4-7. お姫様
継暦六百二十七年 七月三十一日
夕食を終えて二〇三号室へ戻ると、リゼは肩掛けを外すより先に、抱えていた本の包みを机の上へ置いた。
表紙の縁が擦れた、薄い絵本だった。
青い衣を着た少女が、灰色の城壁の上に立っている。少女の向こうには白い塔があり、城壁の外へ続く細い道の先に、小さく人影が描かれていた。
ロアンは扉を閉め、上着を脱いだ。
リゼはいつものように肩掛けを畳み、壁棚の下段へ置く。腰の巾着も外して、その奥へ収めた。
それから机の前の椅子へ座った。本を両手で持ち上げる。
ロアンは寝台の端へ腰を下ろし、昼間に広げていた近郊路の図を手に取った。
町の北東にある旧街道と、近郊の小さな採石場を結ぶ道だった。ギルドで見た依頼札には、崩れた路肩の確認と、荷車が通れる幅の測定とある。
危険は低い。
灰の深い場所へ入るわけでもない。
受けるかどうかはまだ決めていなかった。
机の前で頁をめくる音がした。
薄い紙が一枚ずつ擦れ、しばらくして止まる。
ロアンは図から目を上げなかった。
また頁をめくる。
今度は、すぐには次へ進まなかった。
窓の外では、水路の流れる音に、通りを歩く者の足音が混じっている。階下からは食器を片づける音が聞こえた。
やがて、リゼが言った。
「この人物は、城から出る必要がありません」
ロアンは図の端を押さえたまま顔を上げた。
「何だ」
リゼは、開いた本をこちらへ向けた。
左の頁には、城の広間が描かれている。王冠をつけた男と、青い衣の少女が向かい合い、その周囲には鎧を着た者が何人か立っていた。
右の頁では、少女が小さな袋を肩へ掛け、城門の前に立っている。
「お姫様は、毎朝、従者が持ち帰る白い花を受け取っていました」
「ああ」
「ある日、従者は帰還しませんでした」
「そう書いてあるのか」
「はい」
リゼは左の頁へ視線を戻した。
「王は、別の従者を与えると言っています」
「そうか」
「別の従者が同じ仕事を行うのであれば、お姫様が城を出る必要はありません」
「でも、出たんだろ」
「はい」
「なら、そういう話なんじゃないか」
リゼは少し黙った。
「何が違いますか」
「何がだ」
「別の者が同じ仕事を行うことと、帰還しない従者を探すことです」
ロアンは答えず、本へ目を向けた。
絵の中の王は、少女を止めているように見える。少女の顔は横を向いており、何を考えているかまでは分からない。
「同じ仕事ができても、同じ相手じゃない」
言ってから、ロアンは机の上の図へ視線を戻した。
リゼはすぐには頁をめくらなかった。
「同じ仕事を行う別の者では、代わりになりませんか」
「そいつにとっては、ならなかったんだろ」
「なぜですか」
「知らん。本を書いたやつに聞け」
「本には、従者が大切だったため、と書かれています」
「なら、それが理由だ」
「大切とは何ですか」
ロアンは図の上で指を止めた。
昨日、リゼは、もっとましな所有者とは何かと尋ねた。
そのときも、うまく答えられなかった。
安全で、金があり、長く維持できる者。
そうした条件を並べることはできる。
しかし、リゼがロアンのことを知っていると言ったように、条件だけでは決まらないものがあるらしい。
「失いたくないってことじゃないか」
「なぜ失いたくありませんか」
「そこまで書いてないのか」
「書かれていません」
「じゃあ、分からなくていいんだろ」
「分からないまま読むのですか」
「そういう本もある」
リゼは本へ視線を落とした。
「記録書や依頼書とは違います」
「ああ」
「必要な情報が不足しています」
「絵本だからな」
「絵本では、情報が不足していても問題ありませんか」
「知らん」
リゼは少し考えたあと、頁をめくった。
次の絵では、姫が城の外を歩いていた。
道の左右には背の低い木が生え、その向こうに灰色の山がある。姫の背負った袋は大きく、片手には水筒、もう片方には長い棒を持っている。
リゼは、頁の下に並んだ文字を読んだ。
声に出したわけではない。
淡い青の瞳が、左から右へ一定の速度で動く。
それから言った。
「荷物が多すぎます」
ロアンは図を畳みかけて、やめた。
「何を持ってる」
「衣服を三着、毛布、鍋、食器、七日分の食料、水筒、白い花を入れる箱です」
「多いな」
「はい」
「捨てるだろ、そのうち」
リゼは次の頁をめくった。
姫は道の途中へ座り込み、袋の口を開いていた。そばには小さな狐のような動物がいる。
「捨てています」
「だろ」
「衣服を二着と、鍋を捨てました」
「食器は」
「一つ残しています」
「なら足りる」
「最初から一つにすれば、運ぶ必要はありませんでした」
「城を出たことがなかったんだろ」
「知らなかったため、誤ったのですか」
「たぶんな」
「王や兵士へ必要な荷物を確認すべきでした」
「止められてたんじゃないか」
「止められていても、必要な情報を求めることはできます」
「お前ならそうするんだろうな」
