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灰都の剣士と機械人形  作者: NOEU
4. ここにいたい
43/65

4-6. メリダの店にて

継暦六百二十七年 七月三十一日


メリダの店へ向かう用事はなかった。


旅袋を繕う糸は残っている。胸当ての革紐も、昨日、壁へ掛ける前に確かめた。棒剣の柄へ巻いた革も、まだ締め直す必要はない。


食料を買う予定もなかった。


夕食は宿舎で出る。明日から町を離れる仕事を受けたわけでもない。


それでもロアンは、水路沿いの道を歩いていた。


昼を少し過ぎたころだった。


水路の向こうでは、石工が壁際へ積まれた石材を選り分けている。通りには二台の荷車が止まり、片方の御者が、もう片方の荷台へ麻袋を移していた。乾いた砂と穀物の殻が石畳へ落ち、風に押されて水路の縁へ寄っている。


メリダの店は、その少し先にあった。


扉は開いている。


軒下には、太さの違う麻紐と革帯が吊されていた。戸口の脇には浅い木箱が並び、針、留め具、木製の糸巻きが、小さな仕切りごとに収められている。


店内から、ティナの声が聞こえた。


「これ、エダから預かってきたの」


ロアンは入口へ向かいかけた足を止めた。


中を覗くと、ティナが卓の前に立っていた。


腰には短剣を下げているが、今日は胸当てを着けていない。薄い上衣の袖を肘まで捲り、片手に布で包まれた物を持っている。


卓の向こうにはリゼがいた。


立ち襟の上衣と巻きスカートを身につけ、右脚の角材を棚との間へ斜めに置いている。卓の上には、数え終えた留め具と、細い麻紐の束が並んでいた。


ティナは包みを卓へ置き、結ばれていた紐を解いた。


中から、本が一冊出てくる。


表紙の縁は擦れていたが、破れてはいない。青い衣を着た少女と、灰色の城壁、その上に立つ白い塔が描かれていた。


リゼは本へ視線を落とした。


「私にですか」


「違う。孤児院へ持っていく本」


「孤児院ですか」


「ええ。町の南にあるの。エダが、届ける前ならリゼに貸してもいいって言ってたから。この前の話覚えてない?」


リゼはすぐには本へ手を伸ばさなかった。


「覚えてます。でも、孤児院へ渡すものを、先に私が読んでもよいのですか」


「読んだからって、なくなるわけじゃないでしょ。汚したり破らなければ平気」


「読むあいだ、孤児院へ届く時期が遅れます」


「明日すぐ持っていくわけじゃないの。次に私が行くのは三日後だから、それまでに読めばいいでしょ」


リゼは表紙を見たまま、少し考えた。


「なぜ、私に貸すのですか」


「前に、お姫様の話をしたでしょう」


「はい」


「言葉は知ってるけど、どんなものかは分からないって言ってたから。ちょうどいいかなと思って」


ティナは本の表紙を指で軽く叩いた。


「お姫様が出てくる本」


リゼの淡い青の瞳が、描かれた少女へ向いた。


「この人物がお姫様ですか」


「たぶんね。私もまだ読んでないから、違ったらごめん」


「内容を確認せず、私に貸すのですか」


「絵を見れば、だいたい分かるでしょ」


「そうなのですか?」


ティナは一度表紙を見直した。


「そう言われると、ただ青い服を着てるだけにも見える」


店の奥から、メリダが顔を上げた。


帳簿を開いたまま、片手に短い炭筆を持っている。


「読むのは仕事が終わってからにしな」


「はい」


リゼは答えた。


ティナが本を持ち上げる。


「どこへ置けばいい?」


「こちらへ」


リゼは店の奥にある低い棚へ向かった。


左足が床板を踏み、そのあとを角材が追う。棚の上段に空いている場所があった。


包みを戻してティナはそこへ本を置いた。


「仕事が終わったら、持って帰っていいから」


「三日後までに返せばよいですか」


「うん、孤児院に持っていくから」


そのとき、リゼが入口へ顔を向けた。


ロアンと目が合った。


「ロアン」


呼ばれたため、入口の外へ立ち続ける理由がなくなった。


店内へ入る。


ティナが振り返った。


「いつからいたの?」


「いま来た」


「そうなの?」


疑っているようだったが、それ以上は追及しなかった。


リゼはロアンへ顔を向けたまま尋ねた。


「何か必要ですか」


「まだ見てない」


「買うものが決まっていないのですか」


「ああ」


入口脇の棚へ目を向ける。


針、麻糸、蝋引き糸、革紐、留め金。どれも宿舎の部屋か携行箱に予備があった。


メリダが炭筆を置いた。


「必要なものがないのに来る客もいるんだね」


「見てから決める」


「そうかい」


それだけ言うと、また帳簿へ視線を落とした。


ティナは、ロアンとリゼを順に見た。


「迎えに来たの?」


「違う」


「じゃあ、買い物?」


「まだ決めてない」


「何それ」


