4-10. 看病
継暦六百二十七年 八月七日
目を覚ましたとき、喉の奥が焼けるように乾いていた。
ロアンは天井板を見たまま、しばらく動かなかった。窓の隙間から差し込む光はすでに明るく、水路を流れる音に、通りを行く荷車の軋みが重なっている。いつもなら、とっくに寝台を出ている時刻だった。
昨夜、孤児院から戻ったあと、喉にわずかな違和感があった。
水を飲めば治まる程度だと思い、そのまま寝た。ところが朝には、乾きは痛みへ変わり、身体の内側には熱がこもっていた。毛布から出ている手まで重い。
隣で椅子が軋んだ。
机の前にいたリゼが顔を上げる。
「起きましたか」
「ああ」
返した声は掠れていた。
リゼはすぐに立ち上がった。左足のあとを角材の右脚が追い、寝台の横まで来る。
「声が昨日と異なります」
「寝起きだ」
「昨日、喉へ手を当てていました」
「見てたのか」
「はい」
右手が伸び、ロアンの額へ触れた。
人工皮膚に覆われた掌は、熱のこもった額より冷たかった。
「何をしてる」
「体温を確認しています」
「手で分かるのか」
「平常時より高いです」
「寝てたからだ」
リゼは手を離さなかった。
淡い青の瞳が、間近からロアンの顔を見ている。
「喉は痛みますか」
「少しな」
「頭痛は」
「ある」
「吐き気はありますか」
「ない」
「呼吸は苦しくありませんか」
「ない」
「身体は」
「重い」
質問が途切れる。
リゼはようやく手を離した。
「発熱しています」
「分かってる」
ロアンは片肘を寝台へつき、身体を起こした。
頭の奥が鈍く揺れた。目を閉じ、治まるのを待っていると、背中へ左手が添えられる。
「もう一度、横になってください」
「水を飲む」
「私が持ってきます」
「自分で行ける」
寝台の端へ脚を下ろし、床へ足をつけた。
立ち上がろうとした瞬間、身体が前へ傾く。
リゼの腕が背中へ回った。損傷した右肘を寝台へ当てないよう角度を変え、左手で胸元を支える。
「転倒するところでした」
「してない」
「私が支えたためです」
「なら、してないだろ」
「支えなければ転倒していました」
「同じことを何度も言うな」
ロアンは寝台へ手をつき、息を整えた。
リゼは身体を離さない。
「水を持ってきます」
「薬もあるか聞け」
「はい」
「何か食えるものもな」
リゼは一度頷いた。
昨日、孤児院で熱を出したリルへ、エルナが水や薬を与えていた。その手順を、まだ細かく覚えているのだろう。
「そのまま待っていてください」
「分かった」
「横になってください」
「聞こえてる」
「返答が異なります」
ロアンはリゼを見た。
リゼも視線を逸らさなかった。
「横になればいいんだろ」
「はい」
背を寝台へ戻すと、リゼは毛布を胸元まで引き上げた。肩の下へ入り込んだ端を持ち上げ、敷き直す。
「そこまでしなくていい」
「皺になっています」
「寝られれば同じだ」
リゼは答えず、毛布を整えた。
水差しを持って部屋を出ていく。
左足と角材の音が廊下を進み、階段を一段ずつ下りていった。
ロアンは目を閉じた。
昨日、孤児院で寝台へ横たわっていたリルの顔が浮かぶ。
頬を赤くし、リゼに身体を支えられながら、少しずつ水を飲んでいた。帰り道でも、リゼは薬の量や呼吸の変化について何度も尋ねていた。
面倒なことになると思った。
階下からマルタの声が聞こえた。
しばらくして扉が開き、リゼが水差しと器を載せた盆を持って戻ってくる。
「マルタが、麦粥を持ってくると言いました」
「薬は」
「宿舎に常備されているものがあります。食後に一包服用します。次の服用までは半日空けます」
「分かった」
「二包を同時に服用してはいけません」
「しない」
「マルタは、ロアンが面倒くさがって二包飲むかもしれないと言いました」
「余計なことを」
リゼは寝台の横へ盆を置いた。
水を器へ注ぎ、両手で持ち上げる。
「身体を起こします」
「自分で起きる」
ロアンが上体を起こすと、リゼは背中へ腕を入れた。断っても離すつもりはないらしい。
「一人で水くらい飲める」
「飲んでください」
器が口元へ差し出される。
ロアンは取ろうとしたが、リゼは手を離さなかった。
「離せ」
「落とさないことを確認します」
「落とさない」
「一口飲んでください」
言い返す気力もなく、器へ口をつけた。
水が喉を通ると、乾いた部分に痛みが走った。
リゼはすぐ器を離す。
