4-8. 孤児院
継暦六百二十七年 八月三日
昼を少し過ぎたころ、ティナがメリダの店へ来た。
背には膨らんだ旅袋を負い、左手にも小さな麻袋を提げている。仕事へ出るときほどの装備ではなかったが、腰には短剣を下げ、額には薄く汗が浮いていた。
午前の勤務を終えたリゼは、卓の端に置いていた絵本を薄い布で包み直していた。
昨夜、二〇三号室で最後まで読み、そのあと最初からもう一度読んだ。布包みの角は、店の商品を包むときと同じように折り込まれ、細い紐が縦と横へ掛けられている。
ティナは手にした麻袋を床へ置くと、卓の包みを覗き込んだ。
「読み終わった?」
「はい」
「どうだった?」
「お姫様は、城を出る前に道順と必要な荷物を確認するべきでした」
ティナは少し目を丸くした。
「最初に出てくるのがそれなの?」
「川を渡る判断にも問題があります」
「ほかには?」
「従者を発見しました」
「それは読めば分かるよ」
ティナは笑い、包みの上へ指先を置いた。
「面白かった?」
リゼは少し考えた。
「もう一度読みました」
「じゃあ、面白かったんじゃない?」
「同じ内容を再確認する必要がありました」
「それを気に入ったって言うんでしょ」
「気に入った、とはどういう状態ですか」
ティナはすぐには答えなかった。
「……また読みたいと思うこと、かな」
「では、気に入りました」
「そう。ならよかった。合ってるかは分からないけど」
店の奥で帳簿を閉じたメリダが、卓へ顔を向けた。
「ずいぶん持ってきたね」
ティナは背負っていた旅袋の帯を外し、床へ下ろした。
「ギルドから。北通りの穀物商が、袋を入れ替えた残りを寄付してくれたの。麦と豆、それから干した根菜が少し」
「袋を入れ替えた残りですか」
リゼが尋ねた。
「売るには量が少なかったり、形が揃ってなかったりするものだよ。食べる分には問題ないって、エダが確認してる」
ティナは小さな麻袋の口を少し開いた。
中には薄茶色の豆が入っていた。大きさは揃っておらず、割れたものも混じっている。
「こっちは豆。旅袋の底に麦が一袋と、乾物が二包み。あと、本ね」
「ティナがすべて運びますか」
「そのつもりだったけど」
ティナは床の荷と、リゼの右脚を順に見た。
「リゼには本だけお願いしようかな」
「重量の一部を運ぶことはできます」
「今日は店でも働いたでしょ。帰りもあるんだから、本だけでいいよ」
「麦袋の重量は」
「ちゃんと量ってないけど、私一人で運べるくらいだよ」
「孤児院までの距離を運んでも、動作に支障はありませんか」
「ないよ。いつもの装備より軽いから」
ティナは旅袋の口を締め直した。
店の奥からメリダが言った。
「リゼの仕事は終わってるよ。行くなら、脚を見てからにしな」
リゼは椅子へ腰を下ろし、右脚の角材を前へ伸ばした。
メリダは固定布の外側を押し、緩みと擦れを確かめる。角材をわずかに左右へ動かしたあと、膝下に残る外殻と布の境へ目を向けた。
「朝より悪くはなってないね」
「孤児院まで歩けますか」
「行って帰るだけならね。向こうで長く立たないこと」
「ええ。帰りも一緒に戻るよ」
ティナが答えた。
リゼは立ち上がり、布で包んだ本を両腕へ抱えた。店へ来るときに羽織っていた生成り色の肩掛けを、上衣の上から着ける。
ティナも旅袋を背負い直し、小さな麻袋を左手へ提げた。
そのとき、入口の外からロアンが入ってきた。
ティナが振り返る。
「迎えに来たの?」
「違う」
「じゃあ、買い物?」
「孤児院へ行く」
ティナは一度、リゼを見た。
「一緒に?」
「ああ」
「私もいるから大丈夫だよ」
「最初だけだ」
「何が?」
ロアンはリゼを見た。
孤児院へ本と食料を届けるだけなら、ティナへ任せてもよかった。ティナは何度も出入りしている。昼を過ぎたばかりで、帰りが夜になる距離でもない。
それでも、リゼが初めて中へ入る場所だった。
以前、建物の前を一人で通ったことは聞いている。庭にいた三人の子どもと話したことも、宿舎へ戻ったあとに報告されていた。
そのときは、何事もなかった。何事もなかったはずだった。
だが、敷地の中へ入り、長く子どもたちと過ごすなら話は別だった。
機械人形を怖がる者がいるかもしれない。珍しがって角材や外殻へ触れようとする者もいる。リゼが悪気なく、答えにくい質問を重ねる可能性もあった。
「管理してる人間に挨拶する」
ロアンが言うと、ティナは少し笑った。
「ずいぶん真面目なのね」
「何かあったとき、説明する人間がいたほうがいい」
「何かって?」
「まだ分からない」
リゼが顔を向けた。
「私が迷惑を掛ける可能性がありますか」
「ないとは言わない」
「何に注意すればよいですか」
「勝手に触るな。壊すな。聞かれたことには答えろ」
ティナが横から言った。
「それ、リゼにじゃなくて、子どもたちに言うつもりじゃないよね?」
ロアンは答えなかった。
その視線が、ティナの持つ麻袋へ移る。
「貸せ」
「何を?」
「荷だ」
「持てるよ」
「本とリゼを連れていくんだろ」
「だからって、ロアンが持つことないでしょ」
ロアンは返事を待たず、ティナの左手から麻袋を取った。
中身は豆らしく、持ち上げると乾いた粒が擦れ合った。見た目ほど重くはない。
「それだけ?」
ティナが尋ねる。
「背中のはお前が持て」
「ええ。そのつもり」
ティナは少し笑った。
「挨拶だけじゃなくて、荷物も持ってくれるんだ」
「道が同じだ」
「そういうことにしておく」
メリダが店の奥から声を掛ける。
