4-9. 家族
継暦六百二十七年 八月六日
孤児院の扉は、持ち上げなくても開いた。
ミナが取っ手を引くと、下端を敷居へ擦ることなく、戸口いっぱいまで動く。前回までの癖が残っているのか、最初だけ両手で持ち上げようとしたあと、軽く動いた扉を見て笑った。
「まだ壊れてないよ」
「二日で壊れたら困る」
ロアンが答えると、ミナは肩を揺らし、半歩だけリゼの後ろへ隠れた。
以前ほど大きく距離を取ることはなくなったが、声を掛けられるとは思っていなかったらしい。
「怖いけど、直してくれた人」
庭から走ってきたノルが言った。
「それ、前も言ったよ」
ユーリが後ろから追いつき、ノルの肩を押して入口から退かせる。
「そこにいると入れない」
「入れるよ」
「リゼの脚が当たるだろ」
ノルは卓の脚でも避けるように、戸口の端へ身体を寄せた。
リゼは左足を敷居の内側へ置き、角材の右脚を続ける。両腕には何も抱えていなかった。
絵本は孤児院へ置いてある。
今日は、その続きを読むために来た。
前を歩くティナは、布袋を一つ提げていた。中にはギルドから預かった布切れと糸、それから乾燥させた薬草が少し入っている。前回ほど重い荷ではなかったため、ロアンが持つものはなかった。
それでも、今回も同行した。
最初の挨拶は済んでいる。
リゼが子どもたちへ迷惑を掛ける様子もなかった。道も一度歩いており、ティナも一緒にいる。
同行する必要はなかった。
そう考えながら、前回直した上側の蝶番を確かめる。釘は浮いておらず、木枠にも新しい傷はない。
カイが扉の内側に立っていた。
ロアンの視線に気づくと、蝶番を見上げる。
「緩んでない」
「ああ」
「毎日見てる」
「毎日開け閉めするなら、それでいい」
カイは頷き、先に広間へ入った。
その後ろ姿を見送り、ロアンも戸口を越える。
建物の中には、煮た麦の匂いが残っていた。窓が一つ開けられ、庭から入る風に、洗った布と乾いた木の匂いが混じっている。
前回、食事や作業に使われていた広間では、卓が壁際へ少し寄せられていた。中央には椅子が並べられ、その上に絵本が置かれている。
ノルが本を指す。
「二十頁からだよ」
「覚えていましたか」
「カイが言ってた」
「ノルは忘れてた」
ユーリが言う。
「忘れてない。二十より後だった」
「それを忘れたって言うんだよ」
二人が言い合う横で、ミナはリゼの肩掛けを軽く引いた。
「今日は最後まで読む?」
「質問の回数によります」
「ノルが黙ってれば読める」
「ミナも話してた」
「私は本の話をしてた」
「俺も怪物の話をしてた」
「怪物は出ないって言われたでしょ」
ノルは口を尖らせた。
ロアンは広間を見回した。
前回、ティナの膝から離れなかったリルの姿がない。
エルナもまだ出てきていなかった。
奥の部屋から、水の入った器を置く音が聞こえる。続いて、低く声を掛けるエルナの声がした。
ティナも気づき、通路の奥へ顔を向けた。
「リル、どうかした?」
返事の代わりに、エルナが部屋から出てきた。
袖を肘まで捲り、片手には濡らした布を持っている。前回と同じ前掛けを着けていたが、髪は結び直す暇がなかったのか、耳の横へ細い束が落ちていた。
「来てくださったんですね」
「リル、具合悪いの?」
ティナが尋ねると、エルナは頷いた。
「先日から熱があるんです。少し下がったと思ったのですが、昼前からまた上がってしまって」
「治療所には?」
「昨日いただいた薬が、もうありません。いま取りに行こうと思っていたところです」
「私が行くよ」
ティナがすぐに言った。
エルナは首を振る。
「場所を説明するより、私が行ったほうが早いです。前にも診ていただいていますから、症状も伝えられます」
「じゃあ、私たちがここにいるよ」
「ですが」
