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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
4. ここにいたい
49/65

4-12. 頼まれること

継暦六百二十七年 八月十日


午前の仕事を終える少し前、ティナがメリダの店へ来た。


腰には短剣を下げ、背には小さな旅袋を負っている。前回のように、孤児院へ運ぶ荷は持っていなかった。


リゼは客へ見せた布を畳み、棚へ戻すところだった。


「今日、本の続きを読む予定だったでしょ」


「はい」


「リルの熱は下がったよ。昨日から起きてるって」


リゼの手が止まった。


「食事は取れていますか」


「朝も食べたみたい。まだ外では遊ばせてないけど、本を聞くくらいなら大丈夫だって」


「分かりました」


「ただ、ごめん。私、午後から仕事が入ったの」


ティナは背負った旅袋の帯へ手を掛けた。


「ナディルまで、荷車の護衛に行くことになって」


「では、絵本は別の日に読みますか」


「しばらく帰れないかもしれないの。リゼ、一人で行ける?」


孤児院までの道は記憶していた。


メリダの店から南へ進み、大通りを外れる。二階部分の張り出した家が続く道を通り、壁際へ薪が積まれた角を曲がる。


現在の右脚でも、往復できる距離だった。


「行けます」


「帰りが遅くならないようにね。脚がきつくなったら、途中で休むんだよ」


「はい」


「エルナには昨日話してあるから。リゼが来たら入れてあげてって」


ティナはそこで笑った。


「そんなこと言わなくても、あの子たちが門まで迎えに来ると思うけど」


「絵本を読むためですか」


「それもあるし、リゼが来るからでしょ」


「違いがありますか」


「あるよ」


ティナはそれ以上説明せず、奥にいるメリダへ声を掛けた。


「それじゃ、行ってくるね」


「いってらっしゃい」


「リゼもね」


ティナは片手を上げ、店を出ていった。


外套の補修を受け取りに来た客へ品を渡し、午前の仕事が終わる。


リゼは店内を掃き、棚の布の端を揃えたあと、肩掛けを羽織った。


メリダが右脚の固定布を確かめる。


「緩んではいないね」


「はい」


「本を読み終わったからって、暗くなるまで話し込むんじゃないよ」


「日没前に戻ります」


「帰るころには、いまより脚が疲れてることも考えるんだよ」


リゼは右脚を見る。


角材は、朝と同じ位置に固定されている。


「途中で異常があれば休みます」


「そうおし」


店を出た。


一人でこの道を歩くのは、以前、孤児院の前を通ったとき以来だった。


そのときは、中へ入る予定はなかった。庭にいた三人と柵越しに話し、建物の前を通り過ぎただけだった。


今日は、五人の子どもと絵本が待っている。


左足が石畳を踏み、そのあとを角材の右脚が追う。


大通りを外れ、狭い道へ入る。窓から張り渡された洗濯物の下を通り、壁際へ積まれた薪を避けて進む。


低い木の柵が見えた。


庭にはノルとミナがいた。


地面へ何本もの線を引き、その間を石で埋めている。先に顔を上げたミナが、手にしていた石を落とした。


「来た」


ノルも振り返る。


「ティナは?」


「仕事へ行きました」


「ロアンは?」


「宿舎にいます」


「リゼだけ?」


「はい」


ミナは門まで走り、取っ手を開けた。


「一人で来たの?」


「はい」


「道、分かった?」


「記憶しています」


「迷わなかった?」


「迷っていません」


ノルは門から顔を出し、リゼの後ろを確認した。


「本は?」


「孤児院にあります」


「そうだった」


以前も同じ質問をしたことは、覚えていないらしい。


ミナがリゼの肩掛けへ触れ、建物のほうへ引こうとする。


「早く来て。リルも起きてるよ」


「歩行速度は上げられません」


「分かってる。今日は私がゆっくり歩く」


ミナはリゼの左側へ移り、歩幅を合わせた。


ノルは先に建物へ向かって走る。


「リゼ来た! ティナと怖い人はいない!」


「ロアンは怖い人ではありません」


