4-4. 死の先に望むこと
継暦六百二十七年 七月三十日
朝食を終えたあと、リゼはメリダの店へ向かった。
廊下を進む左足と角材の音が、階段を一段ずつ下りていく。ネラに調整してもらってから、以前より音の間隔は短くなっていた。
ロアンは開いた扉の前に立ったまま、その音が一階へ消えるまで待った。手放しで安心できる音ではなかった。
机の上には、昨日ギルドから持ち帰った依頼札の写しが置いてある。エルデンの外壁の見回りと、近郊の荷運びを兼ねた二日の仕事だった。
危険度は低い。
街道から大きく外れる場所でもない。
それでも、受けるかどうかを迷っていた。
リゼを一人で残すことが理由ではない。ガルドとマルタへ話しておけば、二日程度の留守なら問題はない。前回と同じ決まりで、問題なく仕事に出掛けられる。
だが、問題がないからといって、何も考えずに出掛けられるわけではなかった。
角材の右脚を見た技師たちは、最初こそ、よくこんなもので歩けるようにしたものだと言った。
ロアン自身も、砂海ではそれ以上のことを考えていなかった。
もう護衛としては役に立たない人形を荷車まで歩かせる。
商隊とベルグラートへ向かう。
それだけのために、角材を削り、残っていたフレームへ布で巻きつけた。
間に合わせのものだった。
ベルグラートまで着けば、商会の技師がどうにかするかもしれないと思っていた。
実際には、その角材がいまも使われている。
革を替え、布を巻き直し、削れた先を整えながら、リゼは何月も歩いていた。
長く使うように作ったものではない。
木は歪む。
布は擦れる。
荷重が片寄れば、残っているフレームが歪む。無理な歩行が、本体に悪影響を及ぼす。
いつか歩けなくなる。
その前に右脚の部品が見つかる保証もない。
歩けなくなったリゼが、椅子へ座ったまま二〇三号室で動かずにいる姿を、ロアンは思い浮かべた。
食堂へ下りられない。
メリダの店へも行けない。
ギルドの前を通りすぎてティナに会うこともない。
自分が仕事へ出ても、部屋で待つことしかできない。
機械人形が作られた本来の目的を、今の時代に生きる人々は知らない。人間に従順で、役に立とうとする。そう組み込まれているのなら、何もできなくなったとき、そのことをリゼはどう判断するのだろう。
護衛にも使えない。
荷を運べない。
働けない。
歩けない。
ヴァルドの商会が予定していたように、あのとき停止させ、分解したほうが正しかったのかもしれない。
使える部品を取り出し、別の機械人形へ回す。
それなら、角材によって残った身体を歪ませることもなかった。
何をするために動いているのか分からないまま、金を掛け続けることもない。
ロアンは衣類箱から上着を取り出した。
その考えが浮かぶたび、胸の奥に鈍いものが残る。
リゼが分解されるの防いだ。それは本人が望んでいたものではなかった。リゼは何も望まない。その感情さえ存在しないようだった。
自分が見たくなかっただけかもしれない。
目の前で角材をつけた人形が、倉庫で荷を運び、さらに傷を増やし、最後には部品へ戻される。その結末を受け入れられなかっただけなのかもしれない。
自己満足で買い取った。
自己満足でエルデンへ連れてきた。
自己満足で服を買い、棚を空け、セルを用意した。
いまさら何もしなかったことにはできなかった。それすら自己満足だった。
右脚のことだけではない。
自分が死んだあと、リゼがどうなるのかを確かめなければならない。
何ができるのか。
何ができないのか。
誰が決めるのか。
知らないまま、次の仕事へ出るわけにはいかなかった。それもまた、自己満足のように思えた。
ロアンは登録札を上着の内側へ入れ、部屋を出た。
*
午前のギルドは、依頼を探す者より、報告を持ち込む者のほうが多かった。
広間の壁際には、夜明け前に帰還したらしい武装した男が頭をたれながら座っている。泥の乾いた外套を膝へ置き、書記が呼ぶのを待っていた。
奥の卓では、荷役の男が破損した木箱の数を説明している。
