4-11. 熱のあと
継暦六百二十七年 八月八日
目を覚ましたとき、左手に何かが触れていた。
ロアンは目を開けた。
窓の外はすでに明るく、水路を流れる音に、通りを行く荷車の軋みが重なっている。喉にはまだ痛みが残っていたが、頭の奥を押さえていた重さは薄れ、身体の内側にこもっていた熱も昨日ほどではなかった。
寝台の横には、リゼが座っていた。
椅子を寄せ、背もたれへは寄り掛からず、淡い青の瞳を閉じている。左手だけが膝の上になく、毛布の外へ出ていたロアンの手を包んでいた。
強く握ってはいない。
人工皮膚に覆われた指が、離れない程度に添えられている。
ロアンが指先を動かすと、リゼの目が開いた。
「起きましたか」
「ああ」
声はまだ掠れていたが、昨日ほどではない。
リゼはロアンの顔を見たあと、重なった手へ視線を落とした。
「何してる」
「手を握っています」
「それは分かる。なぜだ」
「昨日、リルが私の手を握りました」
「それで、俺にもしたのか」
「はい」
「頼んでない」
「はい」
リゼは少し考えてから、指を開いた。
掌が離れる。
代わりに右手が伸び、ロアンの額へ置かれた。
「昨日より、体温が低下しています」
「もう治った」
「平常時よりは高いです」
「少しだろ」
「はい」
「なら起きる」
ロアンは上体を起こした。
急に動いたためか、頭の奥へ鈍い重さが戻ったが、昨日のように視界が揺れることはなかった。寝台の端へ脚を下ろし、床へ足をつける。
リゼも椅子から立ち上がった。
「支えます」
「いらん」
「まだふらつく可能性があります」
「歩ける」
立ち上がり、扉まで進んだ。
身体が傾くことはなく、壁へ手をつく必要もない。振り返ると、リゼがすぐ後ろまでついてきていた。
「歩けただろ」
「はい」
「なら、もう支えなくていい」
「階段は確認していません」
「後ろから来るな」
「一段下を歩きます」
「同じだ」
「転倒した場合に支えられます」
「転ばない」
リゼは返事をせず、扉を開けた。
階段を下りるあいだ、左足と角材の音が一段下から続いた。ロアンが足を止めればリゼも止まり、次の段へ下りれば、同じ間隔であとを追う。
一階へ着いても、身体に大きな変化はなかった。
食堂には、朝の客がまだ何人か残っている。
マルタは鍋の前に立ち、麦粥を器へよそっていた。ロアンが入ってくると、まず顔を見て、そのあと一段遅れて入ってきたリゼへ目を向ける。
「下りてきたのかい」
「歩ける」
「見れば分かるよ。熱は?」
「昨日より低下しています。平常時よりは高いです」
リゼが答えた。
「本人より詳しいね」
「俺に聞け」
「あんたは、もう治ったって言うだろう」
「治ってる」
「ほらね」
マルタは一人分の麦粥をよそい、いつもの卓へ運んだ。
ロアンが腰を下ろすと、リゼも向かいへ座る。彼女の前には器がなかった。
「普通の飯でいい」
「朝まではこれにしな。全部食べても気分が悪くならなければ、昼はもう少し腹に入るものを食べていいよ」
「昼もここで食えばいい」
「昼の食堂は閉めてるよ。昨日から寝てて忘れたのかい」
マルタは鍋の蓋を閉めた。
「何か買ってくるか、朝のうちに頼んでおくんだね」
ロアンは懐へ手を入れようとして、上衣を部屋へ置いてきたことに気づいた。
「あとで金を取ってくる」
「何を買いますか」
リゼが尋ねた。
「昼飯だ」
「私が購入します」
「店の仕事があるだろ」
「午前の勤務が終わったあとに戻ります」
「一人で買えるのか」
「商品を選び、代金を支払います」
「それをできるか聞いてる」
リゼは少し考えた。
「分からない場合は、尋ねます」
マルタが横から口を挟んだ。
「水路沿いの角に屋台があるだろ。薄いパンに豆と刻んだ肉を挟んで、鉄板で焼いてるところだよ。包んでくれるから、ここまで持ってこられる」
「それでいい」
ロアンが言うと、リゼは頷いた。
「数量は一つですか」
「ああ」
「中身は豆と肉ですか」
「それでいい」
「価格は」
「二十ミルあれば足りるよ」
マルタが答えた。
「辛い香草は入れさせないほうがいいね。まだ喉が痛むんだろ」
「少しな」
「聞いたかい」
「はい」
リゼは記憶するように、一度頷いた。
ロアンは麦粥へ匙を入れた。
昨日より味が分かる。
柔らかく煮た麦の匂いも、薄い塩気も感じられた。
向かいのリゼは、匙が口へ運ばれ、飲み込まれるまでを見ている。
「見るな」
「食事量を確認しています」
