになってしまうでしょう」
「エルナは読めます」
「ええ。ただ、毎晩全員へ読んであげられるわけではないの」
エルナは少し迷い、リゼを見る。
「リゼは、午前中はメリダさんの店で働いているのよね」
「はい」
「午後にも、ほかにすることがあるでしょう」
「日によって異なります」
「毎回でなくていいの。本を読みに来てくれたときに、文字も少し教えてもらえないかしら」
子どもたちが一斉にリゼを見た。
ノルだけは、あまり嬉しそうではなかった。
「字の勉強もするの?」
「本を自分で読めるようになるよ」
エルナが言う。
「リゼが読めばいい」
「リゼが来られない日もあるでしょう」
「毎日来ればいい」
「仕事があるのよ」
ノルは不満そうに絵本の表紙を押した。
「字、たくさんある」
「はい」
リゼは本を開き、最初の頁を見る。
一頁に書かれている文章は短い。文字も、依頼書や帳簿より大きかった。
「どこまで教えればよいですか」
「まずは、自分の名前を読んで書けるようになれば十分だと思うの。そのあと、簡単な言葉や数字を少しずつ」
「教える方法は決まっていますか」
「決まっていません」
エルナは困ったように笑った。
「私も、きちんと教わったわけではないから。昔、働いていた家で必要な文字を覚えただけなの」
リゼは子どもたちを順に見た。
「名前を書くためのものはありますか」
「板と炭ならあります。紙は、何度も使うにはもったいないから」
棚から、小さな木板が三枚と、短い炭の欠片が出された。
どの板にも、以前書いた線を布で拭った跡が残っている。
リゼは絵本を卓の端へ置いた。
子どもたちは椅子を動かし、長い卓の周りへ集まる。ノルだけが少し離れた場所へ座った。
「最初に、名前を教えてください」
「知ってるでしょ」
ミナが言う。
「音では知っています。文字として書きます」
炭を一本取り、板の上へミナの名前を書いた。
一文字ずつ、間を空ける。
「これが、ミナです」
ミナは板へ顔を近づけた。
「よっつ?」
「はい」
「これが、ミ?」
最初の文字を指す。
「これです。最初のふたつで、ミです」
「見たことある」
「どこでですか」
「服の布に書いてある」
エルナが言う。
「洗濯物を分けるために、名前の最初の文字を書いているの」
ミナは炭を受け取り、隣の空いた場所へ同じ形を書こうとした。
最初の線は長く、次の線は違う方向へ曲がった。
「違う」
「はい」
リゼが答えると、ミナは炭を止めた。
エルナが口を挟む。
「最初から同じに書けなくても大丈夫よ」
「どこが違う?」
ミナはリゼへ尋ねた。
「最初の線が長すぎます。二本目は、こちらへ曲げます」
リゼは自分の書いた文字を指でなぞる。
ミナも同じように指を動かし、もう一度炭を板へ置いた。
今度は、最初より似た形になった。
「合ってる?」
「先ほどより近いです」
「それ、できたって言うんだよ」
ノルが横から言った。
「ノルも書いてください」
「俺は本を見てる」
「ノルの名前は、その本に書いてありますか?」
「わからない」
「では、自分で書けるようにします」
「どうして?」
「自分の物へ名前を書けます」
「エルナが書くよ」
「エルナがいない場合は書けません」
ノルはしばらくリゼを見ていた。
「リゼが書けばいい」
「私もいない場合があります」
それを聞くと、ノルはようやく卓へ近づいた。
リゼは次の板へ名前を書く。
ノルは炭を持ち、最初の文字を真似した。力が強すぎて炭の先が折れ、板の上へ黒い粉が落ちる。
「壊れた」
「残った部分を使用できます」
「短い」
「持てます」
「指が黒くなる」
「洗えば落ちます」
ノルは不満を言いながらも、短くなった炭を拾った。
ユーリは、言われる前から自分の板へ名前を書こうとしていた。