声を掛けたが、ノルはすでに入口まで着いていた。


扉は、持ち上げなくても開いた。


内側からカイが押し開ける。最初にリゼを見て、そのあと門のほうへ視線を向けた。


「一人?」


「はい」


カイは扉を大きく開き、リゼの角材が敷居へ当たらないよう横へ退いた。


「蝶番は緩んでいませんか」


「うん。毎日見てる」


「触ってはいませんか」


「見てるだけ」


以前、ロアンから言われたことを守っているらしい。


広間では、ユーリが椅子を並べていた。


低い椅子にはリルが座っている。背中には畳んだ毛布が入れられていた。


まだ庭を走れるほどではないようだったが、前回より顔色はよい。


膝の上には絵本が置かれている。


リゼを見ると、表紙を両手で持ち上げた。


「来た」


「はい」


「もう熱ないよ」


「確認しますか」


「うん」


リゼはリルの前まで行き、右手を額へ当てた。


人工皮膚を通じて伝わる温度は、前回より低い。


「平常時に近いです」


「もう本読める?」


「読めます」


リルはすぐに絵本を差し出した。


表紙の端には、以前より小さな折れが増えている。子どもたちが何度か開いたのかもしれない。


通路の奥から、エルナが出てきた。


手には繕いかけの上衣と糸を持っている。


「来てくれたのね」


「はい。ティナから依頼されました」


「一人で大丈夫だった?」


「問題ありません」


「ありがとう。リルも朝から待っていたの」


「朝だけじゃないよ」


ミナが言った。


「昨日も、リゼはいつ来るのって聞いてた」


リルは毛布へ背を預けたまま、絵本を指す。


「二十頁から」


「はい」


リゼは本を開いた。


頁の下に書かれた数字を確かめ、前回止めた場所まで進める。


そのあいだに、子どもたちが周囲へ集まった。


ミナはリゼの隣へ座る。ノルは正面へ椅子を動かし、ユーリはリルの横で、背中に入れた毛布を直した。


カイは少し離れたところから、リゼが頁をめくる手元を見ている。


「二十頁です」


ノルが本の下を覗き込んだ。


「どれが二十?」


リゼは頁の端にある数字を指す。


「これです」


「二つある」


「二と、零です」


「二は分かる」


「こちらが零です」


ノルは数字を見たあと、カイへ顔を向けた。


「知ってた?」


「前に教えてもらった」


「誰に?」


「エルナ」


ミナも横から頁を覗いた。


「私は分かんない」


「ミナは三まで分かるだろ」


ユーリが言う。


「三は分かる。二十は分からない」


「二と零だって」


「並べたら違う数になるの?」


「はい」


「どうして?」


「位が異なるためです」


「くらい?」


「先に本を読んでもらおう」


ユーリが言った。


「数字の話をしていたら終わらない」


「ユーリは二十、分かるの?」


ノルが尋ねる。


ユーリは答えず、頁へ視線を落とした。


リゼはその様子を見たあと、本文へ目を移す。


前回は、姫が道の途中で困っている旅人を手伝い、溝へ落ちた荷車の車輪を押し上げたところまで読んだ。


次の頁では、旅人が姫へ乾いたパンと水を渡していた。


姫が探している従者の話を聞くと、旅人は山道の先で、白い花を持った若い男を見たと教えた。


「やっぱり、助けたから教えてくれた」


ノルが言った。


「助けなくても教えてくれたかもしれない」


ユーリが返す。


「でも、助けなかったら話さないよ」


「困ってる人を無視したって、分からないだろ」


二人の声が重なる。


リゼは読むのを止めた。


「どちらであるか、本には書かれていません」


「でも、姫は従者の場所が分かったんでしょ」


ミナが尋ねる。


「正確な場所ではありません。山道の先で見たという情報を得ました」


「手伝ってよかった?」


「結果としては、従者の発見へ近づきました」


「結果じゃなかったら?」


ミナが続けて尋ねる。


リゼは答えなかった。


以前、二〇三号室で同じ頁を読んだとき、ロアンにも似たことを尋ねた。


旅人を助けた結果、従者の情報を得た。


