4-5. 所有者
継暦六百二十七年 七月三十日
夕方になる少し前、階段を上がってくる足音が聞こえた。
左足が床板を踏み、そのあとを角材が追う。一段ごとに二つの音が続き、踊り場でいったん止まった。身体の向きを変えたあと、先ほどより少し長い間を置いて、二階へ上がってくる。
ロアンは机の上へ広げていた近郊路の図から顔を上げた。
朝、ギルドでエダから聞いた話が、まだ頭に残っている。
自分が死亡した場合、リゼは遺された財産として扱われる。あらかじめ引渡先を指定することはできるが、指定がなければ、所有権の処理が終わるまでギルドが一時的に管理することになる。
維持費として金を預け、セルの充填や保管、工房での点検へ使うよう求めることもできる。しかし、預けた金が尽きれば、その先をギルドへ負わせ続けることはできない。
リゼ本人の希望を記録へ添えることもできるが、それだけで譲渡や売却、分解を止める効力はなかった。
そして、死後の手続きを待たず、自分が生きているうちに別の者へ所有権を移す方法もある。
廊下を進んできたリゼが、開いた扉の前へ立った。
「戻りました」
「ああ」
リゼは部屋へ入り、肩掛けを外した。壁棚の下段へ畳んで置き、左腰に結びつけていた巾着も外す。メリダの店で受け取った給金が入っているものだった。
中身が心配なら身につけておけと言ったことがある。それでも部屋へ戻ると、リゼは巾着を、自分のものを置くよう定められた棚へ戻した。
いつもなら、ここで中の硬貨を取り出して数える。
ロアンはそれが終わるまで待つつもりだったが、リゼは棚へ手を掛けたまま振り返った。
「何かありますか」
「話がある」
「はい」
「座れ」
リゼは机の前へ来ると、一脚しかない椅子へ浅く腰を下ろした。右脚の角材を卓の下から斜めに伸ばし、両手を膝の上へ揃える。
ロアンは椅子を譲り、寝台の端へ腰を下ろした。
ギルドから宿舎へ戻る道で、何度も話す順序を考えていた。まず、自分が死んだ場合の手続きを説明する。それから、生きているうちに所有者を変更する方法もあると話す。
リゼがどう答えるかについては、深く考えていなかった。
機械人形は、現在の所有者の命令を優先する。ロアンが所有者だから、リゼはロアンの帰還を待ち、危険な仕事へ出ると言えば同行しようとする。守れるとも言う。
所有者が失われれば、その後の命令も用途も定まらない。だから、不在や帰還の遅れを気にしているように見えるのだろう。
もっと安全で、安定した生活を持つ者へ所有権を移せば、リゼはその相手を新しい基準にする。帰りを待ち、危険があれば守ろうとするのも、次の所有者へ移るのかもしれない。
少なくとも、ロアンの帰還を待つ必要はなくなる。
それがリゼにとって悪いことだとは思わなかった。
「今日、エダに話を聞いてきた」
「所有者が死亡した場合についてですか」
「ああ」
仕事へ出る前、帰還したら確認すると話していた。リゼはそれを覚えていたらしい。
ロアンは、ギルドで聞いた内容を順に説明した。
自分が死ねば、リゼは遺された財産として処理される。事前に引渡先を指定することができ、指定がなければ、ギルドが一時的に管理する。
所有者の死亡が確認されるまでは、勝手に売却や譲渡を進めないよう指示を残すこともできる。リゼの希望を記録へ添えることはできても、それ自体に法的な効力はない。
リゼは途中で口を挟まなかった。淡い青の瞳をロアンへ向けたまま、言葉を最後まで聞いている。
「遺体が発見されない場合は、いつ死亡したと判断されますか」
説明を終えると、最初にそう尋ねた。
「決まった日数だけで判断するわけじゃない。仕事の場所と内容、最後に姿を見た者、捜索の結果で決める」
「帰還予定から一日遅れた場合は」
「死亡にはならない」
「二日では」
「それだけではならない」
「何日で捜索を開始しますか」
「仕事による。帰還予定を過ぎた時点で、立ち寄る予定だった場所への確認は始められる。危険な場所なら、もっと早く人を出すこともある」
「捜索が開始されたことは、私にも知らされますか」
「先にそう頼んでおけばな」
「捜索へ同行できますか」
「今の脚では認められないだろう」
リゼは一度だけ、自分の右脚へ視線を落とした。
「捜索を終了する判断は、誰が行いますか」