エルナの視線が、広間にいる子どもたちへ移った。
ユーリとカイは話を聞いている。ミナとノルも、リルの名前が出てから口を閉じていた。
「すぐ戻れるんでしょ」
ティナが言う。
「ええ。治療所で薬を受け取るだけなら」
「だったら大丈夫。私もいるし、ロアンもいるし、リゼもいるよ」
エルナはロアンを見た。
前回、挨拶をしたときと同じ、相手を確かめる視線だった。
ただし、今日の顔には迷いがあった。
自分がいないあいだ、子どもたちを他人へ預けることへの迷いだった。ロアンが怖そうに見えるからではない。
「何かあれば、すぐ戻る」
ロアンが言った。
「治療所までの道は、ティナが知っている。必要なら呼びに行かせる」
「私が?」
ティナがロアンを見る。
「お前が一番速い」
「それはそうだけど」
エルナは濡れた布を両手で持ち直した。
「……お願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「リルは奥の寝台にいます。いまは眠っていますが、起きたら水を少しずつ飲ませてください。吐いたり、呼び掛けに反応しなくなったりしたら、すぐに呼びに来てください」
「分かった」
ロアンが答える。
エルナはティナとリゼへも同じ説明を繰り返した。水差しの場所、予備の布、熱が上がったときに使う桶、子どもたちを裏庭へ出してよい範囲まで、一つずつ確かめる。
そのあいだにも、奥の部屋へ何度か顔を向けていた。
「早く行ったほうがいいよ」
ティナが言う。
「こちらは任せて」
「すみません」
「謝らなくていいって」
エルナはもう一度、広間の五人を見るように視線を動かし、リルがいる部屋へ戻った。濡れた布を額へ置き直し、毛布の端を整えてから、ようやく外へ向かう。
扉の開閉は、以前より静かだった。
エルナが出ていくと、広間に残った子どもたちはすぐには話し始めなかった。
ノルが通路の奥を見る。
「リル、死ぬ?」
「死なないよ」
ティナが答えた。
「熱が出ただけ。薬をもらって、寝てればよくなるから」
「昨日から寝てる」
ミナが言う。
「朝は起きたけど、何も食べなかった」
ユーリが付け加えた。
「水は飲んだ」
カイは水差しのほうを見た。
「さっきも少し」
「それなら大丈夫」
ティナは椅子を一つ奥の部屋へ運んだ。
「本はあとにしようか。リルが起きたら、聞けないとかわいそうでしょ」
「でも、眠ってる」
ノルが言う。
「眠ってるなら、静かにしないと」
「小さい声なら?」
「ノルに小さい声が出せる?」
ミナが尋ねる。
ノルは口を閉じた。
ロアンは奥の部屋へ入った。
壁際に並ぶ寝台の一つで、リルが横向きに眠っている。頬が赤く、額に置かれた布はすでに温まっていた。呼吸は少し速いが、苦しそうに胸を上下させているわけではない。
寝台の脇には、水差しと浅い器が置かれている。
リゼも通路から部屋を覗いた。
「額の布を交換しますか」
「温かくなってるね」
ティナが布へ触れ、桶の水で濡らし直した。
絞った布を持ち上げると、リゼが手を差し出す。
「私が行います」
ティナは一度、リゼの手を見る。
「できる?」
「位置は確認しました」
「じゃあ、お願い」
リゼは寝台へ近づいた。
角材の右脚が床へ当たる音を抑えるように、いつもよりゆっくり身体を運ぶ。寝台の横へ立ち、眠っているリルの額へ布を置いた。
指先が髪へ触れないよう、端を少しずつ広げる。
リルの眉がわずかに動いたが、目は開かなかった。
「熱いです」
「触っただけで分かるの?」
ミナが後ろから尋ねた。
「人工皮膚に温度を感知する機能があります」
「手も?」
「はい」
ミナは自分の額へ手を当ててから、リゼの手を見る。
「私より分かる?」
「比較していないため、分かりません」
「私も触る」
「起こすなよ」
ユーリが止めた。