入口に近い掲示板の前には、依頼札を見上げる者が三人いた。
いつもなら、ロアンも先にそこへ向かう。
依頼の場所、期間、報酬、必要人数を確認し、条件の合うものを選ぶ。
今日は掲示板を見ず、書記卓へ向かった。
エダは一人の護衛から報告書を受け取っていた。
紙の端へ日付を書き込み、内容を確かめる。男が離れると、次の者を呼ぼうとして顔を上げた。
ロアンを見つけ、手を止める。
「報告ですか」
「違う」
「依頼の確認なら、公開前のものはまだ整理中で、午後になります」
「それでもない」
エダは手元の紙を揃えた。
「何でしょう」
ロアンは周囲を見た。
人の話し声と、紙を捲る音が重なっている。ここで話す内容ではなかった。
「個室を借りたい」
エダの表情がわずかに変わった。
問い返すことはせず、卓の下から小さな木札を取り出す。
「二階の三番を使います。少し待ってください」
残っていた書類を隣の書記へ渡し、席を立った。
二階へ上がる階段は、広間の奥にある。壁際に積まれた記録箱の間を通り、細い廊下へ入る。
三番の部屋は、二人用の小さな相談室だった。
机が一つ。
向かい合わせの椅子が二脚。
壁には棚が作られているが、何も置かれていない。窓は細く、外の通りより隣の屋根がよく見えた。
エダが扉を閉め、奥の椅子にロアンを促しながら口を開く。
「どうしたのですか」
ロアンは椅子へ座った。
「相談がある」
エダも向かいへ腰を下ろす。机の上に紙を一枚置いたが、まだ筆は取らなかった。
「俺が死んだ場合、リゼはどうなる」
エダはすぐには答えなかった。
聞き取れなかったわけではない。
言葉の意図を確かめるように、ロアンを見ている。
「所有している機械人形の扱いについて、という意味ですね」
「ああ」
「通常は、死亡した所有者の財産として処理されます」
エダは机の紙を手元へ寄せた。
「遺品や預金、家財、武具と同じく、事前に指定された受取人がいれば、その者へ引き渡されます。指定がなければ、ギルドが確認できる近親者、債権者、契約上の関係者を調べます」
「俺にはいない」
「たしかに、近親者として届け出られている方はいませんね」
エダは確認するように言った。
「借金も、現在ギルドが把握している範囲ではありません」
「なら、どうなる」
「その場合、ギルドがすべてを回収し、価値のあるものはお金に、価値のないものは処分します。すぐに売却されるわけではありません。一度ギルドで預かり、本当に間違いがないかを確認した上で整理を進めます」
「その間、リゼは動いたままでギルドが預かるのか」
「維持費と、ロアンさんの希望としてそういう書面があれば」
エダの答えは短かった。
「セルの充填、保管場所、検査、故障した場合の修繕。必要な費用を事前に預けておけば、その範囲で維持できます」
「金が尽きたら」
「ギルドが恒久的に負担することはできません」
予想していた答えだった。
それでも、実際に言葉にされると、机の上へ硬いものを置かれたように感じた。
「停止させるのか」
「状態と、その時点の判断によります」
「判断するのは誰だ」
「管理している支部と、所有権を処理する担当者です」
「本人は」
エダの目がわずかに細くなった。
「リゼの希望ですか」
「ああ」
「記録へ添えることはできます」
「効力は」
「ありません」
エダは曖昧にしなかった。
「機械人形本人の希望だけで、譲渡や売却、処分を止めることはできません。ですが、所有者が事前に指示として残せば、その内容を手続きへ反映できます」
「どこまでだ」
「一定期間、処分を保留すること。特定の者へ連絡すること。維持費の範囲で稼働を続けること。譲渡前に状態を確認すること。本人の希望を聞き取ること」
エダは指で紙の端を押さえた。
「ただし、永久に処分しない、売却しないという指示を、費用も正式な所有者もないまま守り続けることはできません」
ロアンは椅子へ深く座り直した。
できることより、できないことのほうが多い。
分かっていた。
ギルドは孤児院ではない。