最初の文字は合っていたが、その次が続かない。
「そこまでは知っています」
「荷札にある」
「ユーリの名前と同じ文字ですか」
「たぶん」
リゼはユーリが書いた文字の隣へ、続きを書いた。
カイは自分の名前を一人で書けた。
形は整っていなかったが、三文字とも判別できる。
「読めます」
リゼが言うと、カイは小さく頷いた。
「次は?」
「何を覚えますか」
カイは絵本を見た。
「本」
リゼは新しい場所へ、その文字を書いた。
リルは炭を持たず、ほかの子どもたちの板を見ている。
「リルも書く?」
ミナが尋ねる。
「まだ小さい」
ユーリが言った。
「でも、自分の名前だよ」
「炭を口に入れたらどうする」
「入れないよ」
リルは手を伸ばした。
エルナが一番長い炭を選び、持たせる。
リゼは板へ名前を書いた。
リルは文字より先に、名前の横へ狐のようなものを描いた。
「これは文字ではありません」
「狐」
「はい」
「本の狐」
「形が異なります」
「狐だよ」
リルは譲らなかった。
板の上には、耳らしい三角が二つあった。身体は丸く、脚は一本しかない。
絵本の狐とは似ていない。
それでも、リルが狐として描いたことは分かった。
「狐です」
リゼが言い直すと、リルは満足して炭を置いた。
名前を一つずつ書くだけで、長い時間が掛かった。
ミナは同じ文字を何度も書き、ノルは途中から自分の名前を大きくしすぎて、板へ収まらなくなった。
ユーリは一度覚えた文字を拭かず、隙間へ何度も書き足す。カイは「本」のほかに、「戸」と「水」を尋ねた。
リルは、名前の隣へ狐を増やした。
エルナは広間の入口に立ち、しばらくその様子を見ていた。
「頼んでよかった」
「まだ、名前を書いただけです」
「それでもよ」
「全員が記憶したかは確認できません」
「次にまた書けばいいでしょう」
「次は、いつですか」
エルナは少し驚いたようにリゼを見た。
「来られる日でいいの。仕事や、ほかの用事を優先してね」
「メリダへ勤務日を確認します」
「無理はしないで」
「無理ではありません」
「脚のこともあるでしょう」
「往復は可能です」
エルナは、すぐには答えなかった。
「週に一度でも十分よ。月に一度でも」
「継続する必要があります」
「そうだけれど」
リゼは板へ書かれた五人の名前を見た。
一度布で拭えば、文字は消える。
次に同じ形を書ける者は、まだ少ない。
「来れる日に、教えます」
「お願いします。ありがとう」
帰る時刻が近づくと、子どもたちは板を棚へ戻した。
ミナは、自分の名前が一番うまく書けた部分を消したくないと言い、そのまま残した。カイも、「本」と書いた場所を消さなかった。
ノルは自分の名前より、折れた炭の短さを気にしている。
「力を弱くすれば折れません」
「弱く書いたら見えない」
「見える程度に弱くします」
「どれくらい?」
「次回確認します」
ノルは、その返事を約束として受け取ったらしい。
「絶対来て」
「勤務日を確認します」
「それ、来るってこと?」
ミナが尋ねる。
「可能であれば来ます」
「じゃあ来るよ」
子どもたちは、それで納得した。
リルは絵本を胸へ抱き、入口までついてきた。
「次も読む?」
「同じ本ですか」
「狐のところ」
「ほかの頁は読みませんか」
「読む。でも、狐のところも読む」
「分かりました」
「字も?」
「はい」
「狐って書いて」
「次回、書きます」
リルは頷いた。
エルナが扉を開ける。
「今日は本当にありがとう。ティナにも、お礼を伝えておいてください」
「ティナから依頼されたのは、絵本を読むことです」
「文字のことは、私がお願いしたものね」
「はい」
「そちらは、私から頼んだとロアンさんに伝えてください」
「分かりました」
リゼは敷居を越え、庭へ出た。