「日が暮れる前には戻りな」
「はい」
リゼは返事をし、ティナとともに店を出た。
ロアンも豆の袋を提げ、そのあとへ続いた。
孤児院は、エルデン南側の居住区にあった。
水路沿いの店から南へ進み、工房区へ向かう大通りを途中で外れる。道幅は次第に狭くなり、二階部分が通りへ張り出した古い建物が増えていった。
窓の下には洗濯物が渡され、建物の間に作られた空地では、子どもが木片を積んで遊んでいる。壁際には水桶や薪が置かれ、干した薬草の匂いが風に混じっていた。
ティナは迷わず進んだ。
途中で顔を合わせた女から声を掛けられ、片手を上げて返す。
「よく来るのか」
ロアンが尋ねた。
「ときどきね。仕事がない日とか、エダに頼まれたものがあるとき」
「いつからだ」
「エルデンに来て少ししてから。ギルドで手伝いを探してるって聞いたの」
「報酬は」
「ないよ」
「そうか」
ティナは振り返った。
「どうして行くのかは聞かないの?」
「行きたいから行ってるんだろ」
「まあ、そうだけど」
ティナは前へ向き直った。
「放っておくと気になるの。食べるものが足りてるかとか、変な仕事を持ち込まれてないかとか」
「お前一人で何とかできるのか」
「できないよ。でも、できることはあるでしょ」
背中の旅袋が、歩くたびにわずかに揺れた。
ロアンの提げた麻袋の中では、豆が乾いた音を立てている。
「ギルドは、いつも食料を出してるのか」
「いつもじゃないよ。寄付があったときに、エダが分けてるの。孤児院だけじゃなくて、仕事中に怪我をした人の家とかにもね」
「補助金は」
「少し出てるって聞いたけど、全部を賄えるほどじゃないと思う」
「管理してるのは一人か」
「エルナ一人。近所の人や私も手伝うけど、責任を持ってるのはエルナだよ」
ロアンはそれ以上聞かなかった。
しばらく進むと、建物の並びが少し途切れた。
低い木の柵の向こうに、周囲より広い敷地を持つ二階建ての家がある。
リゼは足を止めなかったが、建物へ顔を向けた。
「以前、ここを通りました」
「ああ」
ロアンはリゼから聞いていた。
「庭にいた子どもと話しました」
「そういえば、そうだったね。何を話したんだっけ」
ティナが尋ねる。
「私が機械人形であること。右脚が木材であること。暗い場所では瞳の光が見えやすいこと。巾着の中身を他人へ話さないほうがよいことです」
ティナは笑った。
「そう、子どもに教わった話」
「はい。教わりました」
ロアンは木の柵の向こうを見た。
庭には三人の子どもがいた。
男の子が二人に女の子が一人、地面へ平たい石を積み上げている。年上のほうは、石の傾きを確かめながら慎重に置いていた。年下のほうは、形を見ずに次々と重ねては、崩れるたびに笑っている。
以前、リゼへ「また通って」と言った三人だった。
最初に顔を上げたのは、女の子だった。
リゼを見て、すぐに目を大きくする。
「お人形さん」
ノルと呼ばれる年下の男の子が、積み上げていた石を倒したまま振り返った。慎重に石を選んでいた年上の少年――ユーリも、手を止める。
三人は柵の近くまで走ってきた。
しかし、途中で女の子――ミナがティナへ気づいた。
「ティナ!」
声が一段大きくなる。
三人はリゼの前ではなく、先を歩いていたティナへ駆けていった。
ミナはティナの腰へ両腕を回した。ノルは上衣の袖を掴み、ユーリは少し遅れて近づくと、ティナの背負った旅袋へ目を向けた。
「今日は何持ってきたの?」
「お菓子ある?」
「袋、重そう」
三人の言葉が重なる。
「一度に話しても分からないよ」
ティナは笑いながら、腰へ抱きついたミナの頭を撫でた。
「今日は麦と豆と乾物。それから本だよ。お菓子はなし」
「ええ」
ノルが不満そうな声を上げる。
「ええ、じゃないよ。この前食べたでしょ」
「もうなくなった」
「食べたんだから、なくなるよ」
ユーリはティナの背中へ回り、旅袋の底へ手を当てた。
「麦、持つ」
「中までならお願いしようかな。もう少し待ってね」
「一人で持てる」
「全部は重いよ」
「持てる」
「じゃあ、あとで一緒に持とう」
ユーリは完全には納得していないようだったが、頷いた。
ミナが、ティナの脇からリゼを見た。
「本当に来た」
「はい」
「また通った」
「今日は、ここへ来ました」
「中に入るの?」
「はい」
ノルが、リゼの腕に抱えられた包みを指す。
「それ本?」
「はい」
「灰喰い獣の本?」
「灰喰い獣は登場しません」
「じゃあ、何が出る?」
「お姫様と、従者と、狐です」
「怪物は?」
「登場しません」
ノルは露骨に肩を落とした。
「怪物がいない本もあるの?」
「あります」
「つまらない」
「まだ読んでいません」
「お人形さんは読んだんでしょ」
「はい」
「面白かった?」
リゼは少し考えた。
「気に入りました」
ノルは、怪物がいないのに気に入る理由が分からないように首を傾げた。
ミナは本よりもリゼの顔を見ている。
「目、今日も青い」
「はい」
「明るいから、あんまり光って見えない」
「周囲が暗くなれば、見えやすくなります」
「中なら暗いよ」
ミナはそう言い、リゼの手を取ろうとして、布包みを抱えていることに気づいた。代わりに肩掛けの端へ軽く触れ、入口のほうへ引こうとする。
「早く来て」
「歩行速度を上げることはできません」
「じゃあ、ゆっくりでいい」
ミナは離れず、リゼの歩調へ合わせた。
ノルは絵本の中に本当に怪物がいないのか確かめようと、反対側から包みを覗き込む。ユーリはティナの旅袋を気にしながら、その後ろへ続いた。