動かすだけで金の掛かる機械人形を、所有者が死んだからという理由だけで維持し続けることはできない。
「リゼへ金を残せるか」
「本人の財産としてですか」
「ああ」
「できません」
「俺が持っている金を、リゼのものにはできないのか」
「機械人形は財産を所有する主体として扱われません」
エダは一度言葉を止めた。
「ただし、維持費としてギルドへ預けることはできます。用途を指定し、余った場合の扱いも決められます」
「部屋代とセル代に使う、と書けるのか」
「書けます」
「ネラの工房へ点検を頼むことも」
「連絡先と費用を決めておけば」
「いつまで保つ」
「預ける額によります」
当然の答えだった。
金があれば、時間を買える。
金がなくなれば、その先を決めなければならない。
ロアンは自分の蓄えを思い浮かべた。
半年ほどは働かなくても生きていける。世間の人間より稼いでいる自覚はある。しかし、安定して稼げる仕事ではないこともわかっている。長く続けられる仕事ではないことも。
リゼのセルと宿舎、工房の検査まで含めれば、永遠には続かない。
自分が死ぬまでに金を増やせる保証もなかった。
「遺体が見つからない場合は」
エダはそこで初めて筆を取った。
紙の端へ、小さく項目を書き込む。
「ご存知だとは思いますが、帰還予定を過ぎただけでは死亡にはなりません。仕事の内容、場所、同行者、最後に確認された地点をもとに、行方不明として扱います」
「その間、所有権は」
「ロアンさんに残ります」
「リゼは」
「事前の指示がなければ、そのままの状態になります。ただし、行方不明の状態が一月以上続く場合、状況に応じてギルドが一時管理します。宿舎へ残すのか、支部へ移すのかも、その時点で判断されます」
「先に決められるか」
「ある程度は」
エダは書いた項目を読み返した。
「売却や譲渡を行わない。可能なかぎり停止させない。宿舎側の許可と預託金がある限り、現在の部屋へ置く。そうした指示は残せます」
「死亡が確認されたあとも、すぐに処分させないことは」
「期間を決めれば可能です」
「そのあいだに、本人へどうしたいか聞く」
「指示としては残せます」
本人がどうしたいか。
その問いに、リゼが答えられるのかは分からなかった。
ロアンが死んだあと、誰のところへ行きたいのか。
どこで何をしたいのか。
店で働き続けたいのか。
宿舎へ残りたいのか。
停止を望むのか。
リゼは、これまで自分の先についてほとんど考えてこなかった。
自分が死ぬかもしれないと話したときも、リゼが気にしたのは、自分がそのあとどうなるかではなかった。
ついていくと言った。
守ると言った。
残れと命令すれば従ったが、納得したようには見えなかった。
ロアンのいなくなったその先のことを尋ねて、答えが出るのかわからなかった。
「受取人を決めたほうが良いのか」
「死後の引渡先を、いま決める必要はありません」
「決めないまま死ねばどうなる」
「ギルドが一時的に管理します」
「そのあと、適切な人間をギルドで探せるか」
エダはロアンを見た。
「適切、というのは」
「街道へ出ない。安定して金を払える。機械人形を置く場所がある。壊れたとき、工房へ連れていける」
言葉にすると、条件は単純だった。しかし、それが適切なのかはわからなかった。
「ひどい扱いをしない者だ」
ロアンはそう付け加えた。
自分より安定している者。
明日死ぬ可能性が低い者。
リゼを部屋へ残して、帰還予定を過ぎても待たせることのない者。
ロアンより適した人間はいくらでもいるはずだった。
エダは、すぐには返答しなかった。
「そういう人物が見つかる可能性はあります」
「可能性か」
「機械人形一体を長く維持できる者は多くありません。お金があることと、引き受ける意思があることは別です」
「金は俺が残せる」
「そのお金が尽きたあとの責任もあります」
エダの声は変わらない。
事務的ではあるが、突き放してもいなかった。
「ですが、引渡先を探すのであれば、死亡後である必要はありません」
ロアンは顔を上げた。
