4-6. メリダの店にて
継暦六百二十七年 七月三十一日
メリダの店へ向かう用事はなかった。
旅袋を繕う糸は残っている。胸当ての革紐も、昨日、壁へ掛ける前に確かめた。棒剣の柄へ巻いた革も、まだ締め直す必要はない。
食料を買う予定もなかった。
夕食は宿舎で出る。明日から町を離れる仕事を受けたわけでもない。
それでもロアンは、水路沿いの道を歩いていた。
昼を少し過ぎたころだった。
水路の向こうでは、石工が壁際へ積まれた石材を選り分けている。通りには二台の荷車が止まり、片方の御者が、もう片方の荷台へ麻袋を移していた。乾いた砂と穀物の殻が石畳へ落ち、風に押されて水路の縁へ寄っている。
メリダの店は、その少し先にあった。
扉は開いている。
軒下には、太さの違う麻紐と革帯が吊されていた。戸口の脇には浅い木箱が並び、針、留め具、木製の糸巻きが、小さな仕切りごとに収められている。
店内から、ティナの声が聞こえた。
「これ、エダから預かってきたの」
ロアンは入口へ向かいかけた足を止めた。
中を覗くと、ティナが卓の前に立っていた。
腰には短剣を下げているが、今日は胸当てを着けていない。薄い上衣の袖を肘まで捲り、片手に布で包まれた物を持っている。
卓の向こうにはリゼがいた。
立ち襟の上衣と巻きスカートを身につけ、右脚の角材を棚との間へ斜めに置いている。卓の上には、数え終えた留め具と、細い麻紐の束が並んでいた。
ティナは包みを卓へ置き、結ばれていた紐を解いた。
中から、本が一冊出てくる。
表紙の縁は擦れていたが、破れてはいない。青い衣を着た少女と、灰色の城壁、その上に立つ白い塔が描かれていた。
リゼは本へ視線を落とした。
「私にですか」
「違う。孤児院へ持っていく本」
「孤児院ですか」
「ええ。町の南にあるの。エダが、届ける前ならリゼに貸してもいいって言ってたから。この前の話覚えてない?」
リゼはすぐには本へ手を伸ばさなかった。
「覚えてます。でも、孤児院へ渡すものを、先に私が読んでもよいのですか」
「読んだからって、なくなるわけじゃないでしょ。汚したり破らなければ平気」
「読むあいだ、孤児院へ届く時期が遅れます」
「明日すぐ持っていくわけじゃないの。次に私が行くのは三日後だから、それまでに読めばいいでしょ」
リゼは表紙を見たまま、少し考えた。
「なぜ、私に貸すのですか」
「前に、お姫様の話をしたでしょう」
「はい」
「言葉は知ってるけど、どんなものかは分からないって言ってたから。ちょうどいいかなと思って」
ティナは本の表紙を指で軽く叩いた。
「お姫様が出てくる本」
リゼの淡い青の瞳が、描かれた少女へ向いた。
「この人物がお姫様ですか」
「たぶんね。私もまだ読んでないから、違ったらごめん」
「内容を確認せず、私に貸すのですか」
「絵を見れば、だいたい分かるでしょ」
「そうなのですか?」
ティナは一度表紙を見直した。
「そう言われると、ただ青い服を着てるだけにも見える」
店の奥から、メリダが顔を上げた。
帳簿を開いたまま、片手に短い炭筆を持っている。
「読むのは仕事が終わってからにしな」
「はい」
リゼは答えた。
ティナが本を持ち上げる。
「どこへ置けばいい?」
「こちらへ」
リゼは店の奥にある低い棚へ向かった。
左足が床板を踏み、そのあとを角材が追う。棚の上段に空いている場所があった。
包みを戻してティナはそこへ本を置いた。
「仕事が終わったら、持って帰っていいから」
「三日後までに返せばよいですか」
「うん、孤児院に持っていくから」
そのとき、リゼが入口へ顔を向けた。
ロアンと目が合った。
「ロアン」
呼ばれたため、入口の外へ立ち続ける理由がなくなった。
店内へ入る。
ティナが振り返った。
「いつからいたの?」
「いま来た」
「そうなの?」
疑っているようだったが、それ以上は追及しなかった。
リゼはロアンへ顔を向けたまま尋ねた。
「何か必要ですか」
「まだ見てない」
「買うものが決まっていないのですか」
「ああ」
入口脇の棚へ目を向ける。
針、麻糸、蝋引き糸、革紐、留め金。どれも宿舎の部屋か携行箱に予備があった。
メリダが炭筆を置いた。
「必要なものがないのに来る客もいるんだね」
「見てから決める」
「そうかい」
それだけ言うと、また帳簿へ視線を落とした。
ティナは、ロアンとリゼを順に見た。
「迎えに来たの?」
「違う」
「じゃあ、買い物?」
「まだ決めてない」
「何それ」
ティナは少し笑った。