リゼは、その言葉へ返答しなかった。
また頁を進める。
姫は川へ出た。
橋は壊れており、向こう岸には細い道が続いている。姫は棒を水へ差し込み、深さを測っている。
次の頁では、水へ入っていた。
「この川を渡る必要はありません」
「ほかに道はないのか」
「上流へ進めば、橋があります」
「どれくらい先だ」
「半日です」
「なら、そっちへ行くべきだな」
「ロアンも見てください」
リゼが立ち上がり、ロアンのほうへやってくる。
「なぜだ」
「わたしでは理解できないところが多いです」
「わかった。じゃあここに座れ」
「わかりました」
ベッドに座り、並んで本を覗き込む。
その次の絵では、姫は川の中で足を滑らせていた。
岸から狐が自分の尾を使って、姫を引き上げようとしている。
ロアンは本から目を離し、図を畳んだ。
「この姫、ずいぶん馬鹿だな」
「判断に問題があります」
「子ども向けの本なんだろ」
「子どもへ、誤った判断を教える可能性があります」
「真似しろって書いてあるわけじゃない」
「では、何を教える本ですか」
ロアンは答えに詰まった。
人を探しに行くこと。
失敗しても進むこと。
誰かに助けられること。
そのどれかかもしれない。
しかし、それを教えるために書かれたのかは分からない。
「最後まで読めば分かるんじゃないか」
「最後に説明がありますか」
「あるかもしれない」
リゼは頁をめくった。
姫は狐に助けられたあと、持っていた食料を分けた。
夜になると、二人は木の下で眠った。
翌朝、狐は姫を山道へ案内する。
「狐は話せますか」
「話せないだろ」
途中で、荷車の車輪が溝へ落ちて困っている旅人を見つける。姫は従者を探している途中だったが、旅人を手伝った。
「先を急いでいる場合、ここで停止する必要はありません」
「困ってるなら手を貸すこともある」
「それによって、従者の発見が遅れます」
「そうだな」
「どちらを優先するべきですか」
「状況による」
「旅人は負傷していません。荷車の車輪が落ちているだけです」
「姫一人で直せるのか」
「狐と二人で押しています」
「狐は数に入るのか」
「絵では、押しています」
ロアンは本を覗き込んだ。
小さな狐が前脚を荷車へ当てている。押す力があるようには見えない。
「役には立ってないだろ」
「しかし、手伝っています」
「そうだな」
次の頁では、荷車が溝から出ていた。
旅人は礼として、姫へ乾いたパンと水を渡す。さらに、山道の先で傷ついた若い男を見たと教えた。
リゼの視線が文字の上で止まった。
「旅人を助けたため、従者の情報を得ました」
「そういう話か」
「旅人を助けなかった場合、従者を見つけられなかった可能性があります」
「ああ」
「しかし、姫は情報を得るために助けたのではありません」
「そうだろうな」
「結果として、姫自身の目的にも役立ちました」
「そうだな」
「旅人を助けることは、合理的だったことになりますか」
「結果だけ見ればな」
「結果が異なった場合は、不合理ですか」
ロアンはしばらく黙った。
「何でも、あとからなら好きに言える」
「どういう意味ですか」
「助けたあとで得をすれば、正しかったと言える。何も得られなければ、無駄だったと言える。でも、助けるときには分からない」
リゼはロアンを見た。
「分からない状態で選びますか」
「ああ」
「何を基準にしますか」
「そのとき、自分がどうするかだろ」
「結果ではなくですか」
「結果を先に知ることはできない」
リゼは視線を本へ戻した。
ロアンも、なぜそのように答えたのか考えた。
仕事であれば、依頼内容と報酬、危険の大きさから判断する。
道で困っている者がいれば、時間と危険が許すかを見る。
それでも、すべてを先に計算できるわけではない。
ベルグラートでリゼを買ったときも、何に使うのか決めていなかった。
金が戻る見込みもなかった。
直せる保証もない。
その判断が正しかったのか、今も分からない。
ただ、分解されると知ったまま、置いていくことはできなかった。
リゼは、次の頁をめくった。
山の中腹で、姫は従者を見つけた。
従者は岩壁のそばへ横たわり、片脚を布で固定している。そばには折れた花籠と、枯れかけた白い花があった。
姫は膝をつき、従者の手を取っていた。
「従者は生存しています」
「ああ」
「脚を負傷しています」
「絵を見れば分かる」
「自力で歩くことは難しいと思います」
「姫が背負うんじゃないか」
「姫の体格では困難です」
「狐に引かせるか」
「狐は小さいです」
次の頁では、姫が木の枝と毛布を使い、簡単な担架を作っていた。
ロアンは少し眉を寄せた。
「ずいぶん器用だな」
「担架の結び方が不十分です」
「絵本だ」
「移動中に外れる可能性があります」
「外れないことになってるんだろ」
「なぜですか」
「そういう話だからだ」
リゼは納得していないようだった。
それでも頁を進める。