「ギルドと、仕事を出した側だ。場所によっては、街道の詰所やほかの支部とも話す」
「発見できなかった場合も、捜索は終了しますか」
「ああ」
「まだ生きている場合も、見つからないまま捜索が終了することはありますか」
「ある。生きているか死んでいるか分からないまま、行方不明になる者もいる。長く見つからなければ、いずれ死亡したものとして扱われるだろう」
リゼは短く頷いた。
自分が誰へ引き渡されるか。どこへ移されるか。停止されるのか。
そうしたことは、一度も尋ねなかった。
ロアンが本当に戻らないと判断されるまで、どのような手順があるのか。それだけを確かめている。
「死亡が確認されたあとのことは、どうしたい」
ロアンが尋ねると、リゼは真正面から目を向けた。
窓の外を荷車が通った。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、積まれた金具が触れ合う。階下からは、マルタが夕食の支度をする音が聞こえていた。
「誰かに引き取られたいか。エルデンに残りたいか。宿舎の手伝いを続けたいか。ほかに何かあるか」
リゼはしばらく動かなかった。
「分かりません」
「そうか」
「捜索が終了し、死亡したと判断されたあとは、もう捜索を行いませんか」
「普通はそうだ」
「再開される可能性はありますか」
「新しい情報が見つかればな」
「では、その場合は知りたいです。ギルドから連絡を受けたいです」
ロアンはリゼを見た。
所有者が死んだあとの扱いを聞いているのに、リゼは自分の行き先を考えていない。死亡したと判断されたあとも、捜索が再開される可能性だけを確かめている。
「お前のことも決めないといけない」
「はい」
返答はしたが、それ以上は続かなかった。
関心がないというより、考える対象として形を持っていないようだった。ロアンがいなくなったあとの自分について、何を選べばよいのか分からない。
それなら、今すぐ決めさせる必要はなかった。
「もう一つ、方法がある」
「何ですか」
「俺が生きているうちに、所有者を変更することもできる」
リゼはロアンを見たまま、わずかに間を置いた。表情は変わらなかった。
「変更先は決まっていますか」
「決まってない」
「いつ変更しますか」
「変更すると決めたわけじゃない」
「では、候補を探しますか」
「そのほうがいいと判断すればな」
「分かりました」
返答は早かった。
ロアンはわずかに息を吐いた。予想していた反応だった。
所有者が変われば、新しい所有者の命令に従う。それだけの話として受け取ったのだろう。
リゼは膝の上へ置いた手を動かさないまま、続けて尋ねた。
「所有者が変更された場合、所有を示す書類も引き渡しますか」
「ああ」
「携行箱とセルはどうなりますか」
「お前を維持するのに必要なものは渡す」
「現在使用している服は、ロアンが購入したものです」
「お前が着るものだ。持っていけばいい」
「角材の固定に使う布と、予備の革もですか」
「必要だろ」
「分かりました」
どこへ行きたいのか。何ができるとよいのか。どのような所有者がよいのか。その者を信用できるのか。
そうしたことではなく、所有者が変わるときに何を持っていけばよいかを確かめている。
「この部屋には、もう戻りませんか」
「新しい所有者のところで暮らすことになる」
リゼの視線が壁棚へ移った。
下段には、折り畳まれた立ち襟の上衣と巻きスカート、肩掛け、固定用の布が置かれている。その奥には、先ほど収めた巾着があった。
「食堂へ行くこともなくなりますか」
「別の場所に住めば、そうなる」
「マルタとガルドへ、外出先を伝える必要もありませんか」
「ああ」
「メリダの店へは通えますか」
「新しい所有者が認めれば」
「認めない場合は」
「行けない」
リゼは棚を見たまま、少し考えた。
「豆から小石や木屑を取り除く作業も、しなくなりますか」
「しない。でも、新しい所有者から別の仕事を頼まれるかもしれない」
「ティナが宿舎へ来た場合、私は会えませんか」
「ティナには伝えておく。あいつなら会いにも来るだろう」
「ロアンも、来ますか」
ロアンは少し間を置いた。
「様子を見に行くことはあるかもしれない」
所有者変更という言葉の中身が、一つずつ部屋の中へ置かれていく。