何も得られなければ、荷車を手伝った時間は無駄だったのか。


ロアンは、助けるときには結果を知らないと言った。


「姫は、情報を得るために荷車を手伝ったのではありません」


リゼは言った。


「じゃあ、どうして?」


「旅人が困っていたためです」


「それでいいんじゃない?」


ミナは簡単に答えた。


リゼは返事をせず、続きを読む。


姫と狐は、旅人から教えられた山道へ向かった。


道は狭く、ところどころ岩が崩れている。姫は何度も足を止め、狐は先へ進んでは戻ってきた。


「狐、待ってる」


リルが言った。


「はい」


「姫、遅いから?」


「歩行速度に差があります」


「置いていかないね」


「はい」


ノルが狐の絵を指す。


「いい狐だから」


「以前も同じことを言いました」


「いい狐は、何回見てもいい狐だよ」


リゼには、その判断の仕方が分からなかった。


それでも否定せず、次の頁へ進めた。


山の中腹で、姫は従者を見つける。


従者は岩壁のそばへ横たわり、片脚を布で固定していた。隣には折れた花籠と、枯れかけた白い花が落ちている。


「いた!」


ノルが声を上げた。


ミナも椅子から身を乗り出す。


「生きてる?」


「はい」


「脚、どうしたの?」


「岩場から落ち、負傷したと書かれています」


「歩けないの?」


「困難だと思われます」


リルは、絵の中の従者を見つめた。


「痛い?」


「負傷しているため、痛みがある可能性があります」


「姫、手を握ってる」


ミナが言った。


絵の中では、姫が従者のそばへ膝をつき、その手を両手で包んでいた。


「どうして?」


リルが尋ねる。


リゼは本文を確認した。


「理由は書かれていません」


「痛いからだよ」


ミナが答える。


「手を握ると、痛くなくなるの?」


ノルが尋ねた。


「なくならないと思う」


ユーリが言う。


「じゃあ、何で?」


誰も答えなかった。


リゼは自分の左手へ一度だけ視線を落とした。


ロアンの手は、リルの手より大きかった。


昨日の朝、指を触れさせたときには、リゼの掌よりも熱かった。今朝は、その熱が少し下がっていた。


手を握ったことで、熱が下がったわけではない。


痛みが消えたわけでもない。


それでも、ロアンは手を引かなかった。


リゼは頁をめくった。


姫は従者を連れて山を下りようとした。


しかし、従者は立ち上がれない。


姫は木の枝と毛布を使い、簡単な担架を作る。狐も枝を咥え、姫のそばへ運んでいた。


「狐も作ってる」


リルが嬉しそうに言った。


「狐が運んだ枝は一本です」


「手伝ってるよ」


「はい」


今回は訂正しなかった。


カイが担架の絵へ顔を近づける。


「この結び方、外れない?」


「外れる可能性があります」


「やっぱり」


「人間を運ぶ場合は、結び目を増やす必要があります。身体を固定する布も必要です」


ノルが絵とリゼを見比べる。


「リゼなら作れる?」


「必要な材料と時間があれば可能です」


「人も運べる?」


「重量によります」


「ロアンは?」


「一人では困難です」


「ティナは?」


「担架を引く人間が、ほかに必要です」


「俺なら?」


「ノルは小さいため、持ち上げられます」


ユーリがノルの肩を押し、絵本から離した。


「話が進まないだろ」


リゼは続きを読む。


姫と狐は、従者を担架へ乗せて山を下り始めた。


途中で雨が降る。


姫は城から持ってきた最後の衣服を、従者へ掛けた。自分は濡れたまま担架を引いている。


「姫も風邪ひく」


ミナが言った。


「はい」


「一緒に使えばいいのに」


「布の大きさから、二人を覆える可能性があります」


「じゃあ、姫はまた間違えたの?」


「判断には問題があります」


ノルが笑った。


「やっぱり馬鹿なお姫様」


「でも、従者が寒かったんでしょ」


リルが言う。


「姫も寒いよ」


「従者は動けないから、もっと寒い」


ユーリが絵を見ながら言った。


「姫は歩いてる」


「では、姫は従者を優先したのですか」


リゼが尋ねる。