「痛みましたか」
「少しな」
「では、少量ずつにします」
二口目を飲み、ロアンは器を押し戻した。
「もういい」
「三口飲んでください」
「なぜ三口だ」
「リルより身体が大きいためです」
「根拠になってない」
リゼは器を持ったまま待った。
しばらくしても離れない。
ロアンは諦めて三口目を飲んだ。
「よくできました」
「それを俺に言うな」
「ティナがリルへ言っていました」
「俺はリルじゃない」
「はい」
返事だけは素直だった。
リゼはロアンの背を支えたまま、ゆっくり寝台へ戻した。首の後ろへ手を入れ、頭が枕へ落ちないようにする。
毛布を掛け直し、また額へ掌を当てた。
「さっきと変わらん」
「継続して確認します」
冷たい手は心地よかった。
ロアンが何も言わずにいると、扉が二度叩かれた。
思わず、リゼの手を額から退かす。
マルタが盆を持って入ってきた。湯気の立つ麦粥と、小さな薬包が載っている。
「ずいぶん大人しく寝てるじゃないか」
「寝かされてる」
「ちょうどいいね」
マルタは寝台のそばへ盆を置き、額へ手を当てた。
リゼも反対側から手を伸ばそうとする。
「二人で触るな」
「比べられるだろ」
マルタは気にせず、しばらく熱を確かめた。
「高いけど、いまのところ治療所へ運ぶほどじゃないね。息が苦しくなったり、水も飲めなくなったりしたら、すぐ呼ぶこと。明日になっても下がらなければ、治療所へ行くんだよ」
「分かった」
「あんたに言っても仕方ないから、リゼに言ってるんだよ」
「記憶しました」
「汗をかいたら布を替えてやりな。窓は開けすぎないこと」
「分かりました」
「食べられそうかい」
ロアンは麦粥を見る。
柔らかく煮た麦に、塩が少し入っている。匂いは弱く、食欲がなくても口へ入れられそうだった。
「少しなら」
「薬を飲めるくらいは食べな」
「はい」
リゼが答えた。
「お前じゃない」
「私が補助します」
「自分で食う」
ロアンが起き上がろうとすると、すぐ背中へ腕が入る。
マルタはその様子を見て、口元を緩めた。
「任せてよさそうだね」
「任せるな」
「病人は大人しく甘やかされてな」
「誰が病人だ」
「鏡を見てから言いな」
マルタは空の盆を抱え直し、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
リゼは麦粥の表面を匙で混ぜた。湯気を確かめ、一匙すくって口元へ運ぶ。
「自分で持つと言っただろ」
「身体を支えながら器を持つことはできません」
「そんなにふらついていない」
「必要です」
「必要ない」
「でも、心配なので看病します」
リゼは、それが当然であるように答えた。
ロアンは何か返そうとしたが、目の前へ匙が差し出される。
「口を開けてください」
「聞け」
「冷めます」
しばらく抵抗したあと、ロアンは口を開けた。
麦粥は熱かったが、火傷するほどではない。薄い塩味が喉を通る。
「熱くありませんか」
「大丈夫だ」
「次を取ります」
「少し待て」
リゼは匙を器へ戻した。
十を数えるほど待ち、再びすくう。
「早い」
「先ほどより待ちました」
「そういう意味じゃない」
「必要な時間を教えてください」
「分からん」
「では、同じ時間にします」
三口目を飲んだころには、反論するのも面倒になっていた。
リゼは一匙ごとに熱さを確かめ、ロアンが飲み込むまで次をすくわなかった。口元へ麦がつくと、布を取って拭こうとする。
ロアンは顔を背けた。
「自分で拭く」
「持てますか」
「持てる」
布を受け取り、自分で口元を拭く。
リゼはその動きを最後まで見てから、また器を持ち上げた。
半分ほど食べたところで、ロアンは首を振った。
「もういい」
「まだ残っています」
「食えない」
「吐き気は」
「ない。ただ、いらん」
リゼは器の中身を確かめたあと、盆へ戻した。
薬包を開き、水と一緒に差し出す。
粉を口へ入れ、流し込む。
喉に苦みが残った。
リゼがもう一度水を寄せた。
ロアンは何も言わずに飲んだ。
食事と薬を終えると、身体を寝台へ戻される。枕の位置を直され、毛布を掛けられた。
リゼは窓へ向かった。
「何する」
「空気を入れ替えます」
窓を指二本分ほど開ける。
外の冷たい空気が細く入り込んだ。
風が寝台へ直接当たらないことを確かめたあと、リゼは水を入れた器と布を持ってくる。布を濡らし、硬く絞った。