服と携行箱を運ぶだけではない。二〇三号室を出て、食堂へ下りなくなる。メリダの店へ通えるかどうかも、新しい所有者の判断になる。
店へ通わせず、右脚へ負担を掛けないようにする所有者かもしれない。それなら、リゼの身体にとっては今よりよい可能性もあった。
「ロアンが仕事へ出る場合は」
リゼが言った。
「何だ」
「帰還予定を確認できますか」
「所有者が変われば、知らせる必要はなくなる」
「必要がなくなりますか」
「ああ。お前は新しい所有者のところにいる。俺の帰りを待つ必要はない」
リゼはすぐには答えなかった。
「私は、待たなくなりますか」
「所有者が変われば、今度はそいつを待つ。新しい所有者が俺のような仕事をしていなければ、待つ必要もなくなる」
「ロアンが帰還しない場合は、どうしますか」
「お前が何かする必要はない」
「帰還を確認する必要もありませんか」
「ああ」
「必要がなくなれば、確認しなくなりますか」
ロアンは答えなかった。
待つ必要はない。帰還予定を確かめる必要もない。新しい所有者から命令を受け、別の場所で用途を与えられれば、ロアンが戻らなくてもリゼの稼働には影響しない。
そう考えていた。
だが、本当にそうなるのかは分からなかった。
「俺が所有者だから、お前は俺の帰りを待ってるんだろ」
「はい。所有者が帰還しない場合、以後の命令を受けられなくなる可能性があります」
「なら、所有者が変われば、その所有者のことを考えればいい。俺の帰りについて考える必要もなくなる」
リゼは頷かなかった。
「私は所有者の命令に従います。新しい所有者の命令にも従います。メリダの店へ行かないよう命じられた場合も、この部屋へ戻らないよう命じられた場合も従います」
「ああ」
「ロアンの帰還を確認しないよう命じられた場合も、従います」
そこまで聞いて、ロアンは、何も命じられなかった場合のことを初めて考えた。
リゼの指が膝の上でわずかに動き、巻きスカートの布へ触れたまま止まる。
「命じられた場合は、従うんだな」
ロアンが言うと、リゼは顔を上げた。
「命令に従うことはできます」
「ああ」
「ですが、その命令は受けたくありません」
ロアンは動かなかった。
リゼの声は先ほどまでと変わらない。強くも弱くもなっていない。
「どの命令だ」
「ロアンの帰還を確認しないことです」
「所有者が変わっても、俺の帰りを気にするのか」
「分かりません。所有者が変更されていないため、確認できません」
「なら、変われば気にしなくなるかもしれない」
「はい。新しい所有者を基準に行動するようになる可能性があります」
否定はしなかった。
「ですが、変更したあともロアンが戻ったかを確認したい場合、許可されない可能性があります」
「それはある」
「現在は、ロアンが帰還したことを確認するまで待ちます。帰還予定を過ぎた場合は、ギルドへ確認を求めます。戻ったあとは、異常がないか確かめます」
「所有者が変われば、同じことは認められないだろうな」
「その場合も、命令には従えます」
リゼは膝の上の手へ視線を落とした。
「でも、そうしたくはありません」
命令に従えないとは言っていない。新しい所有者を拒絶しているわけでもない。
ただ、その先にある状態を、自分から選びたくないと言っていた。
ロアンは、リゼが自分を特別に選んでいるとは考えてこなかった。
所有者だから待つ。所有者だから心配しているように見える。所有者だから守ろうとする。所有者が変われば、同じものは次の者へ移る。
そのはずだった。
「俺より、ましな所有者はいる」
ロアンは言った。
「街道へ出ない。毎日同じ場所へ戻る。セルや修繕の金を、俺より長く払える。そういう人間のほうが、お前にはいい」
「誰ですか」
「まだ分からない」
「その人間は、私を所有したいと考えていますか」
「これから探すなら、引き受ける相手を選ぶ」
「私は、その人間を知りません」
「会えば分かることもある」
リゼは少し黙った。
「私は、ロアンが何をするかを知っています」
「何をだ」
「私が分解される予定だったとき、ロアンは私を購入しました。何に使用するか決めていないまま、エルデンまで連れてきました」
リゼの視線が、壁棚へ向いた。