「どういう意味だ」
「生前に所有者を変更できます」
エダは紙の別の場所へ線を引いた。
「ロアンさんが生きているうちに、安定した管理者へ譲渡する方法です。所有者死亡後の空白がなくなります。必要な書類を作り、相手が引受けに同意すれば、手続きはできます」
ロアンは黙った。
考えたことがなかったわけではない。
リゼを買ったとき、永遠に自分が所有すると決めたわけではなかった。
右脚を直せる者が見つかれば、そこへ預けることも考えた。
より安全で、金があり、機械人形を扱える者がいるなら、そのほうがよい。
自分は街道へ出る。
帰れないことがある。
遺跡の調査の護衛。
商会の護衛。
旧時代の脅威の排除。
リゼを長く維持する所有者として、自分が適している理由を考える。
それは、維持に必要なお金を払える収入があること。その程度に思えた。
「手続きには何がいる」
「現在の所有を示す書類と、譲渡先の同意です。価格を付けて売却することも、無償で譲渡することもできます」
「リゼの希望は。どう過ごしたいか、何をしたいか、そういう希望は」
「添えることはできます」
エダは先ほどと同じ言葉を使った。
効力がないことも、もう聞く必要はなかった。
「急いで決める話ではありません」
エダは紙へ書き込んだ項目を見た。
「ロアンさんが何を守りたいのかで、必要な手続きが変わります」
「守りたいものなんて決まってる」
答えたあと、ロアンは口を閉じた。
何が決まっているのか、自分でも分からなかった。
リゼの身体か。
稼働を続ける時間か。
宿舎の二〇三号室に置いておくことか。
本人が望むものを選べることか。
そもそも、本人が何を望むのか。
「確認したいのですが」
エダが言った。
「ロアンさんは、いま所有者を変更したいのですか」
「分からない」
「リゼへ話しましたか」
「まだだ」
「では、今日話した制度の確認までに留めておいたほうがいいでしょう」
エダは紙を裏返した。
「正式な書類は、本人と話してからでも遅くありません」
本人と話す必要がある。
制度上、必要だからではない。しかし、エダにはそれが必要に思えた。
自分より適切な者がいる。
その考え自体は変わらない。
安定した家があり、街道へ出ず、セル代を払い続けられる者。
そういう人間に所有してもらったほうが、リゼは長く動ける。帰りを待つ必要もない。もし機械人形に不安という感情があるのなら、所有者が死ぬかもしれないという不安も減らせる。
自分が死んだあと、ギルドの判断へ任せるよりはいいかもしれない。少なくとも、自分の目で新しい所有者を確認することができる。
ロアンは椅子から立ち上がった。
「この紙は」
「まだ相談記録です。正式な指示ではありません」
「残しておいてくれ」
「分かりました」
エダは紙を折らず、薄い板へ挟んだ。
「次は、リゼと一緒に来ますか」
「先にリゼに話す。必要だと思えば、また来る」
「そのほうがよいと思います」
扉を開けると、広間の音が戻ってきた。
依頼を読み上げる声。
硬貨を数える音。
泥のついた靴が床を踏む音。
誰かが出ていき、誰かが戻ってくる。
ロアンは階段を下りた。
掲示板の前を通ったが、依頼札は見なかった。
外へ出ると、昼近くの光が通りへ落ちていた。
荷車がギルド前を横切り、その向こうを、南水路へ向かう者たちが歩いている。
リゼはいま、メリダの店で金具を数え、客へ品物を渡しているはずだった。教えられたことを覚え、店員として働いている。
自分より適切な所有者がいる。
それは、間違っていない。
だが、その者が誰なのか、ロアンには一人も思い浮かばなかった。適切かどうかを判断できるほど、人と関わってはこなかった。
誰かを探す前に、リゼへ話さなければならない。
自分が死んだあとのことだけではない。
自分が生きているうちに、別の所有者へ移すこともできるのだと。
ロアンは宿舎へ戻る道へ足を向けた。
今日の夕方、リゼが帰ってきたら話す。
そう決めたあとも、胸の奥に残った鈍いものは消えなかった。