「全部食う」
「食欲がありますか」
「あるから食ってる」
「はい」
返事をしても、視線は外れなかった。
器を空にすると、リゼが先に手を伸ばした。
「自分で持てる」
「食後は休んでください」
「台まで運ぶだけだ」
「私が運びます」
「歩けると言っただろ」
「歩けることと、休む必要がないことは同じではありません」
ロアンが器から手を離すと、リゼは両手で持ち上げた。椅子の下から角材の右脚を抜き、厨房との境にある台へ運んでいく。
マルタは器を受け取りながら言った。
「店へ行く前に、ロアンから金をもらうんだよ」
「はい」
「自分の給金から出すんじゃないよ」
リゼの動きが止まった。
「なぜですか」
「ロアンの昼飯だろ」
「私は所持金を持っています」
「持ってても、使うところが違うよ」
ロアンは席を立った。
「部屋で渡す」
リゼが戻ってくると、二人で階段へ向かった。
上るときにも、リゼは一段下からついてきた。身体にはまだ重さが残っていたが、手摺へ触れずに二階まで戻ることができた。
二〇三号室へ入ると、ロアンは上衣から十ミルの硬貨を二枚取り出した。
リゼの掌へ載せる。
「二十ミルです」
「ああ」
「価格が二十ミルを超えた場合は、購入できません」
「その屋台なら足りる」
「売り切れていた場合は」
「別のを買え」
「何を買いますか」
「持って帰れるものなら何でもいい」
「範囲が広いです」
「パンか、焼いた芋か、肉だ。辛すぎるものはやめろ」
「量は一食分ですか」
「ああ」
「二十ミル以内で」
「ああ」
「温かいものを選びますか」
「冷えてても食える」
「病後の食事として適切なものを選びます」
ロアンはリゼの掌を閉じさせた。
「考えすぎるな。買えるものを買ってこい」
「はい」
リゼは閉じた手を一度見た。
「午前の仕事が終わったあとに購入し、戻ります」
「ああ」
「それまで寝ていてください」
「もう寝なくていい」
「平常時より体温が高いです」
「少しだ」
「少し高いです」
また同じところへ戻った。
ロアンは椅子へ向かおうとしたが、リゼは寝台の毛布を持ち上げている。
「何してる」
「横になってください」
「店へ行くんだろ」
「ロアンが横になったあとに行きます」
「俺が寝なければ、仕事に遅れるぞ」
リゼは毛布を持ったまま動かなかった。
ロアンはしばらくその顔を見たあと、寝台へ腰を下ろした。
「昼までだ」
「仕事が終わるまでです」
「同じだ」
「はい」
横になると、リゼは毛布を胸元まで掛けた。肩の下へ入り込んだ端を直し、枕の位置を少しだけ動かす。
「水は手の届く場所にあります」
「ああ」
「立つ必要がある場合は、マルタかガルドを呼んでください」
「一人で立てる」
「呼んでください」
「分かった」
「厠へ行く場合も」
「分かった」
「窓はこのままでよいですか」
「ああ」
「寒くありませんか」
「早く行け」
「はい」
リゼはようやく寝台から離れた。
扉を開ける前に、一度だけロアンへ顔を向ける。
「行ってきます」
「ああ」
左足と角材の音が、廊下を進んでいった。
階段を一段ずつ下り、やがて聞こえなくなる。
部屋に一人になると、朝から続いていた声が急になくなった。
水路の音も、外を通る人間の足音も、昨日までと変わらない。机も棚も、何一つ動いてはいない。
それでも、寝台の横に置かれた空の椅子が目についた。
ロアンは目を閉じた。
昼前に一度、喉の痛みで目が覚めた。
水を飲み、また横になる。
熱はほとんど引いていたが、身体の重さはまだ残っていた。
しばらくすると、階段を上がってくる音が聞こえた。
左足が床板を踏み、そのあとを角材が追う。途中で一度止まり、また同じ間隔で上がってくる。
扉が開いた。
リゼは両手で紙包みを持っていた。上から押さえないよう、包みの端だけを支えている。
「戻りました」
「ああ」
「薄いパンに、豆と刻んだ肉を挟んだものです」
「買えたか」
「はい」
リゼは机の上へ紙包みを置いた。
焼いた生地と肉の匂いが、紙の隙間から立ち上る。完全には冷めておらず、包みの内側には薄く湯気が残っていた。
「価格は十八ミルでした」
リゼは掌を開いた。
二ミル分の小さな硬貨が載っている。
「釣りです」
「取っておけ」
「私のお金ではありません」
「二ミルだろ」
「金額にかかわらず、ロアンのお金です」
リゼは硬貨をロアンの掌へ載せた。
「辛い香草が入っているか確認しました。入っていません」