リゼは、ロアンの返答を確認するように入口脇の棚へ視線を移した。
「蝋引き糸は残っています」
「ああ」
「旅袋に使用している太さのものは、一巻きと半分あります」
「数えたのか」
「昨日、棚を整理したときに確認しました」
「革紐は」
「携行箱に三本あります。胸当てに使用するには一本が短いです」
「針は」
「太いものが三本、細いものが二本あります」
ロアンは棚から手を離した。
自分より、リゼのほうが持ち物の残りを把握している。
「じゃあ、いらないな」
「はい」
ティナが横から口を挟んだ。
「本当に、何も買わないの?」
「必要なものがない」
「必要なものがないことを確かめに来たの」
ロアンは答えなかった。
ティナはまた笑ったが、店の奥に置かれた本を思い出したように振り返った。
「じゃあ私は行くね」
「孤児院へは、ティナが持っていくのですか」
「ええ。たまに行くから」
「何をしに行きますか」
「頼まれたものを持っていったり、子どもの相手をしたり。人手が足りないときは、掃除や水運びも」
リゼは少し考えた。
「仕事ですか」
「違うよ」
「報酬はありませんか」
「ないよ」
「なぜ行くのですか」
ティナは、すぐには答えなかった。
難しい質問をされたというより、今まで理由を決めていなかったようだった。
「放っておくと気になるから、かな」
「何が気になりますか」
「ちゃんと食べてるかとか、怪我してないかとか。本が届くのを待ってる子もいるし」
「ティナが行かなくても、ほかの者が行きますか」
「行く人はいるよ。でも、私が行ってもいいでしょ」
リゼは頷かなかった。
ティナも、納得させようとはしなかった。
「本を渡すとき、一緒に来る?」
「私がですか」
「ええ。読んだ本を持っていくなら、そのまま渡せるでしょ」
リゼはメリダへ顔を向けた。
「三日後は勤務日ですか」
メリダは帳簿の端に書かれた予定を確認した。
「午前だけだね。何もなければ昼には終わるよ」
「昼のあとに、孤児院へ行くことはできますか」
「仕事が終わったあとのことは、自分で決めな」
「分かりました」
リゼは次にロアンを見た。
「ロアン」
「何だ」
「孤児院へ行ってもよいでしょうか」
ロアンは、リゼが自分へ許可を求めた理由を考えた。
一人で町へ出るときには、行き先をガルドかマルタへ伝えることにしている。知らない者についていかないことも話した。
ティナは知らない者ではない。
町の南にある孤児院なら、日が暮れる前に戻れる距離だった。
「ティナと一緒か」
「ええ。私が連れていく」
ティナが答えた。
「帰りもか」
「もちろん」
「日が暮れる前に戻せ」
「分かってるって」
「リゼ」
「はい」
「戻ったら、ガルドかマルタに言え。俺が部屋にいれば、俺にも」
「分かりました」
「じゃあ、三日後ね。本も忘れないで」
「はい」
ティナは満足そうに頷いた。
「じゃあまたね、リゼ」
「ああ」
ロアンが答えると、ティナはロアンへ顔を向けた。
「ロアンには言ってない」
「そうか」
「でも、ロアンもまた」
「ああ」
ティナは店を出て、水路沿いの道を南へ歩いていった。
しばらくすると、開いた扉の外から姿が見えなくなった。
リゼは卓の上へ残っていた留め具を数え直し、小さな木箱へ戻した。細い麻紐の端を揃え、棚の同じ位置へ収める。
メリダから指示は出なかった。
リゼは次にする作業を覚えているらしい。
ロアンは、店の奥の棚へ置かれた本を見た。
「読むのか」
「はい」
「物語を?」
「内容を確認します」
「読みたいんじゃないのか」
リゼは少し黙った。
「まだ読んでいないため、読みたい内容かどうか分かりません」
「そうか」
「ただ、お姫様が何をする人物なのかは確認したいです」
ロアンは本の表紙へ目を向けた。
青い衣を着た少女は、城壁の外を見ている。絵の端には、長い剣を持った男と、荷を背負った小さな獣が描かれていた。
リゼがこのような本を読むとは考えていなかった。
考える必要もなかった。
文字を読めることは知っている。記録や検分書も理解できる。しかし、物語を読む姿は見たことがない。
入口から人影が差した。
日に焼けた上着を着た男が入ってくる。
五十を少し過ぎたくらいで、肩から革袋を提げていた。腰には短い鞭があり、靴には乾いた土と細かな藁が付いている。
ロアンは何度か町で見たことがあった。
近郊の農地とエルデンの間で、穀物や薪を運んでいる御者だった。名前は知らない。
男はロアンへ一度目を向けたあと、卓の前へ立った。
「いつものを」
メリダではなく、リゼへ言った。