「触るだけ」
「何人も触ったら起きるだろ」
ミナは手を引いた。
リゼは布の位置を確かめたあと、寝台のそばにある低い椅子へ腰を下ろした。角材の右脚が寝台の下へ入らず、少し離れた位置から身体を傾けている。
ロアンは壁際に立った。
ティナはほかの子どもたちを広間へ戻そうとしたが、誰もすぐには動かなかった。
「ここにいるなら静かにね」
小さな声で言うと、五人のうち四人が寝台の周囲へ座った。
ノルは床へ座り、ユーリは壁へ背をつける。カイは水差しの残りを確かめ、少なかった水を別の器から足した。ミナはリゼの椅子の横へしゃがんだ。
しばらく、誰も話さなかった。
窓の外から、庭の葉が擦れる音が聞こえる。
リルが小さく身じろぎをした。
薄く目を開き、最初にティナを見る。
「エルナは?」
「薬をもらいに行ったよ。すぐ戻るからね」
「ティナ、いる?」
「いるよ」
ティナが寝台の反対側へ座り、リルの肩へ手を添えた。
リルは次にリゼを見た。
額に布を置かれたまま、少しだけ目を大きくする。
「お人形さんも?」
「はい」
「本、読んだ?」
「まだです」
「よかった」
掠れた声だった。
「起きてから?」
「体調が回復してからです」
「いま起きてる」
「回復していません」
リルは不満そうに目を閉じた。
ティナが水差しから器へ少量を移す。
「少し飲める?」
リルは頷いたが、身体を起こそうとしてすぐに力を抜いた。
ティナが背中へ腕を入れようとすると、リゼが先に動いた。
「私が支えます」
「ゆっくりね」
リゼは片手をリルの首の後ろへ入れ、もう片方を背へ添えた。人工皮膚の剥がれた右肘が寝台の縁へ当たらないよう、角度を変えて持ち上げる。
身体が起きると、リルはリゼの腕へ頭を預けた。
ティナが器を口元へ運ぶ。
「一口ずつね」
最初の一口を飲むと、リルは顔を背けた。
「もういらない」
「あと少しだけ」
「いらない」
「じゃあ、もう一口だけ」
リルは目を閉じたまま、二口目を飲んだ。
ティナが器を離す。
「はい、よくできました」
「もう寝る」
「うん」
リゼは身体を急に下ろさず、首と背を支えたまま寝台へ戻した。リルの顔を横へ向け、毛布を胸元まで掛ける。
その動きを、ロアンは壁際から見ていた。
リゼは、前回エルナが子どもたちへ接していた様子を見ている。
いまの手順も、どこかで教えられたものではない。見たことをそのまま記憶し、必要な順番で使っていた。
「リゼ、お母さんみたい」
ミナが言った。
リゼが顔を向ける。
「私は、母親ではありません」
「分かってるよ」
「では、なぜですか」
「リルを寝かせたから」
「寝台へ戻しただけです」
「そういうのするの、お母さんでしょ」
ユーリが口を挟む。
「エルナもする」
「エルナはお母さんじゃないよ」
「でもするだろ」
「じゃあ、エルナもお母さんみたい」
ノルが床に座ったまま、ロアンを見る。
「ロアンは?」
「何がだ」
声を掛けられたノルの肩が揺れた。
それでも、以前のようにティナの後ろへ隠れることはなかった。
「ロアンは、お父さん?」
「違う」
返事が早すぎたのか、ノルは目を丸くした。
ミナもロアンを見る。
「リゼのお父さんじゃないの?」
「違う」
「じゃあ、何?」
「所有者です」
リゼが答えた。
ノルが首を傾げる。
「しょゆうしゃって何?」
「私を所有している人です」
「持ってるってこと?」
「はい」
「お人形だから?」
「はい」
「じゃあ、家族じゃないの?」
ミナが尋ねた。
リゼはすぐには答えなかった。
ロアンへ視線を向ける。
ロアンも答えを持っていなかった。
「所有者と家族は、同じですか」
リゼが尋ねると、今度は子どもたちが黙った。
ユーリが腕を組む。
「違うと思う」
「なぜですか」
「家族は、買わないから」