姫と狐は、従者を運びながら山を下りた。
途中で雨が降る。
姫は城から持ってきた最後の衣服を、従者へ掛けた。
自分は濡れたまま歩いている。
「姫も体温が低下します」
「そうだな」
「二人で使用できるよう、布を分けるべきです」
「小さいんじゃないか」
「絵では、二人を覆うことが可能です」
「なら、分ければいいな」
「なぜ、従者だけに掛けますか」
「そいつのほうが弱ってるからだろ」
「姫も弱った場合、運べなくなります」
「そうだな」
「判断が不適切です」
「ああ」
ロアンが同意すると、リゼは少し顔を上げた。
「それでも、姫の行動は間違いではないのですか」
「間違ってるんじゃないか」
「では、なぜ書かれていますか」
「間違えるからだろ」
「誰がですか」
「人間が」
リゼは黙った。
ロアンは、言葉を続けた。
「正しいことしかしない人間の話なら、読むところがない」
「正しい判断を知るために読むのではありませんか」
「違うと思う」
「では、何のためですか」
また答えに詰まった。
自分は、子どもの頃に絵本を読んだ記憶がない。大人になってから、今更読むものでもなかった。子供が理解できる、単純な話が描かれているのだろうと思っていた。
オルガートの家にあったのは、古い地図と武具の手入れ書、仕事の記録くらいだった。文字は必要なものから覚えた。
物語を読んで、登場人物の判断について誰かと話したこともない。
「知らん」
ロアンは言った。
「でも、お前は読んでるだろ」
「はい」
「途中でやめたいか」
リゼは少し考えた。
「いいえ」
「なら、それでいいんじゃないか」
リゼは本へ目を落とした。
その答えにも、完全には納得していないようだった。
それでも、頁をめくった。
最後の見開きには、小さな焚き火が描かれていた。
姫と従者は、城へ戻る道の途中で火を囲んでいる。狐は姫の足元で丸くなり、従者の脚には新しい布が巻かれていた。
空の端が薄く明るくなっている。
下の文章は短かった。
リゼは黙って読んだ。
「終わりか」
ロアンが尋ねる。
「はい」
「城へ帰ったのか」
「記載されていません」
「帰る途中なんだろ」
「城へ到着したことは確認できません」
「朝になったら歩き始めるって書いてないか」
「書かれています」
「なら、帰るんだろ」
「途中で別の問題が発生する可能性があります」
「そこまで考えていたら、物語が終わらない」
リゼは最後の頁を見た。
「従者は、お姫様へ、なぜ来たのか尋ねています」
「何て答えた」
「分からない、と答えました」
「分からないのか」
「はい」
ロアンは少し身を乗り出し、最後の頁を見た。
焚き火の向こうで、従者が姫を見ている。姫は顔を伏せ、両手を火へ向けていた。
「大切だから来たんじゃないのか」
「最初の頁には、そのように書かれていました」
「なら、そう答えればいい」
「姫は、自分でも分からないと言っています」
「そうか」
「分からないまま、城を出て、何度も不適切な判断をし、従者を見つけました」
「ああ」
「姫が城を出たことは、正しかったですか」
ロアンはすぐには答えなかった。
城へ残れば、安全だった。
別の従者を選ぶこともできた。
道に迷い、川へ入り、荷物を捨て、狐や他人に運よく助けられた。
従者を見つけたのは結果にすぎない。
見つけられなければ、無謀な判断だったと言われただろう。
それでも、姫は城に残れなかった。
「本人が行きたかったなら、それでいいんじゃないか」
「危険でもですか」
「危険だから、やめることもある」
「今回は、やめませんでした」
「ああ」
「なぜですか」
「分からないって書いてあるんだろ」
リゼは本を閉じた。
表紙の少女は、城壁の上から外を見ている。
読み始める前と同じ絵だった。
しかし、ロアンには、最初に見たときとは少し違って見えた。
城の外に描かれた小さな人影が、帰ってこない従者なのだと分かったからかもしれない。
リゼは本の表紙を布で軽く拭き、机の端へ置いた。
「明日、もう一度読みます」
「読み終わっただろ」
「理解できていない箇所があります」
「何度読んでも、書いてないことは分からないぞ」
「同じ箇所を読んだ場合、別の判断ができる可能性があります」
「そうか」
ロアンは畳んだ近郊路の図を棚へ戻した。まさかこんなに絵本に対して意見を言うような事態になるとは思っていなかった。
読む前、リゼが絵本をどう受け取るかなど考えなかった。
何の役に立つのかとも思ったはずだった。
それでも、リゼは明日も読むと言った。
それをやめさせようとは思わなかった。
「明かりを消すときは言え」
「ロアンは眠りますか」
「ああ」
「本を読む音は、睡眠の妨げになりますか」
「ならない」
ロアンは寝台へ横になった。
リゼは再び本を開く。
薄い頁を戻し、最初から読み始める音がした。
城から出る必要のなかった姫が、もう一度、城門の前に立っていた。