ロアンも門へ向かった。
そのとき、ノルが振り返った。
ティナとリゼの後ろに、見慣れない男がいることへ、ようやく気づいたらしい。
足が止まった。
視線が、ロアンの腰の棒剣へ下がる。
それから胸当て、肩、顔へゆっくり上がった。
先ほどまで動き続けていた口が閉じる。
ノルは一歩下がり、ティナの背後へ回った。
ミナとユーリもロアンを見た。
ミナはリゼの肩掛けを掴んだまま、身体を半分後ろへ隠す。ユーリだけは逃げなかったが、年下の二人より前へ出るように位置を変えた。
「誰?」
ミナがティナの脇から尋ねた。
「ロアンだよ」
「何する人?」
「護衛の仕事をしてるの」
「剣、持ってる」
ノルが小声で言った。
「護衛だからね」
「怒ってる?」
ティナはロアンの顔を見た。
「怒ってないよ」
「怖い」
ノルはティナの背中へ、さらに身体を寄せた。
ロアンは何もしていない。
声も掛けていない。
豆の袋を提げて、そこに立っているだけだった。
「怖い顔してるけど、大丈夫だよ」
ティナが言う。
「余計なことを言うな」
ロアンが答えると、ノルは完全にティナの後ろへ隠れた。
「ほら、そういう言い方するから」
ティナは苦笑し、ノルの頭へ手を置いた。
「怒ってないって」
「怒ってる声だった」
「いつもあんな感じなの」
ロアンは訂正しなかった。
リゼがノルへ顔を向ける。
「ロアンは、現在怒っていません」
「本当?」
「はい」
「どうして分かるの?」
「ロアンは怒ったことがありません」
ティナが堪えきれずに笑った。
ノルはティナの脇からロアンをもう一度見た。
安心した様子はなかったが、逃げることもしなかった。
ユーリが、ロアンの提げた麻袋を指す。
「それ、何?」
「豆だ」
「ティナの?」
「ギルドからだ」
ユーリは袋とロアンの顔を見比べた。
怖い男が食料を運んできたことを、どう受け取ればよいのか分からないらしい。
柵の門を開け、敷地へ入る。
庭の隅には小さな畑があった。葉物と豆が植えられ、低い物干しには子ども用の上衣と布が並んでいる。薪の束と水桶も壁際へ寄せられていた。
正面の建物は、以前リゼが通りから見たとおり、窓が四つ並んでいる。
外壁には何度も補修した跡があり、窓枠の形も少しずつ違っていた。元は一つの家ではなく、別の用途で使われていた建物を住居へ直したのかもしれない。
ミナが入口の扉へ手を掛けた。
引いても、途中で止まる。
ミナは取っ手を両手で持ち、身体ごと上へ持ち上げるようにして引いた。扉の下端が敷居へ擦れ、硬い音を立てながら開く。
ロアンは蝶番へ目を向けた。
上側の留め具が下がっている。
釘も一本、半分ほど浮いていた。
「前からか」
ロアンが尋ねると、ミナは肩を揺らした。
自分へ声を掛けられたと思わなかったらしい。取っ手を持ったまま、ティナを見る。
「戸のことだよ」
ティナが言った。
ミナはロアンを見ないまま答えた。
「持ち上げれば開く」
「そういう話じゃない」
ミナは取っ手を離し、リゼの後ろへ移った。
そのまま建物の中へ声を上げる。
「エルナ、ティナが来た」
続けて、
「お人形さんも来た」
少し間を置いてから、
「怖い人もいる」
と付け加えた。
「怖くないってば」
ティナが笑いながら言う。
建物の中から、別の子どもの声が返った。
ほどなくして、通路の奥から四十代ほどの女性が現れた。
暗い茶色の髪を後ろで一つに束ね、袖を肘まで捲った上衣に、洗いざらした前掛けを着けている。手には濡れた布があり、掃除の途中だったらしい。
エルナはティナを見ると、表情を和らげた。
「来てくださったんですね」
「エダから預かってきたよ。麦と豆と乾物。それから本」
「こんなにたくさん。ありがとうございます」
エルナはすぐにティナの旅袋へ手を伸ばした。
「重かったでしょう。こちらで持ちます」
「ここまで来たから大丈夫だよ。麦は中へ置けばいい?」
「はい。広間の奥へお願いします。ただ、無理はしないでください」
「平気だよ」
ティナへ抱きついていたミナはまだ離れず、ノルも袖を掴んだままだった。
エルナは二人へ声を掛ける。
「ティナさんを入口に立たせたままでは、荷物を下ろせないでしょう。少しだけ離れてあげてね」
「でも、久しぶり」
「十日も経ってないよ」
ティナが言った。
「長い」
ノルが答える。
「そうなの?」
「長いよ」
「じゃあ、次はもう少し早く来られるようにするね」
「約束?」
「仕事がなかったらね」
子どもたちは完全には納得していなかったが、エルナに促されて少しずつ離れた。
ティナはリゼを示した。
「この子がリゼ。前に話したでしょ。メリダの店で働いてるの」
エルナはリゼへ顔を向けた。
視線は一度、右脚の角材へ下がったが、すぐに顔へ戻る。
「初めまして。エルナです。ここで、みんなと暮らしています」
「リゼです」
「前に、子どもたちと話してくれたそうね」
「はい」
ミナがエルナの横から顔を出した。
「また来てって言ったの」
「そうだったのね」
「また来ました」
リゼは同じ言葉を繰り返した。
エルナの表情が少し和らいだ。
「ありがとう」
「本を渡すためです」
「それでも、来てくれたことに変わりはないでしょう」
リゼはすぐには答えなかった。
エルナは、リゼが抱えている布包みへ目を向ける。
「それが絵本なの?」
「はい」
「きれいに包んでくれたのね」
「店の商品と同じ方法です」
「そう。上手にできているね」
子どもを褒めるときと似た、自然な声だった。