「額へ置きます」
「手でいい」
言ってから、ロアンは口を閉じた。
リゼも動きを止める。
「手のほうがよいですか」
「布でいい」
「はい」
額へ濡れた布が置かれた。
冷たさが熱を吸い、目の奥の痛みが少しだけ薄れる。
リゼは椅子を寝台のそばへ寄せ、腰を下ろした。
「寝てください」
「言われなくても寝る」
「視覚を停止してください」
「目を閉じろと言え」
「目を閉じてください」
ロアンは目を閉じた。
しばらくすると布が持ち上げられ、水へ浸し直す音がする。硬く絞られ、また額へ戻された。
何度か同じことが続いた。
そのたびに意識が浮かんだが、声を出すほどではなかった。
やがて音が遠ざかっていった。
次に目を覚ましたとき、部屋の光は少し傾いていた。
額の布はなく、寝台の横にリゼが座っている。
ロアンの左手は、リゼの上衣の袖を掴んでいた。
いつからそうしていたのか、覚えていない。
指を離そうとすると、リゼが顔を向けた。
「起きましたか」
「ああ」
袖から手を離す。
布地には、握った跡が細く残っていた。
「なぜ、そのままにしてた」
「ロアンが掴みました」
「外せばよかっただろ」
「必要がありませんでした」
リゼはそう答え、右手をロアンの額へ置いた。
「まだ高いです」
「さっきよりはましだ」
「水を飲んでください」
「あとで飲む」
「三口です」
ロアンはしばらく器を見たあと、何も言わず身体を起こした。
三口飲む。
リゼは器を盆へ戻した。
「寝ますか」
「厠へ行く」
「同行します」
「来るな」
「階段があります」
「一人で行ける」
立ち上がり、扉へ向かう。
二歩目で膝へ力が入りにくくなり、足が止まった。
リゼが横へ立ち、腕を差し出す。
「使ってください」
「お前の脚がもたない」
「全体重を支える必要はありません」
「転んだら巻き込む」
「壁も使用します」
「何のための同行だ」
「反対側を支えます」
譲るつもりはないらしい。
結局、ロアンは左手を壁へつき、右腕をリゼの肩へ掛けた。
厠から戻るころには、それだけで息が上がっていた。
寝台へ腰を下ろすと、水が差し出される。
今度は反論せず、三口飲んだ。
リゼが背へ腕を回す。
「自分で横になれる」
「はい」
返事をしながら、手は離れなかった。
寝台へ戻され、毛布を掛けられる。
しばらく眠り、目を覚ます。
暑くなって片脚を毛布の外へ出すと、リゼが掛け直した。
「暑い」
「では、腹から下へ掛けます」
毛布を折り、窓を少し広げる。
「風が当たる」
すぐ狭められた。
「水は」
「いらん」
「分かりました」
珍しく引き下がった。
ロアンが目を閉じると、額の布だけが静かに交換された。
夕方近く、熱はまだ残っていたが、頭痛は朝より軽くなっていた。
ロアンは寝台の上で身体を起こし、机に置かれた依頼札の写しへ手を伸ばした。
リゼがすぐに立ち上がる。
「何をしますか」
「明日の予定を見る」
「明日確認してください」
「一枚見るだけだ」
「寝てください」
「もう十分寝た」
「治らなくても知りませんよ」
ロアンの手が止まった。
以前、自分がリゼへ言った言葉だった。
「俺は子どもじゃない」
「寝ない場合は、同じです」
「何が同じだ」
「治りません」
「見るだけだ」
「明日は仕事を入れていません」
「今後の予定だ」
「回復してから確認できます」
話が朝へ戻っている。
ロアンは依頼札へ手を伸ばすのをやめ、寝台へ背を預けた。
リゼが毛布を持ち上げる。
「自分で掛ける」
「はい」
二人で同じ毛布を持ち、胸元まで引き上げた。
リゼは端を整え、額へ手を置いた。
朝から何度目か分からない。
「まだ高いです」
「明日には下がる」
「下がらない場合は、治療所へ行きます」
「ああ」
「一人では行かないでください」
「お前も来るのか」
「はい」
「歩くのが遅い」
「私より早く歩けるのなら、治っているので、治療所へ行く必要はありません」
言い返す言葉が浮かばなかった。
額に置かれた手は、朝と同じように冷たい。
「リゼ」
「はい」
「もういい」
「手ですか」
「ああ」
リゼは額から手を離した。
代わりに新しく湿らせた布が置かれる。
椅子の軋む音が、寝台のすぐそばで小さく鳴った。
ロアンは目を閉じた。
そのあとも、リゼがそこにいることだけは分かった。
水路の音と、額の冷たさが、少しずつ遠ざかっていった。