「たぶん」


「自分が動けなくなる可能性があります」


「でも、ならなかった」


「結果としては、動けました」


「また結果って言った」


ミナが笑った。


リゼは言葉を止めた。


姫は正しい判断だけをしているわけではない。


必要以上の荷を持ち、橋のない場所で川へ入り、狐に助けられた。従者を運ぶ担架も、十分な作りではなかった。


帰り道でも、自分の衣服をすべて従者へ渡している。


それでも、城に残っていれば、従者を見つけることはできなかった。


最後の頁を開く。


小さな焚き火が描かれていた。


姫と従者は、城へ戻る道の途中で火を囲んでいる。狐は姫の足元に丸くなり、従者の脚には新しい布が巻かれていた。


空の端は薄く明るくなっている。


「城に帰ったの?」


ミナが尋ねる。


「まだです」


「これで終わり?」


「はい」


「帰るところまでないの?」


「書かれていません」


「じゃあ、帰れないかもしれない?」


ノルが言う。


「朝になれば、再び移動すると書かれています」


「なら帰るよ」


「途中で別の問題が発生する可能性があります」


「しないよ」


「なぜですか」


「終わりだから」


ノルは当然のように答えた。


リゼは最後の文章を読んだ。


焚き火の向こうで、従者は姫へ、なぜここまで来たのかと尋ねた。


姫はしばらく考えたあと、分からないと答えた。


「分からないの?」


ミナが聞いた。


「はい」


「従者が大切だったからでしょ」


「最初には、そのように書かれていました」


「じゃあ、それでいいじゃない」


「姫は、なぜ大切であるかを説明していません」


「説明しないと駄目?」


リゼは答えなかった。


ノルは、焚き火のそばに座る姫を見たまま言う。


「見つけたかったから行ったんだよ」


「なぜ見つけたかったのですか」


「いなくなったから」


「別の従者がいました」


「その人じゃない」


「同じ仕事ができます」


「でも、違う人でしょ」


以前、ロアンが答えたものと同じだった。


同じ仕事ができても、同じ相手ではない。


ミナが姫を指した。


「お姫様も、分からないけど来たんでしょ」


「はい」


「じゃあ、分からなくてもよかったんだよ」


「危険でした」


「次は、ちゃんと兵隊を連れていけばいい」


「本には、次について書かれていません」


「でも、今度は分かるでしょ」


リゼは最後の頁を見た。


なぜ来たのかを説明できなくても、姫は城を出た。


間違えながら進み、他人に助けられ、従者を見つけた。


「読み終わりました」


本を閉じる。


ノルがすぐに言った。


「もう一回読んで」


「最初からですか」


「今度は狐だけ見る」


「話を聞かないの?」


ミナが尋ねる。


「聞くよ。狐が出るところは」


「今日はここまでにしましょう」


エルナが広間へ入ってきた。


先ほどまで通路の奥で上衣を繕っていたが、いつから聞いていたのかは分からない。


「リルも、長く座りすぎないほうがいいからね」


「もう元気」


「元気になったばかりでしょう」


エルナはリルの背へ入れた毛布を直し、それからリゼへ顔を向けた。


「ありがとう。ずいぶん時間が掛かったでしょう」


「質問へ回答したためです」


「読んでもらうと、話が膨らんでいくのよ」


エルナは閉じられた絵本へ目を落とした。


「自分たちで読めれば、もう少し静かになるかもしれないけれど」


「子どもたちは、文字を読めませんか」


広間にいた四人が、それぞれ違う反応をした。


ノルは目を逸らした。


ミナは、読めないとすぐに答える。


ユーリは口を閉じ、カイは頁の数字を見た。


「カイは少し読めます」


エルナが言った。


「自分の名前と、よく使う言葉。それから、小さな数なら。ユーリも、荷札の数字はいくつか分かるね」


「全部じゃない」


ユーリが小さく答える。


「ええ。ミナとノルは、自分の名前の最初の文字を見分けられるくらい。リルには、まだ早いと思っていたのだけれど」


エルナは、繕いかけの上衣を畳んだ。