ティナは少し笑った。


リゼは、ロアンの返答を確認するように入口脇の棚へ視線を移した。


「蝋引き糸は残っています」


「ああ」


「旅袋に使用している太さのものは、一巻きと半分あります」


「数えたのか」


「昨日、棚を整理したときに確認しました」


「革紐は」


「携行箱に三本あります。胸当てに使用するには一本が短いです」


「針は」


「太いものが三本、細いものが二本あります」


ロアンは棚から手を離した。


自分より、リゼのほうが持ち物の残りを把握している。


「じゃあ、いらないな」


「はい」


ティナが横から口を挟んだ。


「本当に、何も買わないの?」


「必要なものがない」


「必要なものがないことを確かめに来たの」


ロアンは答えなかった。


ティナはまた笑ったが、店の奥に置かれた本を思い出したように振り返った。


「じゃあ私は行くね」


「孤児院へは、ティナが持っていくのですか」


「ええ。たまに行くから」


「何をしに行きますか」


「頼まれたものを持っていったり、子どもの相手をしたり。人手が足りないときは、掃除や水運びも」


リゼは少し考えた。


「仕事ですか」


「違うよ」


「報酬はありませんか」


「ないよ」


「なぜ行くのですか」


ティナは、すぐには答えなかった。


難しい質問をされたというより、今まで理由を決めていなかったようだった。


「放っておくと気になるから、かな」


「何が気になりますか」


「ちゃんと食べてるかとか、怪我してないかとか。本が届くのを待ってる子もいるし」


「ティナが行かなくても、ほかの者が行きますか」


「行く人はいるよ。でも、私が行ってもいいでしょ」


リゼは頷かなかった。


ティナも、納得させようとはしなかった。


「本を渡すとき、一緒に来る?」


「私がですか」


「ええ。読んだ本を持っていくなら、そのまま渡せるでしょ」


リゼはメリダへ顔を向けた。


「三日後は勤務日ですか」


メリダは帳簿の端に書かれた予定を確認した。


「午前だけだね。何もなければ昼には終わるよ」


「昼のあとに、孤児院へ行くことはできますか」


「仕事が終わったあとのことは、自分で決めな」


「分かりました」


リゼは次にロアンを見た。


「ロアン」


「何だ」


「孤児院へ行ってもよいでしょうか」


ロアンは、リゼが自分へ許可を求めた理由を考えた。


一人で町へ出るときには、行き先をガルドかマルタへ伝えることにしている。知らない者についていかないことも話した。


ティナは知らない者ではない。


町の南にある孤児院なら、日が暮れる前に戻れる距離だった。


「ティナと一緒か」


「ええ。私が連れていく」


ティナが答えた。


「帰りもか」


「もちろん」


「日が暮れる前に戻せ」


「分かってるって」


「リゼ」


「はい」


「戻ったら、ガルドかマルタに言え。俺が部屋にいれば、俺にも」


「分かりました」


「じゃあ、三日後ね。本も忘れないで」


「はい」


ティナは満足そうに頷いた。


「じゃあまたね、リゼ」


「ああ」


ロアンが答えると、ティナはロアンへ顔を向けた。


「ロアンには言ってない」


「そうか」


「でも、ロアンもまた」


「ああ」


ティナは店を出て、水路沿いの道を南へ歩いていった。


しばらくすると、開いた扉の外から姿が見えなくなった。


リゼは卓の上へ残っていた留め具を数え直し、小さな木箱へ戻した。細い麻紐の端を揃え、棚の同じ位置へ収める。


メリダから指示は出なかった。


リゼは次にする作業を覚えているらしい。


ロアンは、店の奥の棚へ置かれた本を見た。


「読むのか」


「はい」


「物語を?」


「内容を確認します」


「読みたいんじゃないのか」


リゼは少し黙った。


「まだ読んでいないため、読みたい内容かどうか分かりません」


「そうか」


「ただ、お姫様が何をする人物なのかは確認したいです」


ロアンは本の表紙へ目を向けた。


青い衣を着た少女は、城壁の外を見ている。絵の端には、長い剣を持った男と、荷を背負った小さな獣が描かれていた。


リゼがこのような本を読むとは考えていなかった。


考える必要もなかった。


文字を読めることは知っている。記録や検分書も理解できる。しかし、物語を読む姿は見たことがない。


入口から人影が差した。


日に焼けた上着を着た男が入ってくる。


五十を少し過ぎたくらいで、肩から革袋を提げていた。腰には短い鞭があり、靴には乾いた土と細かな藁が付いている。


ロアンは何度か町で見たことがあった。


近郊の農地とエルデンの間で、穀物や薪を運んでいる御者だった。名前は知らない。


男はロアンへ一度目を向けたあと、卓の前へ立った。


「いつものを」


メリダではなく、リゼへ言った。