「服を購入し、棚を空けました。セルを用意し、右脚の部品を探すよう依頼しました。仕事へ出るときは、帰還予定を伝えました」
ロアンは口を挟まなかった。
「帰還予定を過ぎても、戻ってきました」
「戻るつもりで出たんだから、当たり前だ」
「はい」
リゼは否定しなかった。
「ですが、新しい所有者が同じことをするかは分かりません」
「もっとましなことをするかもしれない」
「まし、とは何ですか」
そう問われて、ロアンは口を閉じた。
「私はその人を知りません。ロアンのことは知っています」
ロアンは言葉を止めた。
リゼは、ロアンが優れた所有者だとは言わなかった。安全だとも、安定しているとも言わない。実際、そのどれにも当てはまらない。
何をする人間なのかを知っている、と言った。
角材を取りつけたこと。分解を止めたこと。エルデンへ連れてきたこと。用途がなくても部屋へ置き、服と棚とセルを用意したこと。そして、仕事へ出たあと、帰ってきたこと。
それらを、まだ会ったこともない所有者と同じものとして扱うことはできないらしい。
「ロアンは、私を別の者へ売りたいのですか」
「違う」
答えはすぐに出た。
「俺より、そのほうがお前にはいいかもしれないと考えただけだ」
「ロアンにとっては、そのほうがよいですか」
「俺のための話じゃない」
「では、私がどうするかを決めますか」
ロアンはすぐには答えられなかった。
制度上は自分が決める。リゼの同意がなくても、譲渡することはできる。
それでも、決める前に話した。本人へ知らせるだけなら、引渡先を見つけてからでもよかった。
「決めるのは俺だ」
ロアンは言った。
「でも、お前がどう考えるかは聞く」
リゼは黙った。
ロアンも、それ以上は言わなかった。嫌なら嫌と言えとは言わない。ここへ残りたいのかとも、離れたくないのかとも尋ねない。
リゼがどのような答えを持っているのか、ロアンにも分からなかった。
長い沈黙のあと、リゼが口を開いた。
「所有者を変更しないでください」
ロアンはすぐには答えなかった。
「どうしてだ」
リゼもすぐには答えなかった。
「ロアンが帰還したかを確認したいです。メリダの店にも行きたいです。この部屋を使用したいです。ティナが来た場合は会いたいです。マルタやガルドの手伝いも続けたいです」
それらを一つずつ並べたあと、また少し間を置いた。
「現在と同じ状態を続けたい、ということか」
「はい」
リゼはロアンを見た。
「私は、ロアンと離れたくありません」
部屋の中から、音が遠ざかったように感じた。
表情は変わっていない。声も、いつもの平らなものだった。
所有者である自分に向けられた反応だと説明することはできる。所有者が変われば、いずれ同じ言葉を次の者へ向けるのかもしれない。
それでも、いまリゼが口にしたのは、まだ会ったこともない次の所有者への判断ではなかった。
これまでに知ったロアンと、いま持っている生活を手放したくないという言葉だった。
「分かった」
ロアンは答えた。
「いまは変更しない」
リゼはロアンを見たままだった。
「今後、変更する場合は」
「先にお前へ話す」
「私が、変更しないでほしいと言った場合は」
「そのときも話す。勝手には決めない」
自分のもとへ置くことでリゼが壊れるなら、別の場所へ移さなければならないこともある。セルや修繕に必要な金を払えなくなれば、選べる方法も限られる。
本人の言葉だけで、すべてを決められるとは約束できない。それでも、何も聞かずに、より適切だと思う者へ渡すことはできなかった。
「いまは、ここにいろ」
「命令ですか」
「違う」
ロアンは少し考えた。
「お前がそうしたいと言ったからだ」
リゼは返答しなかった。
膝の上で巻きスカートの布へ触れていた指が、ゆっくり開いた。
そのとき、階下からマルタの声が聞こえた。夕食の時間を知らせている。
リゼは椅子から立ち上がり、仮脚を卓の下から引いて左脚へ体重を移した。椅子を机の前へ戻し、壁棚の肩掛けが崩れていないことを確かめる。
ロアンも立ち上がり、二人で部屋を出た。
リゼが先に階段へ足を掛ける。左足が一段下り、少し遅れて角材の先が続いた。
命じられれば、ロアンの帰還を確かめることもやめられる。
だが、従えることと、そうなりたいことは同じではない。
左足と角材の音を追いながら、階段を下りた。