ノルとミナは門までついてきた。ユーリは広間の椅子を戻し、カイは入口の扉を静かに閉める。
一人で帰る道は、来たときと同じだった。
左足が石を踏み、そのあとを角材が追う。
通りの角へ出るまでに、今日の内容を順に確認した。
絵本は最後まで読んだ。
姫は従者を見つけた。
なぜ来たのかと尋ねられ、分からないと答えた。
子どもたちは、分からなくてもよいと言った。
そのあと、五人の名前を書いた。
ミナは最初の文字を識別できる。
ノルは炭へ力を入れすぎる。
ユーリは知っている文字を人に見せたがらない。
カイは自分の名前を書ける。
リルは文字の隣へ狐を描いた。
次に行うことも決まっていた。
自分の名前。
本。
戸。
水。
狐。
帰り道の途中で、角材の先が石の継ぎ目へ触れた。身体がわずかに傾き、左足を一歩出して支える。
転倒はしなかった。
再び歩き出す。
ロアンもティナもいない場所で頼まれ、自分で答えた。
絵本を読むことは、ティナから頼まれた。
文字を教えることは、エルナから頼まれた。
次に行く日を決めるのは、まだ誰からも命じられていなかった。
宿舎へ戻ったころには、夕方の食堂が開く前だった。
ロアンは二〇三号室の机で、ギルドから持ち帰った依頼札を見ていた。
リゼが扉を開けると、紙から顔を上げる。
「帰ったか」
「はい」
「脚は」
「異常ありません」
「本は読んだのか」
「最後まで読みました」
肩掛けを外し、棚へ畳む。
ロアンは依頼札を机へ置いた。
「どんな話だったか」
「姫が、負傷した従者を見つけました」
「そうだった」
「城へ戻る途中で終わりました」
「帰ったんだろう」
リゼは椅子へ腰を下ろした。
「エルナから、新しい依頼を受けました」
ロアンの視線が戻る。
「何をだ」
「孤児院へ行ったときに、子どもたちへ文字を教えます」
「お前が?」
「はい」
「教えられるのか」
「今日は、五人の名前を書きました」
「読めたか」
「カイは、自分の名前を書けます。ほかの子どもたちも、一部を識別しました」
「毎日行くつもりじゃないだろうな」
「エルナは、週に一度でもよいと言いました。月に一度でもと」
ロアンは、机の依頼札へ一度目を落とした。
二枚のうち、一枚を裏返す。
「いつ行く」
「メリダへ勤務日を確認してから決めます」
「決まったら言え」
「許可が必要ですか」
「そうじゃない」
ロアンは裏返した札を机の端へ寄せた。
翌日の夕方まで、都市の外へ出る仕事だった。
「帰りが遅くなるなら、こっちにも都合がある」
「ロアンの仕事ですか」
「ああ」
「私が孤児院へ行く日によって、仕事を変更しますか」
「まだ受けてない」
「変更する可能性がありますか」
「お前の脚で、暗くなってから戻られても困る」
「日没前に戻ります」
「そうしろ」
リゼは机の端へ置かれた依頼札を見た。
「分かりました。行く日が決まったら伝えます」
「ああ」
ロアンはもう一枚の札を手に取った。
リゼは棚から小さな木板を出し、炭を置く場所を空ける。
孤児院で書いた五人の名前を、もう一度記録するためだった。
「リゼ」
「はい」
「嫌なら、断ってもいいんだぞ」
炭を取ろうとした手が止まった。
「文字を教えることですか」
「ああ」
「なぜ断りますか」
「毎回、頼まれたことを全部やる必要はない」
リゼはしばらく考えた。
エルナから頼まれた。
子どもたちは、次も来るよう言った。
文字を教えるためには、何度も孤児院へ行く必要がある。
「断りません」
「そうか」
「次も行きます」
今度は、可能であればとは言わなかった。
ロアンは何も答えず、依頼札へ目を戻した。
リゼは木板へ最初の名前を書く。
ミナ。
その下へ、ノル。
机の上には、ロアンが裏返した依頼札が残っていた。