過度に甘い言い方ではなく、できたことをそのまま認めている。
リゼは包みを抱える腕の位置を、わずかに直した。
エルナは次にロアンを見た。
子どもたちの間へ、緊張が戻る。
ノルはまたティナの背後へ入り、ミナはリゼの肩掛けを掴んだ。ユーリだけはその場に残り、ロアンの腰の剣へ何度も視線を送っている。
「ロアンだ。リゼの、所有者だ」
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「今日は、最初に挨拶しておこうと思った」
「お気遣いいただいて、すみません」
「リゼが迷惑を掛けたら、俺に言ってくれ」
エルナは少し眉を寄せた。
「あまり心配なさらなくても大丈夫ですよ」
「それだけで済むかは分からない」
「私は、何をすると迷惑になりますか」
リゼが尋ねた。
ロアンは答えなかった。
ティナが小さく笑いかけたが、エルナはリゼへ向き直った。
「人のものへ、勝手に触らないこと。誰かが嫌がることを無理にしないこと。それが守れれば大丈夫よ」
「ロアンにも、似たことを言われました」
「それなら、きっと問題ないね」
エルナはロアンへ顔を戻した。
「何かありましたらお伝えします。ただ、最初から問題を起こす方として扱うつもりはありません」
声は丁寧だったが、曖昧ではなかった。
ロアンは短く頷いた。
「それと、これだ」
ロアンは手にしていた麻袋を差し出した。
エルナは両手で受け取ろうとしたが、持ち上げた瞬間に重さを確かめるように腕へ力を入れた。
「運んでくださったんですか。ありがとうございます」
「ティナの荷だった」
「それでも、ここまで持ってきてくださったでしょう」
エルナは袋を胸元へ抱え直し、通路の端へ置いた。
寄付されたものを当然のように受け取っている様子はなかった。
入口の奥から、新しい子どもが二人現れた。
一人は十歳ほどの少年だった。短く切った黒髪で、片手に空の水差しを持っている。五人の中では最も年長らしく、戸口に知らない男が立っているのを見ると、足を止めた。
ユーリよりもさらに静かな少年だった。
エルナが呼ぶ。
「カイ、ティナさんが来てくれましたよ」
カイはロアンから目を離さないまま、ティナへ頭を下げた。
「ティナ」
「久しぶり。水を汲みに行くところだった?」
「うん」
「あとで手伝うよ」
「一人でできる」
「そうなの? じゃあ、こぼさないようにね」
もう一人は、五歳ほどの小さな少女だった。
柔らかな茶色の髪が片側だけ潰れ、眠そうな目を擦っている。エルナの上衣の裾を掴みながら、ゆっくり通路へ出てきた。
「リル、起きたの?」
ティナが膝を曲げる。
リルは答える代わりにティナへ近づき、その首へ腕を回した。
ティナは慣れた様子で抱き上げ、少女の背を軽く叩いた。
「声で起きちゃった?」
「うん」
「ごめんね」
「ティナ、いなくなる?」
「まだ来たばかりだよ」
「抱っこ」
「もうしてるでしょ」
リルはティナの肩へ頬をつけた。
「重くなったね」
「重くない」
「前よりは重いよ」
「降ろさないで」
「少しだけだよ」
リルはティナの肩越しにリゼを見た。
淡い青の瞳と、胸元に抱えられた本をしばらく見る。
次にロアンへ視線を移した。
身体がわずかに固くなり、ティナの首へ回した腕へ力が入った。
「誰?」
「ロアンだよ。リゼと一緒に来たの」
「帰る?」
「まだ帰らないよ」
リルはロアンを見ないように、ティナの肩へ顔を伏せた。
エルナが少女の背へ手を添える。
「大丈夫よ。ご挨拶に来てくださっただけだから」
「怖い」
「剣を持っているから、怖く見えるのね。でも、ここで剣を使う人ではないから大丈夫よ」
ロアンは何も言わなかった。
否定しようとして声を出せば、さらに怖がらせる気がした。
カイは、ほかの子どもより離れた場所からロアンを見ていた。
警戒している。
それでもエルナの近くへ立ち、年少の子どもと知らない大人の間へ位置を移している。
ロアンは、その立ち方に見覚えがあった。
怖くても逃げず、自分より小さい者の前へ立つ。
オルガートに拾われる前、自分も似たことをしていたかもしれない。
守れたものがあったかは覚えていない。いや、守れたものなどなかったはずだ。
「本?」
リルがティナの肩越しに尋ねた。
「はい」
「見たい」
ミナがすぐに言う。
「お姫様の本だよ」
「お姫様?」
「狐も出る」
ノルが不満そうに付け加える。
「怪物は出ない」
エルナが子どもたちへ声を掛けた。
「まずは荷物を中へ運ばせてあげようね。入口を塞いだら、ティナさんもリゼも入れないでしょう」
子どもたちは少しずつ下がった。
ユーリが、ティナの背負った旅袋へ手を伸ばす。
「麦、持つ」
「気をつけてね。底を持ってね」
ティナは旅袋を下ろした。
ユーリが底を持ち、カイも無言で反対側へ手を添える。実際にはティナがほとんどの重さを支えていたが、二人とも真剣な顔で広間まで運んだ。
リゼは絵本を抱え、ミナと一緒にそのあとへ続く。ノルは包みの周りを歩き、怪物が本当に出ないのか何度も尋ねた。
ロアンは最後に入口を通った。
扉を閉めようとすると、下端が敷居へ当たる。取っ手を持ち上げなければ動かなかった。
ロアンは扉を開けたまま、上側の蝶番を見る。
釘穴が広がり、蝶番の板がわずかに斜めになっている。
「いつからだ」
エルナが振り返った。
「扉のことでしょうか」
「ああ」
「一月ほど前からです。持ち上げれば動きますので、いまはそのまま使っています」
「そのうち外れる」