「子どもを引き取るときに、金が必要な場合があります」
「そういうことじゃない」
「では、何ですか」
ユーリは困ったように口を閉じた。
代わりにミナが答える。
「一緒に住んでる人」
「同じ宿舎には、ほかの人間も住んでいます」
「同じ部屋?」
「はい」
「じゃあ家族じゃない?」
「ガルドとマルタは同じ建物に住んでるけど、家族じゃないよ」
カイが静かに言った。
「部屋も違う」
ノルが自分の知っているものを数えるように、指を折り始めた。
「一緒に住んで、ご飯食べて、帰ってきたらいる人」
「私は食事を取りません」
「でも、ロアンが食べてるとき、いるんでしょ」
リゼはロアンを見る。
「はい」
「じゃあ同じだよ」
ノルは一本目の指を残したまま、次を折った。
「いなくなったら探す人」
「誰がですか」
「家族が」
「家族がいなくなった場合、探しますか」
「探すよ」
ミナが答える。
「待ってるだけじゃ会えないから」
前回と同じ言葉だった。
リゼはミナを見た。
ミナは自分が同じことを言ったと気づいていないらしく、リルの毛布へ落ちた髪を指で払っている。
ユーリは少し考えたあと、ロアンへ尋ねた。
「リゼがいなくなったら、探す?」
「勝手にいなくならない」
「でも、いなくなったら」
ロアンは答えなかった。
カイがリゼへ向く。
「ロアンがいなくなったら?」
「探します」
返事はすぐだった。
「どこまで?」
「所在を確認できるまでです」
「遠くても?」
リゼは角材の右脚へ目を落とした。
「到達できない場所である可能性があります」
「でも、探す?」
「はい」
カイは頷いた。
ノルはそれを聞いて、また指を一本折る。
「じゃあ家族だよ」
「その条件だけでは判断できません」
「まだある」
「何ですか」
ノルは考えたが、続きが出てこなかった。
寝台で目を閉じていたリルが、掠れた声を出す。
「具合悪いときに、いる人」
全員の視線がリルへ向いた。
リルは目を開けないまま、リゼの手を探るように指を動かした。
リゼが手を差し出すと、小さな指が二本だけ人工皮膚の上へ掛かった。
握るほどの力はなかった。
「リゼ、いる」
「はい」
「ティナも」
「いるよ」
ティナが答える。
「ロアンも」
ロアンは返事をしなかった。
リルはそれで十分だったのか、すぐに呼吸を整えて眠り始めた。
誰も、しばらく次の言葉を出さなかった。
庭を通る風が、窓枠へ詰められた布をわずかに揺らす。リゼは手を引かず、リルの指が自然に離れるまで同じ姿勢でいた。
やがてノルが、小さな声で尋ねた。
「ロアンとリゼは、いつから一緒なの?」
「ベルグラートからだ」
ロアンが答える。
「ベルグラートって遠い?」
「ここからなら、一月ほど掛かる」
「歩いて?」
「荷車と歩きだ」
「最初に会ったのも、ベルグラート?」
「違います」
リゼが答えた。
ロアンは顔を向けた。
子どもたちもリゼを見る。
「どこ?」
ミナが尋ねる。
「ベルグラートへ向かう商隊です」
「最初から一緒だったの?」
「いいえ。ロアンは商隊を護衛していました。私は、エゼル商会が管理する機械人形として、別の場所から合流しました」
ノルは声を抑えたまま身を乗り出す。
「そのときから、木の脚だった?」
「右脚は存在していました」
「じゃあ、どうしてなくなったの?」
ユーリがノルの肩を引いた。
「聞くなよ」
「本人が話してるだろ」
「嫌かもしれない」
リゼは二人を見た。
「話すことはできます」
「痛かった?」
ミナが尋ねる。
「痛覚に相当する信号は発生しました」
「泣いた?」
「泣いていません」
「どうして?」
「泣く機能がありません」
ミナはリゼの目を見た。
淡い青の瞳に涙が浮かぶことがあるのか確かめようとしているらしい。
リゼは、商隊へ合流したところから話し始めた。