リゼは布を畳み、棚の間へ向きを変えた。


左足が床を踏み、そのあとを角材が追う。


低い棚から、太い麻糸を二巻き取る。別の棚から革紐を三本、鉄の留め具を四つ選び、卓へ運んだ。


「太い麻糸を二巻き、革紐を三本、留め具を四つです」


リゼは、革紐を一本ずつ卓へ並べた。


最後の一本を置く前に、男の肩から下がった革袋へ目を向ける。


「革紐を四本にしますか」


男が顔を上げた。


「いつもは三本だ」


「はい」


「どうして増やす」


「前回、荷台右側の革帯が摩耗していました」


男は少し黙った。


「見てたのか」


「店の前に荷車を止めていました。荷布を外すとき、革帯の縁が白くなっていました」


「まだ切れてない」


「切れたあとに交換する場合、荷を一度下ろす必要があります」


男の視線が、卓へ並べられた革紐へ下がった。


リゼは急かさずに待った。


「一本増やす」


「四本ですか」


「ああ」


リゼは同じ幅と厚さの革紐をもう一本選び、ほかの三本へ重ねた。


「留め具は増やしますか」


「そっちはある」


「分かりました」


男は代金を卓へ置いた。


リゼは硬貨を数え、必要な額だけを取り、残りを返す。麻糸と留め具を厚い紙で包み、革紐をその外側へ添えた。


「革紐も中へ入れますか」


「前と同じでいい」


リゼは紙紐を二か所へ掛けた。


一つ目を縦に回し、二つ目を横へ渡す。交差した部分で結び、余った端を包みの下へ挟んだ。


男は受け取ると、指で結び目を押した。


「この前の包みは、荷台に放ってもほどけなかった」


「はい」


「同じ結び方か」


「同じです」


「そうか」


男は包みを革袋へ入れた。


帰り際、リゼの右脚へ一度だけ目を向ける。


「よく動くようになったな」


リゼは自分の角材を見なかった。


「以前より、棚の位置を記憶しています」


「脚の話だ」


「脚の状態は、以前と同じです」


男はしばらくリゼを見たあと、小さく息を吐いた。


「そうなのか」


それ以上は何も言わず、店を出た。


戸口の外には、小さな荷車が止まっていた。荷台には空の木箱が積まれ、右側の荷布を押さえる革帯の縁が白く擦れている。


男は買った包みから革紐を一本取り出した。


古い革帯の脇へ通し、その場で補強を始める。


ロアンは、入口からその作業を見た。


以前なら、何を買ったかも、どこへ使うかも気にしなかった。


荷車の革帯が切れるかどうかは、男が判断することだった。ロアンが護衛として雇われている荷車でもない。


リゼも、頼まれた品を渡せば仕事は終わる。


しかし、前に見た荷車の状態を覚えていた。


売る数を増やすためではない。


不要な留め具は増やさなかった。


必要になる可能性があるものだけを伝え、最後は男に選ばせた。


男は革紐を通し終えると、古い帯と新しい紐を両手で引いた。荷布に問題がないことを確かめ、御者台へ乗る。


荷車が動き出した。


車輪が石の継ぎ目を越え、空の木箱が一度だけ鳴った。


「ロアン」


リゼに呼ばれ、店内へ顔を戻す。


「何だ」


「何を買いますか」


「何もいらない」


「必要なものは見つかりませんでしたか」


「ああ」


メリダが帳簿を閉じた。


「見つからなかったというより、最初からなかったんじゃないのかい」


ロアンは答えなかった。


「時間はいつまでだ」


リゼへ尋ねる。


「あと半刻です」


「そうか」


「先に戻りますか」


「いや」


答えてから、店の中を見回した。


待つ必要はない。


宿舎へ戻れば、近郊路の図を確認することも、棒剣を手入れすることもできる。


半刻後には、リゼも一人で戻れる。


それでも、いま店を出て宿舎へ戻る理由もなかった。


「外にいる」


「分かりました」


リゼはそれ以上尋ねなかった。


ロアンは店を出ると、入口脇に置かれた木箱へ腰を下ろした。


水路の向こうを人が歩いている。


荷車が一台通り、軒下の麻紐が揺れた。店の中からは、リゼが木箱を動かす音と、メリダが値段を読み上げる声が聞こえる。


しばらくして、別の客が入った。


「太い針はあるか」


リゼが答える。


「何に使用しますか」


「革袋だ」


「穴の大きさを確認します。袋を見せてください」


客が卓へ袋を置く音がした。


ロアンは通りへ目を向けたまま、そのやり取りを聞いていた。


少し前まで、自分には関係のなかった声だった。


店にどのような客が来るのかも、リゼが誰と何を話すのかも、知る必要はなかった。


半刻が過ぎれば、リゼが店から出てくる。


それまで待って、一緒に宿舎へ戻る。


ただ、それだけだった。


ロアンは木箱へ腰を下ろしたまま、水路を流れる水の音を聞いていた。

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