「ええ。分かっています」
「直さないのか」
エルナは少し困ったように扉を見た。
「ほかに先に直さなければならない場所がありまして。雨の入る窓と、裏の物置の屋根です。扉はまだ開きますから、後に回しています」
助けを求める言い方ではなかった。
困っていることを並べ、何かを期待している様子もない。
限られた金と時間の中で、優先する順番を説明しただけだった。
ロアンは蝶番から目を離した。
まず挨拶に来ただけだ。
戸を直すためではない。
建物の中へ入る。
正面の通路を挟んで、左右に部屋があった。
片側は食事と作業に使う広間で、長い卓と高さの違う椅子が並んでいる。もう片側には寝台がいくつか置かれ、畳まれた毛布と衣服が壁際へ積まれていた。
食器も椅子も形が揃っていない。
棚には新しい板と古い板が混じっていた。
それでも床は掃かれ、寝具も畳まれていた。
物が足りない場所ではあったが、放置されている場所ではない。
広間の奥には、ティナが運んできた麦袋、豆、乾物が並べられた。
エルナは一つずつ中身を確かめ、古い板札へ内容を書き留めていく。
麦。
豆。
干した根菜。
正確な量は、あとで量るらしい。
「今日の夕食に使うの?」
ノルが尋ねた。
「今日は、前からあるものを使いますよ。新しくいただいた分は、残っている量を確認してからにしましょうね」
「豆食べたい」
「昨日も豆だったでしょう」
「今日のは違う豆」
「同じ種類ですよ」
「でも、新しい」
「新しくても古くても豆は豆です」
エルナは真面目に答え、袋の口を結び直した。
何日分になるのか。
ほかに何が残っているのか。
次の寄付や自分の収入がいつ入るのか。
そうしたものを考えながら配分している。
エルナは子どもたちが集まれるよう、広間の卓を片づけ始めた。
ティナは言われる前に反対側へ回る。
「こっち、動かすね」
「ありがとうございます。足元に気をつけてください」
ユーリもすぐに卓へ手を掛けた。
カイは空の水差しへ目を向け、そのまま裏口へ向かう。
ロアンは、その動きを目で追った。
誰かに命じられたわけではない。
周囲を見て、水がないことへ気づき、自分で持っていった。
あれくらいの頃、自分も同じだった。
オルガートに拾われたあと、食事を与えられると、食べ終わる前から次にすることを探した。
薪が減っていれば運んだ。
床が汚れていれば掃いた。
何も命じられない時間が落ち着かなかった。
何かを返していなければ、そこへ置いてもらう理由がなくなるように感じていた。それと同じことなのかは、判断がつかなかった。
「ロアン?」
ティナに呼ばれ、視線を戻す。
「何だ」
「どうしたの?」
「何でもない」
ティナはカイが出ていった裏口を見たが、それ以上は聞かなかった。
リゼは低い椅子へ腰を下ろした。布包みの紐を解く。
表紙を子どもたちへ向けると、五人が卓の周りへ集まった。
ミナはリゼのすぐ隣へ座った。ノルは絵が一番よく見える位置を探し、椅子を二度動かす。ユーリは年少のリルへ席を譲り、自分は後ろから覗き込んだ。
リルはティナの膝へ横向きに座り、まだ眠そうに目を擦っている。
カイも水差しを棚へ置いて戻ってきたが、椅子へ座る前に年下の子どもたちの位置を確かめた。最後に、ロアンと子どもたちの間へ入る位置へ腰を下ろす。
ロアンは壁際へ立っていた。
子どもたちはリゼと本へ近づいたが、ロアンの周囲だけは空いている。
「読んでくれるの?」
ミナが尋ねた。
「本を渡すために来ました」
「でも、もう読んだんでしょ」
「はい」
「じゃあ読めるよ」
ティナが横から言った。
「せっかくだから、読んであげたら?」
リゼはエルナを見た。
エルナは、すぐに頼もうとはしなかった。
「リゼ、疲れてはいない?」
「はい」
「それなら、少しだけ読んでもらってもいい? 読みたくなければ、無理に読まなくていいから」
「読むことはできます」
リゼはそう言ってロアンのほうへ顔を向ける。
「好きにしていい」
「ありがとう。やることが多くて。では、お願いね」
リゼは最初の頁を開いた。
声に出して読む。
姫が灰色の城に暮らしていること。
若い従者が毎朝、城の外から白い花を持ち帰ること。
ある日、その従者が戻らなかったこと。
王が別の従者を与えると言ったこと。
姫が拒んだこと。
そこで、ミナが手を上げた。
「どうして別の人じゃ駄目なの?」
リゼは読むのを止めた。
「本には、大切な従者だったため、と書かれています」
「大切って何?」
昨夜、リゼがロアンへ尋ねたことと同じだった。
リゼは少し黙った。
「失いたくないことだと、ロアンは言いました」
五人の視線が、壁際に立つロアンへ向いた。
それまで目を合わせないようにしていたノルまで、恐る恐る顔を上げる。
「俺を見るな」
ロアンが言うと、リルが身体を縮め、ティナの上衣を握った。
「だから、声を少し優しくして」
ティナが言った。
「普通に話してる」
「ロアンの普通は、子どもには怖いんだよ」
ミナがリゼの肩越しに尋ねる。
「ロアンが言ったの?」
「ああ」
「それなら合ってるの?」
「知らん」
「どうして知らないの?」
「本を書いたのは俺じゃない」
ミナは納得していないようだった。
一方、ユーリはロアンの返事を聞き、少しだけ口元を緩めた。ノルは、怒っていないらしいと判断したのか、ティナの背後から半分だけ出てくる。
リゼが続きを読む。
姫が荷物を持ちすぎていたこと。
途中で衣服や鍋を捨てたこと。
川へ入り、足を滑らせたこと。
狐に助けられたこと。