「ああ」
「焼いてから、どれくらい持ち運べるかも尋ねました」
「何て言われた」
「冷める前に食べろと言われました」
「なら食う」
ロアンは寝台の上で身体を起こした。
今度は身体が揺れなかった。
リゼの手が支えようと伸びかけ、途中で止まる。
紙包みを開く。
丸い薄焼きのパンが半分に折られ、間には煮た豆と細かく刻んだ肉が挟まれていた。表面には鉄板で焼かれた焦げ目がつき、端から汁が染み出さないよう、内側にも紙が巻かれている。
ロアンが持ち上げると、リゼが下へ手を添えた。
「何してる」
「落下した場合に受けます」
「落とさない」
「はい」
返事をしても、手は引かなかった。
一口齧る。
生地は少し硬かったが、豆は柔らかく、肉にも薄い塩味がついている。喉へ通すとわずかに痛んだものの、朝の麦粥より腹にはたまった。
「どうですか」
「食える」
「喉は痛みますか」
「少しな」
リゼは紙包みの中身を見た。
「細かく分けますか」
「このままでいい」
水差しから器へ水を注ぎ、手の届くところへ置く。
ロアンは半分ほど食べたところで、水を飲んだ。
リゼは椅子へ座り、朝と同じように食べる様子を見ている。
「仕事はどうだった」
「通常どおりです」
「客は」
「午前中に五人来ました。布が三点、外套が一点、留め具が二点売れました」
「間違えなかったか」
「間違えてません」
「屋台はどうだった」
「最初に並ぶ場所が分かりませんでした」
ロアンはパンを持ったまま顔を上げた。
「どうした」
「屋台の前に複数の人間がいました。注文する人間と、受け取りを待つ人間が同じ場所にいました」
「聞いたのか」
「はい。最後に並んでいると思われた女性へ、ここで待てばよいか尋ねました」
「それで」
「先に注文するよう教えられました」
「買えたならいい」
「はい」
「注文は」
「豆と肉を挟んだものを一つ。辛い香草は入れないでください、と伝えました」
「それで通じたか」
「はい」
「なら、次も買えるな」
リゼは少し考えた。
「同じ屋台であれば可能です」
「別の店でも、分からなければ聞け」
「はい」
買い物の手順を、一つずつ確かめながら戻ってきたらしい。
ロアンは残りを食べきり、紙を折り畳んだ。
「うまかった」
リゼが顔を上げる。
「同じものを、また購入したほうがいいですか」
「またこういうときがあったらな」
「次は、注文する場所が分かります」
「ああ」
「十八ミルを用意すれば、釣りも発生しません」
「そうだな」
リゼは頷いた。
ロアンは水を飲み、寝台へ背を預けた。食事を終えるころには、身体の熱はほとんど気にならなくなっていた。
「もう寝なくていいだろ」
「体温を確認します」
リゼが立ち上がり、額へ手を伸ばす。
「またか」
「最後です」
「本当か」
「再び上昇してなければ」
冷たい掌が額へ触れた。
昨日ほど、その冷たさを強くは感じなかった。
「平常時に近いです」
「なら終わりだ」
「でも、今日は外出しないでください」
「出ない」
「仕事の確認にも行かないでください」
「行かない」
「明日まで、重いものを持たないでください」
「分かった」
リゼは手を離した。
「では、看病を終了します」
「ああ」
そう言ったあとも、リゼは寝台のそばを離れなかった。
膝の上には、畳まれた紙包みが置かれている。水の器と、返された二ミルの硬貨は、寝台脇の小さな台へ並べられていた。
「何だ」
「何もありません」
「看病は終わったんだろ」
「はい」
「なら、いつもどおりにしろ」
リゼは少し考えた。
「いつもどおり、ロアンが食事を終えるまでここにいました」
「もう終わった」
「はい」
それでも、すぐには立たなかった。
窓の外を荷車が通り、水路の上を渡る風が窓枠を鳴らす。
ロアンは、寝台脇に置かれた二ミルの硬貨へ手を伸ばした。
指先で二枚を重ね、小さな台の端へ寄せる。
そのまま手を引かず、掌を上へ向けて置いた。
リゼの視線が、開かれた手へ落ちる。
「何ですか」
「昨日、お前がしただろ」
「手を握ったことですか」
「ああ」
「今日は必要ありませんか」
「知らん」
リゼはロアンの顔を見た。
「好きにしろ」
少しの間を置いて、リゼの左手が伸びた。
掌を重ねるのではなく、開かれた手の上へ指先を触れさせる。
昨日のように強くは握らなかった。
ロアンも指を閉じなかった。
ただ、触れたままにしていた。