エゼル商会の荷車へ同行し、長杖を持って護衛の補助をしていたこと。ロアンは人間の護衛の一人で、同じ商隊にいたこと。
最初から長く話したわけではなかった。
ロアンが歩けば、自分も荷車の近くを歩いた。
休息のときには、周囲を警戒した。
命じられた仕事を行い、次の命令を待った。
「ロアンは、そのとき何してた?」
ノルが尋ねる。
「商隊を護衛していました」
「話した?」
「はい」
「何を?」
「記録されている会話は複数あります」
「全部言って」
「長くなります」
「じゃあ最初のだけ」
リゼは少し間を置いた。
「私の判断へ従う必要はない、と言われました」
ロアンは眉を寄せた。
何のときの言葉だったか、すぐには思い出せなかった。
当時のリゼは、商会の指示を優先し、護衛の一人であるロアンの言葉を命令として扱うべきか何度も確認していた。
おそらく、そのどれかだった。
「優しくない」
ミナが言った。
「普通だろ」
ロアンが答える。
「もっと、初めまして、とか言わないの?」
「言わない」
「怖い」
ノルが小声で言い、ティナが笑いを堪えた。
リゼは続けた。
商隊は砂海を通った。
旧時代の白い塔で休息し、その先でサンドワームに襲われた。
七番車が壊され、ワトが倒れ、機械人形が一体、完全に動かなくなった。
「怪物、出た」
ノルの目が輝く。
「本じゃないからね」
ティナが窘める。
「分かってる。大きかった?」
「荷車より大きい個体でした」
「歯は?」
「ありました」
「何本?」
「数えていません」
「リゼの脚も食べたの?」
「はい」
ノルの顔から、少しだけ興奮が消えた。
リゼは、右脚の角材へ視線を落とした。
サンドワームに膝下を食い千切られたあと、歩けなくなった。
商隊は襲撃を受けた場所から移動しなければならなかったが、右脚のない機械人形を荷車へ載せる余裕はなかった。
「置いていかれたの?」
ミナが尋ねた。
「その予定でした」
「予定が変わったの?」
リゼはロアンを見る。
子どもたちも、つられるように顔を向けた。
「木材を切りました」
「木の脚?」
「はい」
「ロアンが作ったの?」
「一時的に歩行できるようにしただけだ」
ロアンが答える。
「役に立ったんでしょ」
「一時的にはな」
リゼは、ロアンが木材を右膝の下へ固定したことを話した。
長さを確かめるために何度か立たされ、布を巻き直された。最初は角材の先が長く、歩くたびに身体が左へ傾いた。
削り直したあとも、人間と同じようには歩けなかった。
それでも、荷車について進めるようになった。
「痛くなかった?」
ミナが尋ねる。
「固定箇所には負荷が掛かりました」
「でも、歩けた?」
「はい」
リゼが答える。
「よくできていました」
ロアンには、それが褒められているのか判断できなかった。
商隊はベルグラートへ到着した。
到着後、リゼはエゼル商会の荷捌き場で働いた。荷を運び、積み替え、倉庫へ入れる。
右脚が角材になっていても、命じられた作業は続いた。
その途中で転倒し、右肘の人工皮膚が裂け、外殻にも亀裂が入った。
「ロアンは?」
ユーリが尋ねた。
「そのとき、荷捌き場にはいませんでした」
「どこにいたの?」
「分かりません」
リゼは即座に答えた。
「私は荷捌き場で作業していました。ロアンの行動は確認していません」
ロアンは黙っていた。
ベルグラートへ到着してから、治療所へ行き、傷めた右肩を診てもらった。棒剣や胸当ての修理を頼み、商会やギルドを回った。
その時間を、リゼは知らない。
リゼの記憶の中で、ロアンがいなかった時間だった。
「次に会ったのは?」
カイが尋ねた。
「エゼル商会の荷捌き場です」
右肘を損傷したあとも作業を続けていたところへ、ロアンが来た。
壊れた右腕を見た。