「教えたいとは思っています。ただ、食事や洗濯、外の仕事を済ませると、毎日決まった時間を取るのが難しくて」


「本はあります」


リゼは棚を見る。


絵本は何冊か並んでいる。どれも新しくはない。表紙が剥がれているものもあった。


「あります。でも、読める人がいなければ、絵を見るだけになってしまうでしょう」


「エルナは読めます」


「ええ。ただ、毎晩全員へ読んであげられるわけではないの」


エルナは少し迷い、リゼを見る。


「リゼは、午前中はメリダさんの店で働いているのよね」


「はい」


「午後にも、ほかにすることがあるでしょう」


「日によって異なります」


「毎回でなくていいの。本を読みに来てくれたときに、文字も少し教えてもらえないかしら」


子どもたちが一斉にリゼを見た。


ノルだけは、あまり嬉しそうではなかった。


「字の勉強もするの?」


「本を自分で読めるようになるよ」


エルナが言う。


「リゼが読めばいい」


「リゼが来られない日もあるでしょう」


「毎日来ればいい」


「仕事があるのよ」


ノルは不満そうに絵本の表紙を押した。


「字、たくさんある」


「はい」


リゼは本を開き、最初の頁を見る。


一頁に書かれている文章は短い。文字も、依頼書や帳簿より大きかった。


「どこまで教えればよいですか」


「まずは、自分の名前を読んで書けるようになれば十分だと思うの。そのあと、簡単な言葉や数字を少しずつ」


「教える方法は決まっていますか」


「決まっていません」


エルナは困ったように笑った。


「私も、きちんと教わったわけではないから。昔、働いていた家で必要な文字を覚えただけなの」


リゼは子どもたちを順に見た。


「名前を書くためのものはありますか」


「板と炭ならあります。紙は、何度も使うにはもったいないから」


棚から、小さな木板が三枚と、短い炭の欠片が出された。


どの板にも、以前書いた線を布で拭った跡が残っている。


リゼは絵本を卓の端へ置いた。


子どもたちは椅子を動かし、長い卓の周りへ集まる。ノルだけが少し離れた場所へ座った。


「最初に、名前を教えてください」


「知ってるでしょ」


ミナが言う。


「音では知っています。文字として書きます」


炭を一本取り、板の上へミナの名前を書いた。


一文字ずつ、間を空ける。


「これが、ミナです」


ミナは板へ顔を近づけた。


「よっつ?」


「はい」


「これが、ミ?」


最初の文字を指す。


「これです。最初のふたつで、ミです」


「見たことある」


「どこでですか」


「服の布に書いてある」


エルナが言う。


「洗濯物を分けるために、名前の最初の文字を書いているの」


ミナは炭を受け取り、隣の空いた場所へ同じ形を書こうとした。


最初の線は長く、次の線は違う方向へ曲がった。


「違う」


「はい」


リゼが答えると、ミナは炭を止めた。


エルナが口を挟む。


「最初から同じに書けなくても大丈夫よ」


「どこが違う?」


ミナはリゼへ尋ねた。


「最初の線が長すぎます。二本目は、こちらへ曲げます」


リゼは自分の書いた文字を指でなぞる。


ミナも同じように指を動かし、もう一度炭を板へ置いた。


今度は、最初より似た形になった。


「合ってる?」


「先ほどより近いです」


「それ、できたって言うんだよ」


ノルが横から言った。


「ノルも書いてください」


「俺は本を見てる」


「ノルの名前は、その本に書いてありますか?」


「わからない」


「では、自分で書けるようにします」


「どうして?」


「自分の物へ名前を書けます」


「エルナが書くよ」


「エルナがいない場合は書けません」


ノルはしばらくリゼを見ていた。


「リゼが書けばいい」


「私もいない場合があります」


それを聞くと、ノルはようやく卓へ近づいた。


リゼは次の板へ名前を書く。


ノルは炭を持ち、最初の文字を真似した。力が強すぎて炭の先が折れ、板の上へ黒い粉が落ちる。


「壊れた」


「残った部分を使用できます」


「短い」


「持てます」


「指が黒くなる」


「洗えば落ちます」