「兵隊を連れていけばよかったのに」
ユーリが言った。
「私も同じことを指摘しました」
「じゃあ、お姫様は馬鹿なの?」
ノルが尋ねる。
「お姫様の取った行動には問題があります」
ノルが声を上げて笑った。
ミナも笑い、ティナの膝にいたリルまで小さく笑った。ユーリは笑うのをこらえるように口を閉じ、カイだけはリゼの顔を見ていた。
リゼは、なぜ笑われたのか分からないように顔を上げる。
ティナも口元を押さえていた。
「続けて」
ミナが言う。
リゼは頁を進めた。
「狐はしゃべるの?」
ノルが尋ねる。
「本には台詞がありません」
「でも、お姫様のこと好きなんだよ」
「なぜですか」
「助けたから」
「食料を受け取るためだった可能性があります」
「違うよ」
「なぜですか」
「いい狐だから」
ノルは譲らなかった。
ユーリが横から言う。
「食料が欲しいなら、助けたあとに逃げるだろ」
「逃げていません」
リゼは絵を確認した。
「では、食料だけが目的ではなかった可能性があります」
「ほら」
ノルは得意そうに胸を張った。
リルは狐の絵を長く見ていた。
「狐、帰るところないのかな」
誰もすぐには答えなかった。
リゼは頁の文章を確かめる。
「狐の住居については、記載されていません」
「じゃあ、お姫様と行けばいい」
「城へ入ることを許可されるか分かりません」
「お姫様が頼めばいいよ」
リルはそう言い、また狐の絵へ指を置いた。
同じ本を読んでいるのに、子どもたちはそれぞれ違うところを見ていた。
ノルは怪物が出ないことを不満に思いながらも、狐の行動を正しいと決めている。
ユーリは、姫が護衛を連れなかったことを気にする。
リルは、狐が帰る場所を心配する。
カイはあまり口を挟まず、誰かが本へ近づきすぎれば、絵が見えなくなると肩を引いた。
ロアンと読んだときには、荷物の量や道順、姫の判断について話した。
ここでは、同じ本が別のものとして読まれていた。
姫が城門を出る頁へ進むと、ミナが言った。
「ここ、前に戻して」
リゼは一頁戻した。
「何を確認しますか」
「出ていくところ」
ミナは城門の前に立つ姫を見た。
「ここが一番好き」
「なぜですか」
「待ってるだけじゃ会えないから」
深く考えて言った様子はなかった。
すぐに次の頁へ目を移し、狐がいつ出てくるのかを確かめる。
リゼはミナを見てから、もう一度、姫の絵へ視線を落とした。
その言葉を記憶する。
質問と口論が何度も入り、本はなかなか先へ進まなかった。
姫が旅人の荷車を助ける場面まで読んだところで、エルナが戻ってきた。
「今日はそこまでにしましょう。そろそろ食事の支度を始める時間よ」
「まだ途中」
ノルが言う。
「続きは、次に読んでもらいましょうね」
五人の顔が、リゼへ向いた。
「次も来る?」
ミナが尋ねた。
「ここへ来なければ続きを読むことができません」
「じゃあ、また来て」
「はい、残りを読む必要があります」
「約束だよ」
リゼは少し考えた。
「仕事の予定を確認します」
「来る?」
「可能であれば来ます」
子どもたちは、それを来るという返事として受け取ったらしい。
カイが、頁の下に書かれた数字を指した。
「二十頁まで」
「はい」
「忘れないで」
「記憶します」
ノルが横から言う。
「次は怪物が出るかもしれない」
「最後まで登場しません」
「言わなくていいのに」
ノルはまた肩を落とした。
リゼは本を閉じ、エルナへ渡した。
エルナは両手で受け取った。
「ありがとう。みんな、楽しそうに聞いていたよ」
「静かではありませんでした」
「いつもよりは静かだったよ」
ティナが笑った。
「また頼んでもいい?」
リゼは子どもたちを見た。
「次の頁が残っています」
「そうだね」
子どもたちは食事の準備を始める。
カイは椅子を壁際へ戻す。ユーリは卓の上へ器を並べ、ノルは数を確かめずに持ってきたため、一つ足りなくなってもう一度棚へ戻った。
ミナは布を持って卓を拭くが、話しながら手が止まるたび、エルナに名前を呼ばれて作業を再開する。
リルはティナの上衣の端を握ったまま離れず、空いた片手で小さな匙を一つずつ並べていた。
「カイ、水はもうある?」
ティナが尋ねる。
「汲んだ」
「ありがとう。重かったでしょ」
「平気」
「そう。でも、こぼしたところは拭いてね」
「見てたの?」
「床が濡れてるから分かるよ」
エルナも子どもたちへ声を掛ける。
「急がなくていいから、落とさないように運んでね。ノル、走らない。ミナは手を動かしましょう」
「動かしてる」
「いま止まっているよ」
ミナは自分の手を見て、また卓を拭き始めた。
ここで何をすればよいのか、ティナもエルナも、子どもたちも知っている。何かをしなければここにいてはいけないという空気ではないことを、ロアンは感じていた。
ロアンは入口へ戻った。
扉を閉めようとすると、やはり下端が敷居へ引っ掛かる。
取っ手を少し持ち上げなければ動かない。
ロアンは扉を開けたまま、上側の蝶番を見た。
「道具はあるか」
後ろから来たエルナが足を止める。
「何の道具でしょうか」
「戸を直す」
エルナは蝶番へ目を向けた。
「開かなくなったわけではありませんので、今日は大丈夫ですよ」
「そのうち外れる」
「ええ。分かっています」
「なら直せ」
「直せるのでしたら、すでに直しています」
言い方は丁寧だった。
苛立っているわけでも、助けを求めているわけでもない。
できないものを、できないまま使っている事実を答えただけだった。