角材の固定を確かめた。
そのあと、商会の人間と話した。
「何を話したの?」
「私を購入することについてです」
部屋の中が静かになった。
リルの呼吸だけが、寝台の上で小さく続いている。
「買ったの?」
ノルが尋ねる。
「はい」
「どうして?」
「分かりません」
リゼは答えた。
「ロアンへ尋ねても、明確な理由は得られていません」
子どもたちの視線がロアンへ集まる。
「どうして買ったの?」
ミナが尋ねた。
「その話はもう終わりだ」
「まだ終わってない」
「本の続きもある」
ノルが言う。
「いまは本じゃないだろ」
ユーリはそう言いながらも、ロアンから目を逸らさなかった。
カイが静かに尋ねる。
「置いていけなかったから?」
ロアンは答えなかった。
以前、リゼへ似たことを言った覚えはある。
自分でも、それ以上の理由を持っていなかった。
荷捌き場で、角材の脚を引きずりながら荷を運び、裂けた右肘をそのままにしているリゼを見た。
商会へ残せば、停止させられ、分解されると聞いた。
買わなければ、自分とは関係のないところで処分される。
それだけだった。
それだけのはずだった。
「ロアンは、私を購入しました」
リゼが続けた。
「そのあと、動力商へ行きました」
「一緒に?」
「はい」
「何買ったの?」
「セルと携行箱です」
ノルは、話が怪物から離れたことが不満らしく、サンドワームの大きさをもう一度尋ねた。ユーリは、右脚がなくなったあと何日歩いたのかを気にした。
質問が重なり、リゼは一つずつ順番に答えた。
ロアンは壁際に立ったまま、その話を聞いていた。
リゼが語る出来事の中には、自分がいるところと、いないところがあった。
商隊で最初に会った。
右脚を失った。
角材を固定した。
ベルグラートへ到着したあと、いったん別れた。
荷捌き場で再び会った。
購入した。
それから、エルデンまで一緒に来た。
自分にとっては、その場で必要だと思ったことを一つずつ行っただけだった。
リゼは、それを切れ目のない一つの話として覚えている。
「それで、いまも一緒にいるの?」
ミナが尋ねた。
「はい」
「どっちが決めたの?」
リゼは少し考えた。
「ロアンは、私を手放さないと言いました」
「リゼは?」
「離れることを望みません」
「じゃあ、二人で決めたんだ」
ミナは簡単に言った。
ロアンは否定しようとして、やめた。
どちらが先に決めたのか。
決めたと呼べるものがあったのか。
分からなかった。
奥の部屋の入口で、床板が鳴った。
振り返ると、エルナが立っていた。
片手には薬包を入れた小箱を抱え、肩で息をしている。急いで戻ってきたらしく、額には汗が浮かんでいた。
「戻りました」
「早かったね」
ティナが立ち上がる。
「治療所が空いていました。待たずに受け取れたんです」
エルナは寝台へ近づき、リルの額へ手を置いた。
「水は飲みましたか」
「二口」
ティナが答える。
「リゼが支えてくれたよ」
「吐いてはいません」
リゼも付け加える。
「呼吸数に大きな変化はありません。先ほどより眠りが深くなっています」
「ありがとう」
エルナはリゼの手元を見る。
リルの指はもう離れていたが、リゼはまだ寝台のそばへ座っている。
薬包を一つ開き、粉を少量の水へ溶かす。すぐに飲ませるのではなく、リルの肩へ手を触れて名前を呼び、目を開けるまで待った。
首の後ろへ腕を入れる。
背を起こす。
小さな匙へ薬を取り、口へ運ぶ。
一度に全部を飲ませず、飲み込んだことを確かめてから次をすくう。
リゼは、その手順を見ていた。
リルが顔を背けると、エルナは無理に匙を押し込まず、口元を布で拭いた。水を一口飲ませ、もう一度だけ薬を与える。
最後に身体を横へ向け、首の後ろへ丸めた布を入れた。
「全部飲ませないのですか」