ノルは不満を言いながらも、短くなった炭を拾った。


ユーリは、言われる前から自分の板へ名前を書こうとしていた。


最初の文字は合っていたが、その次が続かない。


「そこまでは知っています」


「荷札にある」


「ユーリの名前と同じ文字ですか」


「たぶん」


リゼはユーリが書いた文字の隣へ、続きを書いた。


カイは自分の名前を一人で書けた。


形は整っていなかったが、三文字とも判別できる。


「読めます」


リゼが言うと、カイは小さく頷いた。


「次は?」


「何を覚えますか」


カイは絵本を見た。


「本」


リゼは新しい場所へ、その文字を書いた。


リルは炭を持たず、ほかの子どもたちの板を見ている。


「リルも書く?」


ミナが尋ねる。


「まだ小さい」


ユーリが言った。


「でも、自分の名前だよ」


「炭を口に入れたらどうする」


「入れないよ」


リルは手を伸ばした。


エルナが一番長い炭を選び、持たせる。


リゼは板へ名前を書いた。


リルは文字より先に、名前の横へ狐のようなものを描いた。


「これは文字ではありません」


「狐」


「はい」


「本の狐」


「形が異なります」


「狐だよ」


リルは譲らなかった。


板の上には、耳らしい三角が二つあった。身体は丸く、脚は一本しかない。


絵本の狐とは似ていない。


それでも、リルが狐として描いたことは分かった。


「狐です」


リゼが言い直すと、リルは満足して炭を置いた。


名前を一つずつ書くだけで、長い時間が掛かった。


ミナは同じ文字を何度も書き、ノルは途中から自分の名前を大きくしすぎて、板へ収まらなくなった。


ユーリは一度覚えた文字を拭かず、隙間へ何度も書き足す。カイは「本」のほかに、「戸」と「水」を尋ねた。


リルは、名前の隣へ狐を増やした。


エルナは広間の入口に立ち、しばらくその様子を見ていた。


「頼んでよかった」


「まだ、名前を書いただけです」


「それでもよ」


「全員が記憶したかは確認できません」


「次にまた書けばいいでしょう」


「次は、いつですか」


エルナは少し驚いたようにリゼを見た。


「来られる日でいいの。仕事や、ほかの用事を優先してね」


「メリダへ勤務日を確認します」


「無理はしないで」


「無理ではありません」


「脚のこともあるでしょう」


「往復は可能です」


エルナは、すぐには答えなかった。


「週に一度でも十分よ。月に一度でも」


「継続する必要があります」


「そうだけれど」


リゼは板へ書かれた五人の名前を見た。


一度布で拭えば、文字は消える。


次に同じ形を書ける者は、まだ少ない。


「来れる日に、教えます」


「お願いします。ありがとう」


帰る時刻が近づくと、子どもたちは板を棚へ戻した。


ミナは、自分の名前が一番うまく書けた部分を消したくないと言い、そのまま残した。カイも、「本」と書いた場所を消さなかった。


ノルは自分の名前より、折れた炭の短さを気にしている。


「力を弱くすれば折れません」


「弱く書いたら見えない」


「見える程度に弱くします」


「どれくらい?」


「次回確認します」


ノルは、その返事を約束として受け取ったらしい。


「絶対来て」


「勤務日を確認します」


「それ、来るってこと?」


ミナが尋ねる。


「可能であれば来ます」


「じゃあ来るよ」


子どもたちは、それで納得した。


リルは絵本を胸へ抱き、入口までついてきた。


「次も読む?」


「同じ本ですか」


「狐のところ」


「ほかの頁は読みませんか」


「読む。でも、狐のところも読む」


「分かりました」


「字も?」


「はい」


「狐って書いて」


「次回、書きます」


リルは頷いた。


エルナが扉を開ける。


「今日は本当にありがとう。ティナにも、お礼を伝えておいてください」


「ティナから依頼されたのは、絵本を読むことです」


「文字のことは、私がお願いしたものね」


「はい」


「そちらは、私から頼んだとロアンさんに伝えてください」


「分かりました」