リゼは布を畳み、棚の間へ向きを変えた。
左足が床を踏み、そのあとを角材が追う。
低い棚から、太い麻糸を二巻き取る。別の棚から革紐を三本、鉄の留め具を四つ選び、卓へ運んだ。
「太い麻糸を二巻き、革紐を三本、留め具を四つです」
リゼは、革紐を一本ずつ卓へ並べた。
最後の一本を置く前に、男の肩から下がった革袋へ目を向ける。
「革紐を四本にしますか」
男が顔を上げた。
「いつもは三本だ」
「はい」
「どうして増やす」
「前回、荷台右側の革帯が摩耗していました」
男は少し黙った。
「見てたのか」
「店の前に荷車を止めていました。荷布を外すとき、革帯の縁が白くなっていました」
「まだ切れてない」
「切れたあとに交換する場合、荷を一度下ろす必要があります」
男の視線が、卓へ並べられた革紐へ下がった。
リゼは急かさずに待った。
「一本増やす」
「四本ですか」
「ああ」
リゼは同じ幅と厚さの革紐をもう一本選び、ほかの三本へ重ねた。
「留め具は増やしますか」
「そっちはある」
「分かりました」
男は代金を卓へ置いた。
リゼは硬貨を数え、必要な額だけを取り、残りを返す。麻糸と留め具を厚い紙で包み、革紐をその外側へ添えた。
「革紐も中へ入れますか」
「前と同じでいい」
リゼは紙紐を二か所へ掛けた。
一つ目を縦に回し、二つ目を横へ渡す。交差した部分で結び、余った端を包みの下へ挟んだ。
男は受け取ると、指で結び目を押した。
「この前の包みは、荷台に放ってもほどけなかった」
「はい」
「同じ結び方か」
「同じです」
「そうか」
男は包みを革袋へ入れた。
帰り際、リゼの右脚へ一度だけ目を向ける。
「よく動くようになったな」
リゼは自分の角材を見なかった。
「以前より、棚の位置を記憶しています」
「脚の話だ」
「脚の状態は、以前と同じです」
男はしばらくリゼを見たあと、小さく息を吐いた。
「そうなのか」
それ以上は何も言わず、店を出た。
戸口の外には、小さな荷車が止まっていた。荷台には空の木箱が積まれ、右側の荷布を押さえる革帯の縁が白く擦れている。
男は買った包みから革紐を一本取り出した。
古い革帯の脇へ通し、その場で補強を始める。
ロアンは、入口からその作業を見た。
以前なら、何を買ったかも、どこへ使うかも気にしなかった。
荷車の革帯が切れるかどうかは、男が判断することだった。ロアンが護衛として雇われている荷車でもない。
リゼも、頼まれた品を渡せば仕事は終わる。
しかし、前に見た荷車の状態を覚えていた。
売る数を増やすためではない。
不要な留め具は増やさなかった。
必要になる可能性があるものだけを伝え、最後は男に選ばせた。
男は革紐を通し終えると、古い帯と新しい紐を両手で引いた。荷布に問題がないことを確かめ、御者台へ乗る。
荷車が動き出した。
車輪が石の継ぎ目を越え、空の木箱が一度だけ鳴った。
「ロアン」
リゼに呼ばれ、店内へ顔を戻す。
「何だ」
「何を買いますか」
「何もいらない」
「必要なものは見つかりませんでしたか」
「ああ」
メリダが帳簿を閉じた。
「見つからなかったというより、最初からなかったんじゃないのかい」
ロアンは答えなかった。
「時間はいつまでだ」
リゼへ尋ねる。
「あと半刻です」
「そうか」
「先に戻りますか」
「いや」
答えてから、店の中を見回した。
待つ必要はない。
宿舎へ戻れば、近郊路の図を確認することも、棒剣を手入れすることもできる。
半刻後には、リゼも一人で戻れる。
それでも、いま店を出て宿舎へ戻る理由もなかった。
「外にいる」
「分かりました」
リゼはそれ以上尋ねなかった。
ロアンは店を出ると、入口脇に置かれた木箱へ腰を下ろした。
水路の向こうを人が歩いている。
荷車が一台通り、軒下の麻紐が揺れた。店の中からは、リゼが木箱を動かす音と、メリダが値段を読み上げる声が聞こえる。
しばらくして、別の客が入った。
「太い針はあるか」
リゼが答える。
「何に使用しますか」
「革袋だ」
「穴の大きさを確認します。袋を見せてください」
客が卓へ袋を置く音がした。
ロアンは通りへ目を向けたまま、そのやり取りを聞いていた。
少し前まで、自分には関係のなかった声だった。
店にどのような客が来るのかも、リゼが誰と何を話すのかも、知る必要はなかった。
半刻が過ぎれば、リゼが店から出てくる。
それまで待って、一緒に宿舎へ戻る。
ただ、それだけだった。
ロアンは木箱へ腰を下ろしたまま、水路を流れる水の音を聞いていた。