リゼが尋ねる。
「吐いてしまうと、飲んだ分まで出てしまうからね。少し休ませて、またあとで飲ませます」
「横向きにする理由は」
「もし吐いても、喉へ詰まらせないためよ」
「呼吸数は、どの程度まで増えた場合に治療所へ戻りますか」
「数だけでは決められないけれど、息をするたび胸や喉が大きく動くようなら、すぐに連れていきます。呼び掛けても目を開けないときも同じよ」
リゼは一つずつ記憶した。
「水分摂取量も記録しますか」
「できればね。たくさん飲めなくても、少しずつ続けることが大事なの」
「はい」
エルナは薬包を小箱へ戻した。
「本は読めた?」
ノルが尋ねる。
「まだです」
リゼが答える。
「ずっと話してた」
「何の話を?」
エルナが尋ねると、ミナが先に答えた。
「ロアンとリゼが家族かどうか」
ロアンは眉を寄せた。
エルナは一瞬だけ目を丸くし、それから二人を見る。
「答えは出たの?」
「二人で決めたから、家族」
ミナが言う。
「まだ判断されていません」
リゼが訂正する。
「でも、離れないんでしょ」
「はい」
「なら同じだよ」
エルナは何も言わなかった。
ただ、寝台の脇に座るリゼと、壁際に立つロアンへ順に目を向ける。
「今日は、本はここまでにしましょうか」
「まだ一頁も読んでない」
ノルが不満そうに言った。
「リルが元気になってから、みんなで読みましょう。続きは逃げないから」
「お姫様は逃げたよ」
「城を出たのよ」
ミナが訂正する。
「同じだよ」
「違う」
二人の言い合いが始まりかけたところで、リルが寝台の上で身じろぎをした。
全員が口を閉じる。
リルは目を開けず、毛布の中で手を動かした。先ほどまでリゼの手があった場所を探すように、指が寝台の縁へ伸びる。
リゼは再び、その手の下へ自分の指を差し入れた。
小さな指が触れ、すぐに力を抜く。
「また来る?」
リルが目を閉じたまま尋ねた。
「本の続きが残っています」
「うん」
「体調が回復したあとに読みます」
「来てね」
「はい」
それから間もなく、ロアンたちは孤児院を出た。
エルナは何度も礼を言い、ティナはまた来ると子どもたちへ約束した。ノルは次こそ最後まで読むよう求め、ミナはリゼの肩掛けを掴んで、リルが起きるまで来なくなるのではないかと確かめた。
カイは扉を開き、蝶番が緩んでいないことをロアンへもう一度示した。
「次も見る」
「ああ」
「分からなかったら聞く」
「エルナか、近所の大人に先に言え」
「ロアンがいたら?」
「そのときは聞け」
カイは頷いた。
庭を出ると、空は夕方の色へ変わり始めていた。
ティナが先を歩き、リゼとロアンがその後ろへ続く。行きよりも歩く速度は遅かった。リゼの角材の右脚は、地面へつくたび乾いた音を立てている。
「リルは、明日には回復しますか」
リゼが尋ねた。
「分からない」
ロアンは答えた。
「薬が効けば、熱は下がるだろ」
「下がらない場合は」
「エルナが治療所へ連れていく」
「夜間に悪化した場合、ティナやギルドへ連絡できますか」
前を歩いていたティナが振り返る。
「近所の人がギルドまで来てくれれば、誰か向かえるよ」
「はい」
リゼは、その返事を記憶した。
しばらく歩いたあと、また口を開く。
「水分は、一度に多く与えませんでした」
「吐いたら大変だからね」
「身体を横向きにしました」
「よく見てたね」
「必要な手順です」
薬の量や、呼吸の変化や、身体を支える位置を何度も口にした。
ロアンは隣を歩きながら、その声を聞いていた。
夜になれば、熱は下がるかもしれない。
明日になれば、リルは起きて本の続きを聞けるかもしれない。
そうならなかった場合のことまで、リゼは考えている。
水路沿いの通りへ戻るころ、日中の熱は薄れ、風が冷たくなっていた。