「道具があれば直せる」
「今日は、本と食料を届けていただくだけでも十分です。そこまでお願いするつもりはありません」
「頼まれてない」
「ええ、頼んでいません」
ロアンはエルナを見た。
遠慮しているだけではなかった。
本当に、他人へ余分な負担を掛けるつもりがないらしい。
「外れたあとなら、今より手が掛かる」
「それは分かっています」
「子どもが挟まれるかもしれない」
エルナの視線が扉へ移った。
それでも、すぐには頼まなかった。
「修理代をお支払いできません」
「いらない」
「それでは、こちらが一方的に受け取ることになります」
「戸を直すだけだ」
「子どもたちのためであっても、ほかの方へ何を頼んでもよいとは思っていません」
ロアンは黙った。
エルナは、子どもたちを守るためにここを維持している。
ギルドから少しの寄付を受け、自分でも働き、その金で食事や衣服を用意している。ティナやエダが物を持ってくることもある。
それでも、その事情を理由に、他人の金や時間を当然のようには受け取らない。
ロアンには、その考えが分からないわけではなかった。
見返りのないものを受け取ることが、落ち着かない。
自分も同じだった。
「俺が直したいから直す」
ロアンは言った。
「子どもに頼まれたわけでも、あんたに頼まれたわけでもない」
「どうしてでしょう」
扉が外れかけているから。
直せるから。
誰かが怪我をする前に直したほうがよいから。
理由はいくつもあった。
それでも、説明しきれる気はしなかった。
「見つけたからだ」
エルナはしばらくロアンを見た。
ティナも何も言わない。
「……それでしたら、お願いしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「必要なものが足りなければ、今日はなさらなくて結構です。買ってまで直していただくつもりはありませんから」
「分かった」
道具は裏の物置にあった。
古い金槌と刃の短い鋸。釘は何本か曲がっていたが、使えるものも残っている。薪の端材から薄い木片を切り出せば、広がった釘穴を埋められそうだった。
ロアンは扉を持ち上げ、蝶番から外した。
ティナが反対側を支える。
「そっち、持てる?」
「ああ」
「手を挟まないでよ」
「分かってる」
「持ち上げるよ。せーの」
二人で扉を壁へ立て掛けた。
作業を見ようと、五人の子どもたちが入口へ集まってくる。
ただし、反応はそれぞれ違った。
ノルは金槌の音を聞きたがり、前へ出ようとする。ミナはリゼの横から作業を覗き込み、何を直しているのか何度も尋ねる。
ユーリは危ないと言われる前に年下の二人を後ろへ下げた。
リルは大きな音を警戒し、ティナの上衣を掴んでいる。
カイは少し離れた位置から、ロアンの手元と扉の蝶番を交互に見ていた。
リゼは子どもたちの前へ立つ。
「近づかないでください」
「見てるだけ」
ノルが言う。
「釘や木片が飛ぶ可能性があります」
「飛ぶの?」
「可能性があります」
エルナも子どもたちへ声を掛けた。
「リゼの言うとおり、少し離れて見ましょう。金槌を使っているところへ近づくと危ないですよ」
ユーリがノルの肩を引く。
「下がれって」
「見えない」
「見えるだろ」
「ユーリが邪魔」
「前に出るな」
リルは両手で耳を塞ぎ、ティナの脚へ身体を寄せた。
「怖い音する?」
「少しだけだよ。終わったら教えるから、耳を塞いでていいよ」
ロアンは浮いた蝶番を外した。
釘穴は予想より広がっている。何度か同じ位置へ打ち直した跡があった。
「前にも直したのか」
エルナが頷いた。
「近所の方に一度だけお願いしました。しばらくはよかったのですが」
「穴を埋めてない」
「そこまでは、私にも分かりませんでした」
ロアンは端材から細い木片を切り、釘穴へ打ち込んだ。
金槌の音が鳴る。
リルの肩が揺れ、ティナの上衣を掴む指へ力が入った。
ノルは反対に目を輝かせる。
「もう一回」
「遊んでるんじゃない」
ロアンが答えると、ノルは口を閉じた。
それでも逃げず、ティナの脇から作業を見続けた。
余った木片を削り、蝶番を少し上へずらす。釘を打ち直し、扉を戻す。
一度閉める。
下端が敷居へわずかに触れた。
もう一度外し、蝶番の角度を直す。
二度目に戻すと、扉は途中で止まらず閉じた。
ティナが外側から開けてみる。
持ち上げなくても、戸口いっぱいまで動いた。
「開いた」
「見れば分かる」
「ずっと持ち上げてたから、変な感じ」
ミナが最初に取っ手へ近づいた。
ロアンがそばにいるため、一度足を止める。
それでも扉を開きたかったらしく、リゼの側を回って取っ手へ手を掛けた。
開ける。
閉める。
もう一度開ける。
「軽い」
ノルもすぐに触ろうとしたが、エルナが止めた。
「扉は遊ぶものではありませんよ。壊れないように使いましょう」
ノルは手を引いた。
ユーリが扉の下端を確認し、敷居へ擦れていないことを見る。
「もう持ち上げなくていい?」
「ああ」
ロアンが答えると、ユーリは初めて、まっすぐロアンを見た。
礼は言わなかった。
カイは蝶番の位置を見上げた。
「木を入れたから、釘が抜けないの?」
「抜けにくくした」
「次に緩んだら?」
「同じ場所へ打つな。穴を埋めるか、位置を変えろ」
カイは頷いた。
必要なことだけを覚えようとしている顔だった。
エルナ自身も取っ手へ手を掛け、ゆっくり閉じてから、もう一度開いた。
「助かりました。ありがとうございます」
「ああ」
「本当に、何もお支払いしなくてよろしいのですか」