リゼは敷居を越え、庭へ出た。


ノルとミナは門までついてきた。ユーリは広間の椅子を戻し、カイは入口の扉を静かに閉める。


一人で帰る道は、来たときと同じだった。


左足が石を踏み、そのあとを角材が追う。


通りの角へ出るまでに、今日の内容を順に確認した。


絵本は最後まで読んだ。


姫は従者を見つけた。


なぜ来たのかと尋ねられ、分からないと答えた。


子どもたちは、分からなくてもよいと言った。


そのあと、五人の名前を書いた。


ミナは最初の文字を識別できる。


ノルは炭へ力を入れすぎる。


ユーリは知っている文字を人に見せたがらない。


カイは自分の名前を書ける。


リルは文字の隣へ狐を描いた。


次に行うことも決まっていた。


自分の名前。


本。


戸。


水。


狐。


帰り道の途中で、角材の先が石の継ぎ目へ触れた。身体がわずかに傾き、左足を一歩出して支える。


転倒はしなかった。


再び歩き出す。


ロアンもティナもいない場所で頼まれ、自分で答えた。


絵本を読むことは、ティナから頼まれた。


文字を教えることは、エルナから頼まれた。


次に行く日を決めるのは、まだ誰からも命じられていなかった。


宿舎へ戻ったころには、夕方の食堂が開く前だった。


ロアンは二〇三号室の机で、ギルドから持ち帰った依頼札を見ていた。


リゼが扉を開けると、紙から顔を上げる。


「帰ったか」


「はい」


「脚は」


「異常ありません」


「本は読んだのか」


「最後まで読みました」


肩掛けを外し、棚へ畳む。


ロアンは依頼札を机へ置いた。


「どんな話だったか」


「姫が、負傷した従者を見つけました」


「そうだった」


「城へ戻る途中で終わりました」


「帰ったんだろう」


リゼは椅子へ腰を下ろした。


「エルナから、新しい依頼を受けました」


ロアンの視線が戻る。


「何をだ」


「孤児院へ行ったときに、子どもたちへ文字を教えます」


「お前が?」


「はい」


「教えられるのか」


「今日は、五人の名前を書きました」


「読めたか」


「カイは、自分の名前を書けます。ほかの子どもたちも、一部を識別しました」


「毎日行くつもりじゃないだろうな」


「エルナは、週に一度でもよいと言いました。月に一度でもと」


ロアンは、机の依頼札へ一度目を落とした。


二枚のうち、一枚を裏返す。


「いつ行く」


「メリダへ勤務日を確認してから決めます」


「決まったら言え」


「許可が必要ですか」


「そうじゃない」


ロアンは裏返した札を机の端へ寄せた。


翌日の夕方まで、都市の外へ出る仕事だった。


「帰りが遅くなるなら、こっちにも都合がある」


「ロアンの仕事ですか」


「ああ」


「私が孤児院へ行く日によって、仕事を変更しますか」


「まだ受けてない」


「変更する可能性がありますか」


「お前の脚で、暗くなってから戻られても困る」


「日没前に戻ります」


「そうしろ」


リゼは机の端へ置かれた依頼札を見た。


「分かりました。行く日が決まったら伝えます」


「ああ」


ロアンはもう一枚の札を手に取った。


リゼは棚から小さな木板を出し、炭を置く場所を空ける。


孤児院で書いた五人の名前を、もう一度記録するためだった。


「リゼ」


「はい」


「嫌なら、断ってもいいんだぞ」


炭を取ろうとした手が止まった。


「文字を教えることですか」


「ああ」


「なぜ断りますか」


「毎回、頼まれたことを全部やる必要はない」


リゼはしばらく考えた。


エルナから頼まれた。


子どもたちは、次も来るよう言った。


文字を教えるためには、何度も孤児院へ行く必要がある。


「断りません」


「そうか」


「次も行きます」


今度は、可能であればとは言わなかった。


ロアンは何も答えず、依頼札へ目を戻した。


リゼは木板へ最初の名前を書く。


ミナ。


その下へ、ノル。


机の上には、ロアンが裏返した依頼札が残っていた。

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