「いらない」
「それでは、こちらが一方的に受け取るだけになります」
ロアンは金槌を返した。
このまま礼だけを受け取れば、エルナは気にするのだろう。
何も返せないまま助けられることを、ロアンも長く抱えてきた。
「では、リゼの脚の負担が増えないよう、気にかけてもらえると助かる」
言ってから、自分でも少し意外に感じた。
エルナも一瞬だけ目を見開いた。
ティナがロアンを見たあと、少しだけ口元を緩める。
「それは、頼まれなくても──」
「そう、それと同じだ」
建物を出る前に、ロアンは壁や窓枠を一度見た。
戸以外にも、傷んでいる場所はいくつかある。
屋根の端には新しい板が一枚だけ継がれ、庭側の窓には隙間を塞ぐための布が詰められていた。
すぐに崩れる状態ではない。
だが、放っておけば少しずつ悪くなる。
「ほかに、すぐ危ないところはあるか」
ロアンが尋ねると、エルナは視線を上げた。
「扉だけで十分です」
「あるのか」
「ありますが、いまお願いすることではありません」
「手が要るなら、ティナかギルドを通して知らせろ」
エルナはすぐには答えなかった。
「子どもたちのためだからといって、何度もお呼びするつもりはありません」
「わかった」
ロアンはそれ以上言わなかった。
「ですが、覚えておきます」
エルナは最後にそう言った。
外へ出ると、子どもたちは最初にティナを囲んだ。
ミナはティナの手を取り、ノルは上衣の裾を掴む。リルはもう一度抱き上げてもらおうと、両腕を伸ばしていた。
ユーリは少し離れたところに立ちながら、ティナが次に来る日を聞く。カイは何も言わず、開閉するようになった扉を一度だけ確かめていた。
「もう帰るの?」
ミナが尋ねる。
「今日は帰るよ」
「夕飯食べていけばいいのに」
「エルナの分まで食べたら駄目でしょ」
「麦、増えた」
ノルが言う。
「届いたばかりのを、すぐ全部食べたら駄目だよ」
「食べきれないよ」
「今日は前からあるものを食べるんでしょ」
リルはティナの腰へ抱きつく。
「また来る?」
「来るよ」
「絶対?」
「仕事で遠くへ行かなかったらね」
「絶対じゃない」
「でも、来られる日は来るよ」
リルは不満そうだったが、ティナに頭を撫でられ、ようやく腕を離した。
ミナは今度、リゼのあとを追ってくる。
「次、いつ来る?」
「まだ決まっていません」
「本の続きがあるよ」
「はい」
「じゃあ、来るでしょ」
「来ます」
「また通って」
以前と同じ言葉だった。
ただ、今度は建物の前を通るだけでは足りないらしい。
「可能であれば、来ます」
ミナは満足したように頷いた。
ノルはリゼへ言う。
「次は怪物の本を持ってきて」
「私が本を選ぶとは決まっていません」
「ティナに頼む」
「怪物の本があったらね」
ティナが答える。
ユーリは、
「本の続きが先だろ」
とノルへ言った。
「怪物のほうがいい」
「今の続きが気になる」
二人の言い合いを聞きながら、リゼは絵本の残り頁を思い出しているようだった。
最後に、子どもたちはロアンを見た。
誰もすぐには近づかなかった。
ノルが、ティナの後ろから顔だけを出す。
「戸、直した人」
「ああ」
「まだ怖い」
ロアンは答えなかった。
ティナが笑う。
「でも、戸は直してくれたでしょ」
「怖いけど、直した」
「そうだね」
ノルは少し考えたあと、ロアンへ向かって小さく手を上げた。
別れの挨拶なのか、距離を取るための動きなのかは分からない。
ロアンも片手を上げた。
ノルはすぐにティナの後ろへ戻った。
ユーリは頭だけを下げた。
カイは扉のそばに立ったまま、ロアンへ言う。
「直し方、覚えた」
「あれだけじゃ足りない」
「次は聞く」
「誰にだ」
カイはすぐには答えなかった。
「ロアンがいたら、ロアンに」
ロアンは一瞬、返答を止めた。
「いなければ、分かるやつを呼べ」
「うん」
帰り道では、ティナとリゼが並んで歩いた。
「子どもたち、喜んでたでしょ」
ティナが言う。
「読む時間より、質問へ回答する時間のほうが長くなりました」
「あの子たちと読むと、そうなるよ」
「同じ本でも、見る箇所が異なりました」
「そうだね。ノルは怪物のことしか考えてないし、リルは狐ばかり見てたでしょ」
「ミナは、待っているだけでは会えない、と言いました」
「あの子、そんなこと言ったの?」
「はい」
「お姫様が城を出るところ?」
「はい」
ティナは少し考えた。
「親に、会いたいんだよね。 たぶん……」
ロアンは二人の少し後ろを歩いていた。
ティナが振り返る。
「でも、戸まで直すと思わなかった」
「あのまま使えば外れる」
「頼まれてなかったでしょ」
「直せた」
「そういうところ、前から?」
ロアンは答えなかった。
前からだったかもしれない。
目の前で壊れかけているものがあれば、直せる範囲で手を出したことはある。
仕事でもない。
報酬もない。
もう行く必要もない場所だった。
それでも、窓や屋根の傷みが頭に残っている。
「ロアン」
リゼに呼ばれた。
「何だ」
「次に本を読む時も、同行しますか」
最初の挨拶は終わった。
リゼが迷惑を掛ける様子もなかった。
次に同行する必要はない。
それでも、カイが扉の直し方を聞くと言ったことや、ノルがまだ怖いと言いながら手を上げたことが頭に残っていた。
「分からない」
ロアンは答えた。
リゼはそれ以上尋ねなかった。
左足と角材の音が続く。
その隣をティナの足音が歩き、少し後ろからロアンの足音が重なった。




